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「・・・あの」

「ん?」

 テーブルを挟んで、伊吹がちらりと自分を見て口を開く。

「あの、・・・ごはん、食べて下さい・・・」

「食べてるよ?」

「っ食べてないです!・・・何でこっち見るんですか?」

 赤く染めた頬で抗議してくる彼女は、スプーンを握りしめて恨めしそうにしていた。抑えられない笑みを漏らしてしまう。

「伊吹ちゃんの方が、進んでないように見えるけどね」

「っっ」

 時刻は、午後1時半。遅くなった昼食をとる為に入った店は、人気があるのか賑わっていた。空腹をある程度満たしてからは、伊吹の食事風景を見る方が楽しくなり、手の動きが少し遅くなっただけ。じっと見続ければ、当たり前の事だが彼女はこちらを気にして口を開いた。そして、今、目の前で赤くなっている。これを可愛いと思わずにいられる人間はいないと思う。

「・・・可愛いなぁと思って見てただけだよ。自分の彼女なんだから、存分に見てもいいんじゃない?」

「か、・・・!?」

 一瞬目をまるくして、あっという間に真っ赤になった伊吹。目線を皿の上に置いて、完全に俯いてしまう。

「ああもう・・・ごめん。ちょっと浮かれてるのかも。冷めるから食べよう。ね?」

「っ、・・・はい」


 好きだと口にして、それが随分心地良く自分の中に納まった。

 些細なことで、こんな風に頬を染める彼女が愛しくてたまらない。伊吹は一応自分を男として見てくれているようで、それを確認した今は。彼女が自分のものだという感覚、それを味わいたくて仕方なかった。

 細い指が持つスプーンが、小さな口へと運ばれる様子。今日知ったばかりの、触り心地の良い頬が紅潮したままである事。細い髪は重力に従って、俯いた彼女のその頬に落ちる。自分が持っていない繊細なそれに触れたいという衝動は、じわじわと足元から這い上がってくる。


「・・・この前、の」

 表面的には食事に集中、時折視線は盗むように彼女に向けて。お互い食べ終え、そして食後のお茶が運ばれてきたところで伊吹がこちらを見る。

「ビーズ、妹さんは喜んでくれました?」

「ああ、実はまだ届けてないんだ。誕生日に届くようになっているから」

 答えを返せば、小さく笑う伊吹。

「ふふ、すごく嬉しそうですね・・・司月さんがそれだけ大事にしてる緋天ちゃん、会ってみたいです」

 くすくすと笑うその姿は、今日見た表情の中で一番柔らかい。

 加えて言われた言葉は、自分を喜ばせるのに充分だった。

「・・・やきもち焼いてくれないんだ? 普通は私と妹とどっちが大事なの!? って怒るところだよね」

 意外な反応と、過去の経験から。そんな事を口にしてしまう。

 困ったように眉根を寄せる伊吹を見るのさえ楽しい。

「え・・・でも見てみたいな、って思ったんです」

「そう? じゃあ今度ドライブがてら実家の近くまで行こうか?」

 緋天も伊吹を好きになるに違いない。そんな感覚はとても間違っているとは思えなくて。家族に見せびらかしたいという思いも徐々に湧き上がる。

「えっと・・・じゃあ、緋天ちゃんが嫌でなかったら」

 可愛らしく頷いた彼女を目にして。

 ある事が脳裏に浮かんだ。

「まあ、その前に。今日やる事がもうひとつあるけどね。そっちを乗り越えてからかな」

 不思議そうに首を傾げた伊吹。

 そんな彼女に、笑みを浮かべてみせた。






 食事中から、正確に言えば海岸で一度目の口付けを落とされてから。

 司月はとてもご機嫌のようで、ふとした拍子に顔を上げれば、横を向けば。必ずと言っていいほど、彼の暖かく柔らかい視線が返ってきた。同時ににっこりとした笑みも。

 自分から欲しいと言ったものだったけれど、そう簡単に見せられても勿体ない気がする。というよりも、その度に跳ね上がる心臓が耐えられそうになかった。こんな風に始終鼓動を早めていれば、死んでしまうかもしれない。

