~その6~ 久世将嗣君
お父様、弥生はどうしたらいいのでしょう。もし、破談になってしまったら。
もう、一臣様との結婚も白紙になり、一臣様に近づくことも、お役に立てることも、すべてができなくなってしまったら。私はいったい、どうしたらいいのでしょう。
真っ暗になりながら、庶務課に戻った。すると細川女史の横に久世君が立っていた。
「おかえり。トイレの詰まりを直していたんだって?」
久世君がやけに爽やかな笑顔で聞いてきた。
「……はい。でも、結局樋口さんが業者を呼びました」
「はっはっは。さすがは樋口さんだな。まあ、これからはそういう仕事は業者に任せたほうがいいな」
臼井課長が明るく笑いながらそう言ったが、私の気持ちは暗いままだ。
「化粧、自分でもできたんだ」
久世君が私の顔を覗き込んだ。
「あ、昨日はいろいろとありがとうございました。それで、お礼にお弁当を作ってきたのですが、ロッカーにあるんです。あとで取りに行ってきます」
「お弁当?へえ。嬉しいな。じゃ、昼になったらこの先の公園にいくよ。そこで一緒に食べようよ」
「…はい」
「それから、今日帰りに細川さんと、母さんの店に寄ってくれるんだって?母さんには俺から連絡しておくよ」
「ありがとうございます。でも、今日はちゃんとお金は払いますので」
「ははは。なんか、律儀だね、弥生ちゃんって」
久世君はまた爽やかに笑うと、
「今日のその服、やっぱ、似合ってるよ。じゃ、また昼にね」
と、カラのカートを押しながら、庶務課を後にした。
「久世君、あなたがちゃんと化粧できているか、チェックしに来たみたいよ」
細川女史が久世君がいなくなったのを確認して、そう言ってきた。
「え?そうだったんですか?」
「なんだか気に入られたみたいね」
「…は?」
「久世君を狙っている子も多いから気をつけて。久世君が実はGeorge・kuzeの息子だってこと、みんな知っているから」
「はあ…」
そんなことは、どうでもいいんです。細川女史。私はフィアンセから、破談にしてやると言われ、この結婚は絶対に認めないと、そう言われたばかりで…。
ドスーン。
何かあったとしても、たいてい5分もあれば立ち直れるのに、今日はまだ立ち直れていない。落ち込んだまま時間は過ぎ、お昼になってしまった。
私はロッカーからお弁当を二つ持ち、公園に向かった。すると公園のベンチですでに、久世君が待っていた。
「もしかして、待たせてしまいましたか?」
「いや。仕事早めに終わったから、早めに来ただけ」
久世君はそう言うと、にこりと微笑んだ。
「お弁当ってもちろん、弥生ちゃんの手作り?」
「はい。あ、どうぞ」
私も久世君の隣に腰掛け、お弁当を手渡した。
「手作り弁当なんて、何年ぶりかな」
「お母様、作ってくれないんですか?」
「そりゃそうだよ。高校生までだったな、作ってくれたのは」
「そうなんですか。じゃあいつもは?」
「外食。コンビニの弁当の時もあるけどね」
久世君はそう言ってから、お弁当の蓋を開けた。
「うわお!なんか、おふくろの味って感じの弁当だね」
「え?」
「なんつうの?もっとカラフルだったり、可愛いのをイメージしていたんだ」
「すみません、可愛いのとか作れなくて。でも、栄養のバランスは充分取れていると思います」
「これ、何?」
「え?それは切干大根です。こっちはひじきの煮物。それから、ご飯は雑穀米です。それとお魚の煮付けと、豚肉のごぼう巻き…」
「全体的に茶色いお弁当なんだね」
「あ!そうか。もっと赤や黄色や緑を入れたら、カラフルになるんですね。今度は気をつけます」
「あはは。なんかほんと、面白いね、弥生ちゃんって」
久世君はそう言って、お弁当を食べだした。
「すげえ、うまいじゃん。まじ、うちの母親が作った弁当よりうまいよ」
「本当ですか?」
「今すぐにでも、いい奥さんになれそうだよね」
「…そ、それ、本当に?本当にそう思いますか?!」
私は思わず、身を乗り出して久世君に聞いた。
「え?う、うん。あれ?早くに結婚したいの?もしかして」
「いえ。そういうわけじゃ…」
いい奥さんという言葉に思わず顔が火照り、嬉しくてにやけそうになり、私は俯いた。
「意外と、弥生ちゃんって家庭的なんだなあ」
「え?」
「緒方商事に転職するなんて、よっぽどバリバリ仕事がしたいのかと思ったよ。あ、もしかして、結婚相手探すために転職したとか?」
「……」
探すんじゃなくて、お近づきになりたかったというか、お役に立ちたかったというか。でも、思い切り結婚相手には嫌われたみたいだし。ううん、今に始まったことじゃない。前から嫌われていたみたいだ。
泣きそうになって、慌てて気持ちを切り替え、
「久世君も、自分の好きなことを仕事にできるといいですね!」
と明るく言ってみた。
「え?俺?なんか思い切り話が飛んだね」
「あ、すみません」
「俺の好きなことね~。そうだなあ。別に仕事にしようとか、それで食っていこうとかは思っていない。趣味でもなんでもいいんだ」
「え?」
「なんかさ~~。今、いろいろと悩み中なんだよね。自分が何をしたいのかとか、よくわかんなくなって」
