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 携帯が、鳴らなくなった。

 当然の結果。金曜日の夜から、彼のメールや電話をことごとく無視していたのだから。むしろ、司月が自分へのコンタクトを止めない時間が、日曜日の昼まで続いていた事の方がすごいと思う。普通ならもっと早くに、反応のない人間へ痺れを切らして頭にくるだろうに。


 彼には分からない。それを口に出すに至った衝動は、今はすっかり消えてしまっていた。

 後に残されたものは、後悔と罪悪感と、そして頬を濡らす涙。


 なんとなく、司月はいつでも自分の気持ちに同調してくれるような存在だと。そう思っていた。暖かさや優しさを与えてくれて、それが自分という存在を否定せず受け入れてくれるような気がして。その柔らかく居心地のいい空間に、どっぷりと浸かっていたからこそ。彼の言葉が痛くて怖くて、あの場を逃げ出す事しかできなかったのだ。

 それから、もうひとつ。

 恋人の真似事をするには、面倒すぎる自分の欠点。それは、家族はもちろん友人にも言える事なのだけれど、そういった自分と近しく付き合う彼らには迷惑をかけ続ける事にしかならない、自分の最大の欠陥。

 それを。

 司月に到底言い出す勇気がなかった。

 言えば、そこで終わりな気がして。暖かい空間から抜け出さなくてはならないと、分かっていたから言う気にはなれなかった。そんな欠陥を抱き込んでいたから、余計に。分からない、と司月が口にした時、全身に冷水を浴びせられたように感じたのだ。


 二日間泣き続けたせいで、見事に目は腫れて。その顔のまま出勤して、散々心配された。逃げるように家に帰ってきて、ぼんやりする頭で、最後に目にした司月の顔を思い出す。笑みも怒りもなく、ただただ、じっと自分を見ていたその表情。

 謝って、終わりにする。

 自分から断ち切った事。だからこそ、今まで付き合ってくれた時間へのお礼と、先日の非礼への謝罪を述べて、これ以上司月を煩わせないと約束して終わりにしなければならない。それが、最低限のマナーだろう。


 そう思うのに。

 どこかで。そうしたくはないと願う自分がいた。

 祈り、に近いかもしれない。

 もう一度、司月が自分に優しく笑いかけてくれるなら。

 何か。

 今まで知らなかった、知ろうともしなかった事の。その感情の。

 答えが見える。

 そんな気がした。





「・・・お兄ちゃ、ん」

「どうするか、決めたのか?」

 伊吹からの電話。

 細く小さな自分の呼ぶ声に。思わず。どうしたんだ、自分が聞いてやるから話せ、と。

 手を差し延べてしまいそうになって、それを寸前で止めた。しばらく、彼女が自分だけを頼りにしないようになるまでは。そういった事はもうやらない、と決めたから。以前に言ったように、彼女から話すのを待つ。

「司月さんは・・・怒ってる、よね?」

「・・・怒ってはいないな。司月がどう思ってるかを知って、それでお前はどうしたいんだ?」

 おずおずとした声に、平坦な声で答える。今の伊吹には必要なこと。

「っ、わかんな、い、のっ・・・でも、知らなかった司月さんに怒ったのは、八つ当たりだったから・・・!! 謝んなきゃ・・・」

 涙声で返された言葉。知らなかった、というそれが示すものが、瞬時に分かった。ずっと伊吹を見てきた家族だからこそ、彼女が気にするそのコンプレックス。弱点とも言える、不変の事実。

 それを知らない司月の、普通の人間なら何でもない言動に。きっと伊吹は傷ついたのだ。

 そしてその悲しみを怒りに変えて、司月にぶつかった。

 一瞬で悟った、金曜日の出来事の発端。

 普段、伊吹が自分から誰かにそれを話す事はゼロに等しいから、自分も司月にも言っていなかった。彼自身、伊吹が何故急に感情を爆発させたか、その原因は到底思い浮かばないだろう。

「・・・謝って、それで終わりにするか・・・?」

「・・・・・・うん」

 伊吹が。

 司月に対して、欠陥を告げて。それでも尚、彼に離れて欲しくないと願わないなら。

 そうするしかない。この恋人ごっこを終わらせなければならない。例え司月が続きを望んでも、伊吹自身が先を望まなければ、終わりにするしかなかった。司月に自分の全てを受け入れて欲しいという気持ちがなければ、先に進むだけ、必ず温度差が生じるから。

「本当にいいのか?」

「うん・・・」

 ダメ押しの、確認。

 伊吹の願いがなくても。司月を手放すのは、あまりに惜しい。

 そんな想いがどこかにあって。


「謝るのは、電話じゃなくて直接言った方がいい。・・・それくらいしないと、誠意は伝わらない」


 最後の、悪足掻き。

 これで駄目なら、もう本当に仕方がないと。そう諦めるから。

 二人を直接向きあわせる事、それで何かが変わるかもしれないと。

 万に一つの期待を。希望を。

 賭けに等しい最後のチャンスを生み出す為の、嘘をついた。


「・・・う、ん・・・ちゃんと会って、それで謝る」


 そう言った、救いを求めるような弱々しい声の、その伊吹の手を。

 兄である自分はもう、引っ張れない。





「あの・・・っ」

 電話の向こうから、聞こえてくる声。

「伊吹ちゃん・・・」

 その必死そうな声に。肩から力が抜けた。

 ようやく自分と連絡を取る気になってくれた、という事と。このまま音沙汰のないまま終わるという、想像から抜け出す事のできた現況に。ものすごく安堵している自分は、彼女の名前を呼ぶ事しかできなくて。

「・・・伊吹ちゃん・・・この前は、」

「あの!! この前はごめんなさい!! 困らせてしまって、すみませんでした!!」

「あ・・・いや、あれは僕も」

 自分の言葉を遮るように、彼女が謝ってくる。それは居心地が悪く、そしてその勢いのある声で謝られても、何の解決にもなっていなかった。あの時の伊吹自身の気持ちが、自分には分からないままだから。

「・・・それで、あの、いつでもいいので。司月さんの時間がある時、また会えますか?」

 トーンダウンした声と、その言葉。彼女から誘ってくれたその事実は、喜ばしいことであるはず。それなのに、頭の奥で警告音が発せられていた。きっと伊吹は、それで終わりにしようとしている。直接会って、金曜日の出来事に頭を下げて、それで終わり。

「うん・・・今週の土曜日は空いてる?」

「・・・はい、大丈夫です」


 終わらせようなんて、自分は少しも思っていない。

 このままずっと。伊吹を泣かせたまま、原因も知らずに安穏としている事もしたくない。

 何より。彼女の視線を別の方向へ、数ある男の選択肢へ向ける事。

 自分にはもう、それを笑顔で見守る事など、到底できなかった。


「じゃあ、土曜日に。10時に迎えに行くから」


「え、あの、わざわざそんな、」

「迎えに行くよ。家で待ってて」


 今度は、こちらから彼女の遠慮する言葉を遮る。

 自分だけの、伊吹の笑顔が欲しかった。

 その為の、彼女の領域へ足を踏み入れる一歩。


「じゃあね」

 言い置いて、電話を切って。

 土曜日までにするべき事を、考え始めた。



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