騎士の場合
初めて彼女を見たとき、なんて儚げできれいな人なんだろうと驚いた。さらさらと流れ落ちるような銀髪に深い海のような青い瞳。その繊細な指が奏でる旋律と歌声は心に染み入るように美しく……その印象は10数える間ももたずに、脆くも崩れ去ったのだけど。
当時は全員が駆け出しで、まだ10代も半ばの若僧ばかりだった。酒場の親父から廃墟の噂を調査する人間を領主が募集してるという話を聞いて、一も二もなく飛びついたのだっけ。
結果としては、全員無事生きていたのが不思議なくらい散々だったけれど、彼女はあっけらかんと「全員生きてるならオッケーよ。生きて帰った者が勝ちなの。知らないの?」と言ってのけた。
それが、俺たち5人の冒険者生活のスタートだったのだ。
彼女はムードメーカーとしては一流で、実際、性格や生い立ちもまったく違う俺たちが険悪になることもなく長く一緒に旅をできたのは、間違いなく彼女がいたからだろう。
年頃の女だというのに大口開けて笑うし、気まぐれと勢いだけで行動するし、泥だらけになろうが野宿が続こうが平然としてるし、きれいな見た目とは裏腹に冒険者としての生活に適応しすぎなくらいに適応している姿を仲間たちは“残念”だと言うが、俺は彼女が“残念”でよかったと思う。
喜怒哀楽もはっきりしていて、くるくる変わる表情でにぎやかに、下手すると一晩中でもしゃべり通しでまったく落ち着きもない。
それでいて、いざと言うときは驚くような機転を利かせてみんなのフォローをするのだ。彼女は自分を器用貧乏でやれることが少ないと愚痴を言うが、とんでもない。彼女がいつも周囲に気を配ってくれるから俺は安心して前に立てたし、ジェフリーやビットも魔法に集中できた。アラインだって、彼女のフォローがあって奇襲が成功したことは多かった。俺が知ってるだけでも相当助けられているはずだ。
そして、彼女の奏でる歌はいつだって世界の美しさやすばらしさ、喜びを歌うものばかりなのだ。「だって、辛気臭い歌なんて趣味じゃないもの。実際こんなにいいものに溢れてるのに、それを歌わないのは損よ」と彼女は常々言っていた。
いつでも生命を、生きていることを謳歌する……それが彼女なのだ。
──その彼女が浚われた。
居場所を必死で探った3日間、俺たちは生きた心地がしなかった。彼女が無事でいる保障など何もない。生きているのかもわからない。いや、生きていたところで無事だって思える根拠なんか何もない。
ただ彼女が無事であることを信じ、祈りながら、ジェフリーやビットの魔法とアラインが集めた情報を頼りに必死で彼女の行方を追った。教会や魔法使いの伝手も、使えるものはすべて最大限に使った。
ようやく彼女の居場所がわかったときにはすぐにでも乗り込もうとして、ジェフリーに止められた。
さらに1日時間を使って入念に準備を整え、彼女が囚われていた場所……暗黒教団が根城にしていた地下遺跡に行くと、そこで彼女が泣いていた。
いつも全身で世界のすばらしさを歌い、人が大好きだと言っていたはずの彼女の目に涙が溢れ、その色は諦観と絶望に染まっていた。いつも彼女が放っている輝かんばかりの光までが曇り果てていることに、俺は絶句した。
そしてすぐ、彼女にいったい何があったのかを理解した。目の前に暗黒教団の司祭長が映し出した、戦場で繰り広げられる酷い光景と馬鹿馬鹿しいくらい無駄に死んでいく生命。意味もなくただ続けられる殺戮。
……そりゃ、生きていればどんなことでもある。冒険を始めたばかりの、何もよくわかっていなかったころの若造とは違う。今は戦いの凄惨さも知っているし、生きていることがいいことばかりではないのも十分承知している。むしろ、生きていくことは厳しくたいへんなことだとも思う。
