14
「・・・あの」
「ん?」
テーブルを挟んで、伊吹がちらりと自分を見て口を開く。
「あの、・・・ごはん、食べて下さい・・・」
「食べてるよ?」
「っ食べてないです!・・・何でこっち見るんですか?」
赤く染めた頬で抗議してくる彼女は、スプーンを握りしめて恨めしそうにしていた。抑えられない笑みを漏らしてしまう。
「伊吹ちゃんの方が、進んでないように見えるけどね」
「っっ」
時刻は、午後1時半。遅くなった昼食をとる為に入った店は、人気があるのか賑わっていた。空腹をある程度満たしてからは、伊吹の食事風景を見る方が楽しくなり、手の動きが少し遅くなっただけ。じっと見続ければ、当たり前の事だが彼女はこちらを気にして口を開いた。そして、今、目の前で赤くなっている。これを可愛いと思わずにいられる人間はいないと思う。
「・・・可愛いなぁと思って見てただけだよ。自分の彼女なんだから、存分に見てもいいんじゃない?」
「か、・・・!?」
一瞬目をまるくして、あっという間に真っ赤になった伊吹。目線を皿の上に置いて、完全に俯いてしまう。
「ああもう・・・ごめん。ちょっと浮かれてるのかも。冷めるから食べよう。ね?」
「っ、・・・はい」
好きだと口にして、それが随分心地良く自分の中に納まった。
些細なことで、こんな風に頬を染める彼女が愛しくてたまらない。伊吹は一応自分を男として見てくれているようで、それを確認した今は。彼女が自分のものだという感覚、それを味わいたくて仕方なかった。
細い指が持つスプーンが、小さな口へと運ばれる様子。今日知ったばかりの、触り心地の良い頬が紅潮したままである事。細い髪は重力に従って、俯いた彼女のその頬に落ちる。自分が持っていない繊細なそれに触れたいという衝動は、じわじわと足元から這い上がってくる。
「・・・この前、の」
表面的には食事に集中、時折視線は盗むように彼女に向けて。お互い食べ終え、そして食後のお茶が運ばれてきたところで伊吹がこちらを見る。
「ビーズ、妹さんは喜んでくれました?」
「ああ、実はまだ届けてないんだ。誕生日に届くようになっているから」
答えを返せば、小さく笑う伊吹。
「ふふ、すごく嬉しそうですね・・・司月さんがそれだけ大事にしてる緋天ちゃん、会ってみたいです」
くすくすと笑うその姿は、今日見た表情の中で一番柔らかい。
加えて言われた言葉は、自分を喜ばせるのに充分だった。
「・・・やきもち焼いてくれないんだ? 普通は私と妹とどっちが大事なの!? って怒るところだよね」
意外な反応と、過去の経験から。そんな事を口にしてしまう。
困ったように眉根を寄せる伊吹を見るのさえ楽しい。
「え・・・でも見てみたいな、って思ったんです」
「そう? じゃあ今度ドライブがてら実家の近くまで行こうか?」
緋天も伊吹を好きになるに違いない。そんな感覚はとても間違っているとは思えなくて。家族に見せびらかしたいという思いも徐々に湧き上がる。
「えっと・・・じゃあ、緋天ちゃんが嫌でなかったら」
可愛らしく頷いた彼女を目にして。
ある事が脳裏に浮かんだ。
「まあ、その前に。今日やる事がもうひとつあるけどね。そっちを乗り越えてからかな」
不思議そうに首を傾げた伊吹。
そんな彼女に、笑みを浮かべてみせた。
食事中から、正確に言えば海岸で一度目の口付けを落とされてから。
司月はとてもご機嫌のようで、ふとした拍子に顔を上げれば、横を向けば。必ずと言っていいほど、彼の暖かく柔らかい視線が返ってきた。同時ににっこりとした笑みも。
自分から欲しいと言ったものだったけれど、そう簡単に見せられても勿体ない気がする。というよりも、その度に跳ね上がる心臓が耐えられそうになかった。こんな風に始終鼓動を早めていれば、死んでしまうかもしれない。
