~その13~ 一臣様の過去
白のごくごく普通の下着を手に取り、パジャマを持って一臣様の部屋に行った。
「お風呂入ってきます」
と、一言言って、バスルームに行き、ぼ~~っとしながら、体を洗った。
「…お。本当に肌すべすべ、つるつるだ」
石鹸の泡をお湯で流して、そのことに気がついた。お腹の贅肉は…。昨日と全く変わっていないように見えるけど。たった数時間揉んでもらったくらいじゃ、変わらないのかな。
それから髪を洗い、バスタブに入ってのんびりとした。今日もアロマの香りがして、気持ちがいい。
「は~あ。なんか、気持ちが沈んだままだなあ」
バスタブでそんなことを呟いた。原因はわかっている。ユリカさんだ。
たいていのことは、5分で立ち直れる。でも、一臣様のこととなると、ずっと引きずる。それは何度も経験済みだ。
やっぱり、ちゃんと一臣様に聞くのが一番早いんだよね。でも、怖い。
ユリカのことは大切に思っているとか、離婚して帰ってきたユリカと、よりを戻すつもりだとか、そんなことを言われたらどうしよう。
やっぱり聞く。こうやってあれこれ考えて、ドツボにはまるパターンばかりだ。勝手に悩み、勝手に妄想して落ち込んで泣いて、一臣様から離れようだなんて、そんなこと何回かしちゃったし。
「よ、よし。ちゃんと聞くぞ」
気持ちを奮起し、バスタブから出た。そして、体を拭いて下着をつけパジャマを着た。
「行くぞ」
深呼吸をしてからバスルームを出て、一直線に一臣様が座っているソファまで歩いて行った。
「髪、濡れてるぞ」
一臣様はソファでのんびりと、本を読んでいるところだった。私を見ると、本をテーブルに置きそう言った。
「はい。あとで乾かします」
「お腹の贅肉、なくなっていたか?」
ギクリ。
「い、いいえ。昨日とほとんど変わらず…でした」
「ははは。そんなに簡単にはなくならないさ」
「はい」
し~~~ん。
一臣様は黙って私を見ている。やばい。なんだか、妙に色っぽい目つきだから、ドキドキしてきた。
ユリカさんのことを聞きたいのに。
「肌、つるつるだったか?」
「え?あ。はい」
「どれ?」
ええ?
一臣様は私の腰に腕を回して私を引き寄せ、私の腕を撫で、
「つるつるだな」
と、そう言って私の目を見た。
うわ。これ、なんか誘惑してる?
一臣様に腕を撫でられ、腕が脈をうったみたいになった。ドキンドキンって。いまだに、腕が熱い。熱を帯びている。
あ…。まただ。胸の奥の奥で、何かが疼く。キュンって。
「あ、あの…。腰に回した手、離してもらってもいいですか?」
「嫌だ」
また、一臣様が駄々こねだした。
ドキドキドキドキ。ずっと私の目を一臣様は見ている。それも黙ったまま。
「あ、あの」
どうしよう。目、見てられない。私は俯いた。
「今日、元気ないな。どうしたんだ?」
「え?」
ドキ。ユリカさんのことで落ち込んでいるの、わかっちゃったんだ。
顔をあげて一臣様を見ると、一臣様は心配そうに私の顔を見ている。
「イタリアン、嫌いじゃないよな?」
「はい。好きです」
「でも、顔があんまり嬉しそうじゃなかったぞ」
「…それ、お母様にも言われました」
「ああ。おふくろも、お前の食べるところ、ちらちら見ていたもんな。気になっていたんじゃないのか」
「そんなに、私、暗かったですか?」
「暗い。今もだ。どうした?龍二のことか?立川のことならもう、心配しなくてもいいぞ?」
「…はい」
し~~~ん。私が黙ると、一臣様も黙り込んだ。でも、まだ私の腰に手を回したままだし、じっと私を見つめている。
「ここに座れ」
一臣様は私をぐいっと引っ張り、一臣様の隣に私を座らせた。そしてすぐに、ギュッと抱きしめられた。
ドキ!ドキドキドキドキ。心臓が一気に早くなった。でも、聞くんだ。ここで、うやむやにしないで、ちゃんと聞くんだ、私!
