~その9~ 病院にて
後頭部に衝撃を受けたあと、目の前が真っ暗になった。
「弥生ちゃん!」
この声は、久世君。久世君が、必死に私を呼んでいる?
「弥生!」
え?この声、一臣様?
「一臣様、揺らしてはダメです。上条さんは頭を打っているので動かしちゃダメです」
「日陰!これはどういうことだ。弥生のことをなんで守っていなかったんだ!」
「俺が、助けられなかった」
「久世!なんでここにお前がいるんだ。今すぐに出て行け」
「そっちこそ、なんでいるんですか」
「なんでだと?弥生は俺の婚約者だ!ここに俺が呼ばれたことはそれだけで十分な理由だろ!」
「弥生ちゃんが、一臣氏のフィアンセ?」
「知っていたんだろうが!」
「俺が?まさか!」
ふたりの会話が遠くから聞こえてくる。
「嘘だろ。じゃあ、弥生ちゃんがずっと片思いしていたのってまさか…」
「俺だ。大学の頃からこいつは俺を想い続けてきたんだからな」
「あんたを?なんであんたなんかを?」
「……なんでそんなことを言うんだ」
「弥生ちゃんが不幸になるのなんて目に見えてるじゃないか!あんたなんかと結婚したって幸せになんかなれない」
「だから、なんでそんなことをお前に言われなくちゃならないんだ!」
「正式に婚約発表したわけじゃないんだろ?俺が何が何でも、あんたと弥生ちゃんの結婚、阻止してやるよ」
「やっぱり、お前、そうやって結婚を邪魔するために弥生に近づいたのか?!」
「ちげえよ!俺は、弥生ちゃんを好きになっただけだ!」
キ~~~~~ン!ものすごい耳鳴り。それから何も聞こえなくなった。
次に気がついた時には、私は真っ白い壁に囲まれた病室にいた。
「弥生?!」
薄ぼんやりとする意識の中で、一臣様の声が聞こえた。
「先生!弥生が気がついた!!」
そして、しっかりとした意識が戻った時には、病室には一臣様と樋口さんがいた。
「弥生様、無事で何よりです」
「私?」
「脳震盪を起こしただけだ。脳波にも異常はないし、外傷もない。一応、検査入院ということで、明日まで入院することになったが、もう大丈夫だよ、弥生」
「一臣様…」
入院?
ズキ…。
「弥生、動いちゃダメだ」
頭を持ち上げようとすると、後頭部に痛みが走った。
「絶対安静ですよ、弥生様」
「ごめんなさい。私、また迷惑をかけたんですね」
「…いいから、寝ていろ」
「ごめんなさい、一臣様。私、いっつも迷惑ばかり」
「いいから、黙って寝ていろ」
一臣様はそう私に言うと、
「俺は会議に出てくるから。お前はここにいて様子を見ていてくれ。あとで、日陰か、細川女史にも来てもらうから。それまでは弥生のそばを離れるな」
と樋口さんに向かってそう言い残し、一回私を見ると、そのまま病室を出て行った。
「…具合はどうですか?弥生様。気持ち悪いとか、頭痛がするとか、ありませんか?」
「じっとしていたら、大丈夫です」
「え?」
「あ、さっき、頭を持ち上げようとしたら、ズキってしたけど」
「打った時に、コブができたようですね」
「……」
「他は?例えば、視界はどうですか?ぼやけて見えるとか、そういったことは?」
「大丈夫です」
「では、記憶の方は?」
「……大丈夫…です。あ、そうだ。樋口さん、久世君は?」
「久世将嗣氏ですか?救急車が来て、私も一臣様も病院まで付き添ってきたので、そのあとのことはわかりません」
「……私、うっすらと覚えているっていうか、聞こえていたんです。一臣様と久世君の会話」
「は?」
「あ、その場に樋口さんはいなかったですよね」
「…いました。一応、応急処置ができますので。ですが、頭を強く打たれていたので、救急隊員が来るまでは、弥生様を動かすこともせず、その場にいただけとなりましたが…」
「…その時、久世君と一臣様、言い争っていなかったですか?」
「はい。一臣様はかなり気を動転なさっていたのか、弥生様が婚約者であることを、久世氏に話してしまいました」
「なんで、一臣様、倉庫に来ていたんですか?」
「日陰氏がすぐに一臣様と私を呼んだんです。あ、救急車の手配は臼井課長が、すぐにしていましたが」
「…それで、一臣様、ちゃんと駆けつけてくれたんですか?」
「会議の途中でしたが、すぐに飛んで来ましたよ」
「会議の途中で?」
「役員会議でしたので、弥生様がお怪我をしたとお伝えしたところ、会議も中断になりました。社長は今、あいにく関西の方に出張中なので、弥生様の病室にも来ることができませんでしたが」
