~その16~ 「幸せにします」
5時半を過ぎて秘書課にいったん戻り、それからまた一臣様の部屋に戻ると、
「弥生。お前のお父さんとお兄さんが、今から来るそうだぞ」
と、一臣様に言われた。
「え?父と兄ですか?」
「ああ。兄といっても、卯月氏らしいがな。如月氏はアメリカに戻ってるんだってな?」
「はい。先週にはもう、アメリカに帰りました」
「……。俺のことを見張っているんじゃなかったのか」
あ。そうか。そういうことを如月お兄様は言っていたっけ。
「アメリカからも、一臣様の動きは手に取るようにわかるとかなんとか言って、帰って行ったんです」
「ムカつくなあ。あ。もしかして、俺に電話してきた後に帰ったのか」
「電話?」
「そうだ。俺が認めるまでは、弥生を屋敷には行かせないって、わざわざ会社までご丁寧に電話して来たんだ」
「……すみません。如月お兄様は、本当に一回言い出したらきかないっていうか、かなり頑固で」
「みたいだな」
「お父様と卯月お兄様は、やっぱり私のことで来るんですよね?」
「だろうな。一応昨日、お前のことは屋敷に連れ戻すと、樋口から連絡は入れたんだが、それじゃ納得いかなかったのかもしれないな」
う、うん。勝手に連れ戻されちゃったんだから、今頃怒っているかもしれない。
「ごめんなさい。私がちゃんと父と兄には話します」
「…。弥生はいい。俺がちゃんと話す」
「でも…」
「大丈夫だから、心配するな」
そう言って、一臣様は私の頭を優しく撫でた。
うわ。ドキンってした。なんだかずうっと、優しい一臣様だ。
「6時には来るって言っていたから、もうそろそろだな。14階の応接室に行くか」
「はい」
私と一臣様は14階に行った。応接室には細川女史がいて、お茶の準備をしていた。
「あ、私がします。もう終業の時間ですし、細川さんはどうぞお帰り下さい」
「そういうわけにはいきません。わたくしも秘書ですから」
「で、でも…」
「弥生。お茶の用意は細川女史に任せろ。お前は、俺の隣に静かに座っていろ」
「はい」
私は、ちょこんと一臣様の隣に座った。それから5分もたたないうちに、ドアをノックする音と、
「上条様がお見えです」
という樋口さんの声が聞こえた。
一臣様は席を立ち、ドアを開けに行った。私も慌てて席を立って、一臣様の後ろに立った。
「やあ。一臣君」
父が静かにそう言いながら、入ってきた。
「ああ。弥生もいるな」
「はい…」
父の後ろからは、卯月お兄様も続いて応接室に入ってきた。ああ。結婚式前で忙しいのに、申し訳ない。
「一臣君。うちのせがれの卯月だ。2人は初対面だったね」
「はい。はじめまして、一臣です」
「卯月です。妹がいつもお世話になっています」
ドキドキ。なんだか、初顔合わせって、私のほうが緊張する。
「どうぞ、お掛け下さい」
そう言って、一臣様は2人をソファに座らせた。それから、私と一臣様もソファに腰かけた。
細川女史が、4人分のお茶をテーブルに置き、
「失礼します」
と、応接室から出て行った。
すると父は、
「今日伺ったのは、わかっていると思うが、弥生と一臣君の婚約のことだ」
と、唐突にそう話し出した。
「ごめんなさいっ!お父様!」
いてもたってもいられず、私は思い切り謝った。すると、
「弥生、俺が話すから」
と一臣様に言われてしまった。
「アメリカに留学するために、弥生は昨日パスポートを申請しに行ったんだが…。それなのになんで、君の屋敷にいるのかな」
「僕が勝手に連れ戻しました。申し訳ありません」
「勝手すぎじゃないか?一臣君」
「はい。ですが、僕は弥生さんと婚約破棄するつもりはまったくなかったので、屋敷に来てもらいました」
「弥生の意思も無視して?」
いつもの父より怖い。こんな父は初めて見る。
それに比べて、卯月お兄様は、とても穏やかな顔をして私を見ている。
「無視はしていません」
「弥生は君との婚約を解消することを決意していたんだ。弥生の意思を君は、まったく無視したんじゃないのかい?」
「お父様。違うんです。それは…」
「弥生」
また、一臣様に止められてしまった。でも、これじゃ、一臣様が悪者だ。私が勝手にいろいろと落ち込んで、勝手にいろいろと悩みこんで、勝手に婚約解消をしようとしただけなのに。
「弥生はずいぶんと苦しんでいたようだが…。さすがに、自分の娘があんなに苦しんでいるのに、放ってはおけないよ。如月じゃないが、この婚約も一回、白紙に戻したいと私も考えたんだがね」
「白紙!?」
その言葉で、私はびっくりしてしまった。
白紙って何?白紙って?呆然としていると、
「それは困ります」
と、一臣様が一言そう言った。
「だが、親として、娘の幸せを願うのは当然だろう?君と結婚しても、弥生は幸せになれるかどうか、このままだとわからないしな」
「幸せにします」
え?
