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「・・・司月・・・?」
夜九時。
携帯電話の呼び出し音に、表示窓を覗くと。金曜日のこの時間帯、普段ならかかってこない彼からの着信だった。仕事で何かあっただろうかと思案しながら、通話ボタンを押し耳に当てる。
「あ、惺!・・・悪い、こんな時間に」
「いや、いいけどさ」
司月にしては珍しく、いきなり焦ったような声で自分を呼び。そして、我に返ったのか、静かな声で謝られる。
「おーい? どうした?」
用件を言い出さない彼に声をかける。何かいつもと違う彼に、妙な不安を覚えた。
「・・・・・・ごめん」
「??? 何が?」
唐突に暗い声で、そんな風に言われて。
「・・・泣かせた」
「は?」
鬱々とした空気が、携帯の向こう側から伝わってくる気がした。それほど沈んだ声だったのだ。
「伊吹ちゃん。・・・多分、泣いてた」
「・・・えーと・・・司月君、キミね、そんな事言う為にいちいち電話してきたワケ?」
しばしの沈黙を挟んで口を開く。
彼があまりに真剣で、何を言い出すのかと少し怖くなりかけていただけに。肩から力が抜ける。
「伊吹は結構すぐ泣くぞ? お前が破滅的に最悪な事したとか、思えないし。なんか理由があんだろ? そんな気にすんなって」
「っっ、気にならない方がおかしいだろ!!っていうかお前、なんでそんな飄々としてるんだよ! 怒れよ」
逆ギレされ、またしても力が抜けた。本当に、今の司月はいっぱいいっぱいの様で。笑いがこみ上げてくる。
「アホか。オレはどこぞのシスコンじゃねーよ。つーか、今日はデートしてくれてたわけね。順調じゃん。いやぁ、進歩したな」
「ああ、もう、だからそんな事はいいから! 伊吹ちゃんに電話してくれ! 電話もメールも反応ないし、ちゃんと家に帰ってるか分からないし心配だ。早く確認してくれよ」
「はいはい。じゃあな」
手の中で携帯をたたんで。しばらく玩ぶ。
今の司月の慌て様は、滅多に見られないものだ。もう二年以上、一緒に仕事をしてきてあんな風になっているのは殆ど見た事がなかった。何かトラブルがあれば、自分が喚き騒いで、それを彼が落ち着かせるというスタイルが多くて。もしかしたら、自分がいつも落ち着かないから、彼はそうならざるをえなかっただけかもしれないけれど。
それでも、口元が綻んでしまう。
もの静かな司月がそれだけ慌てるというのは、意外と伊吹の事を気に入ってくれている、という事だろうから。
「さてと・・・出ろよー」
もう一度携帯を開き、伊吹の番号を呼び出し、コール音を鳴らした。ふて寝でもしているのだろうが、とりあえずは司月の心配を解消する為に、電話に出させなければならない。
「・・・・・・もしもし・・・」
いつもなら数秒鳴らして出なければ諦めるのだが。留守録に切り替わらないのをいい事に、しつこく鳴らし続けた。案の定、うるさいと思ったのか、ようやく出た伊吹の声は、小さく弱い。
「伊吹、お前、ちゃんと家に帰ったのか?」
「・・・うん・・・?」
「司月が心配してる」
「・・・っ」
息を呑みこんだ音。それきり黙る伊吹は、何故自分が電話をかけてきたのか悟ったのだろう。
「・・・何があったか知らないけど。おれはさ、司月が何か仕出かしたとは思えないんだよな」
否定の言葉を言い出さない伊吹の反応を見れば、もうそれで充分だった。
これ以上、自分から手を差し延べる事はしない。去年、家に司月を連れてきて、そう決めたのは、自分だ。
「言いたいことがあったら聞くから。でもお前がどうするのか決めるんだ。じゃあな」
先程の司月の電話と同じように自分から切って。
開いたままの携帯で、伊吹は家に帰ったと、司月宛てにメールを出す。即刻、感謝の意を伝える返事がきて、それを確認してから自然に大きな溜息を吐く。