それでも世界や人間はすばらしいと歌っていたのは君自身だろう。生きていることはとても素晴らしいと、俺たちに、これでもかというくらい生命の希望や喜びを吹き込んできたのは、ほかの誰でもない、君じゃないか。
だから俺は自信を持ってこう言えるんだ。
「それがどうした、それだけが人間ではないぞ」
これが人間だなどと寝言を言う、祭壇の前の司祭を睨み付けて言い切る俺を奴が嘲り笑うが、そんなの知ったことか。君が忘れてしまったというなら思い出させてやるよ。俺たちは、君は十分知ってるはずだ。生命の素晴らしさを、生きてることの喜びを。すべて君が俺たちに教えたんだ。
「リーラ、何を泣いているんだ。おいで、迎えに来た。まさかもう立てないなんて弱音を吐くつもりじゃないよな?」
リーラがぐいと目を拭い、ゆっくり立ち上がる。そして俯いていた顔を上げて走り寄る。俺たちのところへ。
「ごめん、ごめんね。来てくれると思わなかった。もうだめだと思ってた。ありがとう。ごめんね。もう大丈夫。ありがとう」
リーラの目から諦観と絶望は消えていた。今流れているのは、だから、また会えたことへの喜びの涙なんだろう。
「あたりまえだ。君を迎えに来ないわけがない。みんな必死で探したに決まってるだろう?」
そう言って差し出す俺の手を、リーラは微笑んでしっかりと握る。
……結局、この事件がきっかけで、暗黒教団を壊滅に追い込むことができた。
奴らはリーラを篭絡してこちらを取り崩そうとしたんだろうが、リーラほど世界を愛してる者はいない。あの時、たしかに彼女は一瞬絶望していたのだろう。けれど、すぐにそれは間違いだと気づいてたはずだ。思い出していたはずだ。それがリーラなんだから。
あの司祭がリーラを浚ったのは完全なミスだったと、俺は自信を持って言える。
そして、さらに言えば、この事件がきっかけで俺は爵位を得て、不自由な身分へとなってしまったのだった。
「──結婚、ですか?」
うなずく宰相閣下を前に、俺は戸惑いを隠せなかった。もう結婚ひとつ取ってさえ、思い通りにはいかなくなってしまったらしい。
爵位と一緒に与えられた屋敷に留まり、どこかへ行くにも何かをするにも王の許しを得なければならない、貴族という身分。
……どこへ行くにも、何をするにも、仲間とだけ話し合って決めていたほんの少し前のことが、とても懐かしい。
「私も鬼ではありませんから、どなたか思う方がおられるのでしたら1週間待ちましょう。けれど、それ以上は待てません。1週間経ったら、お相手の選定を始めます」
「……わかりました」
おそらくこれも王命なのだろうと考えて……小さく溜息を吐く。
宰相閣下の前を辞した後、すぐに戻る気にもなれずに町をぶらついた。結局、教会の礼拝堂に座り、女神像の顔を見つめながら、とりとめもなく考え続けた。
言われて、最初に浮かんだのは彼女の顔だった。
生き生きとよく変わる表情は相変わらずで、それが彼女を、女神ではなく生きた人間としてとてもきれいに彩っている。
普段は女と思えないほど口調は悪いし適当で雑なくせに、「営業用」と称する振る舞いは呆れるくらい淑女らしくたおやかで美しい。
それ以上に、彼女の笑顔は大地を照らす太陽の光のように明るく眩しい輝きを放つのだ。
──そう、自覚はしている。宰相閣下の話を受けて相手にはただひとり彼女しか浮かばないほど、俺はリーラに惹かれている。
しかし、これまで何人も彼女に近づこうとした男はいたが、その全部から、彼女はするりと上手に逃げてきた。彼女自身、意識してかしないでか、誰もが彼女に近づくことすら叶わず、だ。
──愛だ恋だと歌うわりに、彼女自身にその気もその気配もないのは、おそらく、いつか話してくれた、彼女と母親を捨てたという父親の影響だろうとも伺えた。
「どうしたもんかな」
