~その4~ 優しいキス
必死に抑えていた涙は、頬をつたって私の手の上に落ちた。
「それでか…」
一臣様はその涙を見て、また小さく溜息をした。
「そうか。そうだよな。お前、あのあと泣きながら、ビルを飛び出していったんだもんな」
「え?」
「……俺は知らなかった。日陰がお前を追いかけた。久世がお前を姉の美容院に連れて行ったと、そう日陰は樋口に報告をした。樋口は俺に、弥生様が久世将嗣と会っているようですとだけ報告して、お前を迎えに行った」
え?
「樋口も、真相を知らなかったんだ。お前を迎えに行って、お前がボロボロに泣いた顔をしていて、驚いたようだ」
「……」
「俺も、まさか、そんなにお前が泣いていたって知らなかった。日陰からあとで報告を受けて驚いた。だけど、お前の実家に電話をするのも気が引けたし、お前の携帯は、樋口が持っていたし。いや、お前が持っていたとしても、もう機能もしない携帯になっていたしな。連絡が取れなかった」
気にかけてはくれていたんだ。
「日曜になって、夜遅くに親父が出て来いと電話をよこした。親父がいるホテルに行って、そこでお前が婚約破棄をしたいと申し出てきたと聞いたんだ」
「……」
「そんな馬鹿な話があるかって、親父の言うことを真に受けなかった。もしかしたら、おふくろがまた、裏で手でも回したか何かしたかとも思ったしな」
「え?」
「お前から、婚約破棄をしてほしいなんて、そんなことを言って来るとは、思ってもみなかったことだからな」
「……なぜ、ですか?」
「お前、俺から離れたら、何も残らないだろ?単なる腑抜けになるだけで、俺がいなきゃ幸せになれないって言っていただろ?だから、離れて行くわけはないと思っていたんだ」
「……」
「樋口に、調べさせようと思ってそのままにしておいた。どうせ次の日になったら、お前にも会社で会えると思っていたしな。だけど、お前は会社に来ないし、上条氏が、お前が緒方商事を辞めたいと言っていると、そんな電話をしてくるし。それで、月曜、お前のところに行った」
「………」
「だけど、まったく訳がわからないだけだった。俺はずっと考えた。お前が俺との婚約を解消したいわけを。ずっと…」
一臣様はそう言ってから、しばらく黙り込んだ。そして、私の顔を見て、
「葛西とキスをしていたのを、お前が見て、それが原因としか考えられなかった」
とそう言った。
「……」
私は何も答えなかった。
「だけど、それでなんで、ごめんなさいと謝ってくるんだ。俺を責めたらいいだろ?お前が謝ることじゃない」
「……」
「弥生。さっきから黙ってないで、何か言えよ」
「私…」
一臣様のほうを見た。一臣様の目は真剣だ。
パッと目をそらして、私はまた下を向き、自分の手を見て話しだした。
「私、一臣様と葛西さんがキスをしているのを見て、ものすごく辛くなって」
「……ああ」
「胸が張り裂けそうなくらい、苦しくなって」
「……」
私が黙り込むと、
「それで、俺が嫌になった?」
と聞いてきた。
私は首を横に振った。
「それで…。一臣様がそのあと、わ、私にキスをして」
「…ああ」
「わかったんです」
「…何がだ?」
「一臣様の気持ち」
「……俺の?」
「はい。ずっと、私はまた、勘違いをしていたんだっていうことに気が付きました」
「勘違い?」
「……」
泣きそう。でも、ちゃんと話さないと。
「私、一臣様の隣にいられるのが幸せでした。一臣様の役に立てることとか、一臣様が私の隣だと眠れることとか、仕事の補佐を頼まれたこととか、全部嬉しかったんです」
「……ああ」
「ずっと、こんな幸せを感じていられるんだって、浮かれていました。一臣様が私のフィアンセで良かったって、そんなこと思って、浮かれてたんです」
「………それで?」
「そ、それで、キスされて、一臣様の気持ちが全然私にないことが、わかって…」
「え?」
一臣様が、一瞬、隣でかたまったのがわかった。
なんで、かたまったの?私がそのことに気が付いたからなの?
