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 規則正しい波の音と。

 司月の心臓の音。


 分かってるよ、とでも言うように。

 背中に置かれた手が、ゆっくりと動く。小さい頃に親がしてくれたのと同じ暖かさで、あやされて。

 つないでいた手を引っ張られて、気付けば彼の腕の中だった。離れようとすれば、それはますます強く自分を押さえる。突然の出来事への混乱と、既に飛び出した涙を抑えられない自分への忌々しさが、更に涙を呼び出していた。

 みっともなく泣き始めた自分を、押さえ込むのをやめて、優しく包み込んだ司月の中で余計に涙腺が緩んでいく。


「・・・交番に戻ったらっ、ちょっとでも、マシになって、るかも、しれない、って!! 思った、っから」

「うん」

 先週の、あの日の出来事。

 自分が思っていた事を、彼に言わなければならなかった。

 苦しい息と一緒に吐き出した、それに。

 上から優しい声が降ってくる。

「あんなの、初めてだ、ったから! すごく怖くてっ、どうなる、か、知りたくてっ」

「うん」

「司月さ、んがっ、ダメって言った時に、役立たずだから、って! っ言われたみたいで!」

「っそれは・・・違うよ」

 柔らかく出される、否定の言葉。

 今なら、それが分かる。彼はあの時、そんな事を言おうとしたのではないと、分かるから。

 浅はかだった自分が、ものすごく嫌だ。

「分からない、って返された時っ、怖か、った!! すごく、怖く、てっ」

「うん・・・・・・ごめんね」

「ちが、司月さんは悪くないっ」

 スムーズに出てこない、言葉も。

 謝ってくる司月も。

 もどかしくて、それをさせる自分が最低で。


「伊吹ちゃん。ちゃんと聞いてるよ・・・急がなくていいから。ちょっと落ち着こうか」

 泣くことで、苦しくなった呼吸。

 頭の後ろを優しく撫でる司月の手のひら。穏やかにそう告げられて、その手が頬に触れる。いつの間にか、彼の顔が見える位置に体が離されていた。眉を寄せて、少し細められた目が、自分を見ていて。親指が頬の涙を拭っていく。

「大丈夫? 苦しい?」

 心配以外の何物でもない表情に。至近距離でそんな風にされているこの状況が、たまらなく恥ずかしい。俯いて、首を横に振る。

 小さな頃から何度となく体験してきた苦しさは、自分にとっては慣れた感覚だったから。

 それよりも、司月がこれだけ近くにいて、今もまだ彼の腕の中にいる事の方が非常事態だった。

 呼吸を整えながら、足は自然と後退する。


「・・・僕はね」

 ふ、と小さな笑い声が降りてきて。

 同時にまた彼の手が自分の背を引き寄せていた。一歩、たたらを踏んで、頬に当たるのは彼の胸。

「あの時、伊吹ちゃんが彼の事を可哀想だって感じているのを分かってたから。そんな空気でいっぱいの人間が、また顔を合わせるのは良くないと思った」

 水が、土に染み込んでいくように。

 彼の言葉がゆるゆると、それでいて、確実に。

「・・・よしと君にとっては、可哀想、って視線を向け続けられる事は良くないと思った。彼にも、伊吹ちゃんにも。お互いに時間が必要だったんだよ、冷静になる時間」

 頭の中に、浸透していく司月の声。

 金曜日に彼の口から発せられた言葉も、これと同じ事を言っていたはずなのに。

 理解する為の会話をしようとせず、勝手に解釈して暗い感情を生み出したのは自分。

「警察や施設の人は、仕事柄、多少なりとも免疫があるから。彼らの所で、よしと君は自分の状況を知る必要があった。伊吹ちゃんは、まず混乱から抜け出す必要があった」

 何故、それを分かろうともしなかったのだろう。


「僕が言いたかった事、分かってくれた・・・?」

「・・・はい。・・・勝手に思い違いしてごめんなさい」

 ずっと、波立っていた心が。

 ゆっくり静まっていく。

「うん。分かってくれたら、いいんだ」

 頭の上で、小さく息を吐く音。

「・・・僕には分からない、って言ったのは、何で?」





 泣き出した伊吹を抱き込んでしまったのは、咄嗟の衝動。

 涙を零しながらも必死に説明しようとする、彼女に。痛い程に心臓が締め付けられていった。そして苦しそうな呼吸をする伊吹を覗きこんで、涙を拭って、それに頬を赤くさせたその様子が、愛しかったから。