……果たして、自分が彼女に近づこうとしたらどうなるのだろう。彼女はやはり逃げるだろうか。逃げずに受けてもらえる自信など、あるわけがない。
けれど、宰相閣下の言う「適当な令嬢」……自分が顔も知らない相手と見合いをして結婚することも、まったく想像ができなかった。
王自らの命なら、この結婚話を回避することは不可能だ。彼女に断られたからと結婚そのものを無しとすることはできない。
八方塞な状況に考えはまったくまとまらず、ただぼんやりと時間が過ぎていった。
「……もう、当たって砕けろってことか」
日暮れが迫り、薄暗くなってきた礼拝堂で、結局落ち着いたのはそういう結論だった。悶々と考えたところで、結果なんぞ当たってみなければわからない。
強大な竜を相手にしたときだって、これほど怖気づくことは無かった。はっきり言って怖い。もしリーラに断られたら、明日から自分はどんな顔をして生きていけばいいのかわからないくらい、怖い。
──ああそうだな、リーラに振られたら、潔く宰相閣下にあてがわれた令嬢と結婚して、おとなしく領地で余生を送ろう。
夕食のテーブルは、とても静かだった。
いつもなら食べることと話すことを並行で見事にこなすリーラが、あまりしゃべらないのだ。見ると、心ここにあらずといった風情で、何かに思い悩んでいるようにも見える。
いったい何があったのか。尋ねてみようか躊躇しているうちに、彼女はさっさと席を立ってしまった。呆然とその背中を見送っていると、「あとで僕が話を聞いてみるよ」とビットが言うので、彼に任せることにした。
この様子では、今夜はもう無理だろう。なら、明日の朝に彼女を捕まえてきちんと話をしよう。
「俺も、今日はなんだか疲れたから寝るよ。じゃ」
実際、感じている疲労感はかなりのものだったけれど、明日のことを考えたら、とても眠れないのではないだろうか。
……と思っていたのに、ベッドに入るとすぐに睡魔が襲ってきた。
ふと、すぐそばに魔法の気配を感じて、ぼんやりと目が覚める。気のせいかとも思ったが、確かに人の気配まであった。
名前が売れた分、俺たちには敵も多く、これまで深夜に寝込みを襲われることも一度や二度では済まなかった。こんな時にまたかと考えつつ、起きたことを悟られないようじっと寝たふりを続ける。
そして、近寄ってきた誰かに触れられたのを合図に取り押さえてみれば、その腕はずいぶんと細く……。
「ちょっ! まっ! フレイン! 不審者じゃないから! あたしだから! 痛いから!」
「……リーラ? どうしたんだこんな夜中に」
驚いたことに、部屋に来たのはリーラだった。しかも、こんな真夜中に、いったい何のつもりなのか。
「実はちょっと今すぐ話があってね」
「いいけど、それは夜中に魔法で忍び込むほどの話? これじゃ、不審者だって思われていきなり斬り殺されても文句言えないよ?」
いや、それ以前に、夜中に男の部屋に忍び込むのは、女としてどうなのか。やっぱり宿で部屋が取れないからと大部屋で雑魚寝をするのは、考え直したほうがいいかもしれない。
だが、次の彼女の言葉に、考えていたことは霧散してしまう。
「……うん、そこはちょっとだけ反省した。まぁでもさあ、廊下歩いててアラインとかに見つかるのも嫌だったしねえ」
……つまり、誰にも知られずに俺の部屋へ……? いったい何をしに、ここへ? リーラは、いったい何を考えてるんだ? こんな夜中に男の部屋に忍んでくるほどの重要な話ってのは、いったいなんだ?
「とにかく、重要な話なの」
じっとこっちを見詰めるリーラを見つめ返して、俺の喉がごくりと音を鳴らす。
「──フレイン、あたしと結婚して」
「は?」
間抜けな声で聞き返す俺に、リーラは少し慌てるように後を続ける。
彼女は、リーラは今なんと言った? 何を、言った?
