表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/3

2、塹壕戦における火の洗礼

 1914年7月、第一次世界大戦が勃発した。オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子妃を襲った凶弾から始まったその戦争は、瞬く間に全欧州に拡大し、それは、世紀末以降の閉塞感に心苦しいものを感じていた多くの人々に喝采の声をもって迎えられることとなった。ニヒリズムが猖獗を極めた20世紀初頭のヨーロッパ社会、人生に意義を見出すことのできない、喜びを感じることができない、近代市民社会が生み出した悩める青年たちは、戦争を、底なしの不安感や、終わることのない退屈といった苦しみから解放してくれるものとして歓迎し、熱狂に心躍らせながら戎衣を着込み、前線へ向かう列車に次々と乗り込んでいった。兵士たちを送り出す銃後の市民たちの歓呼の声で空気は震え、打ち振られる黒白赤のドイツ帝国旗の波が街路を埋めた。


 その年、ギムナジウム最上級生だったユンガーは、ハイデルベルク大学への入学手続きを済ませるやいなや、ハノーファーの歩兵連隊に志願兵として参加してしまった。非日常的な危険なる世界への憧れを募らせていたユンガーにとって、此度の戦争は渡りに船、まさしく彼が待ち望んでいたものであったのだ。彼はこのときの心情を『鋼鉄の嵐の中で(In Stahlgewittern)』の冒頭部にて以下のように語る。


"Wir hatten Hörsäle, Schulbänke und Werktische verlassen und waren in den kurzen Ausbildungswochen zu einem großen,begeisterten Körper zusammengeschmolzen. Aufgewachsen in einem Zeitalter der Sicherheit, fühlten wir alle die Sehnsucht nach dem Ungewöhnlichen, nach der großen Gefahr. Da hatte uns der Krieg gepackt wie ein Rausch. In einem Regen von Blumen waren wir hinausgezogen, in einer trunkenen Stimmung von Rosen und Blut. Der Krieg mußte es uns ja bringen, das Große, Starke, Feierliche. Er schien uns männliche Tat, ein fröhliches Schützengefecht auf blumigen, blutbetauten Wiesen.»Kein schönrer Tod ist auf der Welt...« Ach, nur nicht zu Haus bleiben, nur mitmachen dürfen!(1)"

『われわれは学校の教室、勉強机、職場の作業台から離れると、短期間の教練を受け、巨大で熱狂的な軍団へと鎔合された。平穏なる時代に生まれ育ったわれわれは、非日常の世界、途轍もない危機に対しての憧憬を抱いていた。そのとき戦争が美酒がごとくわれわれを虜にしたのだ。薔薇の香りとたぎる血潮に酔いながら、花吹雪を肩に浴び、われわれは出征していった。この戦争はわれわれに偉大なる何かを、圧倒させられるような何かを、神聖なる何かをもたらしてくれるに違いなかった。それは、栄光と血で飾られし戦場で行われる、勇ましくも心躍る銃撃戦か。――命を賭さんとするにこれ以上の機があろうか――さあ、部屋から出よう。戦場へ行こう!』


