7
定時を過ぎて、仕事を終える直前。
横の机の先輩から、嬉しそうな顔をしている、と言われた。
そんな言葉に恥ずかしくなりながらも、嬉しいという気持ちは否めない。
ゆっくりと身支度を整えてから、会社の外に出て待ち合わせ場所の駅まで行こうとしたら、手に持ったカバンの中で携帯電話が振動していた。取り出して表示を確かめると、司月からのメール。少し遅くなるかもしれないという事と、それに対しての謝罪。もともと、彼の指定した午後七時という時間にはかなりの余裕があったから、駅前のデパートをぶらつこうと思っていた。それを伝えると、終わったら連絡するからという返事。
急がなくていいと更に返事を送ってから、溜息が零れ落ちた。
それは決して憂鬱だとか、そんな気持ちからではなく。先日電話で話した時、彼がまたどこかへ行こうと誘ってくれて、その言葉通りにこうして連れ出してくれるという、現実に対しての浮かれたような気持ちから。
道の両脇の歩道は、仕事帰りのショッピングを楽しむ人々で賑やか。煌々と灯された明かりでいっぱいで、とっくに日は落ちているのに都会の常で視界の暗さに困る事はなかった。ただ寒さだけはどうする事もできず、暖かそうなマフラーをきっちりと捲いている人も多い。思わず自分も肩からずれかけたそれを引き上げる。
視線を肩先に向けて、目の端に映ったものに手が止まった。
行き交う車の走行音や店の音楽や、そういった喧騒の中で。耳に入る異質な音。
「・・・え・・・」
反射的に出てきた呟きは、何の変化も生まずに。ビルとビルの間の狭い路地、一歩奥まった場所で泣き声を上げる小さな子供、そこから目が離せなくなった。気がつけば足も完全に止まっている。
「え、あの、どうしたの!?」
彼の泣き声を、その姿を、捉えたのは自分だけではないだろうに。この真冬に、半袖のシャツと薄い綿生地の半ズボンを身につけているだけの子供が、こんな場所で一人で泣いている事自体、異様なのに。
「どうしたの? お母さんは?」
先程かけた声には反応せずに、泣き続ける彼にもう一度声をかける。触れた腕は、冷たくなっていた。
3,4歳なのだと思う。彼の周りには親らしき人物は見当たらない。お母さん、という言葉を出した途端に彼の体がびくりと怯えたように震えた。泣いてはいるのだけれど、必死で泣き止もうとしている感じがする。
「・・・っまってる、・・・ここでっ、まっ、てなさいっ、って・・・!」
しゃくり上げながら彼が口にした言葉は、理解の域を超えていた。
彼の言葉が理解できないのではない。それが本当だとしたら、尋常ではないから。こんな繁華街に、しかもビルの間の薄暗い路地に。小さな子供一人を、真冬に薄着で置いていくなど普通の人間のやる事ではないから。
「お、お母さんが言ったの? ここで待ってなさい、って」
確認する為に出した声は、少し震えてしまった。それに頷く彼を目にして、心臓が縮んだ。
「いつから・・・? ずっとここにいたの? お迎えに来るって言ってた?」
膝をついて、彼の両肩を掴む。やはりそこも冷たくて、マフラーを外した。自分の体温で少し暖かなそれを、彼の首に捲く。びっくりしたように目を見開いて、自分を見つめる双眸から涙が消えた。
「こんな所にいたら危ないよ・・・どこか暖かい所で待っていよう?」
一体、何が起こっているのだろう。彼の母親は、本当に子供を置いてどこかに用事を済ませに行っているのだろうか。そもそも薄着で歩かせている事自体がおかしくて。
「だめ!・・・ここでまってる・・・」
自分の提案に何度も首を横に振る彼。実際、どうしたらいいのか分からない。じわじわと押し寄せる不安と怒りを押さえつけて、彼の言う通り、あと少し、せめて半刻ほどは待ってみようと思い直した。
コートを脱いで彼の体を包み込む。ボタンを留める為に、目線を彼の膝の辺りにやった。くすんだ濃い色が、その細い足の上にのっていて。それが痣なのだと街の灯りで気付いて、更に心臓が縮む。口にするのは怖ろしくて、直接聞くことはできなかった。
会社を出て、華やかな街を歩き始めた頃に感じた寒さなんて、もうどうでも良かった。
目の前で、不安そうに行き交う人々を見回す彼の、母親であるはずの人間が。心配した顔で必死に駆けてきて、そして彼を抱きしめて謝って、服はどうしたの、と聞いてくれる事を祈る。
好奇の視線でじろじろと自分達を見ていく人、小さな子が大きなコートを着ている事に怪訝そうな顔をする人、ちらりと見て関係ないという顔で去っていく人。様々な人々が通り過ぎて行ったけれど、その誰もが、自分達に声をかけようとはしない。
彼の小さな手と繋がった右手の反対側、バッグを握り締めた左手に小さな振動が伝わった。かじかんだ手で振動を続ける携帯電話を取り出す。外のディスプレイには司月からの着信を知らせる表示。
「もしもし伊吹ちゃん? 今、駅に着いたんだけど・・・」