「一臣様のキス、冷たかったんです。私、それで、この先もずっと一臣様に冷たいキスをされるのかとか、思いも何もないままに一臣様に抱かれるのかって、そう思ったら、もっと胸が苦しくなって…」
「……」
一臣様は黙り込んだ。
「幸せを履き違えていたって、気が付いたんです」
「……それで、なんでごめんなさいってお前が言うんだ」
「…わ、私の幸せって、一臣様が幸せになることなんです」
「え?」
一臣様が、あまりにも私のことをじっと見るので、私も一臣様の顔を見てしまった。
ボロ。駄目だ。顔を見ただけで涙が出てくる。
「好きでもない私と結婚したって、一臣様が幸せになるわけない。ずっと、あんな冷たいキスをさせたり、義務で私のことを抱いたり、そんなことさせられないって、そう思って」
「……義務?」
「一臣様は、今までずっと、会社の犠牲になっていたんですよね。結婚だって、自分の意思と関係なく、私と結婚しなくちゃならなくって、跡継ぎを産ませるためだけに、私を抱かないとならないんですよね」
「……ああ。そう思ってた。ずっとな」
「…そんなの、一臣様にさせられない。もう犠牲になってほしくない。一臣様には、心から好きな人と結婚してほしいし、幸せになってほしいんです」
「……」
「私が、好きになったから、私と婚約することになって、何年も、一臣様はそれに縛られてきて、辛い思いをしたんですよね」
「それで、ごめんなさいって言ったのか?」
「はい」
「…………そうか。お前は、やっぱり、俺から離れると、訳のわかんないことを考えだし、勝手に妄想して、勝手に落ち込み、勝手に俺から離れていこうなんてアホなこと考えだすんだな」
「え?」
「阿呆!」
「………え?」
「俺のキスが冷たかったのか?」
「は、はい」
「そりゃそうだろ。わざとそうしたからな。でも、あの時は頭に来ていたんだ!」
「え?」
なんで?
キスを見られたからとか?
「お前、浩介の言うことのほうを信じただろ?俺と葛西はなんでもない。付き合ってもいなけりゃ、これからも付き合うこともない。なのに、勝手にあれこれ吹きこまれて、そっちのほうを信じ込んでいるから、頭に来たんだ」
「え?」
付き合っていない?
「キスだって、俺にとっちゃあんなのキスに入らない」
「私とのですか?」
「葛西とのだ。勝手にあっちからしてきた。口と口が触れていただけで、キスじゃない。あんなのは」
「え?え?」
「それでも、お前にとっては胸が張り裂けそうになるくらい、嫌なことだったんだな?」
「……」
私は黙ってコクンと頷いた。
「それは、悪かったって思ってる。そこまで傷つくとは思わなかった。だから、もうしない。相手が勝手にキスしようとしてきても、ちゃんと避けることにする」
「え?」
「お前にしたキスも、わざとだからな。わざと冷たくした。頭に来たから、ちょっと意地悪をしただけだ。それを、勝手にあれこれあれこれ、膨らませやがって」
「で、でも」
「でも、なんだ!」
「つ、冷たかった。目も怖かったし、声も…」
「だから!わざとそうしたって言ってるだろ?!」
「私のこと、嫌がってるんじゃないんですか?だって、いつも気持ち悪いとか、怖いとか」
「それも、からかっていただけだ」
「だけど、嫌いですよね?嫌っていましたよね?」
「………確かに。大学の頃は、嫌がっていた」
「それ、今もですよね?」
「………」
一臣様は黙り込み、俯いてから、また私のほうを見た。
「嫌っているやつを、隣に寝かしたりはしない」
「え?」
「嫌がっていたら、多分俺はとことん嫌がって、俺の部屋にだって絶対に入れさせない」
「………」
「嫌ってなんていない。そんなやつを、俺の秘書にしようとしたり、俺の仕事手伝わせたりもしない。お前は仕事も早いし、パワーもある。発想も豊かだし、俺はちゃんとお前のことは認めている」
「……仕事を?」
「そうだ。緒方商事にはお前は必要だ。お前が俺と一緒に、改革していくんだ。それに、お前は、俺が背負っていた重い荷物、半分背負ってくれるんだろ?」
「は、はい」
「じゃあ、逃げ出したりするなよ」
「………」
一臣様を見た。まだ、真剣な目で私を見ている。
私はまた視線を自分の手に移した。
「………でも、私がいたら、一臣様は、好きな人と結婚できません」
「は?」
「会社のために、私を認めてくれるのはすごく嬉しいです。でも、一臣様の幸せじゃないですよね」
「俺の幸せっていうのは、じゃあ、なんなんだ」
「…それは、愛する人と結婚して、愛する人が一臣様の子供を産んで、一緒に育てて…」
「ああ!くそ!」
え?なんで、怒りだしたの?