 離れようとするのを、再び閉じ込めたまでは良かったのに。

 気になっていた事を聞けば、途端にびくりと肩を震わせる伊吹。

「・・・僕は、伊吹ちゃんが考えてる事が分かっていたけど。それはよしと君の事に対しての、君の考えで。あの時、伊吹ちゃんが僕には分からない、って言った時の気持ちが分からなかったから。分からない、って返したんだ。話してくれなきゃ分からないよ、っていう意味でね?」

 腕の中で、俯いたまま。小さく頷いたのを確認する。

「だから。伊吹ちゃんを否定した訳でも、馬鹿にした訳でもない」

  認めて欲しかった。もう、出した言葉やその場の態度で誤解される存在ではいたくなかった。

 無条件で信じてくれるような存在に、格上げして欲しい。


「分からないなんて言わないで。伊吹ちゃんが思ってる事をちゃんと知りたい」


 吐き出した声は、熱に浮かされた時のように、自分の耳へと甘く重くのしかかる。

「・・・っ、迷惑、かけたくないです・・・」

 くぐもった音で返されたそれは。

 彼女が先程から怯えるように気にかけている事の、その核、ではないだろうか。 

「でも、惺とか。伊吹ちゃんの家族や友達は、それを受け入れているよね? 迷惑だなんて言った事はないはずだよ」

「っっ!!・・・迷惑かけてる事に、違いはないから・・・だから、司月さんは、」

 息を吸い込んで、消え入る寸前の小さな声に。その言葉の先に。

 自分を除外視する決定的な事を紡いで欲しくなくて。

「だから新しく迷惑をかける人を増やしたくない? そこに僕を入れたくない?」

 遮った。

 少しの憤りが、どうしても混じりこんでしまう。

 腕の中の伊吹を、怖がらせるつもりは少しもないのだけれど。

「言い方を変えようか?・・・惺達はその迷惑を自分から進んで引き受けてるんだよ。迷惑を迷惑だと思ってないんだ。思ってたとしても、それは伊吹ちゃんの存在に付随するものだから、そこだけ見て伊吹ちゃんだと認識してるんじゃない。伊吹ちゃんと付き合っていたいから、まるごと受け入れているだけ。それだけする価値があるって、そう思ってるんだよ」

 同じ事を、彼女に唱えた人間はどれだけいるのだろう。

 伊吹の領域に迎え入れられた人々が、全員やってくれているとしたなら、それが切符なのかもしれない。

「・・・もし伊吹ちゃんが迷惑だって言い張るなら。僕は迷惑を歓迎する」

「・・・・・・あの、・・・・なんで、・・・」


「伊吹ちゃんの特別になりたいから」


 さらさらとした、まっすぐな髪の、その隙間から。

 赤く染まった耳が見える。

 ずっと俯いたままの彼女の、その目を見て言わなければ駄目な気がした。

 冗談や、社交辞令や、気の迷いだなんて。

 そんなもので片付けられたくはない。


「・・・恋人ごっこはもう終わりにしたいんだよ」

 きっと、彼女は勘違いをしている。

 またしてもびくりと震えた両肩を、少しだけ自分から離した。

 下を向き続ける伊吹の頬に右手を添えて、強制的に上向かせる。


「好きだから。ごっこじゃなくて、本物がいい」


 揺れるその双眸を、逸らされないように捕らえた。

 朱に染まっている頬も、潤んだ目も。

 自分のものにしたい。


「・・・っ、あ、の、・・・えっと、」

「友達とか、そういうのじゃないからね。伊吹ちゃんを本物の恋人にしたいって事だよ」

 念押しをして、しばしの沈黙。

 口を開かない彼女をじっと見続けた。


「・・・耳、が・・・」


「え・・・?」

 波の音に、かき消されるかどうか、ぎりぎりの、小さく唐突な言葉。


「・・・耳、・・・左の、耳・・・が、・・・聞こえない、から」


 ぽつぽつと、語られるのは。

 彼女の、その体の。

 障害、とでも言えばいいのだろうか。

「一緒にいたら、絶対、・・・嫌な思い、します・・・」


 自分に向けさせたままの、彼女の目に。またしても。

 みるみる内に涙が生まれて、そして零れ落ちていった。



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