~その13~ 恋人気分
秘書課のドアを開けると、中にいるみんながいっせいに私を見て、
「上条さん、出社されたんですね!よかった」
と、江古田さんがそう言って席を立って私のところに来た。
「はい。3日も休んですみません」
そうドアのところで、みんなに言ってから、細川女史のほうに向かって歩いて行って、私はぺこりと頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「事情はわかっています。三田さんたちはもう退職しましたし、上条さんはこれからも堂々と秘書課で働いてくださいね」
と、細川女史はそうにっこりと笑いながら言ってくれた。
事情?
三田さん?
堂々と?
「上条さん。良かったですね。三田さんたちのことが、監視カメラにしっかりと映っていたんですよ」
席に戻ると江古田さんがそう小声で言った。
「そのあと、樋口さんや一臣様の対処が早くって、あっという間に三田さんたち、退職届を出して辞めて行ったんです」
「そうだったんですか」
「一臣様から、会社に出られるようにと言われたんですか?」
「え?はい。まあ」
「そうですか。わたくし、上条さんが板橋さんのようにこのまま辞めちゃうんじゃないかって、心配していたんです」
そうだったんだ。私が休んでいた理由、あの携帯の事件のことが原因だと思われていたんだな。
それとも、細川女史は全部を知っていて、しらを切ってくれているのかもしれないな。
「豊洲さんは、昨日から、緒方製鉄の鶴見工場に行ってます」
「え?」
「飛ばされちゃったんです。一臣様、相当お怒りだったみたいで」
「え?」
豊洲さんに怒ってた?
「豊洲さん、なんか、上条さんにやたらと近づこうとしていたじゃないですか。必要以上に」
「え?ええ」
「それで、怒っちゃったんですよ、きっと。豊洲さんも、一昨日は、いきなりの移動で、ムカついたって、愚痴りまくって出て行きました」
そうだったんだ。本当に私がいない間に、いろんなことがあったんだな。
でも、緒方製鉄の鶴見工場っていったら、あの、研修がおもしろいところなんだけど、一臣様、何か考えがあって、そこに移動させたのかな。
それで、秘書課が閑散としているわけだ。
「上条さん。これ、新しく機械金属部から届いた企画書なの。前のを一臣様が持っているから、差し替えて来て。それから、そのあとは、このファイルの中の資料を、表にしてほしいの。上条さん、仕事早いし、それを今日中にお願いしてもいいかしら」
細川女史が私のデスクまで来て、そう言った。
「はい。わかりました」
ああ。一臣様の部屋にずっといるわけにはいかなくなっちゃった。
「じゃあ、頼んだわよ。あ。一臣様からの仕事の依頼も、あなたにあるかもしれないから、15階で仕事してくれる?いちいち、15階と14階を行き来しないで済むでしょ?」
「え?いいんですか?15階でしても」
「ええ。本当なら、一臣様付きの秘書なんだから、ずっと15階にいなくちゃいけないんだろうけど、今、秘書が足りていないから、こっちの仕事も手伝ってほしいのよ」
「わかりました!もう、ばっちり、早速、表を作ってまいります!」
「はい。お願いね」
私は思いっきり張り切って、椅子から立ち上がった。すると、
「やる気まんまんね。一臣様のそばにいられるのが、そんなに嬉しいんだ」
と、小声でぼそぼそと言うそんな声が聞こえてきた。
三田さん派以外でも、嫌味を言う秘書はまだ残っている。でも、そんなの気にしていられない。
「はい。そうです。私、一臣様の秘書ができるのも、近くで仕事ができるのも、お役に立てるのも、すっごく嬉しいです!」
こそこそと言われるのが嫌で、堂々とそう言い返した。
するとその人たちは、びっくりしたように目を丸くしてから、パッと視線をそらして、
「仕事、仕事」
と、いきなりパソコンに向かって仕事を始めた。
無視?まあ、いいけどね。
私は部屋を出ようとドアを開けた。すると、細川女史の視線を感じた。細川女史は、にっこりと笑っていた。
ぺこりとお辞儀をして、私は15階へと弾むように歩いて行った。
ああ。私ったら、懲りないなあ。また、一臣様にベタベタされて、それで、ドキドキしまくって、心臓が持たなくなるのに。でも、一臣様のそばにいられるのが嬉しくて、胸が弾んでしまう。
いやいや。待てよ。仕事中なんだし、いくらなんでも一臣様だって、そんなにベタベタはしないよね。
そう思いながら、IDカードをかざし、一臣様のオフィスに入った。
「あ、弥生様」
樋口さんがいた。そうだ!まずは樋口さんにコーヒーを淹れよう。
「今日は、15階で仕事をするようにと細川女史から言われてきました」
「そうですか」