「面倒くさい奴だな。いったい、なんて言ったら婚約破棄をするっていうのを、取りやめるんだ」
「え?」
「お前が言いたいことはわかった。俺が幸せになることが、お前の幸せなんだな?」
「はい」
「じゃあ、お前が俺を幸せにしたらいいだろ!」
「……え?でも、そんなこと」
「できないのか?」
「で、できません」
「なんでだ」
「だって…」
好きになってもらうなんて無理。愛される自信もない。
「お前と一緒にいる時の俺は、そんなに不幸に見えたか?」
「………え?」
「そんなに苦しんでいるように見えたのか?」
「い、いいえ」
どっちかって言ったら、からかって楽しんでいるように見えた…けど。
「…………」
また、黙って私のこと、じっと見てる。
あまりにも、じっと見られていて、私は思い切り俯いた。
「おい」
「……」
「弥生」
「は、はい」
呼ばれて、私は顔をあげて一臣様を見た。すると、一臣様が思い切り私に顔を近づけていた。
え?!
フワ…。
唇に、触れた?!
ひゃあ!
あまりにもびっくりして、私の体がのけぞった。そして、思い切り一臣様から逃げようとした。
でも、一臣様が私の背中に両腕を回し、思い切り抱き寄せられてしまった。
ぎゃあ。顏、近い。近すぎる!
アタ、フタ。アタ、フタ。思い切り私は動揺した。両手が勝手に一臣様の胸を押していた。
「そんなに暴れるなよ。キスできないだろ」
ぎゃあ!なんでキス?!
嫌だよ。また、あんな冷たいキス。
私は、ジタバタと抵抗した。
「だから、暴れるな!」
「い、嫌です。もうあんな思いしたくないんです」
「あんなって?」
「冷たいキス。あれは、苦しいんです」
「だから!さっきから何度も言ってるだろ。あれはわざと、冷たくしたんだ。もう、冷たいキスなんかしない」
「え?」
ハッ。しまった。驚いた拍子に、私の動きが止まってしまった。
一臣様の右手が私の左の頬をかすめ、私の髪を撫でた。その次の瞬間、唇に唇を重ねられた。
う。
うっわ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!
目をギュっとつむった。唇も固く結んだ。
両手は一臣様の胸をまだ押していた。体はがちがちにかたまり、息をしていいのかどうかもわからなくなった。
長い…。まだ、唇を離してくれない。
一臣様のコロンの匂い。
それに、唇の感触。それから、一臣様がまた、私の髪を優しく撫でた。
唇を離すと、一臣様はギュウっと私を抱きしめてきた。
う、うわ。ドキドキドキドキドキ。
心臓が、破裂しそうだ。
一臣様の腕の力とか、ぬくもりとか、コロンの香りとか、全部に胸が破裂しそうになってる。
ど、ど、どうしよう。どうしたらいいの?
カチンコチン。体を硬直したまま、ずっと一臣様の腕の中にいた。全然、離してくれない。
息、できない。苦しい。
この前は冷たいキスだった。冷たいキスで胸が張り裂けそうなくらい苦しくなった。
でも今は、違う意味で胸が苦しい。心臓がバクバクで、息ができないくらいになってて、それに、一臣様のキスの感触が、まだ唇に残っていて…。
う、うわ~~~~~~~~~~~~~。やばいです。思いっきり泣きそう。
なんか、ものすごく一臣様のキスは、優しかったよ~~~~~~~~!
「弥生?」
ドッキ―――――ン!耳元で囁かれた。
「冷たいキスだったか?」
「い、いいえ」
そう答えるだけで精一杯。
私はそのあと、泣き出してしまった。
「なんだよ。なんで泣くんだよ」
ちょっと呆れたように、一臣様は私から体を離し、そう聞いてきた。
「だ、だって」
「ん?」
「だって…」
思い切り泣いていると、一臣様が頭を撫でた。それから、私の顔を覗きこみ、
「なんで、泣いてるんだ?」
と優しく聞いてきた。
「一臣様のキスが、優しすぎて」
「は?」
「う、う~~~~。優しすぎたんです~~~~~~」
「……。優しすぎても駄目なのか?」
「違います」
「じゃあ、なんだ」
「う、嬉しくって」
「ああ、嬉し泣きか。お前、大変だな。嬉しくてもそんなにビービ―泣くんだな」
「はい」
そう言って、ひっくひっくと涙を手で拭いながら泣いていると、また一臣様が私を抱きしめてきた。
うわ!!!
「お前、やっぱり…」
何?変わってる?へんてこりん?怖い?気持ち悪い?犬みたい?何?
「可愛いな」
え?!
一臣様の「可愛い」発言に、一瞬耳を疑い、涙は瞬間にして引っ込んだ。
「あれ?泣き止んだ?」
「い、今、なんて?」
「何が?」
「今、何か言いましたよね?」
「俺が?泣き止んだ?って聞いたんだ」
「違います。その前、お前、やっぱり…のあと」
「なんか言ったっけ?」
「はい」
「空耳だろ」
え~~~~~!!!!
一臣様はそう言うと、あははと笑い、また、ギュッて両腕で私を抱きしめた。