~その12~ 部屋に侵入
「弥生様、夕飯の準備が整いました」
ドアの外から亜美ちゃんの声がした。
「はい」
私はすぐにドアを開けた。そして、笑顔を作った。
「亜美ちゃん。今日の夜は、大丈夫です」
「え?何がですか?」
「心配して、部屋まで送ってくれなくても大丈夫ですからね?」
「はあ…」
亜美ちゃんはキョトンとしていた。
もし、一臣様のことで、龍二さんが怒りだしたら、亜美ちゃんが近くにいたら、すぐにクビだと言って辞めさせてしまうかもしれない。それだけは避けたい。
ダイニングに行くと、お母様と龍二さんをのぞいて、他のみんなは揃っていた。一臣様もちゃんと席に着いていて、麗子さんや敏子さんの話を聞いていた。
私がその前を通り過ぎ、席に着こうとすると、一臣様の視線を感じた。ふっと一臣様のほうを見ると、一臣様はすぐに視線を外した。
あ…。寂しい。ああいうのって。
特に今は、胸に堪えてしまう。ユリカさんの話は、なんだってこうも私を落ち込ませるんだろう。もう、過去のことだし、離婚して日本に戻ってきたとしても、関係ないんだよね。
そう思いたい。でも、不安になる。なんだってこうも、一臣様のこととなると、私は弱くなるんだろう。
お母様と龍二さんもダイニングテーブルに着き、ディナーの時間になった。今日は、和食でもフレンチでもなく、イタリアンだ。
前菜のサラダ、パスタ、お肉料理。どれも美味しい。
でも、気持ちがあがらない。
デザートも美味しかった。食後にはコーヒーを出してくれた。エスプレッソで、苦かった。
そこまで、コック長はイタリアンに凝ってみたのかな。
「ご馳走様でした」
そう言うと、コック長はキッチンから出てきた。
「美味しかったです。ご馳走様でした」
もう一度、コック長にそう言った。コック長は、
「ありがとうございます」
と言って、お母様と一臣様のもとへと進んで行った。
もちろんのこと、お母様は、
「美味しかったです」
と、一言言い、一臣様も、
「美味しかったぞ」
と、一言だけ言った。
「わたくし、このようなコーヒーは飲めませんわ。入れ直してくださる?」
そう言ったのは、麗子さんだ。
「わたくしは、デザートを下げてください。甘いものは控えていますので」
今度は敏子さんの発言だ。
あ~あ。まただ。お母様の顔、にこりともしていない。思い切り不機嫌そうな顔をしている。
「美味しかったです。でも、残してしまって申し訳ありません」
京子さんがそう言った。どうやら、今日のイタリアンは口に合わなかったのか、それとも、量が多かったのか。
「申し訳ありません」
入れ直したコーヒーがすぐに運ばれ、敏子さんのデザートはすぐに下げられ、京子さんの前にあったお皿も下げられた。
「いつも、上条家のご令嬢は満足げだな。それだけ、食い意地がはっているのか?」
突然、龍二さんがそう言った。
「え?」
びっくりして、聞き返してしまった。
「上条家は、高校を卒業後、アパートで少ない仕送りで生活しないといけないようだから、なんでも美味しく感じられ、腹いっぱい食べることを楽しめるんじゃないのか?」
そう一臣様はこっちを見ようともしないで、低い声で言った。
えっと、今のって、嫌味か何かを含んでいるのかな。
「まあ、そうですの?変わっていますのね、上条家って」
「そうですよ。麗子さんのようなお上品な暮らしはしていないようですよ?」
一臣様はにこりと微笑みながら、麗子さんに言った。
グッサリ。確かに上品ではなかったけれど、そんな言い方って。
違う。今のも演技だよ、弥生。傷つく必要なんてないんだから。でも、やっぱり、傷つく。
「皆さん。明日のパーティでは、もっと豪華にするつもりです。楽しみにしてください。皆さんのお口にもあうと思いますよ」
と、京子さんや麗子さんを見ながら一臣様はにこりと微笑んだ。
「まあ。楽しみですわ」
「僕もみなさんの演奏や舞いが楽しみです」
一臣様はさらに、にこやかな顔でそう言うと席を立ち、
「では…」
