1、大戦前夜のヨーロッパ
イギリスの高名な軍事思想家、著述家であるリデル=ハートは、彼の代表作である『第一次世界大戦』の冒頭部で、大戦前夜のヨーロッパを端的にこう評している。「ヨーロッパを爆発寸前の状態にもってくるのには五十年を要したが、いざ爆発させるには五日で充分だった(1)」。第一次世界大戦はなぜ始まってしまったのだろうか。その理由を挙げろと言われれば、いくらでも答えることができるように思われる。世紀転換期を迎えたヨーロッパが孕んでいた問題は一つや二つではなかったのである。
19世紀に興隆した民族主義は国内に11の民族を抱え込むオーストリア・ハプスブルク帝国を着実に蝕んでいた。ヴィルヘルム2世に率いられた新興の大国ドイツは海外進出を目指し、イギリスとの軋轢を強めていた。フランスは普仏戦争にて奪われたエルザス・ロートリンゲン(アルザス・ロレーヌ)の奪還を諦めてはいなかった。南スラヴ諸民族の統一を目指す新興国セルビアはオーストリアに対する敵意を深めていた。イタリアはオーストリア領トレンティーノおよびトリエステすなわち「未回収のイタリア」の獲得を狙っていた。ルーマニアは同胞が暮らすトランシルヴァニアの併合を願っていた。ヨーロッパの重病人オスマン帝国は、北に南下政策を採るロシア帝国、南にイギリスに後押しされたアラブ人と内外に憂慮を抱え、危機を迎えていた。時代の流れが生み出した20世紀初頭のヨーロッパを眺めてみれば、どこもかしこも火種を抱え、バルカン半島どころか、ヨーロッパ亜大陸全体が火薬庫と化しているような状況であった。山のように集積された火薬を吹き飛ばすのに火種はマッチ一本でこと足りる。そのマッチこそが、サラエボで放たれた一発の銃弾であった。セルビア系青年によるオーストリア皇太子妃夫妻の暗殺は、確かに大戦のきっかけとはなったが、ヨーロッパすべてを炎上させるための火薬は半世紀という年月をかけて積み上げられたものであった。
かくして大戦は始まってしまった。だが、果たしてこの戦争の原因を国家間の利害関係によるもののみとみなしてよいものだろうか。どうして戦争はあれほどまで急速に拡大し、世界大戦へとなってしまったのか。どうしてヨーロッパの人々は炎上するヨーロッパの大火を消火するどころか、自らその火の中に次々と飛び込んでしまったのか。多くの兵士は自身の意思で兵士になり、戦場へと向かったのである。彼らは笑顔で前線に向かったのだ。人々はなぜ戦争を肯定したのか、この点を考えなければならない。そして、その答えをわれわれに教えてくれるのが、実際に第一次世界大戦の戦場に立った兵士たちであり、その中のひとりにエルンスト・ユンガーという名の青年がいた。
エルンスト・ユンガーは1895年、ハイデルベルクにて生まれた。父親は薬剤師で、まもなく一家はハノーファーへと移り住み、ユンガーはそこで幼年時代を過ごすことになる。長男であるユンガーは両親の期待を背負いつつギムナジウムでの学業生活を開始するが、それはユンガーにとって決して愉しいものではなかった。彼は学校での退屈な学業に集中することができず、何校かのギムナジウムを転々としながら、落ちつきのない生活を送った。その頃抱いていた心情を、ユンガーは『アフリカ遊戯(Afrikanische Spiele)』の中でこう語っている。
"Auf der anderen Seite drang die Langeweile jeden Tag stärker wie tödliches Gift in mich ein. Es schien mir ganz unmöglich, etwas »werden« zu können; schon das Wort war mir zuwider, und von den tausend Anstellungen, die die Zivilisation zu vergeben hat, schien mir nicht eine für mich gemacht. Eher hätten mich noch die ganz einfachen Tätigkeiten gelockt, wie die des Fischers, des Jägers oder des Holzfällers, allein seitdem ich gehört hatte, daß die Förster heute eine Art von Rechnungsbeamten geworden sind, die mehr mit der Feder als mit der Flinte arbeiten,und daß man die Fische in Motorbooten fängt, war mir auch das zur Last. Mir fehlte hier selbst der mindeste Ehrgeiz, und jenen Gesprächen, wie sie die Eltern mit ihren heranwachsenden Söhnen über die Aussichten der verschiedenen Berufe zu führen pflegen, wohnte ich bei wie einer, der zu Zuchthaus verurteilt werden soll.(2)"
『一方で退屈は日ごとに致命的な病毒のごとく私の心を蝕んでいった。何者かに「なる」ことができようなど、私には不可能としか思えなかった。この言葉だけでもいとわしいというのに、文明社会が用意してくれる幾千種もの職業の中で、私に適していると思われるものなど何もなかった。強いて言えば、漁師や猟師または樵といった全く素朴な仕事には惹かれることもあったが、今日では林務官の仕事といえば事務仕事であり、猟師は猟銃ではなくペンを使って仕事をし、漁師はモーターボートに乗って漁を行っていると聞いてしまっては、それらも私にとって気を滅入らせるものでしかなかった。私には出世欲などいうものはひとかけらさえなかったから、両親が、息子たちが将来どのような仕事に就くのだろうかなどと話すのを、まるで監獄送りを宣告されんとする者がごとく聞いていたのだ。』
