~その4~ しおらしい私?
髪を乾かしてバスルームを出ると、一臣様が椅子に座り、何かを飲んでいた。どうやらお酒のようだ。
「お前も飲むか?」
「いえ。酔って寝ちゃうから飲みません」
「いいぞ。別に、風呂も入ったんだし、あとは寝るだけだろ?だったら、飲もうが飲まなかろうが、変わらないだろ」
変わります。だって、記憶がなくなっちゃうから、一臣様に何かされても忘れちゃうってことだもん。そんな怖いことはないよ。
「飲みません。もう寝ます」
「まだ、11時前だぞ」
「でも、昨日もあまり眠れていないから、寝てもいいですか?」
「寝れなかったのか?」
「はい」
「なんでだ?」
「……それは、その。なんだか、ドキドキしちゃって」
「俺が隣にいたからか?」
「……はい」
素直に頷いた。すると、一臣様はグラスをテーブルに置き、すっくと立ち上がって私の隣に来た。
「まだ寝るなよ。キスのステップアップもできていないんだし」
ぎゃあ。
「い、いいです。今日は遠慮します」
一臣様に抱きしめられそうになり、慌てて逃げてそう言った。
「…しょうがねえな」
そう呟くと、一臣様はそのままバスルームに行き、ドライヤーで髪を乾かしだした。
う…。びっくりした。あのまま、押し倒されるかと思った。
でも今の言葉を、耳元でそっと囁かれていたら、私、どうなっていたことやら。
ハッ!何を考えてるんだ。一臣様が戻ってくる前にもう寝てしまえ。
いそいそとベッドに入った。そしてベッドの端に行き、一臣様には背中を向ける形で、目をつむった。
だけど、その途端、ドキドキしてきてしまった。
今日も寝れなかったら、どうしよう。やっぱり、お酒飲んだ勢いで寝たほうが寝れるかなあ。
もそ。一臣様、まだドライヤーかけてるよね。私はベッドから降りて、一臣様が飲んでいたグラスを覗きに行った。
あ。まだ、グラスに残っている。何のお酒かな。これ飲んで、さっさと寝ちゃおうかな。
うん。
カラン。大きめの氷が入っていて、冷たい。
ゴクン。ゴクゴク。半分くらい残っていたお酒を思わず飲み干した。
「ゴホッ。ゴホッ。むせた。つ、強かったかも」
飲み終えてから、思い切りむせて、強いお酒だったと気が付いた。
味は、よくわからなかった。飲んだことのない味だ。
「ふ、ふらつく。喉が熱い」
もしかして、相当度数の高いお酒だったのかな。顏も体も一気に火照ってきた。
ガチャリ。
「あ、なんだよ、お前。まさか、そのお酒飲んだのか」
一臣様がバスルームから出てきて、私がグラスを持っていたからかそう聞いてきた。
「はい」
「はいって…。あれ?」
一臣様は私の前まで来ると、空になったグラスを見て、
「これ、全部飲んだのか?」
と、びっくりしながら聞いてきた。
「はい」
「お前、大丈夫か?これ、強いぞ。バーボンでも強い方だし、ストレートだぞ、これは」
「バーボン?へえ。これが、バーボン…」
「酔ってるな。目がもうすわってるぞ…」
「眠れないと思って。お酒飲んでグーって寝ちゃおうと思ったんです」
「そんなに眠れそうもなかったのか?」
私はふらついて、その場にあった椅子に座った。もう、天井も床も回っている気がする。
「だって、一臣様にいつ襲われるか気が気じゃなくて」
「……無理やり襲わないから、安心しろよ」
「本当に?!」
「ああ」
私はその言葉で一気に安心して、いきなり眠気が襲ってきた。
「眠い」
「ここで寝るな。ベッドに行け」
「抱っこ」
「はあ?襲うなって言ってたやつが、何を言いだしているんだ」
「抱っこ~~」
「……ったく。襲うぞ」
「無理やり襲わないって、さっき、一臣様約束しました」
「はいはい。ああ、面倒くさい奴だなあ」
一臣様はそう言うと、私のことをひょいとお姫様抱っこしてしまった。
「一臣様って、筋肉ありますね」
「一応鍛えているからな」
「素敵!」
私はそう言いながら、一臣様の首に両腕を絡ませた。
「……そうか?」
「はい。腕が筋肉質で、こうやって抱っこされてるだけで、ドキドキってしちゃいます」
「お前、言ってることが矛盾してるな。じゃあ、その筋肉質の腕に抱かれてみるか?」
「もう抱かれています」
一臣様は私をベッドの上に、ドスンと寝かせた。
「そうじゃなくて。俺に抱かれてみるかって聞いたんだ」
そして、私の上に覆いかぶさり、そう言ってきた。
「いいえ。それは駄目です」
「なんでだ?」
「駄目なものは駄目です。もう寝ます。おやすみなさい」
「おい…」
一臣様は呆れたって言う声で、片眉をあげた。ああ、その顔も好きなんだ。
「おやすみなさい」
「…ったく。しょうがねえなあ、このお嬢様も」
そう言うと、チュッと私の唇にキスをした。
「お、おやすみのキスですか?今のって」
「そうだ」
「嬉しい」
「……」
あ。また、片眉があがった。呆れたのかな。
「襲いたくなるだろ?可愛いことを言うな、可愛い顔して」
え?