昼食を済ませて再び車に乗り込んだ時。今までにも幾度かあった会計時、払うと言っているのに毎回するりとかわされて、司月が支払いを済ませてしまっていた。だから、シートベルトを締めた時に礼を口にしたら、彼女になったのだからこれからは気にしない事、と微笑みながら言われた。
納得できない自分に彼が口にしたのは。
「・・・そんなに気になるなら、これからは食事をする度にお代を貰おうかな」
にこにこしながら言う彼に、ようやく分かってくれたと思い、こちらも笑みが浮かんだ瞬間。
「食後のデザート、伊吹ちゃんが払ってね」
「え・・・?」
何故デザートだけなのかと問おうとした時には、間近にあった司月の笑顔。
「っっ!?」
明らかにキスの音であると分かる、ちゅ、という軽い音を立てて。相変わらず微笑む彼の顔がすぐに離れていった。
「ご飯とかお茶する度、伊吹ちゃんからキス一回ね。今日は可哀想だから、僕からしたけど」
「・・・え!? っや!! 嫌です!! っ無理です!!」
そんな事をしなければいけない位なら、食事代を、デート代を全て受け持つ。
あまりの恥ずかしさに全力で抵抗の意を表した。
「・・・・・・そんなに嫌がらなくても・・・傷つくな」
「っ、ぅ、ごめんなさい・・・でも、そんなのできない・・・」
司月から笑みが消えて、悲しそうな表情と沈んだ声を返された。途端に罪悪感が浮かんだけれど、誰かと付き合うという事自体が初めてなのに、そんな自分には到底できそうもなかったから。正直に口にしてしまった。
「ふーん・・・自分の彼氏にするキスが、そんなの、になるんだ・・・そっか」
「あっ、そうじゃなくてっ、っなんか違くて!」
殊の外。悲壮な表情を見せる彼に、必死で自分の言い分を理解してもらおうと声を上げる。ぐるぐると混乱し始めた頭に、くすり、と小さな笑い声が聞こえてきた。
「分かってるよ。恥ずかしいんでしょ?」
「~~~っっ、・・・はい・・・」
「うーん、じゃあ今のところは伊吹ちゃんからしなくてもよろしい」
「はい、ありがとうございます。・・・って、え?」
何かおかしな事でもあるのかと、自信満々に自分を見返してくる司月。
けれどそれがすぐに崩れて、口元は笑みの形に変わる。
「っあの、あたしが自分の分を払えばいい事ですよ、ね?」
「ダメ。却下。僕は当分伊吹ちゃんを甘やかす事に決めてるから」
そもそもの論点は何だったろうかと、きっぱりと言い切る司月を見て分からなくなりかけた。
「伊吹ちゃんが手放しで甘えてくれるようになったら、この件は見直してもいいよ。でもそれまではダメ。それに伊吹ちゃんが心苦しいって言うなら、奢るお礼にデザート貰う。でも伊吹ちゃんからキスできないなら、僕が好きにする。はい、万事丸く収まったね。決定決定」
すらすらと彼の言動の理由らしきものを述べてから、ハンドルを握って駐車スペースからゆっくりと発車させる、その横顔を。
間抜けな顔をしているのだろうけれど、呆気に取られて見ていると。
「・・・デザートはひとつ、とは限りません」
往来の激しい道路へと出るタイミングを待つ為に、駐車場の端で一旦停車した司月が、ちらりとこちらを見下ろした。
もしかして、と顔を正面へ戻そうとする前に落とされたのは。
やってる事はどこか外れている気がするのに、無条件に正しいと信じてしまいそうな優しい笑みと。
これで四度目の、柔らかな司月の唇。
その、逆らう意思が完全に殺がれてしまう、二つ。それだった。
「・・・ご両親は甘いもの好きかな?」
「あ、はい」
家が見えた、そんな時に発せられた司月の声。
反射的に答えてから、途中で彼が一緒に選んで欲しいとケーキ屋の前で車を停め、2種類のケーキを3つずつ購入したのを思い出した。来客でも来るのだろうかと然程気にも留めずに、言われるままにショーケースの中から自分が食べたいものを選んだのだ。
「良かった。じゃあ行こうか」