少し勢いのついた声でそう言った彼の言葉に、涙が出そうになった。
「あの、あの、司月さん、今、あの、なんか」
とにかく彼に現状を伝えたかった。もうどうすればいいか分からない、それが正直な気持ち。
右側にいる小さな男の子。彼の目は、自分が慌てた声を出した時点でこちらを向いていた。
「どうしたの? 落ち着いて。今どこかな?」
彼ならば、何か今よりもいい対処方法を考えてくれそうな気がした。ゆっくりと返ってきた司月の声に、とりあえず息を深く吐く。
「今、・・・駅よりも手前の、大通りで。さっきからずっと、小さい子と一緒にお母さんを待ってるんです。一人で路地にいたの。泣いてて。ずっと待ってたみたいで。でも来なくて。だから、あの、少しだけ一緒に待ってようと思ったんです」
「・・・。伊吹ちゃん、すぐそこに行くから場所を教えて。大通りのどこ? 動かないで。そこにいるんだよ」
ふわりと耳に届いた司月の声に、返事をして電話を切った。
「大丈夫。すぐに司月さんが来てくれるからね」
自分の不安を感じ取ってしまった小さな彼に、そう言って。
ようやくどこか落ち着いた気がした。
仕事を終えて、待ち合わせの駅に到着した。
時刻は7時15分。伊吹と約束した時間を過ぎている。彼女には先に遅れると連絡をしたら、寒いからどこか屋内に入って時間を潰すと言っていた。見当たらない伊吹の番号を呼び出して電話をかければ、泣き出してしまいそうな声で、理解しがたい事を伝えてきた。
通りを歩くのは、ほとんどが仕事帰りの大人で、こんな場所に子供を一人置いて行くというのは異常だと思う。伊吹が戸惑いながらも放っておけなくて、その場に留まってしまった気持ちは分かる。とにかく彼女の元へ行って、事実を確かめようという気持ちの方が大きく、急いで足を動かした。
「伊吹ちゃん!」
灯りの満ちた通りの、ビルの隙間。
しゃがみこんだ彼女と、その脇に立つ小さな子供。毛布を羽織っているように見えたそれは、伊吹のコートなのだと近付いて気付く。ぐるぐると捲かれた淡いピンクのマフラーも、おそらくは伊吹のもので。
「あの、どうすればいいか分かんなくて・・・すみません」
自分の呼びかけに立ち上がった彼女は、不安そうな顔で謝る。暖かそうなニットを着てはいるが、コートなしでこの場にどれぐらいの時間じっとしていたのだろう。思わず手を当てた肩は冷たかった。
「この子?」
「はい」
伊吹と自分の顔を交互に見上げる男の子の前にしゃがむ。
「名前は?」
「・・・よしと」
問いかける自分を見るのだが、彼の目は、答えながらも通りの人々をちらちらと見る。
「そっか。よしと君のお母さん、ここで待つように言ったの?」
「うん」
「それは・・・空がまだ青い時? それとも暗くなってから?」
「あおいとき」
それが普通の事なのだと疑いもしない、彼の返事。
隣で伊吹の息を呑む音が聞こえた。
「・・・ずっと動かないでここにいた?」
「うん」
信じたくない彼の言葉。けれども、これが本当だとしたら、少なくとも彼は三時間はここでじっと母親を待っているのだ。待つ事に耐え切れなくなって泣き声を上げ、伊吹に発見されるまで。
「・・・お母さん、迷っているかもしれないから、・・・僕達と一緒に交番に行こうか。お巡りさんがいる所だよ。分かるかな?」
お巡りさん、という言葉を出して、彼の顔に少し微笑が浮かんだのが見えた。どうやら自分達を信じてくれたようで、少し安心する。彼に言った、母親が迷っているという事は、限りなくゼロに近いという現実は到底口にできなくて。
「伊吹ちゃん、寒いからコート着て」
じっと自分と彼のやり取りを見守っていた彼女に声をかける。振り返って見た伊吹の顔は左右に振られていた。
「あ、このままでいいんです。よしと君、その下・・・すごい薄着、だから」
言葉を選ぶように躊躇いがちに発せられたそれに、何となく理由を悟った。きっと彼はこの真冬の空の下を歩くのに、満足な服を与えられずにいたのだ。悲しそうに眉を寄せる伊吹。それを見ていられなくなって、自分のコートを脱いだ。彼女の肩にかけてから、小さく佇む彼を抱き上げる。
「え、あの、駄目です、司月さんが寒いからっ」
「いいから。着てなさい。僕はこの子抱っこしていくから」
「でも、あのっ」
「今はそういう事で議論している時じゃないよ。このままだと三人とも風邪ひくし。早く行こう」
困った顔で自分を見上げてくる伊吹に袖を通すように促す。ここは絶対に譲れない。彼女が風邪をひけば、きっと常人よりも苦しいのだろうと、惺による話から想像はついていた。
そして、今一番気遣うべきなのは、この腕の中の子供であると、彼女自身が思っているだけに。伊吹は最後の言葉に素直に頷いて、駅前の交番の方角に足を進めてくれる。
風は相変わらず冷たく、けれど街は明るく。
周囲の人間の中、自分達だけが浮いた存在だった。