「祐さんが、ユリカさんが日本に帰って来たって、そう言っていました」
「ユリカ?」
「はい」
「祐さんに何かふきこまれたのか。それで、沈んでいるのか?」
「……」
私は黙って俯いた。
「何をふきこまれた?言ってみろよ」
「あ、あの…」
怖い。一臣様の過去を知るのも、気持ちを知るのも。
「お前がそんなに落ち込むってことは、どうせろくでもないこと言われたんだろ?当ててみようか」
「え?」
「俺がユリカを追って、アメリカに行った…とか」
「……」
「俺が、必死になってユリカに治療を受けてくれと頼みこんでいた…とか」
「……」
「あいつが向こうで結婚して、俺がふられて日本に帰ってきた…とか」
「はい。そ、そんなようなことですけど、でも、もっといろいろと」
「もっと?なんだ。言ってみろよ。怒らないから」
「……一臣様が、ユリカさんが結婚してから、女遊びをするようになった…って」
「そんなこと言っていたのか?」
「あと、付き合う女の人は、みんなユリカさんに似た人だって」
「……ふ~~ん。で、他には?」
「えっと。私との結婚を嫌がっていたけど、なんかどうでもいいって、やけになっていた…って」
「なんだ、そりゃ。話が見えないな。祐さん、何をわけのわかんないこと、べらべら話しているんだろうな」
「…」
私は黙って、俯いた。
「なんだよ。それを全部真に受けて、また落ち込みまくったのか?」
「…」
コクンと小さく頷くと、
「あほ」
と言いながら、一臣様は私を抱きしめる腕に力を入れた。
「お前ってさあ、何回俺が言ったら、気が済むんだよ」
「え?」
私は顔をあげて一臣様を見た。うわ。すごく優しい目をしている。
それから、鼻をむぎゅってつままれた。
「あほだな。言ったろ?惚れた女はお前だけだって。何回かそう言ったと思ったんだけどな。もう忘れたのか」
「覚えています。でも、自信がないって言うか、一臣様のことになると、弱気になるって言うか…」
「なんでだ?俺が信じられないか?…まあ、あんだけ、女遊びしていたんだから、信じたくてもそうそう信じられないか」
「いいえ。そうじゃなくって…。そうじゃないんですけど、でも…」
「でも、なんだ?」
一臣様はさっきから、声がすごく優しい。こんなことを言ったら、もっと呆れるかと思ったのに。あほって言いながらも、すっごく優しい声だ。
「あ、あの…。嫌われているって、そう思っていたので、好かれているってことがまだ、信じられないんだと思います」
「俺に?」
コクン。
「そうか。じゃあ、どうやったら、信じられるようになるんだ?あ、俺に抱かれたら、さすがに信じるか?」
「………」
そうなのかな。全身で愛してもらえたら、確信できるのかな。愛されているって。
私は黙ったまま、また俯いていた。すると、
「おい。今のは冗談で言ったんだぞ。真に受けるなよ」
と、言われてしまった。
え?冗談?本気にしたのに…。
「また、警戒したのか?今」
「え?」
「まあ、確かに、お前のことを抱いたらさすがに、お前だって、わかるとは思うけど」
「な、何をですか?」
「俺がお前を愛してるってことだ。多分、もう今後疑いようがないくらいに、実感すると思うぞ?」
「……」
そ、そうなの?それって、どんななの?
ハッ。いけない。また、妄想の世界に行くところだった。
「じゃあ、ユリカさんのことは?」
どこかまだ、釈然としていなくてそう聞いてみた。
「しょうがないな。まだ、気になっているのか?じゃあ、真相をちゃんと話すから、しっかりと聞けよ」
「はい…」
「18で免許をすぐに取って、親父が18の誕生日祝いでくれた車をいい気になって、乗り回していた頃だ」
一臣様は私の腰に手を回したまま、ゆっくりと静かに話し出した。
「その頃一緒に遊んでいたやつが、あるパーティに俺を招待してくれて、そこでユリカと知り合った。まあ、パーティって言うと聞こえはいいが、合コンのちょっと派手バージョンだな」
合コン…。一臣様には似つかわしくない言葉だよね。
「ファッションショーにも出ていたし、どっかのファッション誌のモデルもしていたらしい。俺はその辺のことはまったく詳しくなかったけど、隣に連れて歩くのには、ちょっとした自慢になるな…くらいの軽い気持ちで付き合ったんだ」
自慢?誰に?わからないけど、今の一臣様じゃ、ちょっと考えられないな、そういうのって。
「ずっと、勉強だのいろんなものを詰め込まれて、全部を放り投げたかったんだ。緒方財閥を継がなきゃいけないっていうプレッシャーはその頃からあって、それも全部なくしたかった。なくなりゃいいと思ってた。だから、かなり無茶もした。車も、平気でスピードあげて、運転してた」
「……」
「ユリカもモデルで儲けていたんだろ。遊び方も他の女より、派手だった。だから、俺みたいなのと平気で付き合ってるんだと思ってて、一緒になって無茶やって、それで事故った」
「……」
「俺は打撲やら、むち打ちやらで済んだけど、あいつはモデルを続けていくこともできないくらいの、傷跡と後遺症が残っちまったんだ」
傷跡と後遺症が?