ドキン。
「じゃあな、おやすみ」
「一臣様」
私はなぜか、起き上がろうとしていた一臣様のバスローブを掴み、
「私って、どうも、耳で優しく囁かれるのが弱いみたいです」
と、そんなことを口走っていた。
え?おいおい。何を一臣様に言ってるの?と、びっくりしている私もいる。でも、勝手に口がべらべらとしゃべってしまう。
「だから、耳元で、優しい言葉をささやかれたら、きっと私はそれだけで、一臣様に落とされちゃいます」
「は?」
そう言って、私は満足したのか、もっと眠気に襲われた。そして目をつむった。
「お前、そんなこと俺に教えていいのか?すごい情報だったぞ、今のは」
一臣様の声がした。呆れたっていう声だ。
「まったく。そんなこと言って、無邪気な顔して寝るんだから、手なんて出せないよなあ」
一臣様の声がだんだんとフェイドアウトしていく。
ふわふわと気持ちいい。優しい手が私の頬に触れる。髪も撫でてる。
「弥生、可愛いよな、お前」
そんな声が聞こえた。きっとこれは夢の中だ。
夢の中での一臣様は、優しいんだなあ。
うっとりと私は夢を満喫していた。
翌朝、起きたら頭がガンガンしていた。
「もしや、二日酔い」
あ~~。そうだ。昨日一臣様のお酒飲んで寝ちゃえって思って、飲んで寝たんだ。ぐっすりと。
隣を見ると、一臣様はまだ寝ていた。
なんか、気持ちも悪い。私はそっとベッドから起きだし、バスルームに行った。でも、吐くこともできず、ただただ、頭痛がするばかり。
ベッドまで這うようにして戻った。そして、一臣様の隣に寝っころがると、一臣様が目を覚ました。
「弥生、起きたのか?」
「う~~~~~~」
「ああ。二日酔いか。頭痛がするのか?」
「あい…」
自分の声でも頭に響くので、すごく小さな声で答えた。頭をちょっとでも動かすと痛いので、動かさないように固定したまま。
「オレンジジュース、グレープフルーツ。あとは何があるかな。まあ、二日酔いにいいとされるものを用意させるから、ここで待ってろ」
「ダイニングに私は行かないでもいいんですか?」
「行けないだろ?その頭痛で」
一臣様はそう言うと、携帯でどこかに電話した。どうやら、喜多見さんか、樋口さんのようだ。
「ああ。弥生が二日酔いなんだ。ダイニングには行けそうもないから、持って来てくれないか。二日酔いにいいものなら、なんでもいい。あと、俺にはコーヒーを頼む」
そう言って、一臣様は電話を切った。
「一臣様はダイニングに行かないんですか?」
「お前が行くなら、行こうと思っていたが、お前が行かないなら行かないぞ」
「いいんですか?麗子さんも、お母様もいらっしゃるのに」
「おふくろはいないだろ。朝はいつも、8時過ぎてから起きて来るし、麗子さんもそんなに早くに起きているかどうか。ああ、龍二も朝は飯を食わないから、いないかもしれないな」
「じゃあ、どっちみち、私と一臣様だけ?」
「だろうな。だから、いいさ。ここにいろ」
「はい」
「めちゃくちゃ強い酒を、一気飲みしたんだもんなあ。本当にお前には驚かされる」
「ごめんなさい」
「まあ。いい。いい情報も手に入ったし」
「え?」
「なんでもない」
「え?え?気になります。なんですか?」
「教えるわけがないだろう。ふん」
一臣様は鼻で笑った。それから、目を細めて私を見た。
「まだ痛いか?」
「ガンガンします」
「あほだなあ。でも、もう酒飲まないでもいいぞ。無理やり襲うなんてことはしないから」
「……はい」
一臣様がなんだか、優しい。ほっと安心できる。
一臣様は顔を洗いに行き、着替えを始めた。私はとてもじゃないけど、起き上がることもできなかった。
トントン。
「一臣おぼっちゃま、お持ちしました」
ドアの外から喜多見さんの声がした。
「ああ。悪い」
一臣様がドアを開けると、喜多見さんがコーヒーと、オレンジジュースと、グレープフルーツが乗せてあるお盆を持って、中まで入ってきた。
「どこに置きますか?」
「そこのテーブルの上でいい。悪いな。ここまで運んでもらって」
「いいえ。弥生様。大丈夫ですか?」
ベッドでまだ、うずくまっている私に向かって、喜多見さんが聞いてきた。
「あい」
また私は、声になるかならないかの小声でそう答えた。
「俺のバーボンのストレートを飲んじまったんだ。それも一気に。あほだろ?」
「まあ…」
「すみません」
「お仕事には行かれますか?」