 戦争を肯定的に捉え、賛美したのは青年たちだけではなかった。当時のドイツを代表する知識人たちも各々の方法で戦争を賛美、肯定する向きを示した。トーマス・マンは開戦とともに軍役を志願するが、兵役適齢ではないマンは軍務に適さずと判断され、従軍の許可を与えられず、彼はそれを恥であると感じた。銃を取ることを許されなかった彼は、自身の使命を「武器をとっての思想勤務」とみなし、『戦時思想』や『フリードリヒと大同盟』といった戦争を支持する内容のエッセイを発表した。前者では、この戦争を西欧「文明」に対する、ドイツ「文化」の自存自衛を賭けた闘争であるとし、後者では、七年戦争時のフリードリヒ2世のプロイセンと敵対するカウニッツ大同盟とを、ドイツ帝国と協商国群とに置き換え、この大戦を不可避なものと、そしてドイツの宿命的なものと考えたのである。さらに経済学者のマックス・ヴェーバーもまた、マンと同様に開戦を歓迎した。ヴェーバーは開戦以前より、ヨーロッパの中央部に中央集権国家としてのドイツ国家が存在していること自体が、戦争の勃発を不可避なものとする要因であると考えており、大戦の始まりを「その結果がどうであれ、この戦争は偉大で素晴らしい(2)」と賞賛するのである。齢50を超える彼も前線での勤務を許可されず、予備陸軍病院委員会の監察将校として国家に奉仕することになった。そして彼もまた銃を取って戦えないことを嘆き、それについて以下の言葉を遺している。「私の勤務は十三時間だ。……行軍することは残念ながらできない。それ故、前線では使いものにならない。これは何としても大変辛いことだ。」「この戦争はその一切の醜悪さに拘らずやはり偉大で素晴らしい。これを体験するのは有益なことだ――その戦場に立てればもっと有益であろうが、残念ながら私は前線では物の役に立ち得ない、――二十五年前に戦争があったとすれば役に立てただろうが。(3)」


 以上のように、老いも若きも皆がこの戦争を喝采したのである。ドイツ以外の国でも同様だった。攻勢主義を採るフランス軍は今すぐにでもアルザス・ロレーヌに飛びこんでいきそうな勢いであったし、徴兵制度のないイギリスでは募兵所周辺の街路という街路が兵役志願の若者たちで埋まってしまった。ヨーロッパ中が戦争に熱狂し、「何かが変わる、いや変えなければならない」ことを確信していたのである。ドイツの青年たちは愛国心とロマン主義を胸に秘め、銃後の人々の歓呼の声に送られて、意気揚々と戦地に向かって出発した。「ラインの守り」を皆で歌いながら前線に向かう彼らドイツ軍兵士の念頭にあったものは、1871年の戦争、つまり、フランス皇帝ナポレオン3世を捕虜とし、大勝利に終わったあの普仏戦争であった。今度の戦争も半世紀前のあの戦争と同じようにあっという間に終わり、クリスマスまでには手柄話を土産に故郷へと帰り錦を飾れるものと、彼らは思い描いていた。そして、エルンスト・ユンガーは「戦争はわれわれに偉大なる何かを、圧倒させられるような何かを、神聖なる何かをもたらしてくれるに違いなかった」と回想しているように、惰性でまわっているだけの頽落した市民文化の中で懦弱化してしまった「人間」たちが、この戦争を通じてかつての力を取り戻し、次なる段階に達することを願い、古代の戦士や中世の騎士たちのような英雄たちが再び現れることを漠然と期待していたのである。しかし、戦場に集った若き兵士たちを歓待したのは、華々しく、栄光に満ち溢れ、名誉ある戦場ではなかった。


 1914年8月3日、ドイツ帝国はフランス共和国に対して宣戦を布告。翌4日には西部国境に集結していた軍勢がその歩武をもってして進撃を開始した。百万単位の兵力が互いにぶつかり合う史上初の戦争が始まったのである。ドイツ軍は中立国ベルギーを侵犯し、同国を突破、北フランスへ足を踏み入れた。シュリーフェン計画に則り、北方から反時計回りに大旋回する片翼突破攻勢を仕掛け、独仏国境地帯に布陣するフランス軍を包囲殲滅しようというのである。しかし、緒戦の快進撃も、兵站の問題、予備兵力の不足、そして9月6日にマルヌ河畔にて展開されたフランス軍の反撃、いわゆる「マルヌ会戦」の敗北によって頓挫し、西部戦線の早期解決への道は途絶えてしまった(4)。その後、両軍は互いに敵軍の側面に回り込もうと、「延翼競争」を続けたあげく、両軍とも敵に決定的な一打を与えられぬまま、戦線は北へ北へと延びていき、ついに英仏海峡に突き当たってしまった。以降、両軍は塹壕を掘って睨み合いを始めた。「塹壕戦(5)」が始まったのである。