「社長にも、私のこと、連絡したんですか?」
「もちろんです。大事な一臣様のフィアンセなのですから」
「じゃあ、父にも?」
「…それは、社長の判断に任せていますので、わかりませんが」
「……。私、たくさんの人に迷惑かけているんですね」
「気になさらないで、ゆっくりと休まれてください」
「樋口さん」
「はい」
「……私、私、やっぱり、一臣様のフィアンセ失格だと思います」
「は?」
「私、迷惑しかかけていませんし、一臣様を困らせたり、苦しませたり、そんな重荷にしかなっていないんです。それって、フィアンセとして失格ですよね?」
「……私は、なんとも申し上げられませんが、ただ…」
「ただ?」
「私から見た範囲では、ご迷惑になっているとは思えませんよ」
「でも」
「もう、喋らないで。体に触ります。ゆっくりと休んでください」
「………はい」
私は天井を見上げてから、目を閉じた。
弥生!って叫んでいた一臣様の声は、必死だった。
ちゃんと、駆けつけてくれたんだ。それは、嬉しい。でも、やっぱり、いっぱい迷惑かけちゃったんだ。
私って、何のためにここに来たんだろう。何のために、ここにいるんだろう。
情けないです、お父様。一臣様のお役にたてるどころか、足を引っ張っているばかりです。
私なんかが、一臣様のフィアンセで申し訳ないです。
気持ちは上がってこない。永遠の暗い闇にでも落ちたような、そんな気もしてくるほど、気持ちは上がってこなかった。
ズシンと鉛のようなものを、心に感じながら、私は眠りについた。そのせいなのか、とても辛い夢も見た。
目が覚めると、泣いていた。涙が頬からこぼれ落ちていた。でも、どんな夢だったのか、ただ辛いっていうだけで、詳しくは思い出せなかった。
「気分、悪いのか?」
ベッドの横から、一臣様の声がした。
「あ…。会議は?」
「終わった。もう、夜の8時だ」
「そんな時間?あの、一臣様、お仕事終わられたんですか?」
「終わったよ」
「では、ご自宅に帰ってお休みください」
「……」
「私なら大丈夫です。病院ですし、何かあったらすぐに先生が診に来てくださいます」
「そうだろうな、わかってる」
「では…」
「いたら邪魔か?」
「いえ。そんなことは。でも、家に帰って休んでください。一臣様もお疲れですよね。顔色悪いです」
「俺のか?」
「はい」
「…それは、寝不足だからかもな」
一臣様はそう静かに言うと、私の横に椅子を持ってきて座った。
「寝不足なら尚更、家で休んでください」
「ああ。言い間違えたかな。寝不足ではなく、睡眠障害…だな」
「え?」
「眠れないんだ。家に帰ってベッドに入っても、眠れたためしがない」
「……え?」
「不眠症って言われるやつだ」
「一臣様が?」
「ああ。酒を飲んで寝ても、1時間もしたら目が覚めるしな」
「ずっとなんですか?」
「そうだな。ここ、半年くらいかな。でも、心配するな。車での移動や、会社の俺の部屋では、結構眠れているから」
「え?」
「仮眠だったら、しているから大丈夫だ」
「仮眠って、何時間くらいですか?」
「…さあ?」
一臣様、本当に顔が疲れている。
「どうして、眠れなくなったんですか?」
「…さあな。プレッシャーかな」
「え?」
「いつも頭が冴えてしまう。寝ようとしても、頭の中をいろんな考えが渦を巻き、目が冴えてしまうんだ。どんどんどんどん…」
「ゆったりとした音楽を聴いたり、あ、お香とかいいですよ。リラックスできる香りってあるんです」
「ああ。それ、青山ゆかりが色々と持ってきてくれたな。でも、全部試してもダメだった」
青山ゆかりさんって、確か、社長の秘書の…。
「女といたら、眠れるかとも思ったけど、最近はさっぱりだしな」
「え?」
「かえって、気が散るっていうか、落ち着かなくなってイライラして眠れなくなる」
「じゃあ、あの…。上野さんと一緒の時も?」
「上野?」
「金曜、一緒に車で…」
「ああ、仕事のあとの話か。そうだな。一緒に飲みに行った。でも、気分が途中で悪くなって、そのまま上野を家まで送って、帰ってきた」
「じゃあ、朝まで一緒とか、そういうのは?」
「……。あ、そうか。俺はあの時、お前に聞こえるようにわざと、そんなようなことを言ったっけな」
「わざと?」
「むしゃくしゃしていたからな。社長にも、お前にも」
え?それで、もしかして意地悪であんなことを言ったの?
