ロイヤルブルーの空と海
厚い雲の緞帳が開くと、濃い闇に包まれていた海辺が月明かりに染まった。まだ幼い、青白い月だった。寒さに震え、身を寄せ合っていた僕たちは互いに視線を交わした。
――これで助かる…。
胸に希望が差した。
僕は彼の肩に手を回して、喜びを分かち合おうとした。
抱き返され、笑い声を立てた僕の唇に、彼の冷たい唇が重なった。
空と海とはどこまでも深いロイヤルブルー。彼の肩につかまって歩きながら、僕はその色だけを心に乗せていた。あれからずっと、僕はその色を追いかけている。
『クリスマスは家族で過ごすべきよ』
そう言われ続けてはや十年。最近はそれに加えて、やれリュウマチが、やれ疲れがと畳みかけてきて、挙句の果てには「私も、もう若くないのね。これが皆で過ごせる最後のクリスマスになるのかも…」などと泣かれては、出向かないわけにはいかなかった。
もちろん泣き真似だろうし、エイミーの体の不調は老人特有のもので、もうずっとそれが続いている。ただ、リュウマチには冷えが良くないことも、齢七十を越えた彼女がいつ倒れるかもしれないというのも事実だ。この時期を外してたまに会いに行っていても、クリスマスというものは特別な意味を持つらしかった。
妻のブレンダはこの件に関して大変に乗り気だった。
「あら、ようやくその重い腰を上げたの? 何度も言ったでしょ、行くべきだって。あなたのお義母さまにお会いするのって楽しいわ。それに、イギリスの伝統的なクリスマスも体験してみたかったのよ」
いくつになっても女ってやつは理解できない。ブレンダは僕の気が変わらないうちにと荷造りを済ませてしまった。そして、大して仕事にもならないような海辺の風景を追っているうちにクリスマスが来た。
鉄道から降りて駅でタクシーを探していたら、後ろから声をかけられた。
「…ヘクター」
「久しいな、エドワード」
昔とほとんど変わらない友の姿があった。ヘクター・フェアフィールドは僕の亡くなった父の再婚相手であるエイミーの孫で、僕と同じ三十三歳だ。僕たちは寄宿舎も同じ、休みの間も同じ場所で過ごす最高の友だった。オックスフォードを出た後は、ヘクターはこちらに戻って自動車業を成功させ、僕は売れない写真を撮り続けている。
生きる場所が違うせいで疎遠になっているが、季節ごとにカードを送りつけてくる律儀な男だ。彼は颯爽と僕らの手から荷物を奪い、車の後ろに積み込むと、僕らを乗せて走り出した。
「運転手はお使いにならないの?」
「乗り回すのが好きでね、それが高じて仕事になったものだから」
「君は何にでも乗りたがるものなぁ」
「エド?」
「おっと失礼」
「はっはっは! 暴れ馬も好きだよ。スリルを求めるのは男の性じゃないかな、エド」
「僕はごめん被る」
ヘクターと舞台女優のスキャンダルが紙面を騒がせたのは、そう昔の事じゃない。ちょっとした皮肉のつもりだったがブレンダの気を害してしまったようだ。それ以降は何を言おうとしてもブレンダの視線が気になってしまい、僕は何も言えなかった。
懐かしき我が家は年月を忘れたように何一つ変わっていない様に見えた。変化があったとすれば見ないうちに大きくなってしまったヘクターの息子、ジュードくらいか。すっかり見違えた。子どもというものは、いっそ残酷なくらい大人の感傷を呼び起こす。ジュードは昔のヘクターに瓜二つだ。これは血のせいか、はたまた僕の記憶の美化に過ぎないのだろうか。
『エド! 海へ行こうよ!』
追憶が僕を呼ぶ。エイミーへの挨拶を何とかやりきった僕は、血の滴る心を抱えて書斎へ逃げ込んだ。かつては「半人前など入らせるわけにはいかん」と止められたものだが、齢を重ねるという一番怠惰で低俗なやり方をして、僕はここへ入る許可を得たのだった。甘美なる背徳感は足を踏み入れたとたんに霧散し、後には苦い失望だけが残ったものだ。
今ではその昏い、沈んだ感情すら抱くことはない。僕は机から煙草を一本失敬すると、同じく机にあったマッチで火を点けた。紫煙が立ち上る。
「ここだったか」
ヘクターも逃げてきたのだろうか。ノックもなくドアを開けて入ってきた男に対し、僕はできるだけ愛想よく迎えた。
「礼節をわきまえろよ、ヘクター」
「それは、失礼」
「煙草でもどうだね、一本」
「いただくとしよう」
本棚に背を預けていた僕は、彼のために机の引き出しを開けた。もちろん彼の机だ。彼の書斎で主人のように振る舞う僕と、客人のようによそよそしいヘクター。しかしそんな楽しい遊びはすぐに終わった。
「おい…」
「いただくと言ったろ。きみは新しいのを吸えよ」
「…チッ」
「貴婦人かい?」
僕の唇から煙草をさらい、ヘクターは旨そうに煙を吸った。思いきり下品に舌打ちしてやったつもりだったが、出たのはしごく小さな音だった。ヘクターが笑うのも無理はない。次は彼の番、ということだ。
ケースから煙草を取り出し、手振りで火を要求すると、彼は煙草を挟んだ手を近づけてきた。ついでとばかりに僕の唇へ被さってくるヘクターのキスに僕は応えた。小さく音を立てて離れる。僕はゆっくりと煙草をくわえた。
「今のキスはなんだ」
「…人工呼吸かな」
「かわいそうに。陸で溺れるほど不器用なのか」
「ははっ。スキャンダル記事が出て、妻に捨てられそうになるくらいには不器用さ」
「不器用な上に愚かだなんて哀れだな」
「怒ったのか?」
「避けようと思えば避けられた。そんなこと聞くなよ」
「それもそうか…」
僕らはしばらく黙って煙草をふかしていた。やがてヘクターが立ち上がり、吸い殻を灰皿にねじこんだ。
「ヘクター、どうしてあの時、僕にキスしたんだ?」
「…さあな。あの時は二人して雨に打たれて、夜明けまでに死ぬんじゃないかと…。そればかり考えていた」
「僕もだ…」
「二度と家族にも会えない、友達にも会えない…そして何より、お前に会えないかと思うと、怖くて仕方がなかったんだ。だから、月が出て、バンガローへの道が見えたとき、嬉しくて…。お前を一番に愛してるって気がついたんだ、エドワード」
芝居がかった仮面を捨て去ったヘクターがそこにはいた。真摯な明るい緑色の目が僕を射抜いている。
「僕も同じさ。君だけを…」
「エドワード!」
「それは今も変わらない。だから、僕らの関係は変わらない。そうだろう?」
「……………」
「ヘクター・フェアフィールド、君を一番に愛しているよ」
「終わったのか…」
「いや、始まらなかったのさ」
僕の中の一番透明で美しい、一番とうといあの時間に君はいる。ロイヤルブルーの空と海とが君を捕らえて離さない。だから僕は、もう一度君を見いだすために藍を切り取っているのだと言ったら、君は笑ったね、ヘクター。
あれからほんの何年かで、君は海に消えた。きっと事故だったんだろう? 今でも僕は、君がひょっこり現れるんじゃないかと思って、海辺を旅しているよ。君のいない空と海とを切り取りながら…。
――了――