 昼食を済ませて再び車に乗り込んだ時。今までにも幾度かあった会計時、払うと言っているのに毎回するりとかわされて、司月が支払いを済ませてしまっていた。だから、シートベルトを締めた時に礼を口にしたら、彼女になったのだからこれからは気にしない事、と微笑みながら言われた。

 納得できない自分に彼が口にしたのは。

「・・・そんなに気になるなら、これからは食事をする度にお代を貰おうかな」

 にこにこしながら言う彼に、ようやく分かってくれたと思い、こちらも笑みが浮かんだ瞬間。

「食後のデザート、伊吹ちゃんが払ってね」

「え・・・?」

 何故デザートだけなのかと問おうとした時には、間近にあった司月の笑顔。

「っっ!?」

 明らかにキスの音であると分かる、ちゅ、という軽い音を立てて。相変わらず微笑む彼の顔がすぐに離れていった。

「ご飯とかお茶する度、伊吹ちゃんからキス一回ね。今日は可哀想だから、僕からしたけど」

「・・・え!? っや!! 嫌です!! っ無理です!!」

 そんな事をしなければいけない位なら、食事代を、デート代を全て受け持つ。

 あまりの恥ずかしさに全力で抵抗の意を表した。

「・・・・・・そんなに嫌がらなくても・・・傷つくな」

「っ、ぅ、ごめんなさい・・・でも、そんなのできない・・・」

 司月から笑みが消えて、悲しそうな表情と沈んだ声を返された。途端に罪悪感が浮かんだけれど、誰かと付き合うという事自体が初めてなのに、そんな自分には到底できそうもなかったから。正直に口にしてしまった。

「ふーん・・・自分の彼氏にするキスが、そんなの、になるんだ・・・そっか」

「あっ、そうじゃなくてっ、っなんか違くて!」

 殊の外。悲壮な表情を見せる彼に、必死で自分の言い分を理解してもらおうと声を上げる。ぐるぐると混乱し始めた頭に、くすり、と小さな笑い声が聞こえてきた。

「分かってるよ。恥ずかしいんでしょ?」

「~~~っっ、・・・はい・・・」

「うーん、じゃあ今のところは伊吹ちゃんからしなくてもよろしい」

「はい、ありがとうございます。・・・って、え?」

 何かおかしな事でもあるのかと、自信満々に自分を見返してくる司月。

 けれどそれがすぐに崩れて、口元は笑みの形に変わる。

「っあの、あたしが自分の分を払えばいい事ですよ、ね?」

「ダメ。却下。僕は当分伊吹ちゃんを甘やかす事に決めてるから」

 そもそもの論点は何だったろうかと、きっぱりと言い切る司月を見て分からなくなりかけた。

「伊吹ちゃんが手放しで甘えてくれるようになったら、この件は見直してもいいよ。でもそれまではダメ。それに伊吹ちゃんが心苦しいって言うなら、奢るお礼にデザート貰う。でも伊吹ちゃんからキスできないなら、僕が好きにする。はい、万事丸く収まったね。決定決定」

 すらすらと彼の言動の理由らしきものを述べてから、ハンドルを握って駐車スペースからゆっくりと発車させる、その横顔を。

 間抜けな顔をしているのだろうけれど、呆気に取られて見ていると。


「・・・デザートはひとつ、とは限りません」


 往来の激しい道路へと出るタイミングを待つ為に、駐車場の端で一旦停車した司月が、ちらりとこちらを見下ろした。

 もしかして、と顔を正面へ戻そうとする前に落とされたのは。

 やってる事はどこか外れている気がするのに、無条件に正しいと信じてしまいそうな優しい笑みと。

 これで四度目の、柔らかな司月の唇。

 その、逆らう意思が完全に殺がれてしまう、二つ。それだった。





「・・・ご両親は甘いもの好きかな?」

「あ、はい」

 家が見えた、そんな時に発せられた司月の声。

 反射的に答えてから、途中で彼が一緒に選んで欲しいとケーキ屋の前で車を停め、2種類のケーキを3つずつ購入したのを思い出した。来客でも来るのだろうかと然程気にも留めずに、言われるままにショーケースの中から自分が食べたいものを選んだのだ。

