~その7~ またも落ち込む
トイレを出て、エントランスに向かって歩き出すと、どこからともなく樋口さんが現れた。
「弥生様、大丈夫ですか?」
「え?」
「なかなか戻られないので、具合でも悪いのかと思って心配していました」
樋口さん、私がトイレから出てくるのをずっと待っていてくれたの?
「ごめんなさい。心配かけてしまってすみませんでした」
「いえ。わたくしは別に…。ただ…」
「え?」
「弥生様は、一臣様の大切なフィアンセですので」
樋口さんはそう小声で言うと、「お送りします」とエントランスの方に歩き出した。
周りには、もう人はいなかった。受付の人も帰ってしまったようだ。
私は樋口さんのあとについて歩き出した。樋口さんはエントランスから出ると、駅の方に向かわずそのまま右に曲がり、駐車場の方に歩いていった。
「あの?」
「車で送ります」
「え?」
「一臣様に車で送るようにと仰せつかっております」
一臣様が?!
「なな、なんで?」
「宅配便のアルバイトの久世将嗣氏が、弥生様に近づいているようですね」
「な、なんでそれを?」
「一臣様も、気にされています」
「どうして?」
「…久世将嗣氏は、George・kuzeのご子息であることは存じていますが、なんで弥生様に近づいているのかはわかりませんので」
「なんでって、親切心からです。彼はとてもお優しい方で…」
「弥生様。弥生様は一臣様のフィアンセです。あまり、他の男性と親しくするのはどうかと…」
樋口さんはちょっと言いにくそうにそこまで言うと、駐車場に停めてあった車の後部座席のドアを開けた。
「どうぞ」
「……はい」
私は荷物を先に入れてから、車に乗り込んだ。樋口さんはドアを閉めると、運転席に乗った。
そして、すぐに車を発進させた。
しばらくは黙って樋口さんは運転していたが、
「一臣様は今日、社長に婚約を破棄しろと、あのあと本当に言いに行かれました」
と話しだした。
「え?」
あのあとって、私がトイレのつまりを直したあのあと?
「ですが、社長は一言。社のために最善を尽くせ…と言っただけでした」
「え?」
「お前も緒方財閥を継ぐと決めた以上、もう子供じみた真似はよせ。と社長に言われ、もう一臣様は何も言い返すこともできなくなりました」
「……」
「一臣様は、社長に対してとても反抗をしていました。婚約のことも、黙って受け入れていたわけではありません。いえ。緒方財閥を継ぐことも、ずっと抵抗していたんです」
「そうなんですか?知りませんでした」
「ですが、大学3年の時から、一臣様は緒方商事に連れてこられ、会議に出席したり、緒方商事の子会社などを見学され、だんだんと考え方が変わっていったようです」
「……無理やり、連れてこられていたのですか?」
「まあ、半強制的に、社長に連れてこられていましたね。ただ、そのうちに自分の置かれている立場の重さや、緒方財閥の規模の大きさを目の当たりにしたのでしょう。最初は怖がっていましたよ。でも、ある時、何かを感じたようなのです」
「何かって?」
「多分、面白みでしょう。責任感や重圧は、耐えられないほど大きかったと思うのですが、それよりも興味や好奇心、やり甲斐みたいなものを感じたんだと思いますよ」
「……」
「一臣様は、幼少の頃から英才教育を受けていらっしゃいました。小学校で学ぶ勉強とは別に、すでに会社で必要なことを学んでいたのです」
「…す、すごいですね。小学生の頃から?」
「はい。いつも周りは大人ばかりで、孤独だったと思います。それに、その勉強は面白みもなく、やはり強制的なものでしたから。中学生になってからは、社長に対して反抗的な態度を見せるようになりました」
「……」
「とはいえ、社長はとても忙しい方でしたので、一臣様にお会いになる機会もあまりありませんでしたが」
「寂しかったんじゃないですか?あ、でも、お母様は?」