「悪かったな」
「え?」
「色々と悪かったな」
なんで謝るの?一臣様。
一臣様は私の方を見ないで、視線をわざとそらしているように見えた。
「謝るのは、私の方ですよね」
「……何に対して?」
「全部。私は、一臣様の足を引っ張ることしか出来ていないし…」
「……」
一臣様は私の顔を見た。でも、黙っている。
「迷惑しかかけていないんですよね、私」
「そうだな。やっと気がついたか」
う…。一臣様の目、すごく冷たい。
「い、いい気になっていました。私、一臣様のお役に立ちたいって、ただそれだけで。いつか、きっと一臣様にふさわしい女性になって、一臣様の隣にいても恥ずかしくない女性になって、一臣様のお役に立てるくらいの女性になって、それで、一臣様と結婚するって。そんなことをずっと思い描いてきました」
「……」
一臣様はまた黙り込んだ。
「でも、それって、おこがましい夢だったっていうか…」
ボロ…。涙が出た。
「それって、私の思いよがりだったっていうか…。私の自分勝手な、思い込みだったっていうか…」
「そうだな」
一臣様は一言、とても冷静にそう言った。一臣様の顔もさっきからずっとクールな表情だ。
「………ごめんなさい。私から父に言います」
「何をだ?」
「婚約破棄のこと。私からちゃんと頼めば、父も考えを変えるかもしれません」
「甘いな。お前と俺の結婚は、上条グループと緒方財閥を結ぶ大事な儀式なんだ」
「上条グループの人間だったら、私以外にもいます。従姉妹で、私なんかよりもっとずっと一臣様にふさわしい女性ならいます。どこからどう見たって、素敵な女性で、一臣様に迷惑なんかかけないし、一臣様だってきっと、その女性なら結婚したくなるような…」
「お嬢様を絵に描いたような…か?」
「はい。そうです。語学も出来て、ピアノも子供の頃から習っていて、イギリスに留学もしていましたし、すごくお綺麗でスタイルも、すらっと長身で、髪も美しくって、私から見ても惚れ惚れするような…」
「ふん。そんな女性がいるなら、なんだって、こんな妙ちくりんなのと俺をくっつけようとしたんだ」
妙ちくりん…。やっぱり、そう思われていたんだよね。
ズシン。ああ。また落ち込んだ。泣きそうだ。でも、泣いていられない。
「一臣様より、年齢は上になりますが、でも、一臣様ととてもお似合いになると思います」
「年上?まさか、10も20も離れているわけじゃ…」
「今、確か、26歳だったはず」
「なんだ。そのくらいの年齢差だったら、何も問題はない」
「………」
「泣いているのか?」
「いえ!」
必死に涙を止めようとした。でも、溢れ出して流れてしまう。
「なんで泣いているんだ」
「じ、自分が不甲斐なくて」
「え?」
「ごめんなさい。こんなで。妙ちくりんでヘンテコで…。私がもっと、素敵な女性なら、一臣様を困らせることもなかったんだと思うと…」
「そうだな。今頃自覚したか」
「……」
ダメだ。声を上げて泣きそうだ。
「お前、元気だけが本当に取り柄なんだな」
「え?」
「お前から元気を取ると、こんなマヌケで、暗いお前しか残らないんだな」
「え?え?」
どういうこと?
「いいから、もう寝ろ。俺はまだ、目を通さなきゃならない書類があるんだ。それをここでするから」
「え?」
「今日はお前のそばにずっといてやるから。寝て早くに元気になれ。そうしたらまた、思考回路が元気になって、いつものお前に戻るんだろ?」
「いつもの、私?」
「元気だけが取り柄の、訳のわかんない前向きさの、どんなに大変なことがあってもへこたれない、バカがつくほどの純朴なお前」
「……え?」
「いいから、寝ろ。食事はまだできないだろ?でも、お腹がすいたなら言えよ。誰かに持ってこさせるから」
「だ、大丈夫です。食欲はあまりないし」
「ふん。いつものお前なら、ガツガツ食いそうだけど、本当に今のお前は、パワーなくしているんだな」
「…パワー?」
「さっさといつものパワー取り戻して、さっさといつものお前に戻れ。わかったな」
「………はい」
一臣様はそのあと、アタッシュケースを開き、中から書類の束を取り出して、静かに目を通し始めた。
私はそんな一臣様から醸し出される静かな空気を感じながら、いつの間にか眠りについていた。
そして、次に目が覚めた時には…、なぜか一臣様がすぐ隣で、寝息を立てて眠っていた。
「………え?」
何が起きたんだ?いったい?!!!