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何故、こんな事が起きてしまうのだろうか。
暖房の効いた交番内、明るく灯された蛍光灯の下。よしと、と名乗る彼を包んだコートをそっと脱がせた当直の警官の顔が、ほんの少ししかめられた。それは一瞬の事で。中年に見える彼は、このようなケースに遭遇するのが初めてではないのか、すぐに表情を笑顔に戻した。小さなこの子供を驚かせないように、怯えさせないように、伊吹のコートの代わりに毛布でその体を包み込む。
彼を発見した経緯を伊吹が話し、その後の事を自分が話した。その横で、じっと話を聞いていた小さい彼に、なるべく聞かれないようにして。自分達に合わせて、要所で声を抑えて質問を交えながら。一通り聞き終えた警官は、体の温まった彼の体を確認する為にもコートを脱がせたのだ。
固く。両手を組み合わせて、それを握り続ける伊吹。
いくつかの色濃い痣が、彼の細い手足にあるのを。街中で彼にコートを着せた時に既に見ていたのだろう。声を出さず、じっとそれを見つめる彼女の横顔は、とても緊張していた。
この寒い中、夏の格好で我が子を放り出すなら。体罰という名の虐待に晒されていてもおかしくない。どこかでそう思っていたから、やはり、と心の中で呟いた自分も、声を出して彼に不信を覚えさせずに済んだ。
「ご協力ありがとうございました」
そう言われて外に出る。本来の持ち主に戻されたコートを着た彼女と。
伊吹や自分と離れる事にはさほど頓着しなかった彼に、ほっとしたような、どこか後ろ髪を引かれる気分。きっと伊吹も同じ事を感じている。だから後ろを振り返りながらゆっくりと足を動かしているのだ。
コートを戻された時点で、彼に関して知り得る情報は全て話し終えていたので、そのまま交番に留まる理由もない。そして警官の方にも、引き止める理由はなかった。彼の保護への礼と、いくつかの書類にサインと連絡先を記して、帰る事を促された。
「伊吹ちゃん」
ようやく前を見始めた彼女に声をかける。
彼の存在を知ってしまった事、それが痛い。
「伊吹ちゃん」
「あ、はい・・・」
泣きそうな表情でなくて良かった、と思う。
ぼんやりした顔で自分へ返事をする伊吹に、何とか笑って見せる。
「ご飯、食べに行こうか」
「はい・・・」
冷たい風は、首に捲いたマフラーの上を滑って通り抜けていった。
暖かい衣服、充分な親の庇護と愛情、外に出る時は常につないで導いてくれた手。
全部が自分に与えられていたものだったから。
その欠片も見えない彼を目にして。戸惑った、可哀想に、と思った。そう反応した自分が怖い。
「・・・今日はこのまま帰ろうか」
本当は。
近くで開催されている画家の個展を。2人で見に行く予定だった。
夕食をとってから、ゆっくり回ろうと。そう彼は言っていて。
「・・・でも」
今自分が座っているのは、美味しいと評判の店。実際、食べ終えたばかりの品はどれもが美味しかったはずだ。味わってはいるのだけれど、気分的に心からそれを楽しめるという訳ではない。だから、何となく美味しい、というだけ。
「そんな気分じゃないよね?」
顔を上げると苦笑を浮かべた司月が自分を見ていた。それに何も言えなくて。
「・・・それとも、忘れる為に騒ぎたい気分?」
せっかく誘ってくれたのに。あれだけ楽しみにしていたのに。
彼にとってもショックだったろうけれど。放心したまま何も話せなかった自分の態度は、そんな彼を戸惑わせ、気を遣わせて。失礼だったとようやく気付く。
「そうなら付き合うけど。違うよね?」
「・・・は、い・・・」
「じゃあ帰ろう」
「すみ、」
「謝ることじゃないよ。伊吹ちゃんの気持ちは分かっているつもりだから」
どうして彼はそうやって優しい笑顔を自分に向けられるのだろうか。謝罪の言葉を口にしようとして、それに重ねるように、やんわりした声で言われた、それ。行き場のない不透明な想いを、泣けばいいのか怒ればいいのか、解消方法が判らなくて。司月の声で、ふいに目に涙が浮かびそうになる。
立ち上がってコートを着る彼に倣って。
あの小さな体を一時間ほど前まで包んでいた自分のそれに袖を通した。
駅の構内に入って、彼が切符を買うその背中を見た。
普段の司月は車通勤なのだけれど、会社からこの駅に来るまで電車の方が速いから、車は置いてきたと言う。
伸びた背筋、何の気負いも見えないけれど、常に自信のない自分とは正反対の佇まい。週末の夜の、解放された人々でいっぱいのこの場所で。彼から滲み出る空気が、そこだけ清浄で、きれいに見える。
「お待たせ。ごめんね、路線違うのに」
「いえ。・・・あの」
微笑と一緒に、先を促す声が降ってくる。
今、ここで帰っでも。
どうせ眠れないのだろうから。
「やっぱり、あの、・・・もう一度交番行ってみます」
少しでも、彼がどうなるのか、知っておいた方がいい。
「えっと、なので、ここで失礼します」
小さく頭を下げて、別れを告げる。
ずっとぼんやりしていた事への謝罪も含めて。
「・・・やめた方がいいよ」
「え、・・・?」
頭を上げると、彼の固い声。どこか遠くを見ているような、知らない男性のような表情。
「今日もう一度、伊吹ちゃんが会うのは、あの子にとって良くない」
それでも、自分を見ているのは、やっぱり司月で。
言われた言葉、その意味が良く判らない。
「あの子の世話をするのは、警察と専門の施設の人の仕事。届け出るまでが僕らの仕事。これ以上、介入するのは良くないよ。伊吹ちゃんにとっても、あの子にとっても」
見下ろしてくる司月の目は、醒めきった、暖かさのないもの。
それを見た瞬間、頭の中が真っ白になって。後頭部の一点に熱が集まったような気がした。
「・・・な、んで・・・?」
怒りに似た感情が、足元から立ち上る。
何がいけないと言うのだろう。あんな小さな子供が置かれた環境、それを彼も見たはずなのに。気になって、もう一度戻る事の何が悪いと言うのか。
「お互いが辛いだけだから。伊吹ちゃんが今行っても何の解決にもならない」
「っっ、でも、っ、どうなったかくらい・・・!!」
淡々と紡がれる司月の低めの声。
解決だとか、そんな事の役に立つ自分だとは、始めから思っていない。
「うん。でも今日はもう一度顔を合わせてしまう可能性があるから。やめた方がいい」
司月ならば、自分を慰めた時のように。
小さな彼を同じように癒す事ができるかもしれない。
自分がそれをしようだなんて、思ってない。
だけど。せめて。顔を見るくらいは。
それすらも、愚考だというのだろうか。
「っ、司月さんには、わかんない・・・っ!!」
思わず吐き出した毒。
「うん。分からないね」
返された、実にあっさりとした言葉。
それが自分にとってどれだけショックだとか、彼は少しも歯牙にかけない。
「・・・帰ります。ありがとうございました」
俯いたまま、沈黙を破って型通りな挨拶をするのが精一杯だった。
顔を上げた惰性のまま踵を返して、改札を抜ける。そのままいつも使っている沿線のホームまで、一気に小走りで人混みをかいくぐる。
背中に。
伊吹ちゃん、と驚きの混じった司月の声が聞こえた気がしたけれど。
到底振り返る事ができず、初めて自分の意思で。
彼を、無視した。