~その5~ ベンチで休憩
ギュウ。一臣様に思い切り抱きしめられていて、息ができないくらいだ。
ドキドキはいまだにおさまらない。でも、なんでずっと抱きしめてるんだろう。ずうっと離してくれない。
そろそろ、心臓が限界に来そうなんだけどな。
「か、一臣様」
「なんだ」
「仕事は?」
「午後の仕事、全部キャンセルしてきた」
「え?!」
「大丈夫だ。一つは俺がいてもいなくてもいいような会議だし、もう一つも、役員の誰かがいりゃすむだけの会だ。俺は体調不良ってことで、欠席させてもらった」
「……い、いいんですか?それで」
「ああ。体調不良ってのは本当だし」
「え?!!」
うそ。なんで?
「睡眠障害だ。あまりにも眠れなくて、昨夜は睡眠薬までのんじまった」
「え?」
「寝れなくても、大丈夫だったんだけどな。昨日の夜は、ダメだったんだ。あまりにも辛いから薬に頼った」
「それで、眠れたんですか?」
「ああ。寝れた。でも、起きたら最悪の体調になっていた。薬、やっぱり合わないみたいだな」
「今は?」
「……」
一臣様が私の体を離して私を見た。あ、ようやく離れてくれた。
「眠い」
「え?」
「お前がいたら、ぐっすり寝れそうだ。だから、今日は早めに夕飯にして、寝るぞ」
「……はい」
寝るって言うのは、ただ、寝るってことだよね。これ、深読みはしないでもいいんだよね?
「顏赤らめてるけど、なんか期待したのか?」
ギク!そうだった。期待なんかするな。襲う気なんかないって、そういつも言われていたじゃない。バカだな、私…。
「なんで、返事しないんだよ」
「え?」
私は俯いていたけれど、一臣様のほうを思わず見てしまった。すると、真剣な顔で私を見ている。
あれ?冗談で言ってるんだよね?なんで、顏、真剣なの?
「期待したのか?」
「い、いえ」
「……」
一臣様が片眉をあげた。それから、視線をはずし、
「そうだな。今日ぐっすりと眠れたら、体力も回復して、明日にはお前を抱くこともできるかもな。でも、今日は無理そうだ。悪いな」
と謝ってきた。
「いえいえいえいえ!期待していません!」
ちゃんとさっきも、いいえって言ったのに。私は慌てて、そう首を横に振りながら言った。
「いいんだ。遠慮するな」
「遠慮じゃないです」
「なんだよ、顏赤らめて期待した目で見ていたくせに」
「そんな目をしたりしていませ…」
していたの?まさか。え~~。まさか…。
「は~~~。なんだか、力が一気に抜けた。メイド達に、お前が婚約破棄しないってことを言ってきて、仕事再開してもらって、俺は少し休むぞ」
「はい」
ん?思わず、はいと返事をしたけど、婚約破棄しないことになったの?私、一臣様のフィアンセでいてもいいの?
「みんなに報告しに行くぞ。きっと今も、心配しながら待っているぞ」
「あ、はい」
一臣様は私の背中に手を回し、いつものように優しく私をエスコートするようにして部屋を出た。
それからも、ずっと私の背中に腕を回し、廊下を歩いた。そして階段のところまで来ると、ロビーにみんなが勢ぞろいをしていて、
「あ!弥生様!」
と私と一臣様を見つけて、階段を上ってきた。
「弥生様。婚約破棄の理由はなんなんですか?」
「どうしていきなり?」
「何があったんですか?」
亜美ちゃんを始め、他の人までがそう言いながら、わっと私の周りに集まった。
「危ないから、お前ら、階段から下りろよ。弥生まで階段から落ちたら大変だろ」
みんなが、階段を上って来ていて、私と一臣様は踊り場のところで囲まれていたので、一臣様がそうみんなに言った。
みんなは、静かに階段を下りて、私たちがロビーに行くまで待っていてくれた。
「弥生は、もう婚約破棄しないぞ」
「え?!」
一臣様の言葉で、みんながまた私たちに近づいた。
「すみませんでした。私、みんなに心配かけてしまって」
そう言って、ぺこりと頭を下げると、
「じゃあ、一臣様の奥様には、弥生様がなられるんですね」
と日野さんが声をあげた。
「そうだ。だから、もう安心して、仕事に戻れ」
「それ、本当の本当ですか?弥生様。今だけ、そう言わされているわけじゃないんですね?」
そう念を押して聞いてきたのは亜美ちゃんだ。
「は、はい」
そう言われ、小さい声で返事をすると、
「本当に、戻ってこられたんですね!?」
と今度はトモちゃんに聞かれてしまった。
「しつこいぞ。もう、弥生はどこにも行かないから、仕事に戻れ。明日にはおふくろも屋敷に戻ってくるんだ。お前らが仕事を放棄していることがばれたら全員クビだ。それも、弥生のことでストライキ起こしてるなんてばれたら、弥生もまた追い出されるんだぞ」