「あーいや、あたしと結婚しないとだめだから。これについては、フレインに拒否権ないの」
俺はまだ寝ぼけているのだろうか。信じられない言葉を聞いた気がするけれど、うまく頭が働かず、馬鹿みたいにぽかんとただリーラを見つめるだけだった。
結婚? 拒否権? リーラとの結婚を拒否なんてするはずがないだろう。答えなんて決まってる。
そして、俺に圧し掛かるリーラは、羽のように軽くて……。
「やだっていったら既成事実作って責任取ってもらうしね」
リーラの両手が俺の顔を逃がさないとばかりに挟み込む。
「だから、あたしと結婚してね」
彼女の顔が迫り、唇が重なる。
夜の暗がりの中、窓のカーテンの隙間から微かに差し込む月明かりで透かし見る彼女は、とても美しい。彼女は確かに妖精の血を引いているのだな、と、なぜかそんなことが頭に浮かぶ。
俺の顔に添えられた彼女の手はほんのりと熱を持ち……もっとしっかりとリーラを感じたくて、その身体を抱き寄せた。とても細くて、うっかり力を込めたら折れそうなくらいに華奢なのに、彼女のあのエネルギーはどこから湧いてくるのだろう。
そして、彼女の唇はどこまでも柔らかく、甘い。
「……嫌なわけないだろう」
少し名残惜しいと思いながら、わずかに唇を離す。本当に、昼間あれほど悩んでいた自分が馬鹿らしい。
「明日の朝いちばんにって考えてたのに、先越されたよ。なんでリーラはそんなに行動早いんだ。もう少し落ち着けよ」
リーラにはいつも先手を取られている気がして、悔しさすら感じてしまう。自分が悶々と悩んでいる間に、彼女はいつだって一歩先へと進むのだ。
そんなことを考えて苦笑が浮かび、それを取り繕うように額を合わせてしまう。
「いやだって、ほら、こういうのはすぐ行動しないと気が変わっちゃうかもしれないし?」
「へえ、気が変わるかもしれないんだ?」
眉をあげてそう聞き返せば、とたんにリーラはおろおろと慌て出す。
「あ、えっと、これに関しては、変わらないと思う、けど」
「……さっき既成事実って言ったね。気が変わらないように、今から作っとくか?」
慌てるリーラが可愛くて、からかうように言うと、この暗がりでも彼女の顔に朱が差すのがわかった。また笑みが溢れ出し、腕に抱えたままそっとリーラを横たえる。
「リーラ、俺と結婚してほしい。君でいいんじゃない、君がいいんだ、リーラ」
俺はまた、彼女に口付ける。
翌朝、みんなに報告するのは、少し気恥ずかしかった。
……この件に関しては、確かに俺が悩み過ぎてヘタレていたことは認めよう。
当日。美しく着飾った彼女を見世物にするのは気に入らないけれど、これも役目だしかたない。儀式を終えて馬車の上に立ち、リーラと二人で手を振りながら、そんなことだけを考える。この騒ぎでは、当分、落ち着いて生活することすら無理なんじゃないだろうか。
気疲れと今後のあれこれを考え、早くもうんざりし始めたところへ、不意にリーラが俺の腕を引いた。
にっこりと微笑み俺に寄り添うように身を寄せて、歓声を上げる沿道の人々にひらりと手を振る彼女は、さすが堂に入っている。
リーラは感心する俺の耳元に素早く口を寄せて囁いた。
「あのね、あたしの妖精の秘密の名は“マレイラ”っていうのよ」
──妖精は、自分の秘密の名を、心からの信頼と愛情を捧げた相手にしか伝えない。その話を聞いたのはいつだったろうか。
「リーラは、ほんとに人を驚かせてばかりだな……」
どうしてリーラはいつもいつもこういうタイミングを狙ってくるんだろう。そういう彼女が、愛しくてたまらない。
俺は彼女を抱き寄せ、口付けて、囁いた。
「リーラ、嬉しいよ。愛してる」
俺は、たぶん、一生リーラに敵わないんだろう。