~その11~ 恋愛初心者
一臣様はコーヒーを飲み終えると、静かに席を立ち、
「龍二、今日はどうするんだ?」
と聞いた。
「すぐアメリカに帰ることになるから、その間にこっちにいる女たちに会っておこうと思って。今日は六本木に行ってくる」
「……ああ、そう」
「兄貴のさあ、もと女だよ。覚えてる?ジャズ歌手の」
「へえ。お前まだあいつと、付き合っているんだ」
「…兄貴は、今、自粛してるんだって?昨日の女からその話を聞いて、笑っちまった。スキャンダルなことを避けるために、おとなしくしてるって。どこの男が今さら、スキャンダルになること怖がってるんだよって、笑えたよな」
「昨日?誰と会っていたんだ」
「キャビンアテンダントの、ヨーコさん」
「……誰だ?それは」
「つい最近まで会っていたんだろ?もう忘れたのか?まさかだろ?」
つい、最近まで会ってた?ああ、耳がダンボになる…。
「……。ああ、船堀さんか」
「兄貴はなんだっていつも、苗字しか覚えないんだ?」
「名前はみんな似たり寄ったりで、覚えにくいんだよ」
「へえ。じゃあ、大金は相当入れ込んでる?フルネームで覚えたってことは」
「……そうだな。そうかもな」
ギクギク。
「でも、あの人のことは名前で呼んでたじゃん」
「誰だ?」
「ユリカさん」
「ユリカは…。苗字を知らない。それだけだ」
「へえ。じゃあもう、思い入れはないんだな?」
「ああ。ない」
「俺、アメリカで会ったよ」
「ユリカに?元気だったか?」
「ああ。そのうち、日本に戻るって言ってたけど。もう戻ってる頃かもね」
「日本に?なんでだ?あっちに永住するんじゃないのか?結婚もしたんだろ?」
「離婚したみたい」
「え?」
「あ。顔色変わった。ははは!兄貴、どうすんの?大金麗子と結婚して、ユリカは愛人にする?」
ユリカさん?
誰?アメリカ?あ、高校の頃、付き合っていたっていうモデルさんのこと?
「くだらない」
一臣様はそれだけ言うと、とっととダイニングを出て行った。私も、
「ごちそうさまでした」
と言って、すぐさま席を立って、ダイニングを出ようとした。
「あんたさ」
ギクリ。私のことだよね。話しかけられちゃった。
「自分のことどう思ってるかわかんないけど、兄貴には絶対に好かれないよ」
「な、なぜですか?」
いけない。無視したらよかった。つい聞いてしまった。
「だって、兄貴、あんたみたいな女、大っ嫌いだし」
グサ。
「あ~~あ。上条グループの令嬢がこんなだとはね。俺もがっかりだ。ま、いっか。兄貴は大金麗子が気に入ってるみたいだし、俺もあの女は気に入ったし」
ゾク。今、すごく怖い顔をこの人したよね。
「まあ、写真見ただけだけどね。でも、今日屋敷に来るんだよな?楽しみだな。あんたもせいぜい、頑張れば?」
そう言って、龍二さんは笑いながら、ダイニングを出て行った。
ガクガク。いろんな人と会って来たけど、この人、本当にちょっと怖い。私の足がすくむことって、そうそうないんだけど。
「弥生様。大丈夫ですか?」
亜美ちゃんが小声でそう聞いてきた。
「大丈夫」
「一臣様の言葉は全部、演技です。本気にしちゃ駄目ですよ」
「はい」
「……ちょっとの辛抱です。私も途中で龍二様には切れそうになりましたけど、お互い頑張りましょう」
そう言ってきたのはトモちゃんだ。
「はい」
そうだった。私にはたくさんの味方がいた。
よし。くじけないぞ!