と、ダイニングを出て行こうとした。
「一臣様。一緒にお酒飲みませんか?最後の夜ですよ?」
「最後?まだ、明日がありますよ。麗子さん」
「明日はパーティじゃないですか?2人きりになれるのは、今夜が最後です」
「申し訳ない。父から、一人の人とだけ親しくしないようにと、言われていますので」
「まあ、よろしいじゃないですか」
「……ですが、ここでおひとりと仲良くするわけにはいきませんから。明日も、パーティが始まるまでは、皆さんも準備があるでしょうし、僕も部屋でゆっくりとさせていただきます。また、明日の晩、パーティの時にお会いしましょう」
「一臣様!」
今の言葉に、突然敏子さんが席を立ちあがり、
「どなたをフィアンセに選ぶのか、もうお決めになっているんですか?」
と、ものすごい直球の質問をした。
「…それは、まだ、言えません」
「決められていないんですか?」
「そうですね。明日、他の候補者の方も来ますし、決めていませんよ」
「一臣様。ぜひ、父が一臣様によろしくと…」
今度は麗子さんがそう言いだした。
「うちの父も、とても一臣様のことを…」
その横から、敏子さんも。すると麗子さんは敏子さんをぎろりと睨み、敏子さんも睨み返した。
怖い。女の戦いって、ああいうのを言うのかな…。
「ああ。申し訳ない。僕は部屋に行きます。皆さん、この場でいきなり、争うことのないよう、お願いしますよ?」
一臣様は、にこりと冗談めいた微笑みを見せ、その場を颯爽と去って行ってしまった。
「…。今夜が勝負なのに」
ぼろっと口から出たのか、そう麗子さんは言った後に慌てて口をつぐみ、席を立った。
それに負けずと敏子さんも席を立ったが、京子さんはさっきから、とても静かだった。
お母様は、そんなみんなの様子を見てから、静かに立つと、なぜか私のところにやって来た。
「?」
何かな。ちょっと怖い…。何か怒らせるようなことをしちゃったっけ?
「弥生さん。あなたは、明日、琴を演奏するんでしたっけ?」
「はい」
「それは完璧なの?失敗しないでちゃんとできるの?」
「はい。練習はしっかりとしてきました」
「お着物を着るのかしら」
「はい。祖母が私のために作った着物を着ます。着付けもしっかりと習って来ました」
「そう。喜多見さんがちゃんと着物の着付けができるから、手伝ってもらうといいわ」
え?
なんで、いきなりそんなことを?
「もし、喜多見さんが手が空いていないようなら、わたくしの部屋にいらっしゃい」
「え?お、お母様のお部屋?」
「わたくしも、着付けくらいできますよ」
そう言うと、お母様は一回後ろを向いたが、また私のほうを向き、
「あなたは、イタリアンはお好きではないの?」
と聞いてきた。
「いいえ。好きです。今日もとても美味しかったです」
「そう。昨日と食べている時の表情が違っていたから、お嫌いなのかと思いましたよ」
え?見られてた?
お母様は、またくるりと出口のほうを向くと、颯爽とダイニングを出て行った。
京子さんと龍二さんは、何やら2人で話している。私は、お母様の言葉にしばらく呆気にとられていたが、
「お部屋に戻られますか?」
という亜美ちゃんの言葉にはっとして、
「はい」
と、すぐに席を立った。
それから、龍二さんに何か言われる前に、ダイニングを出た。
龍二さんは、後ろからついてきて、私が一臣様のお部屋に入るかどうか確認するのかな。
お母様、なんだっていきなり、あんなことを言いだしたんだろう。着付けを手伝ってくれるようなことを。何か裏でもある?まさかね。でも、一臣様に報告しておかないと。
一臣様…。そうだった。ユリカさんのこと、まだ気になるんだった。
あ、そういえば、さっき、一臣様から、なにか傷つくようなことを、さっくり言われた気がする。
駄目だ。思考回路がはちゃめちゃだ。自分で何を考えているのか、わけがわからない。次から次へと、いろんな考えが浮かんでは消えて、おかしくなってる。
私は今、何をしたらいいの?