こうした感情を抱いていたのはユンガーだけではない。ビスマルクによるドイツ統一から半世紀が経過し、ドイツは史上稀にみる安定の時代を過ごしていたが、それゆえに少なからぬ人々が変化のない日常に倦怠感を覚え始めていたのである。市民としての名誉、経済的な裕福さ、快適な家庭生活。戦乱の渦中に人生を見出さなければならなかった先人たちが希求したこれらの贅沢の数々に、安定のうちに世紀末を迎えたドイツ市民は飽きの感情を抱いてしまったのである。
こうした市民たちの価値観の変化を、ユンガーより20年早く生まれたトーマス・マンもまた、その鋭い感性でひしひしと感じていた。リューベックの裕福な商家の家に生まれたトーマス・マンも、繫文縟礼と言表しうる窮屈で単調な日々に、「息苦しさ」を覚えていた。そして、彼は肺腑の底に積み上がった感情を文学という形で世に現した。1901年に出版された彼の代表作『ブデンブローク家の人々(Buddenbrooks)』のテーマとなっているのは、「非市民化」、「市民性からの脱却」であった。19世紀末のドイツの市民社会、それをこの作品は見事に描き出しているが、作中での主人公のひとり、北ドイツのリューベックに暮らす商会3代目のトーマス・ブデンブロークの生活について、末吉孝州は著書『第一次世界大戦とドイツ精神』の中で、以下のようにまとめている。
『トーマスの生活は、公人としても、実業家としても、すべてが日常的な実生活のこまごまとした事象で満たされている。平凡で、人間的な、あまりにも人間的な小さな喜怒哀楽に彩られた、地を這うような日常生活でしかない。勿論、先祖代々引き継がれてきた名望ある商家としての、都市貴族的、都市門閥的な生活様式である以上、豊かな財源のもたらす贅沢で快適な生活の喜びがあるが、しかしこれとともに細心で吝々とした金銭の勘定や儉約、手堅いが旺盛な営利活動などに依って、蓄財を志し、利得を追求し、社会的な地位や名声を享受していこうと営々と努める極めて俗世間的ともいえる日常生活でしかない。広壮な家の建築や盛大な新築祝い、社会的地位に適った結婚やそれに裏切られた結果としての離婚の話、子供の誕生、洗礼、近親者の死亡などについての詳細な報告、遺産の相続、分配、持参金の多寡をめぐってのやりとり、後からやって来た臆面もない新興商人に対する階級的蔑視や商売上の妬み、取引上での失敗やら破産への不安、名誉失墜への恐怖、「体面」(Dehor)を保持するための必死の努力、服装上の「虚栄」(Eitelkeit)といった、こうした十九世紀ドイツの市民社会にあって何処にも繰り返されるような話に織りなされた、即物的な生活事象でしかない。(3)』
トーマス・ブデンブロークは上に記したような俗物的な非常に堅苦しい生活を送らざるをえないにもかかわらず、哲学や芸術の世界への憧憬を捨て去ることができず、次第に市民としての活力を失っていき、トーマスの後を継いだ商会第4代当主ハンノーの代でブデンブローク家は没落する。ハンノーは即物的な諸事物への関心を失っており、彼の関心はもっぱら芸術世界に向けられていたのである。街の名士としての名望、経済的な豊かさ、そうしたものへの価値観の喪失、そして、そうした価値観が支配する世界からの脱出が、この作品では問われている。トーマス・マンが示した逃避先は芸術の世界であった。それでは、ユンガーが逃避先に選んだ世界とはどんな世界だったか。彼が選んだのは、より原始的な世界、文明以前の世界、冒険の世界であった。
当時のドイツの青少年たちの中で人気を博した作家のひとりに、カール・マイ(4)がいる。ザクセン州ケムニッツの貧しい職工の五男として生まれたマイは、その出自がゆえの貧しさのために充分な教育を受けることができなかったが、にもかかわらず、彼は生涯に70冊をも超える冒険小説を書き上げた。彼の冒険小説の中で描かれるのは、北アフリカからアラビア半島の砂漠、アメリカ西部の荒野、南アフリカ・アマゾンの密林、バルカン半島の大平原といった、ドイツ人には馴染みの薄い非西欧世界であった。マイは、自身で蒐集した書籍類や地図、紀行文、植民地経営のための報告書などを下敷きにして作品を創り出し、それゆえ、彼の作品中に現れる動植物などの固有名詞や、それぞれの土地の風土、現地の人々の習慣、文化など、驚くほどに正確に記述、描写され、こうした点が作品に大なる魅力を与えていた。遠い異国の大舞台の中で繰り広げられる主人公の冒険に、ドイツの青少年たちは心を奪われ、まだ見ぬ世界の情景に胸躍らせていたのである。少年エルンスト・ユンガーもそんな青少年たちのひとりであった。
ユンガーは、カール・マイの冒険小説やデフォーのロビンソン・クルーソーなどを愛読し、その募る冒険心をヴァンダーフォーゲルにおける活動などで晴らしながらも、ついに我慢がならなくなってしまった。ユンガーは、ギムナジウムの生活から抜け出すと、年齢を偽ってフランス外人部隊に入隊し、アフリカへ旅立とうとするのである。彼の計画では、アフリカ到着後に部隊から脱走し、単身で赤道地帯の密林へ向かうつもりであった。だが、結局、彼の立てた無謀な計画は腰砕けに終わる。ユンガーは事情を知った父親にすんでのところで連れ戻されてしまうのだった。そして、ハノーファーに連れ戻されたユンガーを待っていたのは戦争であった。
(1)リデル・ハート、『第一次世界大戦 上』、上村達雄訳、中央公論新社、2000年、17頁。
(2)Ernst Jünger, "Afrikanische Spiele", Deutscher Taschenbuch Verlag GmbH & Co. KG, München, 2003, S.9.
(3)末吉孝州、『第一次世界大戦とドイツ精神』、太陽出版、1990年、62頁。
(4)カール・マイについての記述は矢代氏の文献を参考とした。〈参考〉矢代梓、『ドイツ精神の近代』、未来社、2000年、131頁。