選んだそれらは、我が家へのものなのかと半ば確信しながら司月を仰ぐと。手早く家の前に車を停めた彼が、そんな言葉と共に自分を降りるように促す。
「え!? あの、司月さん!?」
「挨拶したい。留守じゃないよね? 車あるし」
暖かな車内から外へ出た寒さを感じる暇もなく、彼の行動にひたすら焦る自分がいた。
父の車が確かに駐車スペースに。その横には母の自転車までもが、仲良く鎮座していた。その上の、階段を上った先にある庭からは。おそらく父が植木を剪定しているのであろう、シャキシャキというリズミカルな音。
「伊吹ちゃん、さすがに僕だけが家に行くとおかしいでしょ? 本人がいないと説明するものもできないから、覚悟を決めてほしいなぁ」
いきなり両親を紹介するものなのか。
そもそも彼は何故一言も自分に相談なく、親に挨拶をと考えるのか。
頭をよぎったそんな事以前に何よりも。親の手前で今日出来たばかりの彼氏というものを紹介する、その事実は自分にとって耐え難く恥ずかしい、そして何とも言えない気まずさがあった。
「ほら、行くよ。それとも手、つないで引っ張ってほしい?」
「っ、遠慮します!!」
司月は笑顔でどこかめちゃくちゃだ、と今すぐ兄に電話して叫びたくなった。
階段を駆け上がって、家の玄関に走って、それを開いて。後ろ手に扉を閉めた。
「お母さん!・・・なんか、なんか・・・大変な事になった!!」
司月を置き去りにした事に気付いたのは、どうすればいいのだ、と母に助けを求めて大声を出した、その後。
「・・・伊吹、お客さんを放り出すのは行儀が悪いよ」
「いえ、僕が混乱させてしまったので・・・すみません、いきなりお邪魔して」
半泣きになっていたところに母が玄関まで飛んできて、どうしたのだと問いかけてきて。そして、来客があるとだけ告げて母を外へ連れ出し、目に入ったのは、刃の長い剪定バサミを手にしたままの父が、司月の横で自分を嗜める顔。それはどこか困惑もしていて。
「あら・・・えっと・・・」
「はじめまして。河野司月といいます」
名刺を取り出した彼が、丁寧な仕草で母にそれを渡す。
取り乱した自分を見て何事かと青くなりかけていた母を、司月は笑顔をもって一瞬で和ませる。目線を動かせば、父の手にも同じ名刺。
「惺と同じ会社・・・あ、」
受け取った名刺に目を通した母が呟いて、口を抑える。それに彼がまたしてもにこやかに口を開いた。
「はい、同期入社なので、惺君とは仲良くさせてもらっています」
「惺がいつもお世話になってます・・・あの、惺が何か」
何も言わない父は、今日の用件をもう聞いているのだろうか。
兄と同じ会社だと気付いた母を、驚きもせずに見ていたからそうなのだと思う。
「今日は、会社や惺君とは別の事でご挨拶に上がりました」
「別・・・?」
頬に血が上っていくのを、もう放っておくことしかできなかった。
司月の目が、自分を見てその目を柔らかくして笑う。
「伊吹さんの事で。今日からお付き合いさせて頂く事になったので、ご両親にご挨拶を」
つまらないものですが、と流れるようにケーキの箱を差し出す司月を。
まじまじと、穴が開きそうなくらい見つめながら母がそれを受け取る。
「伊吹、・・・お付き合いというのは本当に?」
父の驚きを隠さないその声に、頷く。
何とかそれだけで、肯定の意を表す。もう何も聞かないで欲しいというのが本音。
今すぐ自分の部屋に駆け込みたかった。
「・・・失礼ですが・・・伊吹の、この子の、その、」
躊躇いながら切り出した父の言葉の、その意図。
自分がまだ彼に言っていないかもしれない、言っているかもしれないと。迷って曖昧に出したその問い。
「ええ、耳のことなら聞いています。喘息だったことも」
さらりと答えた司月に、両親揃って息を呑んだのが分かった。自分に向けられる3つの視線も、うつむいていながら充分分かる。
