噛み跡
第七章14の後、本編からこぼれてしまったお話です。
拍手に置いておいたものですが、後半、少し手直してあります。
「どうしたんだ、傷が開いたのか?」
晩餐の前に湯をどうかと聞きに来たラスティは、頬を押さえていた布巾に、不審の目を向けた。
「血が滲んでる。ちょっと見せてみろよ」
どうせ後で湯を使う時に、どうなっているかバレる。その時に騒がれるのも面倒くさい。そう思った私は、おとなしく布巾を取って頬を見せた。
「なっ、おまえ、それ、大丈夫なのか!?」
様子を一目見た瞬間、ラスティは目を見開いて、泡を食った顔をした。
「すごいことになってるぞ、なんだその噛み跡、奥方か。奥方の悋気か!? 怖いな、おいっ」
悋気? 悋気と言えば悋気でもあるか。そう思い至って、私はふふっと笑った。愛されているから、やきもちを焼かれるのだ。夫冥利に尽きるというものだ。
「なんで笑う!? 気持ち悪いぞ、傷の腫れが頭にきてるのか、大丈夫かよ。医者、医者を呼んでくる」
私は、慌てて踵を返した彼の腕をつかんで、引き止めた。
「大丈夫だ。あんな女に跡を残されるのが忌々しかったから、妻に頼んで、付け直してもらっただけだ。たいしたことはない」
「たいしたことないって、おまえ、鏡見たのか、いったいいくつ噛み跡ついてるか、わかってるのか!?」
「ああ、うん」
私は頬をさすった。全体的に熱を持って痛いが、サリーナが小さな顎と歯で付けてくれた跡は、どれも可愛らしいものだった。
「消えるのが惜しい気もするな」
「だーっ!!! 何言ってるんだ、しっかりしろ、本当に、しっかりしてくれ!!! すぐに医者を呼んでくるから!!」
ラスティは私の肩を引っ掴み、部屋の中をずかずかと横切っていくと、ソファに私を押し付けた。
「いいから、ここから動くな。たのむから、じっとしてろ。わかったな!?」
「傷は酒で洗ったし、医者は、」
「おまえは、今、傷のせいで判断力を失っている。おまえの言うことは聞けない。じっとしていられないというなら、気絶させてから行く」
ラスティは拳を握って、鬼気迫る勢いだった。こうなると、人の言うことをおとなしく聞くような奴ではない。
多少、痛みで精神的に集中しにくくなっていた私は、ラスティを説き伏せるのが面倒になって、なげやりに頷いた。
「……わかった。好きにしろ」
「よし。絶対動くなよ。そこにいろよ。わかったな?」
「ああ、わかった」
ラスティは、慌しく出て行った。
それと前後して、カチャリと小さな音がして、寝室の扉が開かれた。そこから着替えおわったサリーナが顔を出し、あら、ラスティ殿は? と聞いた。
「医者を呼んでくると出て行きました」
サリーナは私へと近付いてきながら、その方がいいわ、と言った。ソファの隣に座って、気遣わしげに頬を見る。
「……ごめんなさい。やりすぎたわね」
「そんなことはないですよ。中途半端にあれが残るよりは、よほどいいですから」
「もう、エディアルドったら、そんなことばかり言って」
サリーナは困ったような、恥らったような苦笑をこぼした。
彼女の肌には、さっきまでの上気していた残り香が、うっすらと残っているようだった。もう少しでいいところ、というところでラスティの邪魔が入り、結局、ろくなことができなかったのだが。
とりあえず、ラスティが医者を呼びに行ってしまったし、その後には湯を使って、それから晩餐が待っている。どう考えても、続きは無理である。ここは一時休戦しなければならなかった。ただし、
「さっきの続きは、夜に。いいですね?」
耳元に唇を寄せて請えば、彼女はくすぐったげに肩をすくめて、くすくす笑った。
「お医者様が、いいと言ったらね?」
彼女の冗談に、私たちは目を見合わせて笑った。
しかし、そんな経緯を知らないラスティは、こんな噛み跡を付ける悋気に、心底恐怖したらしい。
「俺は女公には逆らわないと決めた。すまんが、夫婦喧嘩をしても、おまえの味方にはなってやれない。悪いことは言わない。浮気だけはするな。そして、おとなしく一生、女公の尻に敷かれていろ」
そんな鬱陶しいアドバイスを貰った。
誰が浮気をするか、よけいなお世話だと、奴に一発拳を見舞ってやったのは言うまでもない。それだけは、私の名誉のために、言い添えておこうと思う。