「それで、今から、一臣様にコーヒーを淹れようと思うのですが、樋口さんも飲まれますか?」
「わたくしですか?よろしいんですか?」
「はい。2人分淹れますので、ぜひ、飲んでリラックスしてから、お仕事をしてください」
「はい。ありがとうございます」
そう丁寧に樋口さんは言うと、優しく微笑んだ。
トントン。一臣様の部屋をノックして、
「弥生です」
と言うと、
「入れ」
という声が中から聞こえた。
わあい。と、思い切り喜びそうになるのを抑えながら、ドアを開けた。中には、ネクタイを緩め、上着も脱いで、第2ボタンまで開けている一臣様が、ソファで足を組んで、書類を見ていた。
「コーヒー淹れます」
「ああ。…それで、今日のお前の仕事は?」
「あ、はい。エクセルで表を作るように言われました。それを、15階のパソコンでしていいって、細川女史が…」
「ふうん。ずいぶんと気を利かしてくれるんだな。細川女史は」
「あ、それから、こちらが新しい企画書です。差し替えるようにと言われて持ってきました」
「プロジェクトのか?」
「はい」
私は一臣様のところまで行って、新しい企画書を渡した。
「そうか。どこか、変更にでもなったのか?」
そう言いながら、一臣様は中身をぱらぱらとめくった。
私はしばらく、一臣様の真ん前で、一臣様に見惚れていた。
今日も、鎖骨が見える。色っぽいなあ、なんて思いながら。
「だから。そういう目で見るから、俺に抱かれたいのかって勘違いするんだぞ」
突然そう言われてびっくりすると、一臣様が私をじっと見つめてきた。
「ごめんなさい。コーヒー淹れます」
「ああ。苦いのを頼む」
「はい」
私はそそくさと、お湯を沸かして、コーヒー豆を挽いた。それから、とぽとぽとコーヒーをドリップで落とし、それを二つのコーヒーカップに注いだ。
「ああ、いい香りだな」
一臣様がぼそっとそう呟いた。
「コーヒーの香り好きなんですか?」
「ああ。好きだな。落ち着くだろ?」
「そうなんですね…」
大人だなあ。なんて、変に感心しながら、一臣様の前にコーヒーカップを置いて、
「樋口さんにも持って行きます」
と言って、一臣様の部屋を出た。
樋口さんはデスクで、パソコンとにらめっこをしているところだった。
「どうぞ」
仕事の邪魔にならないよう、そっとコーヒーカップをデスクに置いた。
「あ、ありがとうございます。弥生様」
「いいえ」
ぺこりとお辞儀をして、私は一臣様の部屋に戻った。
一臣様は、ものすごく真剣な顔をして書類を読んでいた。
こっちも、邪魔にならないように静かにしていよう。
私はそっと、ノートパソコンを開いた。
「デスク、使っていいぞ。そこじゃ、パソコン使いづらいだろ?」
一臣様が気が付いて、そう言ってくれた。
「ありがとうございます。では遠慮なく」
私はそっと、デスクにノートパソコンを持って行って、仕事を始めた。
パチパチというパソコンを打つ音と、一臣様の書類をめくる音だけが部屋に響いた。
なんだか、こんな空間も久しぶりな気がして、嬉しくなる。
しばらく私も一臣様も、無言でいた。仕事に集中していて、時間のたつのも忘れていた。
ぐ~~~。ぎゅるる~~~。
うわ。お腹がいきなり鳴ってしまった。
「あ、昼の時間か」
一臣様が書類を置いて、伸びをした。
デジャブ。こんなこと前にもあったような…。
「ああ。すごいよなあ。お前の腹時計は。今、12時きっちりだぞ」
「え?」
パソコンの時間を見ると、本当に12時ぴったりだった。自分でも驚いた。
「弁当持って来ていないよな?」
「はい。早くに起きて作ればよかったですね」
「いや。しばらくはいい。そういうことをしないでも」
「え?どうしてですか?」
私がそう聞くと、一臣様がソファから立ち上がり、私の前まで歩いて来て、
「夜、早くに寝れないかもしれないからな。朝早く起きるの、大変だろ?」
と耳元で囁いた。
これ、わざと耳元で囁いてるよね。絶対。
でも、わざととわかっていても、顔が熱くなって、胸がときめいてしまう。
「…え。何で、夜早くに眠れないんですか?あ、仕事を持ち帰ってするとか?」
「……あほ。仕事じゃない。恋愛初心者から、徐々にレベルアップしていくんだろ?そりゃ、毎日、新しいことにチャレンジしていかないとレベルアップできないだろ?」
「は?」
「時間もかかるかもしれないから、寝るのも遅くなるだろ?」
「いいえ。そ、そ、そんなに私は」
なんて言っていいのかわからず、そこまで言って、私は言葉に詰まってしまった。
「お前が言ったんだからな。一段一段、レベルアップをお願いしますと。この耳でしっかりと聞いているからな?」
うわ~~~~~~~。とんでもないことをもしかして、私は言ってしまった?!