「でも、古着のリメイク、楽しいって」
「楽しいだけじゃ、仕事にはならないのかもな」
「……」
「大学、そろそろちゃんと卒業して、考えないとなあ。でも、職に就く前に、留学するっていうのもアリかな」
「いいですね。留学、私もしてみたかったです」
「へえ。弥生ちゃんなら、今からでも頑張れば留学できるんじゃない?奨学金とかもらってさ。なんか、頑張り屋って感じだし」
「…いえ。留学も楽しそうだったなっていうだけで、そんなに真剣にしたいわけでは」
「じゃ、何がしたいわけ?本当は」
「私は、自分の好きな人、大事な人の役に立ちたいんです。もし、留学をすることが、その人のためになるならいつでも行ってきます」
「は?」
「大事な人を支えることができたら、ものすごく嬉しい…。でも」
でも、もうその夢も叶わないかもしれないんだ。
「その、大事な人っていうのは、彼氏のこと?」
「…いえ。私の完全な片思いで…。もう、思いが届くこともないかもしれないです」
「そ、そうなんだ。一方通行なんだ」
「はい」
「いつからの片思い?」
「大学1年からです。だから、もう5年」
「長いね。そりゃ驚いた。その人一筋ってわけ?」
「はい」
「思いは伝えたの?」
「いいえ。伝える前に、終わりそうです」
「なんで?!」
「き、嫌われているみたいで」
ボロ。思わず涙が流れた。
「弥生ちゃん?」
「だ、大丈夫です。すぐに立ち直れます。私、立ち直るの早いんです。きっと今回も、大丈夫…」
「えっと。なんて言っていいかわかんないけど、泣きたい時には泣くのが一番だよ?」
「…ありがとう、久世君って、本当に優しいですね」
「いや、そうでもないけどさ」
久世君はそう言うと、頭をボリって掻いた。私は周りに人もいるので、みんなに見られないよう、下を向いた。
涙はボロボロと流れた。
今だけ。すぐに泣き止む。こんなことで泣いたりしない。お父様にも言われていた。辛いこと、大変なことはきっとこれからたくさんある。でも、いつも笑顔で頑張りなさいと。
久世君はそっと、自分のポケットからタオルを出して渡してくれた。
「汗、拭いちゃったから、汗臭いかもしれないけど」
「あ、ありがとう」
元気になろう。こうやって、励ましてくれる人がいるんだから。
「そいつさ、まだ弥生ちゃんの良さをわかってないだけなんじゃないの?」
「え?」
「もっと頑張って、アピールしたら?あ、そうだ!今日も弥生ちゃんに似合う可愛い服買っていったらいいよ。弥生ちゃんはもっともっと可愛くなれる。そうしたら、そいつも振り向いてくれるかもよ?」
「…はい。なんか、元気出てきました。私、もうちょっと頑張ってみます」
「うん」
久世君はにっこりと笑ったあと、ほんのちょっと溜息をついた。
「それにしても、5年も想い続けちゃうなんて、どんなやつなんだろうね?」
久世君に聞かれたけど、私は答えなかった。答えずにただ、涙を拭いて、
「タオル、洗って返しますね。今度はカラフルなお弁当に挑戦するので、また食べてください。それでは、今日は本当にありがとうございました」
と言って、ベンチを立ち上がった。
「こちらこそ、お弁当をありがとう」
久世君からお弁当箱を受け取り、私は久世君に軽く手を振って、オフィスに戻った。
トイレで顔を見てみると、涙で化粧は落ちていた。慌てて化粧を直し、ほっぺをパンパンと叩いて自分に喝を入れた。
「よし!頑張る!今は今できることを頑張る!」
もし、破談になっちゃったとしたら、とっても悲しいけれど、でも、それまでに何か出来ることはあるかも知れない。
「起きていない未来のことを悩んだりしても仕方ないよね。今は、今、全力を尽くさないと」
そう鏡に映った自分に言い聞かせ、トイレを出た。そして庶務課に颯爽と歩いて向かった。
5時半。定時に私も細川女史も仕事を終えた。
「さて。ジョリ・クゼに行きましょうか」
「はい」
ロッカーに寄って鞄を取り、細川女史とオフィスを出た。
ジョリ・クゼはオフィスから歩いて7~8分のところにある。
「いらっしゃい、弥生ちゃん。将嗣から電話で聞いてるわ。また来てくれて嬉しい」
久世君のお母様が昨日同様、ハイテンションで出迎えてくれた。
「こちらの方は、同じ会社の方?」
「はい。同じ課の細川さんです」
「私でも似合う服ってあるのかしら」
細川女史がそう聞くと、久世君のお母様は目を輝かせ、お店の奥へと細川女史を連れて行った。
私はもう一人の若い店員さんに案内され、服を見た。
「昨日は将嗣さんと一緒にいらしていましたが、お友達ですか?」
「え?あ、はい」
友達…なんだろうか。うん。きっとそうだよね。
「昨日試着していたキュロット、可愛かったですよ。いかがですか?」
店員さんが持ってきたのは、紺色のヒラヒラしたミニスカート…のようなキュロット。
「それに、こちらの白のブラウスを合わせたら、清楚なイメージになります」
「清楚?」
そういえば、今日、一臣様が、上条グループの令嬢だから、清楚だと思っていたって言っていたな。清楚な感じの服を着たら、イメージ変わるのかしら。少しは見直してくれる?
