13
司月のターン!
年明けに、彼女を二回目の映画に誘い、そして緋天のプレゼントを選んで欲しいと連れ出したクラフト店の中。
何度呼びかけても、彼女が自分に気付かずにいた、その理由。
あれは、左側から声をかけていたから。
そして、気付いた彼女が青ざめて必死に謝り、わざわざ自分の左側に移動してきたのも。
全てはそれが原因だったのだと、ようやく理解した。
思えば。年末に街中で忘年会帰りの彼女に再会した、あの時も。
後ろから来た自転車は、彼女の左側だった。
気付かずにいたのは、それも聞こえない耳が原因なのだ。
迷惑だと、彼女が言うそれは、こんな些細な事だ。
伊吹と一緒にいる時は、それらに気をつければいいだけ。それだけだから。
「・・・伊吹ちゃん」
「面倒だから、・・・一緒にいたら、普通の人といるよりも面倒だから」
「伊吹ちゃん」
目を逸らした彼女は、涙を零し続けた。
「伊吹ちゃん。それを理由に好きな事をやめられる程、僕は馬鹿じゃない」
流れる涙を、再び拭う。
「だから伊吹ちゃんには、それを断る理由にして欲しくもない」
告げられた真実は、確かに自分を驚かせはしたが。
それで振られるなんて、そんな結末は望んでいないから。
「・・・僕の事をどう思うのか、伊吹ちゃんの考えを教えて。耳の事は、置いといて欲しい。惺達と同じ理由で、僕はそれを気にしない」
こんなに必死に相手に縋りついたのは、伊吹が初めてかもしれない。
高鳴る鼓動が、彼女に届いているかもしれない。
「・・・・・・っわか、分かんない・・・っ」
目を逸らしても、涙を流しても。
嫌な顔ひとつせずに、じっと見つめてくる司月の目は、暖かい茶色。
そこから発せられる熱のようなものが、自分の体に何かを灯す。
「好きか嫌いか、分からないってこと?」
彼が口に出した、言葉の全て。告白めいた、その言葉が。
人に見せたくなかった不安の塊を、熔かして、包み込んでいくから。
混乱して、何を言えばいいか思いつかず。
返した答えは、それでも彼の理解を得て、そして新しい問いを与えられる。
少しだけ、眉根の寄った表情を見せて。
彼がふわりと笑う。
「伊吹ちゃん」
極上の甘い甘い砂糖菓子を、舌の上で転がすように。
司月の声が自分を呼んだ。
まっすぐ下ろされる視線は、相変わらず自分を捕らえて。
微笑する口元は、またしても開く。
「・・・好きだよ」
「・・・・・・って、僕が言っても、少しも嬉しくない?」
瞬時に沸騰した頭を、下に向ける事は許されなかった。
とても近くで、彼の目が自分を覗き込む。
「どきどきするとか、そういうの、全くない?」
煩く鳴り続ける心臓の音は、彼に聞こえていないらしかった。
にっこりと笑って、甘い声で囁いてくる司月に、これ程までに過剰に反応しているのに。
「・・・少しも脈がないなら、諦めるよ。もう会わない」
どくん、と。
跳ねた心臓が、痛かった。
返事をしない自分に、見切りをつけた司月。
二度と彼から暖かい視線がもらえないのは。会えなくなるのは。
「・・・ゃ、・・・だめ!!」
「・・・それは、諦めないで、ってこと?」
思わず出した声は、自分でも驚くほどに悲痛な色を纏っていた。
言った途端に、司月の目が優しくなる。
頷いた。
それしか、自分の気持ちを表す方法が思いつかなかった。
欲しかった笑みが、再び彼のその口元に戻る。
「僕の事、恋愛対象として見てくれている? 今更友達とか言われたら、立ち直れないんだけど」
「伊吹ちゃん」
細められた目が、返事を促していた。
彼ほどに、優しく自分の名前を紡いでくれる人は、もう一生現れない気がする。
「伊吹ちゃん。確信の持てる言葉が、直接欲しい」
耳の事を、家族以外の他人に、自分から話したのは。
司月が初めて。
自分の事を好きだというのは、一時的なものかもしれないから。
これを聞けば諦めるだろう、と。
そう思って言ったつもりだった。
だけど、本当は。
「・・・司月さん、に。ずっと笑ってて欲しくて」
自分に、暖かく笑いかけて欲しかった。
その空間を味わっていたかった。
それが例え、今だけのものでも。
それは、ずっと自分が望んでいた居心地のいい空間だったから。
「寂しいのとか、不安に思ってること、とか・・・そういうの全部、消してくれる気がしてたから」
今、目を逸らしたら。
この先ずっと。
誰からも目を逸らし続けてしまう。
「・・・だから、耳のこと、言ったら・・・司月さんは、いなくなっちゃう、って」
「そういうの、しないって言ったばかりなのに、信じてくれない?」
返した目線を、優しく受け止めてくれた彼の。
口元が、また微笑とともに開かれる。
「僕は伊吹ちゃんをちゃんと見てるよ。ずっとね。伊吹ちゃんが望んでくれるなら」
笑顔で、癒されたと思った。
去年の、あの満月の日から。
「・・・っあの」
「うん」
きっと。どこかで望んでいたのかもしれない。
「・・・ください」
思っていることを。
口に出さなければ伝わらない、と。
思い込んだだけで、終わってしまうと。
先程、学んだばかり。
「・・・司月さんの笑顔、ずっと下さい。司月さんのだけ欲しい、です」
「喜んで」
彼だけに選んだ言葉は、伝わったらしい。
少し目を丸くして、驚いた後に。
今までに見た中で一番。
嬉しそうで、少し恥ずかしそうな。
そんな笑みが浮かぶ。
「・・・そんなに真っ赤になられると、ちょっと手を出し難いんだけど」
ふ、と視界いっぱいに覆う影が、彼自身だと気付いた時には。
柔らかな感触が、唇に触れていた。
「・・・恋人だから、これは当然の権利なんだよ?」
離れた双眸が、斜めに自分を見下ろしてくる。
頬にあった手は、首の後ろを支えていて。
あまりの恥ずかしさに、火を噴出しそうだった。
「・・・は、・・・っ初めてなのに!」
「うん。予想はついてた」
必死の抗議は、くすりと笑って済まされた。
「嫌だった?」
「っっ!!・・・わ、かんない・・・」
「じゃあ、もう一回しよう」
「え・・・」
ぎゅ、と目を閉じて、反射的に俯く。後ろに身を引く。
「伊吹ちゃん。逃げないで・・・」
右耳の上。
優しく甘く囁かれた声と、首の後ろの手の親指が。
いとも簡単に自分を引き込んだ。
柔らかくゆっくりと啄む彼の、そのキスが。
永遠にも感じられた頃。
頭を司月の胸に押し当てられる。
「怖かった? それとも気持ち悪い?」
上から降ってくる声に、思わず首を振って。
耳に届く、司月の鼓動。
それが少しずつ、頬の熱を治めていった。
「伊吹ちゃん、君ね、反則しないで」
規則正しい人間の心臓の音が、こんなにも自分を安心させるのかと思う。
心地良くて、溜息を吐いたら。
そんな声と一緒に、彼の鼓動が少し早くなる。
勢いよく、両肩に乗った手が自分を引き離す。
「・・・寒いから、車に戻ろうね」
にっこりと、笑ったその顔は。
有無を言わさない力を持っていた。
それでも。
彼の左手が自分の右手をつなぐから。
上質の安心を、手に入れた気がした。