 第一次世界大戦は塹壕が大々的に使われた戦争である。特に西部戦線のそれは、スイス国境から英仏海峡へと連なり、その長さは全長約800キロメートルに達した。当初は人間が隠れられる程度の単なる地面に掘られた溝にすぎなかった塹壕も、時間とともに強化されていき、何時間にも及ぶ砲撃に耐えられるほどの深さと強度になり、鉄条網、機関銃、コンクリート製の掩蔽壕を組み合わせた強固な陣地が各所に設けられた。さらに最前部の塹壕が突破されてしまった事態に備え、後方に第2線壕、第3線壕が構築され、塹壕線は3重であるのが常識になった。すべての塹壕線および支援用の各拠点は連絡壕で連結され、その縦深は数百メートルに達し、もはやそれは塹壕線というよりは塹壕帯と呼んだ方がより正確であろう代物だった。掩蔽壕の深さは最低でも3メートル、場所によっては9メートルに達する箇所もあり、さながら地下要塞の様相を呈していた。


 こうまで大規模化してしまった塹壕を攻撃、突破するためには、言うまでもないことだが、従来の戦術では用をなさず、守備側に対して攻撃側が支払わなければならない対価の比率が急上昇することになった。歩兵部隊を突入させる前に行われる準備砲撃の時間はときには数日間にも及び、撃ち込まれる砲弾は幾百万を数えた。圧倒的な火力が地面を抉り返し、大地は月のクレーターのように穴だらけになったが、それでも塹壕に籠る守備側の歩兵たちを殲滅させることはできなかった。たった一挺でも機関銃が生き残っていれば、一個大隊、いや一個連隊の歩兵部隊を足止めさせることができた。数百人以上の規模で固まって横隊突撃する歩兵部隊は、機関銃手にとっては手頃な射撃の的にすぎず、味方の砲撃で穴だらけになった地面に悪戦苦闘している攻撃側の歩兵たちは機関銃弾の雨に打たれてばたばたと倒れていくのである。以上のように、塹壕の発達によって防御力ばかりが向上し、対して有効な攻撃手段がないという状況になり、西部戦線は膠着状態が続く消耗戦になってしまったのである。


 また、塹壕は単なる防衛上の陣地という概念に留まらず、兵士たちの住居でもあったことも忘れてはならない。そこは不快の極みともいえる劣悪な環境であった。まず、塹壕が大地に掘られた溝である以上、ひとたび雨が降りでもしたら、塹壕内は洪水に見舞われたかのように水浸しの状態になってしまった。兵士たちは終わりなき排水作業に従事せねばならず、塹壕の底部に排水溝が掘られ、その上に簀子が敷かれるなどの対策が採られたが、無論これだけですべての弊害を抑えられるはずもなかった。塹壕内に溜まった水からは蚊が湧き、コレラやチフスなどといった伝染病が猖獗を極める。さらに、冬場であれば兵士たちは足を冷たい水の中に浸したまま任務に従事せねばならず、塹壕足――トレンチフットと言われる第一次世界大戦特有の疾病までも生まれた。


 精神面でも塹壕生活は兵士たちを苦しめた。狭い塹壕の中で延々と続く防衛任務は退屈であると同時に、極度の緊張を強いられるものでもあった。迂闊にも塹壕から頭部を露呈させれば、敵の狙撃兵がそれを見逃すことはない。それにいつ始まるともしれぬ敵の攻勢に備え、日々警戒の任を緩めることを許されなかった。「退屈」と「緊張」という本来ならば相反する二種の困難を同時に受けなければならなかった兵士たちは、精神を苛まれ、長期間継続して守備任務に就くことは不可能であり、半月ごとに別の兵士と交代しなければならなかった。そして、ひとたび戦闘が開始されれば、砲撃により仲間たちが次々に吹き飛ばされていく中、銃剣を光らせながら突入してくる敵歩兵部隊の大軍を相手に、一寸の土地を奪い合うかのような凄惨な白兵戦に従事しなければならないのである。これが第一次世界大戦の塹壕戦であった。