「あい…」
「大丈夫だろ?こいつ、前にも二日酔いで具合が悪かったのに、あっという間に治しちまったんだ。回復力半端ないからな」
「そうですか。他にも何か必要なものがありましたら、遠慮なく言ってくださいね。弥生様」
「あい」
また、小声で頭を振ることもなく、私はそう答えた。
「喜多見さん、ダイニングは誰かいるのか?」
「はい。麗子様が」
「…一人でか?」
「ええ」
「早起きなんだな」
「一臣おぼっちゃまに会いたかったようですよ。会社に行く前に、きっとお声をかけてくると思います」
「ええ?なんだよ。じゃあ、また弥生とは別々に車に乗ることになるのか?」
「先に行ってください。私を待っていたら、遅くなるかもしれないです」
私はそう言いながら、体を起こそうとした。でも、頭がガンガンしていて、思わず、頭を抱え込んでしまった。
「いった~~~」
「大丈夫ですか?弥生様」
「ほら。弥生。俺が支えるから、無理するな」
一臣様が私のすぐ横に座り、私を支えてくれた。そして、喜多見さんからオレンジジュースの入ったコップを受け取り、私に飲ませてくれた。
「これ飲んで、しばらく横になってろ。いいな?」
「あい」
「さっきから、あい、あいって、ずいぶんと可愛い返事だな」
「大きな声出すと、痛いんです。だから」
私はそう、こそこそと言ってから、ゆっくりと横になった。
「しおらしい弥生も可愛いな」
ぼそっと一臣様はそう言った。隣りで喜多見さんがそれを聞き、くすっと笑うと、一臣様は喜多見さんのほうを見て、焦ったように、
「あ。喜多見さん、また用があったら呼ぶから、もういいぞ」
と喜多見さんを追い出してしまった。
一臣様は、椅子に腰かけてコーヒーを飲んだ。それから、ドアの下に挟んであった新聞を読みだした。まるで、ホテルのように、一臣様の部屋のドアの下には毎朝、新聞が挟んである。
「一臣様は何時に出て行かれるんですか?」
「俺は…。今日は10時から、アポが入っているからそれまでに出社する」
「そうなんですか。じゃあ、私のほうが早くに出ることになりますね」
「なんでだ?」
「え?だって、私、8時半までには行かないと」
「無理だろ?もう8時になるぞ」
「え?」
う、いたたた。まだ、頭が痛かったんだった。でも、さっきよりは落ち着いた。
「遅刻するわけには。せめて9時にはつかないと」
私はベッドから起き上がった。起き上がるとさらに、頭痛はした。
「食べられるなら、グレープフルーツも食べたらどうだ?」
一臣様はそう言って、グレープフルーツの乗ったお皿を持って来てくれた。
「はい」
私はそれを、ベッドに座って食べた。
「なんだ。「あい」っていう返事、しおらしくて可愛かったのにな」
「もう、そこまで頭痛がひどくないので」
「でも、可愛かったぞ?たまにはあんなふうに返事しろよ」
「……」
そうは言われても。なんだか、照れちゃって無理。
「細川女史には、遅刻するってことを言っておく」
「怒られますよね。二日酔いで遅刻なんて」
「怒られないだろ?お前の上司じゃないんだから」
「え?そんなことないです。細川女史が上司です」
「お前は、俺についてる秘書なんだよ。たとえば、青山ゆかりの上司は親父だし、樋口の上司は俺だ。俺の第1秘書だからな」
「っていうと、私の直々の上司って?」
「俺だ」
「え?!」
う。また、今、頭がガンガンって響いた。
「だから、上司が遅刻を許してるんだから、誰にも怒られることはないぞ。今は、秘書課の人数が足りなくて、お前を貸し出しているようなもんだからな」
「……いったい、いつの間にそんなことに?」
「お前のことを俺につかせるって、そう宣言してからだ」
そうだったんだ。初めて知った。私の直々の上司は一臣様で、私は一臣様の秘書で…。
「わかったら、それを食って、さっさと二日酔いを治せ。いいな?」
「あい」
「…あれ?また、しおらしくなったな」
「あ。つい…なぜか口から出ちゃった」
「ははは。元気な弥生も可愛いけど、弱ってる弥生も可愛いよな」
うわ!今日も朝から、可愛いと言われてしまった。
そして夢を思い出した。まさかと思うけど、あれも現実だったりして?
一臣様はまた、新聞を読みながらコーヒーを飲んだ。
ああ。その姿が、とっても麗しい。うっとり。
今日の夜にはもう二人、ライバルが現れるというのに、私は呑気に一臣様に見惚れていた。