階段を一つ一つ上りながら、今することを考えた。すると、後ろから人の気配がするのを感じた。
何気に、横目で見てみた。すると、龍二さんと京子さんが、階段の下で2人で話しているのが見えた。
まさかと思うけど、京子さんまでついてくる気かな。あ。まさかと思うけど、京子さんに私が一臣様の部屋に入るところでも見せる気かな。
ドキドキドキドキ。
失敗は駄目。亜美ちゃんのクビがかかっている。ちゃんと部屋に入れてもらわないと。
ああ。前もってやっぱり、一臣様に相談しておけばよかった。今頃後悔しても遅いけど。
一臣様のドアの前まで来た。横目で階段のほうを見ると、やっぱり、人影が見える。きっと、龍二さんだ。そして、もう一つの人影は京子さん。
トントン。ドアをノックした。
「上条弥生です」
すると、すぐにドアが開いた。
ドキン。一臣様の顔を見ただけで、いろんな思いが交差する。
「なんだ?」
あ。冷たい言い方だ。今の私にはこの声も堪えてしまう。
「あの…。お部屋に入ってもいいですか?」
声が震えた。それに小さな声になってしまった。
「…。駄目だ」
一臣様は冷たくそう言った。
演技だとわかっていても、心がぽっきりと折れそう。すぐにでも、自分の部屋に入りたい。
でも、ここで引き下がれないよ。きっと、中まで入らないと、龍二さんが怒りだして…。
でも、いいの?部屋に無理やり入れてもらうように仕向けるなんて、そんなことしても。一臣様が本気で嫌がったり、怒りだしたりしない?
いや。亜美ちゃんのクビがかかってるし。ここは、頑張らないと。
「用事は他にないんだな?」
一臣様はそう言ってから、目線だけを階段のほうに向け、すぐにまた私を見た。あ、きっと龍二さんがいるのに気がついたよね。
「わ、私を明日は選んでください」
「……え?」
違う。もっと、何かこう、龍二さんが納得するようなすごい言葉…。そのくらい言わないと亜美ちゃんのクビがつながらない。
「わ、私を今夜抱いてください!」
……。
え?今、なんて私口走った?
うわあ!いきなり、唐突に、口から出た。と、とんでもないことを言ったかも!
恥ずかしくなり、顔が熱くなった。一臣様の顔も見れない。でも、だんだんととんでもないことを言ったかもと、顔が青ざめていくのを感じた。
「は?」
一臣様は一拍おいてから、聞き返してきた。
「ち、違う。そうじゃなくって」
ぱくぱくと口を動かしたけど、そのあとの言葉が出てこない。どうしよう。助けて。一臣様。
「すげえな。上条家のお嬢様はずいぶんと大胆なんだな」
酷い。助けるどころか、そんなこと冗談交じりで言うなんて。そこに、龍二さんが隠れているの、気づいているよね?
どうしよう。逃げたい。でも、亜美ちゃんのクビが…。
「お、お願いします。部屋に入れてください。わ、私を、私を…」
なんて言ったらいいの?ああ、パニック!
私は一臣様に抱きついた。そして、必死に何かを言わなくっちゃと思い、言葉をひねり出した。
「一臣様のものにしてくださいっ!」
う…。
うっわ~~~~!!!また、すっごいこと言ってる!私っ!!!!
「いいのか?」
え?!ドキン!
一臣様が耳元で、そう囁いた。この声は龍二さんのところまできっと、届いていない。
ぎゃひ~~。違うんです。違うんです。これには、亜美ちゃんのクビがかかっていて、私の本心ではないんです。
そう言いたい。でも、言えない。一臣様の胸に顔をうずめ、泣きそうになっていると、
「と、とにかく落ち着け。ここで騒いでいたら、誰かに聞かれちゃまずいだろ?中に入れ」
と、一臣様は普通の声の大きさで言ってから、私を部屋の中に引っ張り、ドアをバタンと閉めた。
私は一臣様にしがみついている手を離した。でも、一臣様のほうが私をぎゅうっと抱きしめて来ていて、離してくれなかった。
足、ガクガクだ。一臣様が抱きしめていなかったら、そのままこの場に座りこんだかも。
「一臣様が…。弥生さんを…。そんな!」
悲痛な声がドアの外から聞こえてきた。この声、京子さんだ。やっぱり、階段のところから見ていたんだ。
「これでわかったでしょう?兄は、あなたが思っているような、紳士でもないし、誠実な男でもないんですよ」
ドアの前から、今度は龍二さんの声が聞こえてきた。どうやら、2人で廊下を歩いているようだ。
だんだんと声はフェイドアウトしていき、消えて行った。
「し~」
一臣様は私にそう言うと、そうっとドアを開けた。そして、廊下の先を見てから、またドアを静かに閉めた。
「京子さんの泊まっている部屋に、2人で入って行った」
「え?!」
「あいつ、俺が女にだらしない男だと、なんとなくそんなことを京子さんに匂わせていたんだ。それで、最後の作戦は、お前が俺の部屋に来て、俺がお前を部屋に連れ込み、それを京子さんに目撃させ失望させるって、そういう作戦だろ」
「…」
「龍二に頼まれたんだろ?」
コクン。黙って頷いた。一臣様が私の背中から腕を離したので、私はその場にへなへなと座り込んでしまった。
「おい、大丈夫か?」
「き、緊張して、足が…」
「緊張ってなんでだよ」
「だ、だって、あんなこと、私、一臣様に言っちゃって…。恥ずかしいし、穴があったら入りたい」
「なんだよ、それ。俺は素直に嬉しかったけどな。お前の本心じゃないと知っていても、浮かれたぞ」
え?