「奥様も、社長のお仕事のサポートを主にしていましたので、あまり一臣様や龍二様と接する機会はありませんでした」
「龍二様って弟さんですよね」
「はい。今、アメリカに留学中です。子供の頃は仲が良かったのですが、だんだんとおふたりの間にも亀裂が入り、特に龍二様のほうが、一臣様に対して変な対抗意識を持つようになって」
「変なって言うと?」
「英才教育を受けるのも、社長が会社に連れて行くのも、パーテイに参加するのも一臣様でした。それは次期社長ということで、一臣様をお連れしていたんだと思いますが、龍二様にとっては、長男だけがなんでも優先されるということが、悲しかったんでしょうね」
「…そうですね。そう思っちゃいますよね。きっと」
「それで、一臣様の持っているものを、なんでも欲しがるようになったんです。時々怖いくらいの執念すら感じます。そのくらい、龍二様は一臣様に対して、敵対心のようなものを抱いてしまったんです」
「……では、二人きりの兄弟なのに、仲が悪いんですね」
「弥生様はお兄様とは?」
「とても仲いいです。兄が二人いますが、この兄たちも仲が良くて。みんな忙しくてなかなか会えないんですけど、会った時にはもう大変です。二人共私のことを可愛がってくれて、しばらく離してくれなくなります」
「そうですか。微笑ましいお話ですね」
「はい。時には、トランプで朝まで遊び、時には、外でサッカー。時には、空手、合気道、柔道」
「は?」
「あ、兄たちは武道が特技で。あ、私も合気道と空手をしていましたので」
「…そ、そうなんですか。頼もしい限りですね」
「はい!」
「弥生様は本当に元気で明るいですね」
「そのくらいしか取り柄がないので」
「いえ。その弥生様の良さを、いつも忘れないでいていただきたいと思っています」
「え?」
「どんなことがあっても…」
「……」
「大変なことが多いとは思いますが、是非、一臣様の支えになっていただきたい」
「はい。それはもう勿論です。そのために生きてきたようなものですから!」
「は?」
「父にもそう言われています。一臣様のお役に立つ。それを目標に頑張りなさいって」
「…さようですか。それでは、これ以上わたくしが口を出すこともないですね」
樋口さんはそう言うと、にこりと優しく微笑み、口を閉じた。
もしかして、私が思い切り落ち込んでいたから、支えになることで元気になってと言いたかったのかな。
でも、どっちにしても、この一臣様の秘書の樋口さんは、本当に一臣様のことを慕っていて、きっと固い絆があって、信頼関係で結ばれているんだろうな。
「樋口さん」
「はい」
「ありがとうございます」
「は?」
「とても感謝しています」
「わたくしにですか?」
「とてもよくしていただいて」
「……わたくしのような秘書に、そんなに深く感謝されなくても…」
「いいえ!父に言われていました。助けていただいたり、支えていただいた時には、その相手が誰であろうとも、感謝の言葉を述べなさいって。心から感謝の言葉を伝えなさいって。きっと、その感謝の言葉は力になる。感謝するようなことをしていただけたのは、大変ありがたいことだから、その相手の方に、ちゃんと力を分け与えてあげなさいって」
「感謝の言葉が力にですか?」
「はい。私も、感謝の言葉をもらうと元気になります。だから、ちゃんと気持ちを込めて、感謝をした時には伝えるようにしているんです。少しでも、その人のお役に立てたなら、嬉しいですから」
「………。弥生様のお父様は、素晴らしい方ですね」
「はい!私はとっても父を尊敬しています!」
「……素晴らしいですね」
樋口さんはそう言うと、また黙って運転をした。
私もそれ以上はしゃべらず、黙って外を見た。
やっぱり、お父様、私は一臣様のお役に立ちたい。もし、支えになることができたなら、そんなに嬉しくて幸せなことはないよね?