「モデル生命はそこで絶たれた。あいつ、俺が思っていたよりずっと、自分の仕事に命賭けていたんだ。ものすごく頑張って手に入れた地位だったんだよ。そんなことも知らないで、勝手に無茶して事故って、あいつのモデル生命うばっちまった」
そうだったんだ。
「ものすごい罪悪感でいっぱいになった。押しつぶされそうなほどに。あいつ、自殺までしようとしたんだ。モデルができなくなって…」
え?
「親父は、俺がそんな事故を起こしたことを、世間に知られないように隠したんだ。それで、金で解決しようとして、大金をユリカに渡して、アメリカに行かせたんだ」
「……」
「アメリカに、ユリカの後遺症や傷跡を治してくれる、すげえ医者がいるって、親父が調べ出してさ。その治療を受けてくれと言って、ユリカをアメリカに行かせた。でも、ユリカはアメリカに行ったは行ったんだが、金を送り返してきて、お金で済ませようとするなって、そう親父に言ってきて、手術も治療も受けようとはしなかったんだ」
「……」
一臣様はどこか、遠くを見ながら話していた。そして時々、辛そうな表情をした。
ギュ…。一臣様の胸にしがみついた。私の胸までが、辛くなってきたからだ。すると、私の顔を覗きこみ、一臣様は優しく微笑んだ。
「話、続けていいか?」
「一臣様は、思い出して辛くないですか?」
「ああ。もう吹っ切れてるから、大丈夫だぞ」
「じゃあ、聞きます」
一臣様は、私の手を握ってきた。そして話を続けた。
「そのあと、俺は渡米して、直接ユリカに会って、何度も何度も説得したんだ。親父が留学って形にして、本当に俺を向こうの大学に押し込んじまったけど、まあ、大学に行きながらも、ずっとユリカに治療を受けてくれって頼みこんでいたんだ」
ああ。そうなんだ。アメリカに追いかけて行ったのは、それでなんだ。
「…ユリカのためじゃなかった。自分の罪滅ぼしがしたかっただけなんだ。それで、早くに罪悪感から逃げたかった。ユリカに許してもらいたかったんだ」
「……」
「好きだからとか、ユリカが大事だからとか、そんなんじゃないんだ。最低なんだよ、俺は。そのことはユリカも俺も、わかってた。わかっていながらも、俺は必死でユリカを説得しに行ってた」
「…それで?」
一臣様が握りしめている手を、私は思わずギュッて握り返していた。
「ユリカはアメリカで、ある写真家と出会ってさ。写真を撮るほうに夢中になっていったんだけど、その写真家が、ユリカをモデルにしたいって言いだして。それも、ヌードモデル…」
え?
「ユリカは、すごい傷跡があるし、断ったらしい。でも、その傷跡があってもいいって言われたらしくって」
「…」
「ユリカはそいつに惚れてたんだろうな。傷跡のある自分じゃなくて、綺麗な自分を撮ってほしいと思ったらしくって、それでようやく、治療を受けるって言って来たんだ」
「じゃあ、今は」
「傷跡もほとんど残ってないし、後遺症もないよ。写真家とユリカは幸せに結婚したって、そういうハッピーエンドのストーリーだったんだ。俺はそれでようやく罪悪感から解放され、アメリカから日本に帰ってきた」
「でも、ユリカさんは離婚…」
「ああ。何があったんだか、わからないけどな。でも、もうそれは、俺の問題じゃないから」
「……」
「俺がアメリカから帰って来た時点で、終わってることなんだ」
「それで、女遊びは?」
「ああ。ちょうど、その頃、親父にね、上条グループの令嬢との婚約が決まったぞと言われて、それが嫌でやけになって女遊びを始めたってだけで、ユリカは関係ないぞ」
え?じゃあ、私が原因?