そう思いながら、自分の部屋に戻った。すると、もう一臣様が私の部屋にいた。
「遅い」
「ごめんなさい」
いきなり怒られた。あれ?こういうパターンって、よくあるかも。
会社で初めて会った時にも、会議室で「遅い」と怒られたっけ。あの頃から怒られ続けているなあ。でもなんだか、もう懐かしいな、あの頃が。
「まさか、龍二に何か言われたか?」
「はい」
「なんて言われたんだ」
「兄貴、あんたみたいな女、大っ嫌いだから、絶対に好かれないよ…って」
「………」
あ。一臣様、怒ってる?眉間に思い切りしわが寄った。
「そうか。まあ、そう思っていてくれた方が、ありがたいんだけどな」
「それと、最後の捨て台詞は、まあ、あんたもせいぜい頑張れば?でした」
私はちょっと言い方を真似てそう言った。
「そんなことまで言ってたか?」
「はい」
「……そうか。もう、弥生は眼中にないってことだよな」
「…ですよね」
「でもまだ、油断はならないよな。これからも、気を付けないとな」
「……あの」
「なんだ」
「さっきの…」
「ん?」
一臣様は私のほうに来て、突然腰に腕を回してきた。
うわわわ。そういうの、胸がバクバクしちゃうんだってば。
「また、変な質問か?変な質問は受け付けないぞ」
「いえ。えっと…」
ドキドキ。ドキドキ。何を聞きたいんだっけ?
そうだった。さっき、龍二さんに一臣様が言っていた言葉が、妙にリアルで、気になったんだった。それから、ユリカさんのことも。
「龍二が言っていたことを気にしているのか?だったら、気にすることないぞ。あいつには、弥生の良さなんかわからないんだ」
「え?」
「ブスだの、スタイル悪いだの言っていただろ?」
「それ、よく一臣様も言ってます」
「俺が?!いつ?」
「いつも。昨日もブス顔だって、さんざん…」
そう言うと、一臣様は私に思い切り顔を近づけ、
「違うぞ。泣いて腫れまくった目をしてても、可愛いって言ったんだ」
とそう優しく言った。
ドキ―――ッ!
うわわ。さっきの、冷たい視線を向けた一臣様と同じ人とは思えない。っていうか、こっちのほうが、偽物みたい。いつもの一臣様じゃないっ!
チュ。
うわ!
おでこにキスしてきた。
「お前のおでこ、でこっぱちだから、デコピンしやすいと思っていたけど、キスもしやすいな」
なんちゅうことを、言って来るの?デコピン痛くて嫌だったけど、キスはキスでドキドキもので…。
とか思いつつも、喜んでいるかも…。私。
か~~~っと顔を火照らせていると、一臣様はまた顔を近づけてきた。
え?今度はどこ?と、ちょっと顔をあげて一臣様の顔を見ると、
「目、閉じろ」
と言われてしまった。
うわ!ってことは、まさか、唇?
ドキドキドキ!
ふわ。
唇だ。優しく唇に一臣様がキスをしてきた。
うわ~~~~~~~。
ふわふわした気持ちになる。なんだか、雲の上にでも乗っかっているみたいな…。
ほわ~~~~~~~ん。
一臣様が唇を離し、私はうっとりとしながら、目を開けた。
「……」
一臣様がじいっと私を優しい目で見ている。うわあ。優しい目だ。うっとりだ。
「キスにはもう、慣れたのか?」
「……え?」
パチンとシャボン玉がはじけるように、うっとりした気持ちが消えた。
「昨日は暴れまくって抵抗したのに」
うわ。そうだった。あれ?なんで今は平気だったんだ?っていうか、私、うっとりしてた?!
きゃ~~~~~~。なんか、思い切り恥ずかしい。きっと、うっとりした目をして一臣様を見ていたのも、ばれたよね?!
「そうか。もう慣れたのか。じゃあ、案外、それ以上のことも簡単に慣れるかもな?」
「え?」
「半年待たなくても、大丈夫そうだな。案外、2~3日で」
「無理です!」
「なんでだよ」
あ。思い切りまた否定しちゃった。一臣様がへそ曲げた顔をしてしまった。
「だって、キスは…」
「キスは?」
「キスは…その…」
「なんだよ。はっきりと言え!」
「気持ちよかったんです。ふわふわして、うっとりとなって」
うわ。自分の口から、とんでもないことが飛び出てきた。慌てて口を両手で押さえたけど、もう遅い。
「ふうん。気持ちよかったのか」
うわ~。うわ~。うわ~。一臣様の、何か企んだような目つきが怖い。何を思いついたの?