「はい。わかりました。すぐに仕事に戻ります」
日野さんがそう言うと、わらわらとみんな、キッチンに行ったり、2階に駆けのぼったりしていった。
そして、私と一臣様の前には、喜多見さんと等々力さんだけが残った。
「おかえりなさいませ、弥生様」
喜多見さんがそう言うと、
「喜多見さん。悪い。俺の部屋、結構汚れてる。休みたいから、早めに掃除してくれないか?」
と一臣様がそう喜多見さんに頼んだ。
「…お休みになられるんですか?」
「ああ。弥生が隣にいたら、眠れるから」
「はい。かしこまりました」
喜多見さんはにこりと私に優しく微笑み、2階に上がって行った。
「おかえりなさい。弥生様。戻られて本当に嬉しいです」
等々力さんが私に向かって、力強くそう言ってくれた。
「あ、ありがとうございます」
思わず、私は泣きそうになった。
「等々力、これでちゃんと車も運転してくれるよな?」
「はい。早速、車の手入れをしてまいります」
等々力さんはそう言うと、その場を去った。
「さて。部屋は今、掃除しているし、ダイニングでお茶でもするか」
一臣様はまた、私の背中に腕を回してそう言った。
「はい」
そして二人で、ダイニングに行くと、ダイニングでは、亜美ちゃんとトモちゃんが、一生懸命に雑巾がけをしているところだった。
「ああ、ここも掃除中か」
「あ。すぐに終わらせます」
「いや。いい。部屋の掃除している間だけ、どこかで時間をつぶそうと思っていただけだ。でも、どこに行っても、掃除をしていそうだな。きっと、大広間も、応接間も掃除中だな?」
「はい。弥生様のお部屋は、日野さんが掃除をしに行っているし…」
「庭でもでるか、弥生」
「あ。庭も、さきほど、弥生様が戻ってきたと連絡をしたので、庭師の方々が来て、作業をしていると思います」
「そうだったな。庭師のやつらまで、ストライキ起こしていたんだったっけな」
え?
「もしかして、根津さんも?」
「そうだ。根津はなんでだか、お前の大のファンになったらしいからな。お前がいなくなった緒方家など、来たくないと、とんでもないことを言って、休んでいたんだ。信じられないだろ?」
「はい」
「はははは!本当にお前って、変な奴だよな。なんだって、そうみんなに好かれちゃうんだか」
あ。一臣様の笑い声。久しぶり。
「うわ~~~~~~~~~~~!!」
その時、雑巾がけをしていたはずのトモちゃんが顔をあげ、驚きの声をあげた。
「なんだ?」
一臣様のほうも、その声にびっくりして、トモちゃんに慌てたように聞いた。
「一臣様の、そんな笑い声、初めて聞きます。びっくりした。一臣様も笑うことがあるんですね」
トモちゃんはまだ目を丸くしていた。
「……俺だって、一応、人間だから笑うこともある。それより、早くに掃除を済ませろ。今日は早くに夕飯にしてもらうからな」
一臣様はそう言って、また私の背中を押して、ダイニングを出た。
「なんだ。どこに行っていたらいいんだ?俺たちは」
「寮にでも行きますか?きっと、今、従業員全員が、掃除やら、いろんな仕事に追われてて、寮はもぬけの殻だと思うんです」
「……寮のどこに行くんだ」
「え?それは、休憩室です。テレビもあるし、冷蔵庫も、自販機まであります」
「…ああ。子供の頃、たまに親の目を盗んで入っていた。龍二とな」
「行きましょう。お母様がいないから、怒られないですよね?」
「まったく。お前って面白いよなあ。あ、そうか!お前が行きたいだけだろ?」
「そうです。でも、一臣様と行きたいんです」
私は一臣様の腕を引っ張り、お屋敷から出て寮に行った。
そして、誰もいない寮の休憩室に入った。
「あれ?ここはこんなに狭かったかな」
「子供の頃だったから、広く感じたんですね」
「…ああ、あれか。お前がペンキを塗ったベンチってのは」
一臣様は中庭を見つけ、休憩室の窓を開けてベンチを見た。
「ベンチに座って、お茶でものんびりしますか?」
「ふん」
あ、鼻で笑われた?
「いいぞ。お前、そこに座って待ってろ」
「え?」
「何を飲む?俺は、そうだなあ」
一臣様はそう言うと、ズボンのポケットから、黒い皮のお財布を取り出した。
そして、自動販売機の前で腕を組み、
「どれも飲んだことがないからわからないな。お勧めってのはあるのか」
と聞いてきた。
え?自動販売機で売っているものを飲んだことがないの?!