「かなり浮かれた。その気になった」
「だ、ダメです。今のは、亜美ちゃんのクビがかかっていたから、必死の思いで言っただけで…」
「クビ?立川のか?」
一臣様も私の前にしゃがみこみ、私の顔を見ながらそう聞いてきた。
「はい」
「龍二が、失敗したら立川をクビにするとでも言って来たのか?」
「はい」
う…。涙でそう…。
「アホだな。あいつにそんな権限あると思うか?あいつがクビにするって言っても、俺も親父もクビにさせたりしないぞ」
「で、でも。万が一ってこともあるし。だから、必死で」
「こら。泣くな…。立てるか?」
一臣様が優しくそう言って、私を優しく抱き寄せ、立たせてくれた。
「お前、肌つるつるだな。エステで、綺麗になってきたのか?」
ドキ!
「は、はい。つるつるなの、わかりましたか?」
「そりゃわかるさ。顏だけしてきたのか?」
一臣様はそう言いながら、私の頬を撫でた。
うわ。胸がキュンってする!
「いえ。全身してきました…」
あ。言っちゃった!
「全身?エステって何をするんだ」
「マッサージとかです。顏は小顔になるマッサージをしました」
「変わらないぞ?丸いまんまだ」
グッサリ。
「お腹の痩身もしました」
「へえ。それは見てみないとわからないな。で、あとは?」
「あ、あとは。オイルマッサージです」
「……全身をか?」
「はい」
「……」
なんで、一臣様、顔を赤くしたんだろう。
「そうか。じゃあ、全身つるつるぴかぴかか」
「はい」
あ。はいって言っちゃった。なんか、大変なことをばらしちゃったかな。
うわあ。一臣様の抱きしめる力が、増した気がする。
「風呂、入ってくるか?それで、下着はどれに」
「そういうことは無理強いしないって、今朝も一臣様は…」
「言ったな…」
「はい」
「言わなきゃよかったな」
ぼそっとそう言ってから、一臣様は私のことを抱きしめていた腕を離した。
「あ~あ。さっきの言葉が、耳から離れないぞ。どうしてくれるんだ。半分、その気になってる」
え?
「いや。その気になっても、無理なんだってことはわかってるけどな。だけど、淡い期待もしたし…」
さっきの言葉って。もしや。
『私を抱いてください』とか『一臣様のものにしてください』とか?
うひゃ~~~。思い出しただけでも、顔からボッと火が出た。なんだって、あんなこと口走ったんだろう。
「お風呂入ってきます。あ、下着やパジャマも持ってきます」
そう言って私はそそくさと、自分の部屋に行った。
まだ、顔は火照りまくっていた。ドキドキも収まらない。
クローゼットを開け、引き出しを開けた。中には、紫のパンティや、紐やレースビラビラのパンティが並んでいる。
「………。これ、履いたら、一臣様は、喜ぶのかな」
と、呟いている自分がいて、思い切りびっくりした。
うわあ。何を考えてるんだ。私は。
それから、しばらくクローゼットで、座り込んでぼ~っとしてしまった。
頭の中では、祐さんから聞いたユリカさんのことばかりが、何度も繰り返し浮かんでいた。