 ユンガーは塹壕戦の中に自身を置き、その新しい戦争の形態に直面した。吹き荒ぶ鋼鉄の嵐の中、塹壕の中に身を潜め恐怖に耐え忍ぶ毎日。それは、安全で快適な市民社会と対極をなす世界であった。産業革命以降、日々進捗の度合を増していく工業化の波は、かつての戦争のイメージを払拭し、兵士を工業製品のように肉弾として磨り潰す、悲惨な消耗戦を現出させてしまったのである。毎日のように大砲を吐き出すクルップの工場だけではない。国家のすべての生産活動、市民活動が戦争行動を維持するためだけに動いているようだった。ユンガーは言う「運輸、食糧、軍需産業という新種の軍隊が成立する。総じてこれらを労働の軍隊と言えよう。すでにこの戦争の終わり頃に暗示されたような最終局面では、少なくとも間接的にさえ戦争遂行と関わりをもたない運動は[……]もはや存在しないのである(6)」。ここには三身分の区別はない。工場が前線に火器と弾薬を供給するように、農場は穀物を供給し、家庭は男子を兵士として供給した。つまり総力戦であった。ユンガーはそうした社会状況を「国家の機能として理解できないものが全く存在しない状態(7)」と表現する。農民も工場労働者も教師も政治家も文化人も貧しい者も富める者も、みな戦争を賛美し、戦争のために働いていた。彼らが生産するものすべてが前線に運ばれていく。物も人も芸術も思想もすべてがである。そして、「この最後の段階では諸国が、ベルト・コンベアの上で軍隊を生産し、昼夜を分かたず戦場へ派遣する巨大な工場へ変貌し、戦場では同様に非常に機械的となった流血が、消費者の役割を引き受けたのである(8)」とユンガーが言うように、前線の兵士たちが「消費者の役割」を引き受けなければならなくなったが、彼らが背負わなければならなかったものは果たして何であったか。それは、一国家、一民族が作り出すものそのすべてであり、兵士たちはその重みに耐えることあたわず、プレス機に挽き潰された金属塊のように、榴弾の一撃で四散しなければならなかった。国家のすべてが戦争事業に従事していたのである。兵士に課せられた仕事はその総まとめであった。つまり、戦場において敵を殺し、自らもまた死ぬことであった。ユンガーはその様相を以下のように表現する。


"Wir sehen die beste Mannschaft der Völker in einer unsäglich traurigen Landschaft, in Trichterfeldern, Grabenfetzen und zertrommelten Dörfern der Wirkung eines Krieges ausgesetzt, den man am besten den Produktionkrieg nennt. Der Vernichtungswille äußert sich rein durch die Maschine, der Tod offenbart sich in technischer Gestalt.(9)"

『生産戦争と呼称すべき戦争が創り出した、名状しがたい凄惨なる情景、無数の砲弾孔、塹壕、そして粉砕された村々、そこに諸国民の最良の兵士たちの姿があった。殺戮の意志は全く機械を通して表現され、死は技術的な形態の中で顕現した。』