デスクの椅子でかたまっていると、
「昼飯、外でたまには食ってみるか?」
と突然言われた。
「今日は一日、ここに缶詰めになりそうだしな」
「はいっ」
「あはは。いきなり元気になったな。そうだった。お前、花より団子なんだよなあ」
そう呆れたように言ってから、また一臣様は「ハハハ」と笑った。
「樋口、弥生と昼飯食べてくる」
「あ、はい。かしこまりました。どこの店を予約しますか?」
「ああ。いい。行き当たりばったりで行くから」
「は?では、等々力さんに車を用意させましょうか。それとも、わたくしが…」
「いい。お前も忙しいんだろ?仕事を続けていいぞ。あ、キリがいいところで、お前も昼飯にしろよな」
「はい。…それで、一臣様はどちらに?」
「さあ?弥生に任せる」
「え?!」
「じゃ、行くか。弥生」
「私に任せてくれるんですか?」
「ああ。庶民的なところを頼む。お前の好きなところでいいぞ」
「は、はいっ」
私は、はしゃぎながら、一臣様とオフィスを出た。
どこにしよう。でも、ここいら辺の店、あまり知らないんだよなあ。
「何が食べたいですか?一臣様は」
「なんでもいいぞ。お前の好きなもので。なにしろ、どんなものがあるかも見当つかないしな」
「そ、そうですか。やっぱり、このビルの食堂より、外がいいですよね?」
「ああ。食堂は社員しかいないから、ちょっと息がつまりそうだな」
そうか。そういうの、やっぱり気にするんだな。一臣様も。
「では。この会社の前のビル、地下にいろんなレストランが入っているみたいなんです。そこに行ってみませんか?あ、もう一臣様、行かれたことありますか?」
「ない」
ないんだ。こんなに近いのに。
「じゃあ、行きましょう!」
わくわく。なんだか、デートみたいで嬉しい。と思いつつ、エレベーターでにこにこしていると、また、一臣様におでこにキスされた。
「うわ。不意打ち!びっくりした」
そう言ってから、真っ赤になると、
「あまりにも嬉しそうにしているから、つい、可愛くなってな」
と言われてしまった。
うひゃあ。もっと顔が熱くなった。
それから、一臣様は私の背中に手を回し、ビルを出た。もしかして、こうやってずっとエスコートし続けてくれるのかな。
ドキドキしながらも、私は浮かれつつ、道路を渡り、前のビルに入って行った。
階段が入り口に入ってすぐのところにあり、そこを降りた。すると、レストラン街が広がっていた。
スーツ姿のサラリーマンと、OLたちがたくさんすでに、レストラン街にいた。中には大勢並んでいるお店もあった。
「何が食べたいんだ?弥生は」
「えっと。えっとですね」
お店がずらっと並んでいて、迷ってしまった。でも、
「ああ!あの店。すっごく惹かれる」
と言って、私は奥にある店を指差した。
「沖縄料理?食ったことないな」
「じゃあ、行きましょう」
ワクワクしながら、一臣様の手を引っ張った。
あ。せっかくずっとエスコートしていてくれたのに、手を繋いでしまった。でも、手を繋いで歩くのも、ものすごく新鮮。
一臣様はそのまま、私と手を繋いで歩いている。いいんだ。手、繋いで歩いてくれるんだ。
ドキドキ。繋いだ手、あったかいし、一臣様の手って、大きいんだな。なんだか、守られているみたいで、胸が高鳴るのに安心する。
「うそ!あれ、一臣様じゃない?」
「え~~。なんで、こんなところにいるの?隣にいるの誰?」
「手、手を繋いでる!」
という声が、後ろから聞こえた。あわわ!私は慌てて手を離そうとしたが、ギュッと一臣様が握り返してきて、離せなくなった。
あ、あれ?いいの?手を繋いだままでもいいの?