「良かった。じゃあ行こうか」

 選んだそれらは、我が家へのものなのかと半ば確信しながら司月を仰ぐと。手早く家の前に車を停めた彼が、そんな言葉と共に自分を降りるように促す。

「え!? あの、司月さん!?」

「挨拶したい。留守じゃないよね? 車あるし」

 暖かな車内から外へ出た寒さを感じる暇もなく、彼の行動にひたすら焦る自分がいた。

 父の車が確かに駐車スペースに。その横には母の自転車までもが、仲良く鎮座していた。その上の、階段を上った先にある庭からは。おそらく父が植木を剪定しているのであろう、シャキシャキというリズミカルな音。

「伊吹ちゃん、さすがに僕だけが家に行くとおかしいでしょ? 本人がいないと説明するものもできないから、覚悟を決めてほしいなぁ」

 いきなり両親を紹介するものなのか。

 そもそも彼は何故一言も自分に相談なく、親に挨拶をと考えるのか。

 頭をよぎったそんな事以前に何よりも。親の手前で今日出来たばかりの彼氏というものを紹介する、その事実は自分にとって耐え難く恥ずかしい、そして何とも言えない気まずさがあった。

「ほら、行くよ。それとも手、つないで引っ張ってほしい?」

「っ、遠慮します!!」


 司月は笑顔でどこかめちゃくちゃだ、と今すぐ兄に電話して叫びたくなった。

 階段を駆け上がって、家の玄関に走って、それを開いて。後ろ手に扉を閉めた。


「お母さん!・・・なんか、なんか・・・大変な事になった!!」

 司月を置き去りにした事に気付いたのは、どうすればいいのだ、と母に助けを求めて大声を出した、その後。



「・・・伊吹、お客さんを放り出すのは行儀が悪いよ」

「いえ、僕が混乱させてしまったので・・・すみません、いきなりお邪魔して」

 半泣きになっていたところに母が玄関まで飛んできて、どうしたのだと問いかけてきて。そして、来客があるとだけ告げて母を外へ連れ出し、目に入ったのは、刃の長い剪定バサミを手にしたままの父が、司月の横で自分を嗜める顔。それはどこか困惑もしていて。