 戦争は、イワン・ブロッホ(10)のようなごく一部の者を除く、誰もが予想していなかった形態へと変質していた。はじめ、兵士たちはクリスマスまでに戦争は終わると考えていたのである。まさか4年以上という長期にわたる大戦争になるとは彼らにとって思いも寄らぬことであった。予想と大きく隔たる現実の戦争を前にして、兵士たちは苦しんだ。この戦争では兵士たちは銃弾や砲弾と同じただの消耗品にすぎない。この中からいかにして英雄が生まれ出るというのか。開戦当初、フランスへの侵攻を「パリへの無銭旅行」と呼んで意気込んでいたドイツ軍の兵士たちは、今や、パリ北東方100キロの地点に塹壕を掘り、ミミズかモグラのごとく地面の中でうごめいていなければならなかった。パリは遠い。パリへと続く100キロメートルの道のりはただの100キロメートルではない。さながら高熱で融解した鉄の上をゆく100キロメートルである。強固な塹壕線に対する突撃は無謀な自殺行為でしかないのだから。1916年2月16日に始まり、約10カ月続いたヴェルダンの戦いはそうした「悲惨な消耗戦」の代表とも言えるだろう。人口わずか2万人程度の小さな城塞都市ヴェルダンをめぐる戦いで、独仏両軍合わせて70万もの死傷者を出したのである。戦いの中で兵士たちの士気は時間とともに沮喪していった。いつ終わるともしれぬ戦争の恐怖は兵士たちの精神を蝕んでいき、人間が持てる限りの耐久性を上回る重圧が彼らにのしかかっていた。ドイツ軍の兵士たちはまだ希望を捨ててはいなかったが、戦争前の楽観論は跡形もなく消え去っていた。そうした凄惨なる前線の光景をユンガーは作品の中にて大量に書き綴っているが、『内的体験としての戦闘(Der Kampf als inneres Erlebnis)』および『鋼鉄の嵐の中で(In Stahlgewittern)』の中からその一部を以下に抄出する。


"Alle Geheimnisse des Grabes lagen offen in einer Scheußlichkeit, vor der die tollsten Träume verblichen. Haare fielen in Büschen von Schädeln wie fahles Laub von herbstlichen Bäumen. Manche zergingen in grünliches Fischfleisch, das nachts durch zerrissene Uniformen glänzte. Trat man auf sie, so hinterließ der Fuß phosphorische Spuren. Andere wurden zu kalkigen, langsam zerblätternden Mumien gedörrt. Anderen floß das Fleisch als rotbraune Gelatine von den Knochen. In schwülen Nächten erwachten geschwollene Kadaver zu gespenstischem Leben, wenn gespannte Gase zischend und sprudelnd den Wunden entwichen. Am furchtbarsten jedoch war das brodelnde Gewühl, das denen entströmte, die nur noch aus unzähligen Würmern bestanden.(11)"

『凄惨なる戦場で斃れるとはどういうことなのか、その真実がすべてここに暴露された。この現実を前にしていかなる愚かな幻想も色あせてしまった。まるで秋季の落ち葉のごとく、人頭の毛髪が茂みの中から覗いていた。無数の兵士たちが緑がかった肉片へと融解し、夜になるとちぎれた軍服の間隙できらめいていた。その上を歩けば、燐光を発する足跡が残った。別の戦死者は蒼白になり、次第にバラバラのミイラへと乾涸びていった。別の戦死体では肢体からその内容物が赤茶色のゼラチンと化して流れ出ていた。蒸し暑い夜、屍体の傷口からガスがシューと音を立てて漏れ出れば、まるで膨張した屍体が亡霊と化して目覚めたかのようだった。しかしながら、最も恐ろしいのは、屍体を覆い溢れ出す無数の蛆虫、そのうごめきであった。』


"Als der Morgen graute, entschleierte sich die fremde Umgebung allmählich den staunenden Augen. Der Hohlweg erschien nur noch als eine Reihe riesiger, mit Uniformstücken, Waffen und Toten gefüllter Trichter; das umliegende Gelände war, soweit der Blick reichte, völlig von schweren Granaten umgewälzt. Nicht ein einziger armseliger Grashalm zeigte sich dem suchenden Blick. Der zerwühlte Kampfplatz war grauenhaft. Zwischen den lebenden Verteidigern lagen die toten. Beim Ausgraben von Deckungslöchern bemerkten wir, daß sie in Lagen übereinandergeschichtet waren. Eine Kompanie nach der anderen war, dicht gedrängt im Trommelfeuer ausharrend, niedergemäht, dann waren die Leichen durch die von den Geschossen hochgeschleuderten Erdmassen verschüttet worden, und die Ablösung war an den Platz der Gefallenen getreten. Nun war die Reihe an uns.