「それから、ユリカに似た女と付き合っていたっていうより、もともと、そういう女が俺のタイプだったんじゃないのか?まあ、タイプなんて、関係ないなって最近はそう思うけどな?」
「え?」
「お前みたいなみょうなのに惚れちゃったんだし」
「みょう…?」
「そう。みょうちくりん小動物」
「え?なんですか?それ!」
「お前って、犬とか猫より、小動物に似てるよな?いつもはそうじゃないけど、俺に対して弱くなると、小動物みたいに震えたり、目が潤んだり、変な動きをし出したり」
「変な動きって?」
「挙動不審。見てて飽きないよな、本当に」
酷い。っていうか、話がずれてる。
「あ、ふくれた。そのふくれっつらはリスみたいだな」
「………」
「ははは。めちゃ、可愛いよな?お前って」
そう言うと、ムギュウっと一臣様は私を抱きしめた。
「俺とユリカのことはわかったか?これでもう、安心できたか?」
「はい」
「よし。じゃあ、髪乾かせよ。風邪ひくぞ。俺も風呂、入ってくるから」
「はい…」
一臣様はバスルームに入って行った。私はチェストの前に座り、ドライヤーをかけだした。
「………」
安心した。一臣様の、「惚れた女はお前だけだ」っていう言葉も聞けて良かった。
ほっとした。それと同時に、胸の奥がまたキュンってした。
一臣様に抱かれたら、本当にもう疑ったりしなくなるのかな。それだけ、愛されているって実感できるんだろうか。
ぼわ~~~~。髪を乾かしながら、思い切り妄想の世界に浸りこんだ。
一臣様の、優しい手とか、目とか、声とか…。さっきの腕を一臣様に撫でられた時の感触とか。
いろんなことを思い出したり、そんな優しい手で、全身触られちゃうのかなとか、大人のキスしてきちゃうのかなとか、私の全部を優しい目で見られちゃうのかなとか、勝手にあれこれ妄想して、心臓は暴れ出し、顔は火照りまくり、胸の奥はキュンキュンしていた。
どうしよう。なんだかわかんないけど、胸の奥がうずうずうずうず、ずっと疼いている。
これ、何?
ドキ。ドキ。ドキ。ドキ。もうすぐ、一臣様がバスルームから出てくる。
また、髪が濡れてて、バスローブ姿が色っぽくって、セクシーで、素敵なんだろうな…。
はう…。
その姿も、思い出して顔が火照りまくった。
おかしい、私。絶対に変だ。どうしよう。
ガチャリ…。
うわ!
ドッキ―――ン!
一臣様がバスルームから出て来ただけで、心臓が跳ね上がった。体も跳ねたかもしれない。
「弥生、髪、乾かし終えたか?」
「はい」
「じゃあ、もういいぞ。寝ても」
「……はい」
ドキドキしながら、椅子から立ち上がり、ベッドに行こうとすると、
「自分の部屋のベッドで寝ていいぞ?言ったろ?今日から別々に寝ようって…」
と、そう一臣様に言われてしまった。
え?
一臣様の顔を見た。髪が濡れてて、前髪からぼたっと水が滴り落ちた。う。麗しい。
違った。そうじゃない。今、なんかショッキングなことを言われた。
「じゃあな。おやすみ」
一臣様は私のおでこに優しくキスをすると、私が持っているドライヤーを受け取った。そして、立ったまま、自分の髪を乾かしだした。
ああ。私、自分の部屋に戻らないとならないのか。
ドスン。
なぜか、頭上に岩が落ちてきた。
とぼとぼと、一臣様の部屋を出た。そして、自分の部屋のベッドにドスンと寝っころがった。
フカフカで、思い切り体が沈み込んだ。それと同時に心も沈み込んでいく。
別々の部屋で寝るんだ。今日から…、いつまで?
ズズズン。気持ちがめり込んでいく。
「………はあ」
寂しい溜息が出た。それから、しばらく私はそのまま、ベッドにめり込んでいた。