「あら・・・えっと・・・」

「はじめまして。河野司月といいます」

 名刺を取り出した彼が、丁寧な仕草で母にそれを渡す。

 取り乱した自分を見て何事かと青くなりかけていた母を、司月は笑顔をもって一瞬で和ませる。目線を動かせば、父の手にも同じ名刺。

「惺と同じ会社・・・あ、」

 受け取った名刺に目を通した母が呟いて、口を抑える。それに彼がまたしてもにこやかに口を開いた。

「はい、同期入社なので、惺君とは仲良くさせてもらっています」

「惺がいつもお世話になってます・・・あの、惺が何か」

 何も言わない父は、今日の用件をもう聞いているのだろうか。

 兄と同じ会社だと気付いた母を、驚きもせずに見ていたからそうなのだと思う。


「今日は、会社や惺君とは別の事でご挨拶に上がりました」

「別・・・?」

 頬に血が上っていくのを、もう放っておくことしかできなかった。

 司月の目が、自分を見てその目を柔らかくして笑う。

「伊吹さんの事で。今日からお付き合いさせて頂く事になったので、ご両親にご挨拶を」

 つまらないものですが、と流れるようにケーキの箱を差し出す司月を。

 まじまじと、穴が開きそうなくらい見つめながら母がそれを受け取る。

「伊吹、・・・お付き合いというのは本当に?」

 父の驚きを隠さないその声に、頷く。

 何とかそれだけで、肯定の意を表す。もう何も聞かないで欲しいというのが本音。

 今すぐ自分の部屋に駆け込みたかった。

「・・・失礼ですが・・・伊吹の、この子の、その、」

 躊躇いながら切り出した父の言葉の、その意図。

 自分がまだ彼に言っていないかもしれない、言っているかもしれないと。迷って曖昧に出したその問い。

「ええ、耳のことなら聞いています。喘息だったことも」

 さらりと答えた司月に、両親揃って息を呑んだのが分かった。自分に向けられる3つの視線も、うつむいていながら充分分かる。

「・・・それを。左耳の事を付き合わないという理由にする気はありません。迷惑だとも厄介だとも、全く思っていませんから」

 乾いた空気の中で、はっきりと聞こえたその言葉に、体の芯に熱が灯る。

「一緒にいる時に危険がないよう、僕が気をつければいい事ですから。頼りないと仰るなら、それはお聞きします」

 ですから、と。

 1月も終わりに近づいてきたこの空の下で、冷たい風なんてどこにもない、そんな風にすら錯覚させるような声が。

 自分と、父と母を。

 ゆっくりと包み込む。

「僕を伊吹さんの恋人として認識して下さい」


 ふ、と。

 沈黙を破ったのは父の、その小さな笑い声。

 くすくす、と。

 それにつられたように笑い出す母の声も、耳に届いた。

「ごめんなさい・・・おかしくて・・・あ、悪い意味じゃなくて」

「・・・君は・・・面白いね。惺が言う通りだ」

 いきなり笑い出した両親に、戸惑った顔の司月と目線が合う。

「・・・惺と初めて会った時の事を覚えているかな。どこからどう見ても就職活動に対してやる気のなかった惺が、ある日、帰ってきた途端に嬉しそうに話すんだ。面白い奴がいたから、ある会社に就職する、って言って。その時は何を言い出しているのかと思ったが、本当にその会社に就職したからびっくりした」

 夏休み中だったと思う。

 兄がとても楽しそうに、その日の出来事を話していたのは。

「すぐ辞めるんじゃないかと思ったんだけどね、意外にも一生懸命なようだし。惺が話す会社の話の半分は君の事だと思うよ」


「親としては・・・兄妹そろって宜しくと言いたいくらいだよ。両方とも迷惑をかけるだろうけどね、特に惺は」

「・・・あ、いえ、そんなことは」

「あの子、うるさいでしょう? 落ち着きがないのよ」

「えーと・・・」

「遠慮しないでいいのよ。だって本当にバカなんだもの」

 本来の調子を取り戻した母が、笑いながら司月に口を開いていて。

「伊吹ちゃんも、やっぱりちょっと抜けてるのよね。すぐパニックになるの」

 忘れかけていた熱が、あっという間に頬に戻る。

「勿体ない気がするわ・・・うちの子達には」

「あの・・・」

「棚からぼた餅ね」

「濡れ手に粟、とも言うな」

 好き放題言う両親の前で、呆気に取られていた司月がふいに笑みをこぼす。

「では・・・お許しを頂けますか?」

「もちろん。わざわざこうして挨拶に来てくれるなんて、うちのバカに爪の垢を飲ませたいよ」

「大事なお嬢さんだと思ったんです。耳の事を言うのに・・・伊吹さんはとても辛そうだったので。ご両親もそれを気にしていらっしゃるのが、容易に想像できましたから」





「・・・じゃあ、こんな子だけど宜しくお願いします」

「また遊びに来て下さいね」

 家に上がるように勧める父に、突然来たから、と辞退する彼を。

 満面笑みを浮かべた両親は、ご機嫌な様子で見送ろうとする。

 それを一歩引いて、火照った頬を持て余しながら眺めるしかなかった。言葉を交わす彼らの後ろでそんな不審な行動を取る自分は、こんな子、と父に揶揄されても仕方ない。

 大事なお嬢さん。

 そう司月が言った時、彼が何故、自分に何も言わずに両親に挨拶をしにきたか、何となく分かった気がした。

 耳を理由に自分があまりにも卑屈になっていたから。そんな自分を人一倍両親が心配しているのだと、彼は思ったのだろう。気遣ってくれた司月に申し訳なくて、恥ずかしくて。きちんとその顔が見れない。


「じゃあそろそろ失礼します。・・・伊吹ちゃん」

 階段の下から。

 もたもたと半ばまで降りた自分を、司月が見上げていた。


「またね。夜に電話するよ」


 まっすぐに向けられた目と。

 にっこりと。音がしそうな程に柔らかな笑みは。


 自分だけの。

 自分だけに与えられた、自分で欲しいと言った、それ。

 確かに、司月の笑顔。

 そのもの、だった。


 End.

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