 Der Hohlweg und das Gelände dahinter war mit Deutschen, das Gelände davor mit Engländern bestreut. Aus den Böschungen starrten Arme, Beine und Köpfe; vor unseren Erdlöchern lagen abgerissene Gliedmaßen und Tote, über die man zum Teil, um dem steten Anblick der entstellten Gesichter zu entgehen, Mäntel oder Zeltbahnen geworfen hatte. Trotz der Hitze dachte niemand daran, die Körper mit Erde zu bedecken.(12)"

『明るくなってくるにつれて、徐々にその異常なる状況が驚嘆とともに明らかになってきた。その隘路は今や部隊というよりも、大量の軍服の切れ端や武器、そして戦死者で満杯になった砲撃跡でしかなかった。視界の及ぶ限り、周囲一帯が完全に重榴弾によって掘り返されていた。草の根一本さえ目に入らなかった。その破壊し尽くされた戦場のなんと非情なることか。どの生き残った守備兵の間にも死者が横たわっていた。蛸壺陣地を掘ってみれば、死者たちが層をなして幾重にも積み重なっているのに遭遇することもあった。中隊が次から次へと稠密極まる集中砲火を浴び、なぎ倒され、さらに砲火によって吹き飛ばされた土塊で埋められてしまうと、また別の中隊がその死の世界へと進んでいくのだった。そして今われわれの番がやってきた。

 その隘路と戦闘区域のこちら側にはドイツ兵の、向こう側にはイギリス兵の屍体が散乱していた。その斜面上は腕、脚、そして人頭で溢れていた。われわれの籠る塹壕のすぐ前方にも引きちぎられた四肢と屍体とが転がっており、そのバラバラになった男の、恐ろしき形相と視線から免れるために、外套やら防水布やらを上に放りかぶせた。その暑さにもかかわらず戦死者たちをきちんと埋葬しようなどと考える者は誰ひとりとしていなかった。』


 最前線の悲惨な現実をユンガーの筆は語ってくれる。産業化されてしまった戦争の中では、歴史物語に出てくる戦士や騎士のような英雄たちが現出することはなく、すべての兵士は国家という巨大な機械の単なる一部品にすぎなくなっていた。消耗すれば別のものに取り換えられるだけである。こうした状況に耐えられなくなってしまった兵士は少なくなかった。


 1917年春、当時のフランス軍総司令官であったニヴェル将軍の鶴の一声のもとに、攻勢作戦、戦史が伝えるところの「ニヴェル攻勢」が開始されたが、18万7千人を超える死傷者を出しながらなんら成果を出すことができなかった。この惨憺たる結果を前にして、フランス軍兵士たちの中に不服従の感情が芽生えてしまったのも、不思議なことではなかった。5月3日、第2植民地師団のある連隊で反乱の火の手が上がり、兵士たちは不満を叫び、命令を無視したり、軍務を放棄するなどした(13)。こうした抗命運動は瞬く間に多数の師団へと伝わり、一部の師団ではパリへの進撃を試みたほどであった。ペタン元帥の甲斐ある説得活動によって反乱は沈静化し、反乱の首謀者たち23名が処刑、100名以上が植民地に流刑ということでその場は治められたが、フランス軍の弱体化は数の上でも士気の上でも目に見えて明らかだった。


 ドイツ軍はフランス軍と比べれば幾分状況はよかったかもしれない。だが、厭戦感情は紛れもなく時間とともに増幅していたし、銃後では連合軍による経済封鎖の影響で物資の窮乏状態はひどくなるばかりであった。しかし、諦めの表情を浮かべる兵士や、嘆きや不安の声を上げる兵士や、過酷な現実に耐え切れず精神をやられて後送される兵士が増えていく中で、そうではない兵士も存在した。どんな困難な状況にも打ち克つ精神と勇気とを持ち合わせた兵士たちが存在したのである。ユンガーは以下のように述べる。


