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ダークグリーンの、天井が低いその車。
空調で暖かく保たれた車内、革張りのシートは体を心地良く包み込んで。こんな状況でなければ眠りを誘うのに充分なほど、とても快適だった。
初めて司月に会った時。兄の部屋から駅まで送ってくれた際にも助手席に座っていたのだけれど。今は彼と二人だけで、明らかに状況が違う。
「・・・あの」
「ん?」
車が走るのは、海岸沿いの国道。
何の気負いもなくハンドルを操る彼の横顔は、とても優しい。
自分の呼びかけに応じた声も、とても穏やかだった。
「どこに行くんですか?」
「・・・着いてからのお楽しみ、かな」
10時になる5分前に、家の前にこの車が横付けされて、門でそれを待っていた自分を見て彼は微笑んだ。寒い中そうしていたのは、両親に男性と二人で出掛ける事を知られたくなかったからで、それを分かっているのか彼は何も言わず、乗るように促した。
先日の事について謝ろうと口を開けば、その話はもう少し後にしよう、と彼が声を重ねて。有無を言わせないその様子に思わず頷いたのだけれど、司月はそれきり運転に集中したいのか黙っている。
その沈黙が怖いから。
思い切って行き先を訊ねたのに。
答えをはぐらかした司月は、微笑んで、そしてちらりと横目でこちらを見た。
「心配?・・・大丈夫、変な所に行ったりしないから」
「っいえ、あの、そんなこと・・・」
あまりに優しい目線が。
慌てた声色を自分に吐き出させる。同時に頬に上る熱も制御できなくて、両手をそこに押し当てた。
「もうすぐ着くよ。そんなに混んでなくて良かった」
右から聞こえるその後半は、独り言のようでもあり、自分に同意を求めているようでもあり。
結局頷くことしか出来なかった。
「・・・さて。寒いけど降りようか」
自分がいる位置をあまり把握できないまま、車は停まった。
きちんと区画された広い駐車場。学校のような建物と、その奥にちらりと見える小さなグラウンドと遊具。敷地内へと入る際に通った門には、しっかりと場所を示す何かが書かれていたようだが、角度が悪く、あいにく助手席からは見えなかった。
「少しの間だけね、特別に、って許可を貰ったんだ。遠くから見るだけだから」
ぱたんとドアを閉めた彼が、その目を建物へと向けて言う。
いきなり告げられたそれは、何の事だろう。
「あ、の・・・」
もしかして、と動悸が激しくなる。
どこかから聞こえてくる複数の子供の声が、答えを教えているような気がした。
「この前のね、よしと君。この施設で保護されてる」
どくん、と心臓が一際うるさく鳴動する。
司月の顔を、見上げる事ができなかった。
「・・・あちらに」
案内をしてくれた職員の女性は、静かな声で部屋の奥の彼を指し示した。
確かに、彼。
夜の街で見た泣き顔も、交番の蛍光灯の下で見た強張ったような顔も。そのどちらも、そこには見当たらない。楽しそうに、普通の子供と変わりない笑顔で、彼よりも少し年上の男の子と積み木で遊ぶ姿。冬のこの季節に相応しい長袖の上下を着ているから、あの生々しい痣も見えなかった。
「元気そうですね」
「ええ、ここに来てすぐは少し泣いたんですけど・・・どこかで分かってるみたいなんです。つまり、その、お母さんのこと・・・」
司月のほっとしたような声に、傍に立っていたスタッフが答えた。躊躇いがちにそう言う彼女は、母親への怒りをどこかに押し込めて、悲しそうに目を伏せる。
それで、充分だった。
あの小さな彼は、華奢な体からは想像できない程に、強い。それを知るには充分な、彼女の言葉。
部屋に連れて来られる前に、彼が明らかに虐待を受けていた事、そして保護者はまだ見つかっていない事、これからもここで彼を預かるだろうという事、そんな事を聞かされていたから。
「・・・あの、ありがとうございました」
彼女に、頭を下げる。
「あ、いえ」
「そろそろ失礼します。無理を聞いて頂いてありがとうございます」
戸惑うように首を振る彼女に、司月もまた声をかける。
少しの間だけ、と司月が言っていたから、これ以上、彼女の仕事を邪魔したくもなくて。
そして。この場に立つ自分が、とても愚かしく思える事から来る、後ろめたさ。
逃げ出したくて、仕方ない。
「・・・少し歩こうか」
助手席で、押し黙っている彼女。
施設を出てから、一言も発してくれない。もともと、今日交わした言葉はとても少ない。じっと膝の上で組んだ指を見ていて、怒っているような、泣いているような。どちらとも窺えない、そんな横顔には、軽々しく声をかけられなかった。
しばらく車を走らせて、海岸沿いで停車する。
話を、したかった。
「はい・・・」
ゆっくりと、左から返ってきた声に。おかしいぐらいに、ほっとして。
冷たい風が吹く、外へ。
色々な事を矢継ぎ早にまくしたててしまいそうな自分には、ちょうどいい寒さ。
防波堤を小さく切って作られた、砂浜への抜け道は、かなり段差があった。
飛び降りるようにそれをやり過ごしてから、体への小さな衝撃に気がつく。
黙って後ろをついてくる伊吹を、下から見上げれば。ほんの少しだけ、逸らすように伏せられる双眸。差し出した手は、行き場のないまま空中で止まった。頼ってほしいから、意地を張るわけではないけれど、右手を引くことはしなかった。彼女がしゃがみこんで、左手をコンクリートの地面に軽く置いて、降りる体勢を取るのを見守る。じっと見つめ続けて、ようやく。おずおずと伸ばされたその右手を掴んだ。
冷えた指先と、その細くて壊れそうな感覚を。
自分の手の中に閉じ込めてから、思う。
この寒さは、彼女にとっては決して良いものではない。それでも狭い車内に戻ることはもう出来なくて。
力の入った右手を開いて、代わりに左手で伊吹の小さな手を掴む。
「っ・・・なんで・・・」
つないだ手を、離そうとは思わなかった。
だから、つないだまま歩き出して。
さくさくと音を立てる数歩に、伊吹の足音も足されて。小さな呟きが、波音に交じる。
「何で?・・・何で今日あそこに行ったかって事?」
それとも、手をつないだままだという事実への非難だろうか。それだけは問い返したくなかった。
「伊吹ちゃん、気にしてたよね? あの子がどうなるか。僕も気になってたから調べた。行かない方が良かった?」
行き先を告げずに無理やり連れて行ったから、それについての非難は受けるつもりだ。
半歩後ろで彼女が首を振る。
「・・・っ、ぅ・・・っごめ、んなさい・・・っ」
押し殺したような、小さな小さな声。
ぎゅ、と少し強く握り返された手。
泣かせたくない、と先日そう言ったばかりなのに。
零れ落ちていくのは、間違いなく伊吹の涙だった。