「・・・手出ししないで放っとくのも、結構キツいな・・・」
「娘の成長が寂しい親父みたい」
口を挟まずに。じっと傍で様子を窺っていた婚約者が、くすりと笑う。彼女は伊吹の事情も、今までの自分の気持ちも、司月をけしかけた経緯も、全て知っているので。伊吹との電話中の、自分の微妙に冷たい物言いには、少しばかり顔を顰めていた。
「だから。どこぞのシスコン程じゃねーよ」
「そういう事にしといてあげる」
「・・・なんかムカつく・・・つーか、ヘコむ・・・」
にこりと笑う彼女を引き寄せて、携帯の電源を落とした。
それをソファの下に落とす。
「なぐさめて」
風呂上りの甘い香りを漂わせる、その髪に手を差し入れた。
自分にとって、一番なのは。今は彼女になっているから。伊吹に外を見せる。
目を閉じる彼女に口付けた。
「原因は伊吹でいいのか?」
土日を挟んで、月曜日。
どことなく、司月にいつもの覇気がない、そう気付いたのは自分だけではないと思う。事実、机を並べる先輩社員の梶井も、事務職のおばさんも。彼を見て、話しかけて、そして首をひねっていたから。
「・・・何が?」
湯気を上げる丼に手を付けずに。胡乱げな視線を向けてくる司月。割り箸を差し出してやると、無言でそれを受け取る。社内の数少ない女性社員に評判の、いつもの柔らかい笑みがないのだと、ようやく気付いた。
「だから、それ。そのどんよりしてる司月様の、諸悪の根源?」
ぱき、と音を立てて、割り箸を割った彼の眉間に皺が寄る。
「何でお前はそういう言い方ができる? しかも自分の家族に対して。理解できない」
「うわ、悪い。調子のりすぎた」
ものすごく機嫌の悪い声と、冷たい一瞥。大人しい人間が怒ると怖いと良く言うが、身を持って実践してしまった。
「・・・なんか・・・結構、くる・・・」
低い声で、呟く司月。美味しさの欠片も感じないという顔で、彼の好物であるはずの中華丼をつついている。
「くる、って何が?」
「・・・明らかに無視されるのが痛い。言い方が悪かったんだ、切り離すような事を言うのは、タブーだって分かっていたのに」
嘆息しながら。恨みがましい目で自分を見ていた。
「だいたい惺が伊吹ちゃんをいきなり遠ざけるから悪い。あの時、あんな冷たく言い放つから」
あの時、と司月が示す物事は充分承知してはいる。
自分の言葉で伊吹を傷つけたのも、一人だと実感させたのも。
「・・・違うな、ごめん、八つ当たりだ」
非難される理由はあるのに、彼はそれを取り消して謝る。
そうやって本当に落ち込んでいる司月に申し訳なくなった。
「で、実際何があったのか、そろそろ聞かせてくれ」
金曜日の出来事を話すように促すと。
司月は一瞬、目を遠くに向けて、それから口を開いた。
「・・・そりゃ、・・・キツいな」
街中に置き去りにされた子供の事や、その後の伊吹とのやり取りを一通り話し終えて。
ぽつりと惺が呟いた。
「でも、伊吹がお前の言いたい事を理解してなかったのは完全にあいつが悪い。お前の言い方がどうこうとか、それは問題じゃないね」
口の端を上げて笑いながら、躊躇いもなく言い切る惺。
「だけど、泣かせたのは事実だ」
頭を下げて、それを上げたと思ったら。彼女の目に浮かんでいた涙。動揺して、確かめようとして。その瞬間にはもう伊吹は踵を返していた。まるで、泣き顔は見られたくないという様子で駆け出したその後姿が、とても儚くて。
「それはお前が気にする事じゃない。伊吹が勝手に思い込んで自己完結してるんだから」
何故、彼は妹を泣かせた男に腹を立てないのだろうか。
正直自分の愚かさに、吐きたくなる程嫌気がさしていた。こんな風に自身を呪いたくなったのは、惺の家で伊吹を驚かせ、同じように泣かせてしまった時以来で。
もし。
緋天を不要な言葉で傷つけて泣かせる男がいたら。
自分ならきっと、怒り心頭で相手に殺意を抱くのに。