"Ja, diese Landschaft riß alles ab, was nicht unbedingt notwendig war, sie duldete keinen Luxus, auch nicht den des Gefühls. Ihr Sinn war rein auf die sachliche Leistung gestellt. Dafür zog sie aber auch unter Entbehrungen und gefahren ein Geschlecht von Männern heran, dem der Kampf nicht mehr ein Ausnahmezustand, sondern eine eiserne Gewohnheit war. In ihm entstand der Typ des Grabenkämpfers, der es während endloser Nachtwachen längst aufgegeben hatte, nach dem Warum zu fragen, und in dem als Triebfeder nur das: Du mußt! zurückgeblieben war. Und durch die Tatsache, daß er dieses: Du mußt! auch innerlich anerkannte, unterschied sich der wirkliche Frontsoldat von allen übrigen.(14)"

『まさにこの情景は必要なき駄物をすべて粉砕し、一切の贅沢を許容しなかった。心情に関しても同様だった。その意味するところは即物的能率にあった。そのために一世代の男たちが動員され自由なき世界へと連れていかれたのである。戦闘は彼らにとってもはや非常事態ではなく厳酷たる日常習慣であった。彼らにおいて塹壕戦士なる種族が成立した。終わりなき夜勤の中で彼らはとうに何故を問うことを放擲しており、発条として残されたのは唯一「汝なすべし!」ということだけであった。そして彼らがこの「汝なすべし!」ということを内面的にも承服したという事実を通して、真の前線兵士と他のすべての人間たちとが類別されたのである。』


 ユンガーもそうした「真の前線兵士」のひとりであった。彼は最前線に立ち続けた。ユンガーのこの『彼らはとうに何故を問うことを放擲しており、発条として残されたのは唯一「汝なすべし!」ということだけであった。』という言葉は、「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない」というヴィトゲンシュタインの言葉を想起させる(15)。「なぜ、われわれは戦っているのか?」「なぜ、われわれは塹壕の中でこんなにも苦しまなければならないのか?」こうした答えなき問いは燃え盛る塹壕世界の中ではもはや意味をなさなかったし、存在もしなかった。そして、ユンガーはこの凄惨な産業戦の中で、人間の新しい可能性を見出す。「真の前線兵士」だけが獲得しうる新しい世界の眺望を、ユンガーはその双眸で見ていた。ここでゲーテのとある一節を思い出すことができる。


『すなわち、青年と未開民族の漠然とした大きな広がりをもつ感情だけが、崇高なものを感じとるのに適している。この感情が外的なものによってわれわれのうちに呼び起されるためには、それは形がなく、あるいはとらえがたい形態のものであって、われわれの到底およびもつかないような偉大さをもってわれわれを取り囲んでいなければならない、ということである。(16)』


 文明によって構築された市民社会に背を向けた、20歳を超えたばかりの青年ユンガーは、ゲーテの言うこの条件に合致しているといえよう。市民は安逸な文明の中に身を浸すことを喜びとする。対して、危険極まる戦場の中に真の生を感じうる前線兵士がここに生まれたのである。そして、ユンガーは以下のように述べた。


"Dem Elementaren aber, das uns im Höllenrachen des Krieges seit langen Zeiten zum ersten Male wieder sichtbar wurde, treiben wir zu. Wir werden nirgends stehen, wo nicht die Stichflamme uns Bahn geschlagen, wo nicht der Flammenwerfer die große Säuberung durch das Nichts vollzogen hat. Wer das Ganze leugnet, der kann nicht aus den Teilen Früchte ziehen. Weil wir die echten, wahren und unerbittlichen Feinde des Bürgers sind, macht uns seine Verwesung Spaß. Wir aber sind keine Bürger, wir sind Söhne von Kriegen und Bürgerkriegen, und erst wenn dies alles, dieses Schauspiel der im Leeren kreisenden Kreise, hinweggefegt ist, wind sich das entfalten können, was noch an Natur, an Elementarem, an echter Wildheit, an Ursprache, an Fähigkeit zu wirklicher Zeugung mit Blut und Samen in uns steckt. Dann erst wird die Möglichkeit neuer Formen gegeben sein.(17)"