そして沖縄料理のお店に入り、すぐに案内され、私たちは席に着いた。
「新鮮だなあ」
「そうですか?沖縄料理のお店、そんなに目新しいですか?」
「いや。そうじゃなくて。店に入って店員が誰も俺を知っていないっていうのが新鮮なんだ」
あ。なるほど。いつもならすぐに、「緒方様」って、誰かがやってくるものね。
「ご注文はお決まりですか?」
そう聞いてきた明るい女の子が、私の顔を見るなり、目をひんむいた。
「弥生ちゃんだ~~~!」
え?
「私!コンビニで一緒にバイトしてた邦恵。覚えてない?」
「邦ちゃんだ~~~!」
「弥生ちゃん。綺麗になった!垢抜けた!スーツも似合ってる。どこで働いてるの?」
「緒方商事」
「うっそ~~~~。あの大手の?びっくり~~~!それも、こんなイケメンさんと!同僚?かっこいいね!まさか、彼氏?!」
そう言って、邦ちゃんが大騒ぎをすると、周りのみんなが私たちを見た。
「一臣氏だ」
「え?まじで?嘘だろ。一緒にいる女誰?」
そう言っているスーツの二人連れ。緒方商事の社員だ、絶対。
「一臣様よ。こんなに近くで見たの初めて」
「かっこいい。でも、一緒にいるダサい女誰よ」
「なんで、こんな店にいるの~~~?」
そう言っているOLも、緒方商事の社員だよね。
「なんか、ごめん。私が騒いだから、注目浴びてる?」
「ううん。大丈夫。あ、一臣様、何を注文しますか?」
「……この店のお勧めは?」
一臣様が邦ちゃんに聞いた。すると、邦ちゃんは真っ赤になった。
ああ。邦ちゃんも、イケメンにめちゃくちゃ弱いんだっけ。
「え、えっと」
言葉を失ってるし。
「一臣様。沖縄と言ったら、ゴーヤチャンプルーですよ。それか、沖縄そばも美味しいですよ」
「お前は何を頼む?」
「ゴーヤチャンプルーですっ」
「じゃあ、一口よこせ。俺はそばにする」
ええ?そ、そんな恋人みたいなことしちゃってもいいの?と、目を輝かせ、うるうるしていると、
「うちの店のお勧めは、角煮なんです」
と、ようやく邦ちゃんが口を開いた。
「豚の角煮!それも食べたい」
私がそう言うと、
「じゃあ、それももらおう」
と、一臣様は邦ちゃんにそう言った。
「は、はい」
邦ちゃんはぼ~っとしながら、お店の奥に引っ込んだ。
「あの子、大丈夫か?ちゃんと注文聞いていたのか?」
「多分」
「一緒にバイトしていた子か?」
「はい」
「そうか。懐かしいだろ?あとで、話していいぞ。俺は先に戻っているし」
「い、いえ。連絡先だけ聞きます。だけど、一臣様と一緒に会社に戻ります」
「なんでだ?」
「だって、デートみたいで嬉しいから、オフィスまで一緒に行きたい」
「………」
あ。呆れたかな。
「お前、そういう可愛いことは、あとで二人きりになった時に言え」
あ。一臣様の顔が、にやついた。
はあ。なんだか、普通に恋人みたいで嬉しいかも~~~~~~~~~。
なんてフワフワした気持ちでいて、周りの反応なんて私にはまるっきり見えていなかった。