「それ、ください」
私は即決した。
細川女史は何着かパンツを試着していたが、結局、
「もう少し、考えてから」
と購入はしなかった。
「弥生ちゃん、ありがとうね。また遊びに来てね」
「はい。ありがとうございます」
久世君のお母様に挨拶をして、細川女史とお店を出た。
駅までは、また緒方商事の前を通る形になる。私と細川女史は、ブラブラと緒方商事に向かって歩いていた。すると、エントランスの前で、男性社員に囲まれている女性がいた。
「ねえ、上野さん。今日の部の新入社員の歓迎会に本当に出ないの?」
「はい。先約があるので。どうぞ皆さんで楽しんできてください」
「でもさあ、上野さんが来ないと悲しむ男性多いと思うよ。部長だって、新入社員だって」
そんなことを言われても、ニコニコしながら首を横に振っている女の人は、顔が小さく、栗色の巻毛をした、ものすごく可愛らしい人だ。
フリフリのスカートも、ブラウスもすごく似合っている。ああ、こういう人がこういう服を着ると、こんなにも可愛くなるんだなあ。
「あ!一臣様!」
え?
私はエントランスのほうを見た。すると、中から一臣様が秘書の樋口さんと一緒に現れた。
「お待ちしていました」
その可愛らしい人は、一臣様のすぐ横に行き、腕を組んだ。
「ああ、悪い。待たせて。じゃ、樋口、頼んだよ」
「はい。かしこまりました」
樋口さんはぺこりとお辞儀をした。それから、顔を上げると私の方を見た。
一臣様も私の方を一瞬見たが、腕を組んでいた手を外し、上野さんという女性の腰に手を回すと、
「明日は土曜日だし、夜遅くまで今日は空いてるな?」
とまるで私に聞こえるようにそう言った。
「勿論です、一臣様。明日の朝までだって大丈夫です」
「そうか。じゃあ、今夜は屋敷の方に戻れないと、あとで樋口に連絡を入れないとな」
「わあ!嬉しい!」
上野さんは弾む声でそう言って、一臣様にべったりとくっつき、二人で歩いて行ってしまった。
「……え?」
私は呆然とその後ろ姿を見ていた。
「約束って、社長のご子息とだったのか」
「じゃあ、こっちの会に上野さんが来るわけないよなあ」
「だけど、あれって、遊ばれてるってことじゃん?一臣氏、フィアンセがいるんだろ?」
「しっ!それはまだ、未発表の段階だから、社外に漏れると大変なんだよ。お前、軽々しくそういうことは言わないほうがいいぞ」
コソコソと今まで上野さんの周りにいた男子社員がそう言いながら、私と細川女史の前を歩いて行った。
「……」
朝まで?って言ったよね?
「上条さん」
「はい」
「大丈夫?顔、真っ青よ」
細川女史が、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「……だ、大丈夫です。でも、すみません。先に帰ってください。私、忘れ物が…」
そう言って、私はオフィスに入っていき、トイレにそのまま突き進み、個室に入って鍵を閉めた。
「う…」
ダメだ。もう泣くのはやめようって思ったのに。
「う…」
ダメだ。ポロポロと涙がこぼれてくる。
なんで?
優しい真面目な、大人の人だと思っていた。
きっと、親同士が決めた婚約者だとはいえ、大事に思ってくれるんじゃないかって、勝手に思っていた。
それなのに、私のことは気持ち悪いストーカーだと思っていて、それに、たくさんの女性と付き合っているだなんて。
ダメだ。お父様。さすがの私も立ち直れません。
ずっと想い続けてきた一臣様のイメージも壊れました。
頑張れそうもありません!!!!
そのあと、小1時間トイレの個室で私は泣いた。もう涙が枯れるかもっていうくらい泣いてしまった。