いつの間にやら、落ちこんでいた気持ちはすっかり立ち直っていた。
週末、元気に過ごすために、近くの公園に行ったり、森の中を散策しに行ったりして自然を満喫した。
そして月曜日には何事もなかったかのように、私は元気に会社に行った。
「おはようございます!」
臼井課長も、細川女史も、
「おはよう」
と明るく出迎えてくれた。
「あれ?日陰さんは?」
すると日陰さんは、奥の倉庫から現れた。それも、ものすごく静かに。
「ひ、日陰さんって、すごく存在感がないというか」
「え?」
「あ、ごめんなさい。変なことを言って。えっと、いい意味で、その…。あ、奥ゆかしいというか、なんというか?」
「…いいですよ。影が薄いとはっきり言ってくださって。自覚していますので」
「あ。すみません。きっと昔なら、忍者とか向いていそうですよね」
「……」
あ、今、日陰さんの目が鋭く光ったんですけど。
「ごめんなさい。また私、変なこと言いましたよね。仕事します」
私はさっさと席に着いた。そしてメールを開くと、
>14階の応接室の電気が切れた。すぐに取替に来い。
というメールが入っていた。
「14階の応接室の電気の交換に行ってきます」
私はそう言って倉庫に向かうと、
「14階?それ、また一臣様からの依頼なの?」
と細川女史が聞いてきた。
「え?あれ?名前見なかった」
私はすぐにパソコンの前に戻り、送信者の名前を見た。そして、驚いた。
「あ、え?!」
「何?誰から?」
「お、俺…って、誰?」
「俺~~?宛名は誰になっているの?」
「……弥生」
「呼び捨て?」
「はい。あ、やっぱり、一臣様ですよね…」
「………なんか、もしかしてあなた、相当一臣様を怒らせた?」
「え?なんでですか?」
「呼び捨ての名指し。それも、自分の名も書かないで「俺」…。これ、どう見たって怒っているとしか思えないんだけど」
「ですよね」
私は、は~~っとため息をつき、
「行ってきます」
と、気を取り直し、蛍光灯を持って脚立を持った。
「待って。14階の応接室って言ったら、電気は蛍光灯じゃないんじゃないかしら」
「え?」
「シャンデリアがある部屋だと思うわ。一臣様が使うなら。だから、こっちよ。こっちの電気を持って行って」
「…シャンデリアの電気交換ですか?」
「違うわ。シャンデリアの脇や壁にも電気があるのよ。白色灯の電気」
細川女史にそう言われ、私はそっちの電灯を持ち、また総務の横を通り、エレベーターに乗った。
「あの人、あれ専門?」
「クスクス」
総務の人に笑われた。エレベーターから降りてきた人にも、
「あ、電気交換している庶務課の新人。クスクス。なんで庶務課になんて人が入ったのかしら。給料泥棒よね」
と聞こえるようにイヤミたっぷりに言われてしまった。
確かに。なんで、庶務課に配属されたんだろう、私って。
「応接室。あれ?いくつかあるなあ。どうしよう」
14階のエレベーター脇の、フロアーの案内板を見て、悩み込んでいると、
「庶務課の方ですか?」
と綺麗な女性に声をかけられた。
うわ。薄いピンクのスーツ。それに、可愛らしいメイク。
「はい、そうです。電気を交換して欲しいという依頼を受けたのできたんですけど、どこの応接室かがわからなくて」
「一臣様からのご依頼ですよね」
「はい。多分」
「多分?」
「いえ。そうです。はい!」
「では、こちらです。一臣様はいつも、奥の応接室をお使いになられているので」
「あの、あなたは」
「秘書課の大塚です」
「私は庶務課の…」
「一臣様の秘書をしております」
え?