「・・・それを。左耳の事を付き合わないという理由にする気はありません。迷惑だとも厄介だとも、全く思っていませんから」
乾いた空気の中で、はっきりと聞こえたその言葉に、体の芯に熱が灯る。
「一緒にいる時に危険がないよう、僕が気をつければいい事ですから。頼りないと仰るなら、それはお聞きします」
ですから、と。
1月も終わりに近づいてきたこの空の下で、冷たい風なんてどこにもない、そんな風にすら錯覚させるような声が。
自分と、父と母を。
ゆっくりと包み込む。
「僕を伊吹さんの恋人として認識して下さい」
ふ、と。
沈黙を破ったのは父の、その小さな笑い声。
くすくす、と。
それにつられたように笑い出す母の声も、耳に届いた。
「ごめんなさい・・・おかしくて・・・あ、悪い意味じゃなくて」
「・・・君は・・・面白いね。惺が言う通りだ」
いきなり笑い出した両親に、戸惑った顔の司月と目線が合う。
「・・・惺と初めて会った時の事を覚えているかな。どこからどう見ても就職活動に対してやる気のなかった惺が、ある日、帰ってきた途端に嬉しそうに話すんだ。面白い奴がいたから、ある会社に就職する、って言って。その時は何を言い出しているのかと思ったが、本当にその会社に就職したからびっくりした」
夏休み中だったと思う。
兄がとても楽しそうに、その日の出来事を話していたのは。
「すぐ辞めるんじゃないかと思ったんだけどね、意外にも一生懸命なようだし。惺が話す会社の話の半分は君の事だと思うよ」
「親としては・・・兄妹そろって宜しくと言いたいくらいだよ。両方とも迷惑をかけるだろうけどね、特に惺は」
「・・・あ、いえ、そんなことは」
「あの子、うるさいでしょう? 落ち着きがないのよ」
「えーと・・・」
「遠慮しないでいいのよ。だって本当にバカなんだもの」
本来の調子を取り戻した母が、笑いながら司月に口を開いていて。
「伊吹ちゃんも、やっぱりちょっと抜けてるのよね。すぐパニックになるの」
忘れかけていた熱が、あっという間に頬に戻る。
「勿体ない気がするわ・・・うちの子達には」
「あの・・・」
「棚からぼた餅ね」
「濡れ手に粟、とも言うな」
好き放題言う両親の前で、呆気に取られていた司月がふいに笑みをこぼす。
「では・・・お許しを頂けますか?」
「もちろん。わざわざこうして挨拶に来てくれるなんて、うちのバカに爪の垢を飲ませたいよ」
「大事なお嬢さんだと思ったんです。耳の事を言うのに・・・伊吹さんはとても辛そうだったので。ご両親もそれを気にしていらっしゃるのが、容易に想像できましたから」
「・・・じゃあ、こんな子だけど宜しくお願いします」
「また遊びに来て下さいね」
家に上がるように勧める父に、突然来たから、と辞退する彼を。
満面笑みを浮かべた両親は、ご機嫌な様子で見送ろうとする。
それを一歩引いて、火照った頬を持て余しながら眺めるしかなかった。言葉を交わす彼らの後ろでそんな不審な行動を取る自分は、こんな子、と父に揶揄されても仕方ない。
大事なお嬢さん。
そう司月が言った時、彼が何故、自分に何も言わずに両親に挨拶をしにきたか、何となく分かった気がした。
耳を理由に自分があまりにも卑屈になっていたから。そんな自分を人一倍両親が心配しているのだと、彼は思ったのだろう。気遣ってくれた司月に申し訳なくて、恥ずかしくて。きちんとその顔が見れない。
「じゃあそろそろ失礼します。・・・伊吹ちゃん」
階段の下から。
もたもたと半ばまで降りた自分を、司月が見上げていた。
「またね。夜に電話するよ」
まっすぐに向けられた目と。
にっこりと。音がしそうな程に柔らかな笑みは。
自分だけの。
自分だけに与えられた、自分で欲しいと言った、それ。
確かに、司月の笑顔。
そのもの、だった。
End.