蒼羽が。
緋天を泣かせたとぬけぬけと言ってきたら、即座に殴ると思うのに。
「・・・で? お前はさ、伊吹が無視するのが・・・キツいと思ってるんだよな?」
「あー、うん、そう・・・メールしても返事ないから・・・しつこいのもどうかと思って今止めてる」
「ふーん・・・つーか、お前さ」
妙に嬉しそうに惺が笑う。
「別にいいじゃん、どうでも。伊吹が無視するのは、何ていうか、お門違い、だろ?」
「・・・そうかな・・・」
自分の送ったメールに、確実にその答えや意見を入れて返してくる、伊吹のメール。それが日常から消えてしまい、体の内側に穴が開いたような、そんな感覚に陥っていた。伊吹から無視される、という事実が、自分の愚かさをこれでもかと掲げているようでもあり、そして、単純に寂しい。
「伊吹なんか放っとけって。もういいよ、相手してくれなくても。もっといい女、探せよ」
何でもない事のように、紡ぎ出される惺の言葉。
そんな事は到底。
「できない。・・・このまま放っとくなんて嫌だ」
口に出して、輪郭が見えた気がした。
休み中もずっと、引っかかっていたのはそれだ。
彼女を泣かせたまま、何もしないなんて。自分が許せない。
「それってさ・・・お前が責任感強いからそう思うだけだって。普通ならこんな面倒な女、放っとく」
「っ・・・面倒じゃないし。放っとけない」
惺の。
面倒な女、という物言いが。
嫌だった。それが伊吹の事を指すなら、その言葉は汚い、と思う。
「司月。お前、今どんな顔したか分かってる?」
心底おかしそうに。笑みを向けてくる惺。
「すっげ怖い顔してた。まぁ、それは置いとくけど。でさ、本当にもういいよ。お前、新しく彼女候補見つけろ」
「・・・それって、お役御免って事?」
彼は笑っているけれど、その言葉の真意は、妹を泣かせるような奴はもういらない、とそういう事ではないだろうか。ただ、それをはっきり言えば、同僚である自分と気まずくなるから、言葉を濁しているだけで。
「違うって。逆だよ逆。やっぱ重荷だろ、伊吹は」
惺が軽く言うそれは、彼女に対して、何度も否定したのに。
「思ってない。面倒でも重荷でも迷惑でもない。僕は一度もそんな事、思った事がない」
この兄妹は。自分に対して誤解がありすぎる。
本当にそんな事を思っていないのだから。素直に信じて欲しい。
「じゃあさ。何でまだ付き合ってくれるんだよ。ボランティアの範疇超えてる」
ボランティアだと、そう思った事もなかったのに。
「おれは、そのつもりで頼んだんだよ、最初。お前もそういうノリだったって分かってたよな?」
普通のデートのような事をすればいい。
惺が、自分に望んでいたのは、確かにそれだった。異性と付き合う事、その入り口を指し示せれば、それでいい。
それならば。もう充分かもしれない。
もう自分の役目は終わったのかもしれない。
「分かってた、けど・・・」
「普通に面白い、程度の女と。これ以上、デートの真似事するメリット、お前にある?」
妙にとげとげしく、発せられた前半部分。
そういえば、以前、今と同じような昼食時。惺と伊吹の勘違いを否定した時に。
伊吹の事を、面白い、と言った事を思い出した。
「・・・・・・性格悪いぞ」
「何言ってんだよ。普通に。面白いだけ。その女とコンタクト取るのか、お前は」
悦に入った表情で、上から見下ろすように。一字一句ゆっくりと発音する惺が憎かった。
「伊吹ちゃんは」
惺の左眉が上がる。
「可愛いし、気になる。泣かせたくない」
「・・・今はそれで良し、にしとくか」
ニヤリと得意げに笑う、惺の顔。
目を逸らす事だけはしたくなかったから、その意地の悪さを恨みながら睨んだ。
「・・・っこの、隠れシスコン馬鹿兄貴」
反撃を音に出して。
ようやく。金曜日から続いていた気分の悪さが、少し晴れた気がした。