「そうか。俺のキスは気持ちよかったんだな?」
ギクギク。どうしよう。きっと、とんでもないこと言ったんだよね?私。
「じゃあ、弥生。もっと気持ちのいいことしてやるから、今夜にでも…」
そう一臣様が耳元で囁いてきた。
「け、結構です!そういうの、まだ私には無理です!!!」
私は思い切り話の途中でそう言った。すると、
「え?無理だと?」
と、また一臣様の顔が曇った。
「私、まだまだまだまだ、男の人に慣れていないし、恋愛も初級の初級。入門したばかりのド素人なんです。だから、いきなりのレベルアップは無理なんです」
「は?」
「ごめんなさいっ。一段一段、ゆっくりとレベルアップさせてください!」
そう言ってぺこりとお辞儀をすると、一臣様が、
「はあ?」
と呆れた声を出してから、
「ブッ。なんだよ、それ!」
と大笑いをした。
だって、本当にそういう感じなんだもん。いきなり、レベルの高いことは無理だよ。
「あははははは。でも、もうキスはクリアしたのか?」
「……」
恥ずかしい。そう言われると。
「ああ、まだだ。まだまだだな」
「え?」
「キスも、段階があるんだ。今のはまったくの初級者編。あんなんでうっとりするなんて、これから先の大人のキスで、お前どうなっちゃうんだよ」
大人のキス?!
「抱きしめただけでも、腰抜かすしな」
「……」
え?大人のキス?って?
「ま、いっか。ゆっくりと進もうな?一段一段な?それも、面白そうだな」
今、なんて?
一臣様、面白がってる?まさか…。
さっき、へそ曲げた一臣様は、もう機嫌を直してしまった。そして、
「会社行くぞ、弥生。龍二が見ているかもしれないから、別行動だ。お前は等々力の車で行け。俺は樋口の車で行くから」
と、明るい声でそう言った。
別行動なのか。一気に私は暗くなった。
「会社に行けば、会えるだろ?荷物は俺の部屋に置きに来い」
「はい」
「なんだよ。いきなり暗くなるなよ。別の車だからって、そんなに寂しがるな」
寂しがっているの、わかっちゃったんだ。そんなに顔に出ていたのかなあ。
ギュ!
うわ!また抱きしめてきた。それも、思い切り。
「お前、本当に可愛いよな」
ひょえ~~~。また言った!
顔を真っ赤にさせたまま、私は部屋をあとにした。こんな真っ赤な顔で、龍二さんに会ったら、変に思われるかもしれない。
一気に廊下を走り抜け、階段を駆け下り、お屋敷を出た。
もう車はお屋敷の前に来ていて、
「おはようございます。弥生様」
と、等々力さんに挨拶された。
「おはようございます」
私は早口で挨拶すると、すぐに車に乗り込んだ。
ああ、よかった。龍二さんに会わないで済んだ。そして、車をすぐに、等々力さんが発進させた。
「一臣様と同じ車じゃなくて、寂しいですね」
「え?」
「お二人が、また一緒の車に乗ると思って、楽しみにしていたんですよ」
「な、何を楽しみにしていたんですか?」
私はびっくりしてそう聞いた。
「え?何をって。お二人が一緒だと、いつも楽しそうに笑っているじゃないですか。一臣様の笑い声も、久しく聞いていないので、聞きたかったんですよ」
あ、そういうことか。びっくりした。一臣様のスケベ発言とか、私が真っ赤になっちゃうこととか、そういうことかと思っちゃった。
それはまだ、誰にもばれていないんだった。だって、いきなり、昨日から突然、変わっちゃったわけだし。
いやいや。待て待て。いくらなんでも、他に人がいたら、一臣様も、あんなに私にべったりするわけないよね。
「そうですね。一臣様の笑い声、私も聞いてると嬉しくなります」
そう答えると、等々力さんは、
「ショパンでもかけますか?」
と聞いてきた。
「う~~ん。今日はジャズの気分です」
「はい。わかりました」
一臣様の好きなジャズを、等々力さんはかけてくれた。
ちょっとだけの辛抱。すぐにオフィスでまた会える。
あれ?私、ほんのちょっと会えなくなっただけで、寂しがってる?さっきまで、一臣様に迫られて、困っていたのに。
あ~あ。結局はすぐそばにいつでもいたいんだよね。
早く、会いたいなあ。
そんなことを思いながら、車に乗っていた。