そ、そうなんだ。この人も一臣様の秘書なんだ。すごく可愛らしい人だけど。それに、顔に似合わないナイスバディ…。胸が大きいのにさらにヒラヒラのブラウスでもっと強調されていて、スーツのスカートはすごく短くて、ムチっとした腿がしっかりと見えている。
「あの、私は…」
大塚さんは私が自己紹介をしようとしても、全く無視して、
「その奥が応接室です。あと1時間でお客様がいらっしゃいますので、早めに電気交換をしてください」
と淡々と言うと、応接室の手前にある角を曲がって奥の部屋へと入っていった。
「……名前、聞いてくれても。いいんだけどね」
気を取り直し、私は応接室のドアをノックした。
バタン!いきなり突然ドアが開くと、また一臣様がおっかない顔をしてそこにいた。
「遅い!」
「すみません。今すぐに交換します」
「蛍光灯なんか持ってきていないだろうな」
「はい。ちゃんと細川女史に忠告されて、こちらの電気を持ってまいりました」
「ああ、細川女史か」
「一臣様、ご存知ですか?」
「細川女史は、この会社に長いからな」
「……ああ、それで」
「無駄口叩いてないで、早く交換しろ!」
一臣様は大きな声でそう言うと、バタンとドアを閉めた。
「どこの電気ですか?」
「そこだ」
「あの、また脚立」
「持っていたらいいんだろう?」
「すみません。お願いします」
「ふん。社長の息子に平気でこんなことをさせるのは、お前くらいだ」
「…すみません」
「いいから。早くに交換しろ」
そう言うと一臣様は脚立を抑えた。そして、
「こういう仕事をするのに不向きな格好をしているんだな、お前は」
と私の短いキュロットをじろっと睨むとそう言った。
「あ、あの。足はあまり見ないでください」
太くて無様な腿だし。
「そう思うなら、こんな服を着るな!どうせ、久世のボンボンに言われて買ったんじゃないのか」
「……はい」
「その無駄にヒラヒラしたブラウスもか」
「…え?はい。そうですが」
私は、電気を交換して脚立を降りた。
「もっと庶務課の人間らしい格好をしたらどうだ」
「どんな格好ですか?私は、あの…。一臣様が上条家の娘なら、もっとおしとやかで清楚な女性かと思ったと言われたので、清楚に見える服を選んだつもりなんですが」
「……それがか?」
「でも、さっきの。秘書課の大塚さんという方は、もっとヒラヒラしたブラウスで、スカートも短いスーツ」
「秘書課と庶務課を一緒にするな。仕事が全く違うだろうが!」
「すみません」
「そんな久世の服なんか全て捨てろ」
「え?そ、そんなわけにはいきません」
「じゃあ、返してこい」
「久世君にも久世君のお母様にも悪いです。人の親切を無下にするわけにはいきません」
「親切?お前、本気でそう言っているのか?お前が上条家の人間だと知っていて、わざと近寄って来たに決まっているだろ」
「そんなわけないです。久世君はそんな人じゃありません」
「はあ?なんで、あいつのことをかばうんだ」
「久世君はいい人です。私が困っている時に助けてくれて、いろいろと親切にしてくれました」
「だから、それが裏があるって言ってるんだ。じゃなきゃなんだって、お前なんかに声をかけてくるんだ」
グ…。言い返せない。
「で、でも、私は久世君のことを信じて…」
「お前は婚約者より、全く見知らぬ男の方を信じるっていうのか?!」
「え?」
「ああ、そうか。だったら、俺との婚約は破棄して、久世のボンボンと結婚すりゃあいいだろ。俺はそれでも一向に構わないぞ。いや、願ったり叶ったりだ!」
グサ~~~~~~~~。
「用が済んだんだったら、さっさと庶務課に戻れ!目障りだ」
グサグサグサ~~~~~~。
昨日は、立ち直ったのに、もう落ちた。
一臣様は私が応接室から出ると、思い切りドアを閉めた。すると、
「一臣様を怒らせたんですか?」
と大塚さんがやってきて、私に聞いた。
「……はい」
「あなた、庶務課に配属されたばかりですよね?中途採用か何か?」
「はい」
「まあ、可哀想。もうクビですか?クス」
大塚さんは可愛い顔を、小悪魔みたいな微笑みに変えて笑った。
クビ。
そ、そうかもしれない。それも、会社だけじゃなく、婚約者をクビ…。
また、ドッスンと私は落ち込んだまま、庶務課へと帰っていった。