か、一臣様、今、なんて言った?
私はびっくりして、一臣様を凝視してしまった。一臣様は私のほうを見ないで、ずっと父を真剣な顔で見ている。
「一臣君。そういう言葉を君が言うとは思わなかったが…。でも、言うのは簡単だ。嘘でも言える。君は一番心配なのは、うちと緒方商事のプロジェクトのことじゃないのかい?それが白紙になるのが怖いんだろう?」
「……」
一臣様は黙り込んだ。
「それで、さっき、困ると言ったんだろう?」
「……正直、プロジェクトが白紙になるのは怖いですよ。緒方財閥の未来がかかっていますから」
一臣様は静かにそう答えた。
「…じゃあ、緒方商事と上条グループのプロジェクトは、弥生との婚約を解消してくれたら、白紙にはしない…と言ったらどうするかい?」
え?
なに、それ。その条件…。なんだって、そんなことをお父様は言うの?!
そんなの嫌だよ。絶対にそんなの…。
ボロ。涙が出てきた。でも、ここで泣くわけには…。
「困ります。それは、受け入れられません。弥生さんとも結婚しますし、プロジェクトも成功させます」
一臣様は、父の目を見てはっきりとそう言ってくれた。
良かった。また泣きそうになった。でも、どうにかこらえた。
「なぜだ?もともと、弥生が君を勝手に好きになって、私が緒方氏に君と弥生の婚約を申し出たんだ。君が弥生を選んだわけじゃないし、婚約を解消してもいいと言っているんだから、それで十分じゃないのかい?君は君で、ちゃんと自分の選んだ人と結婚したらどうだい?」
「……じゃあ、僕が結婚したい相手と、結婚していいということですよね」
一臣様がそう言った。すると、さっきまで穏やかな顔をしていた兄の顔も、真面目な顔つきになった。
父も、真剣な目で一臣様を見ている。
ドキン。ドキン。一臣様のその先の言葉を聞くのが怖い。でも、もしかして、もしかすると、その相手っていうのは、私かもしれない。そうであってほしいと、心の中で願った。
「そうだ」
父が、重みのある声でそう返事をした。
「そうですか。わかりました。じゃあ、そうさせてもらいます」
一臣様はそう言うと、ふっと息を吐いた。
ドキドキ。バクバク。ドキドキ。バクバク。それって誰?誰?
「弥生さんと結婚します。僕には弥生さんが必要ですから」
え?
「一臣君。それは…」
父が何かを言いかけた。でも、また一臣様が、
「本心です。冗談でもなければ、緒方財閥のためでもありません。僕のためです。他の女性は考えられません」
と、父に静かにそう言った。
ボロボロボロボロッ。
いけない。必死で抑えていたのに、涙が一気にこぼれてしまった。
一臣様はそれに気が付き、私を見て優しく微笑んだ。それからまた父と兄を見て、
「弥生さんと結婚させてください。幸せにします。約束します。泣かすようなことはしません」
と、そう真面目な顔になってはっきりと言った。
うっわ~~~~~~~~~~~~~!