「え、えっとですね。缶コーヒーなら、微糖かブラックでないと、甘すぎると思います。あと、紅茶なら、ここらへん、お砂糖が入っていないので、すっきりしています」
私は一回ベンチに座ったが、また立ち上がり、自動販売機の前まで行って、一臣様に教えた。
「ブラックか。う~~ん。これから眠りたいしな。コーヒーはやめとくか」
紅茶も十分、カフェインが入っていると思ったけど、そこは黙っておいた。
「お前は?」
「私は、こっちのミルクたっぷりの紅茶で」
「甘そうだな。いいのか?」
「はいっ!これ、お気に入りなんです」
「こういうのを、お前は買って飲むのか」
「はい。よく飲みますけど」
一臣様は、
「お金はここだよな」
と言いながら、お財布から一万円札を取り出した。
「なんだよ。万札は使えないのか?使えない自販機だな」
そう一臣様は自動販売機にブツブツ文句を言い、お財布に一万円札を戻して、千円札を出した。
千円札もあるんじゃん。と、つっこみを入れたくなったけど、黙っておいた。
本当に自動販売機で、買ったりしたことがないんだなあ。
「ほら」
一臣様は私にミルクティを渡してくれた。
「ありがとうございます」
なんだか、新鮮!ベンチに座って、缶の紅茶を飲む。一臣様と…。とっても不思議な気分。と浮かれつつつ、中庭に出ようとした時、ギュルル~~~!とお腹が鳴ってしまった。
「あう!」
「タイミングいいなあ。お腹空いたのか?なんか、食い物はあるのか?ここには」
一臣様にもしっかりと聞かれていた。
「はい。こっちの自販機、パンの自販機なんです。あ!うそ!季節限定、夕張メロンパン!!!」
「え?お前のお気に入りなのか?」
「はい。季節限定だから、そうそう買えないんです」
「わかった。これも買ってやるから」
「本当ですか?!嬉しい!」
「そんなに喜ぶなよ。このくらいで」
一臣様は、さっきの飲み物を買ったおつりをポケットからジャラっと出して、夕張メロンパンを買ってくれた。
「ほら」
「ありがとうございます」
私はほくほくしながら、ベンチに座った。
「あはは!」
あ。笑われた。
「お腹、そんなに空いていたのか?」
一臣様はそう私に聞きながら、隣に座った。
「いいえ。ずっと食欲なくて、ほとんど食べていなくって」
「え?」
「さっき、いきなり食欲が出て来たみたいで」
「………」
一臣様は目を細めた。それから、コツンと指でおでこをつっついてきた。
うわ。でこぴんかと思った。
「そういえばお前、なんか、顏、やつれた感じするもんな」
「そうですか?」
「ああ。目は腫れていて一重になっているし、すげえブス顏だよな」
酷い。
「俺もだろ?眠れていないし、自分で自分の顔見ても、げっそりしているなって思うぞ」
「そ、そういえば、顔色もあまりよくないですよね」
「だろ?」
「はい」
「俺も食欲なくて、少し痩せたしな」
「忙しかったんですか?そんなに」
「アホな質問をするな」
え?
そうか。忙しいのは当たり前っていうことかな。
「なんだって、そうなるんだ。お前がやつれたのは、俺に会えなかったからだろ?泣き顔でブスなのも、俺から離れようだなんて考えたからだろ?」
「はい」
「俺もだ。忙しいのは日常茶飯事だ。そんなことくらいで、食欲は失せないし、げっそりもしないさ」
「え?」
「阿呆。そのくらい、わかれよな」
「え?」
「それより、夕張メロンパンってのは、夕張メロンの味がするのか?」
「た、食べてみますか?」
私は一口食べてしまったメロンパンを、一臣様の口元に持っていってみた。すると、
「パク」
と一臣様が、メロンパンにかじりついた。
うっわ~~~。本当に食べた!
「ん?これ、夕張メロンの味なのか?」
「はい」
「あ、そうか。俺は夕張メロンを食ったことがなかった」
「は?」
「マスクメロンとか、そのへんの高級なメロンしか食ったことがない。マスクメロンパンっていうのはないのか?」
「ないと思います」
「なんだ。そうか」
う、う~~~ん。夕張メロン美味しいし、私からしたら、高級品なんだけどな。もう、メロン全般が高級品で、実家に帰らないと食べられない代物だったんだけど。
「でも、うまいかもな。甘いけどな」
一臣様がそう言って、にこりと笑った。
キュキュン!
なんだか、ものすごく幸せな気分になって、私はベンチでにやけながら、メロンパンにかじりついていた。