『われわれは根源的なものに迫ろうとしている。それは今まで見えなかったもの、この戦争という地獄の底ではじめて見ることができるようになったものだ。噴き上がる火柱がわれわれに道を拓き、火炎放射器がなにもかもを一掃してくれた。ここ以外のどこにわれわれの立つべき場所があるというのか。すべてを否定する者はその果実のひとかけらさえ手にすることかなわない。われわれは市民の敵、それも純粋にして真正で非情なる敵であるがゆえに、市民どもの滅亡ほど愉快なことはない。われわれは断じて市民ではない。戦争と内乱の子である。うつろなる虚構の世界、そのすべてが取り払われるときにはじめて、われわれの内に今なお備わりし自然の力、根源たるもの、純粋なる野生、原語、血と種による真の生殖力が顕現しうるのであろう。そしてはじめて新しい形態の可能性が生じるのだ。』

(1)Ernst Jünger, "In Stahlgewittern", Klett-Cotta Verlag, Stuttgart, 1978, S.7.

(2)末吉孝州、『第一次世界大戦とドイツ精神』、太陽出版、1990年、178頁。

(3)同上

(4)塹壕戦に関する記述は主に以下の文献を参考とした。〈参考〉「塹壕戦」、『第一次世界大戦 上』、学習研究社、2008年、116-124頁。

(5)当時のドイツ軍が抱えていた兵站上の問題については以下の文献に詳述されている。〈参考〉マーチン・ファン・クレフェルト、「第四章 壮大な計画と貧弱な輸送と」、『補給戦』、佐藤佐三郎訳、中公文庫、2006年、185-238頁。

(6)エルンスト・ユンガー、「総動員」、『追悼の政治』、川合全弘訳、月曜社、2005年、43頁。

(7)同上、45頁。

(8)同上、47頁。

(9)Ernst Jünger, "Politische Publizistik 1919-1933", Klett-Cotta Verlag, Stuttgart, 2001, "Der Krieg als inneres Erlebnis", S.103.

(10)イワン・ブロッホ(Ivan Bloch.1836~1902)はポーランドの銀行家。1870年に勃発した普仏戦争をきっかけに戦争の研究を開始し、1870年代末に、全6冊からなる大著『将来の戦争』を完成させた。ブロッホは、来るべきヨーロッパの全面戦争は、必然的に長期の消耗戦になり、大惨事を招き、戦勝国でさえも経済的に破綻し、ヨーロッパ文明は危機に陥ると、第一次世界大戦について正確に予言していた。しかし、軍事の専門家ではなく、平和主義者でもあったブロッホの意見は、各国の指導者層や軍人たちに相手にされず、戦争回避の手だてとはならなかった。〈参考〉片岡徹也、「現代軍事思想から捉えたWWI」、『第一次世界大戦 下』、学習研究社、2008年、168-171頁。

(11)Ernst Jünger, "Der Kampf als inneres Erlebnis", E. S. Mittler & Sohn, Berlin, 1926, S.14-15.

(12)Ernst Jünger, "In Stahlgewittern", Klett-Cotta Verlag, Stuttgart, 1978, S.111.

(13)リデル・ハート、『第一次世界大戦 下』、上村達雄訳、中央公論新社、2000年、21頁。

(14)Ernst Jünger, "Politische Publizistik 1919-1933", Klett-Cotta Verlag, Stuttgart, 2001, "Der Krieg als äußeres Erlebnis", S.90.

(15)若き日のヴィトゲンシュタインも志願兵としてオーストリア陸軍に参加しており、雲霞のごときロシアの大軍との激戦を通して、その総力戦の形態を知ることとなった。後に『論理哲学論考』の掉尾を飾る一句となる「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない」という命題は、従軍中に綴られた日記内にて、はじめてこの世に記されたのである。

(16)ゲーテ、『詩と真実 第二部』、山崎章甫訳、岩波書店、1997年、22頁。

(17)Ernst Jünger, "Politische Publizistik 1919-1933", Klett-Cotta Verlag, Stuttgart, 2001, "»Nationalismus« und Nationalismus", S.507.

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