駄目だ。堰を切ったように、私は思い切り、ひっくひっくと泣きだしてしまった。
「でも、もう泣かせてるよ、一臣君」
卯月お兄様が、そう冗談めいた声で言った。
「これは、う、嬉し泣きで」
私が、必死にそう言おうとすると、一臣様は私を見て、
「弥生さんは、嬉しくてもビービ―泣くんです。あ。嬉し泣きだったら、これからも、泣かせちゃうかもしれないですけど」
と、そう優しく言った。
「それを聞いて、安心した」
そう言ったのは、父ではなく兄だった。
「弥生の思いがちゃんと通じたんだね?弥生。良かったな」
兄は優しくそう言うと、私の頭を優しく撫でた。
「ひっく」
私はまだ、泣き止んでいなかった。そして、無意識で一臣様の腕に顔をうずめ、一臣様のYシャツを涙で濡らしていた。
「もしかすると、一臣君は、弥生が婚約を破棄したいと言って、君から離れようとして、何かに気が付いたのかな?」
そう父が聞いた。父の顔も優しい顔になっていた。
「はい。気づかされました。というより、思い知らされました」
「思い知らされたというと?」
父がまた一臣様に聞いた。
「弥生さんの存在のでかさにです。いなくなって愕然としました。絶対に失ってはいけないものなんだって、そう思い知らされました」
う、うそ。
「そうか、そんなに弥生の存在は君にとって大きいのか」
「はい」
一臣様はそう静かに父の質問に答えた。
私は、びっくりしずぎて、言葉も失ったし、涙も引っ込んだ。
ただただ、呆然と一臣様を見つめた。
「さて。ちゃんと一臣君の真意も聞けたことだし、卯月、帰るとするか」
「そうですね」
父と兄は、立ち上がり、それから私のほうを見て、
「弥生。もう一臣君から離れようなんて、考えるんじゃないぞ」
「実家にももう帰ってくるなよ」
と、優しい目で言ってきた。
「はい。いろいろと心配かけてごめんなさい」
「まあ、いいさ。弥生が幸せになってくれたら、俺らはそれだけでいいんだからさ」
「卯月お兄様…」
ボロ。また涙が出た。
「ああ。なんか、これ以上俺らがいると、泣かせるばかりだな。さ、帰ろう、父さん。じゃあ、一臣君。弥生を頼んだよ」
兄はそう言って、にこやかに部屋を出て行った。父も私と一臣様を見て、うんうんと頷いて、部屋を出て行った。
樋口さんが、2人を案内してエレベーターホールまで連れて行った。私と一臣様はまだ、応接室の中にいた。
「ひっく」
「まだ泣いているのか?」
「ひっく」
一臣様が優しく私を抱きしめた。私は一臣様の胸に顔をうずめて泣いた。
「また、目が腫れて、ブス顏になるな」
「はい」
「卯月氏は優しい人だな」
「はい」
「上条氏も本当にお前のことを、思ってくれてるんだな」
「はい」
「いい家族だな」
「……私も」
「ん?」
「一臣様を幸せにします」
「そうか?でも、もう十分に幸せだけどな」
「え?!そうなんですか?」
「お前は?」
「幸せです!世界一幸せです!」
「はははは。そうか。でも困ったな。世界一は俺なんだけどな」
ふえ~~~ん。嬉しい。
嬉しすぎて、一臣様のYシャツにしがみついた。
「なんだよ、突然」
「一臣様が世界一幸せって言ってくれて、嬉しいんです」
「アホだな。それで泣いたのか?まったく…」
ギュウ。思い切り抱きしめられた。
「可愛いよなあ。お前」
うわ!また言われた!今日何度目だろう。
「一臣様」
「ん?」
「結婚して子供産まれて、そうしたら、あったかい家庭を築きましょう」
「なんだ?プロポーズしてくれてるのか?」
「…違います。一臣様が叶えられなかったことを、いっぱい叶えたいんです」
「ああ。なんだったっけ?キャンプに、山登りに、海水浴に、肝試しだったっけ?」
「え?なんで、それ」
「喜多見さんに聞いた。お前が俺と婚約破棄するって言い出して、俺が頭に来て屋敷の部屋で暴れたあとに」
……。暴れてたんだ。本当に。
「弥生様を離しちゃ駄目だって。弥生様と結婚したら、こんな特典がついてくると教えてくれたぞ」
「特典?」
「ああ。お前が喜多見さんに、そう言ったんだろ?」
「はい。言いました」
「ははは。喜多見さんが、あんな素敵なお嬢様はどこ探してもいないから、手放しちゃ駄目ですって言ってたぞ」
え~~~~!!!そんなことを喜多見さんが?
「俺も、そう思った。お前みたいな、変わったやつ、他にどこにもいないよな?」
「……」
微妙。
でも、嬉しい!
私は一臣様に抱きついた。一臣様もギュッて抱きしめてくれた。
お屋敷に帰ったら、龍二さんもお母様も、そして婚約者候補の大金麗子さんもいて、また、いろいろと大変な目に合うことになるんだけど、そんなこともしばし忘れて、私は一臣様の胸に顔をうずめて、幸せに浸っていた。