~その3~ みんながストライキ?
翌日、また目が腫れていた。ここ毎日泣いている。涙っていうのは枯れないんだな…。
朝から家に電話が来た。一臣様かと思い、ドキッとしたが、葉月からだった。
「ホームステイ先に連絡取れた。ちょうど、6月に大学を卒業するやつがいて、出て行くそうだよ。だから、弥生、6月中にアメリカで暮らせるようになるぞ」
「本当?ありがとう、葉月」
もう私の未来は動き出している。
一臣様とは違う道が、もう私の前には出来ているんだ。その道に一歩踏み出せば、一臣様とは接点のない、まったく新しい道が広がっているんだ。
ギュ…。また、胸の奥が痛んだ。でも、後戻りはできない。
私はその日、カリフォルニアにあるカレッジをインターネットで調べたり、本屋に本を買いに行ったりした。
何かしら動いていると、一臣様のことは忘れられた。この分なら、アメリカに行けば、もう一臣様はすぐに過去の思い出になるかもしれない。と、そんなことまで思えるようになった。
でも、夜、一人で部屋にいると、寂しさがこみ上げた。
一臣様の部屋で隣で寝たことを思い出した。すぐ隣にいた。一臣様のぬくもり、寝息、コロンの匂い、全部を思い出して、胸が痛んだ。
やっぱり、簡単に忘れることなんかできない。
ずうっと、大学時代は、一臣様を遠くで見ているだけだった。
勝手に優しい人だと思い込み、勝手に思い描いた。
結婚してからの暮らしまで想像したりした。
緒方商事に入って、一臣様のそばに行ってみて、初めて知ったことだらけだった。
一臣様は、私が想像していたような人じゃなかった。まったく違っていた。
ショックだった。だけど、知れば知るほど、もっと好きになった。
どこがって聞かれても、きっと答えられない。どこが好きかじゃない。一臣様の存在そのものが、大事で愛しくなってた。
私は、いつ、一臣様を忘れられるんだろうか。
そんな思いを胸に、また明け方まで眠れなかった。
翌日、パスポートに必要な書類を揃え、写真も撮りに行った。はっきり言ってブス顏だ。目が思い切り腫れていた。
「しょうがないよね。さっさとパスポートは申請しよう」
それから、ブラブラと街を歩いた。スーツケースを見に行ったり、洋服も見た。カリフォルニアは暑いんだろうか。日本の夏よりも?まったく見当がつかない。今度しっかりと葉月に聞いてみよう。
そして……。
町で、スーツ姿の人を見るたび、ドキッとした。背丈や、髪型が似ている人はみんな、一臣様に見えた。
「駄目。きっとアメリカなら、日本人なんてそうそういないし、一臣様に似ている人もいないよね」
私はそう呟き、急いで家に帰った。
携帯が水没したのはラッキーだったかもしれない。変に一臣様のメアドや番号を知っていたら、声が聞きたくなってかけてしまったかもしれない。
だけど、もう何も、接点になるものはない。
ポカンと心に大きな穴が開いたみたいだ。この穴はどうやったら、埋められるのだろう。
「ずっと、ただ、一臣様と結婚することだけを考えて生きてきたんだもんな」
部屋でぼ~っとしながら、そんなことを呟いて、
「いけない。何かしよう」
と頭を切り替えた。
ぼ~っとすると、どうしても一臣様のことを思い出してしまう。
私は、すぐにパソコンを開き、またカリフォルニアのことを調べた。
翌日、夏日のような暑さだ。空は真っ青。そんな中、私はパスポートの申請に向かった。
はっきり言って、最近寝ていないし、食欲もあまりない。だから、こんな暑い日は、すぐに体がだるくなる。
でも、早くにパスポートを取りたかった。一刻も早く、カリフォルニアに行きたい。
空を見た。雲一つない青空だった。きっと、カリフォルニアもこんな空だ。勝手にそう思い、気持ちを飛ばした。
空の向こうに。海の彼方まで。
「は~~~~~」
深呼吸をして、私はパスポートを申請しにビルに入った。
パスポートを申請する場所は、数人の人がいた。
申請書に、必要事項を書き込んだ。少し、寝不足だからか、頭がぼ~~っとした。
ううん。泣きすぎかも。今朝、起きたら泣いてた。私は寝ていても、夢の中で泣いているようだった。
夢は思い出せない。でも、とっても切ない夢だっていうのだけ、薄ぼんやりと覚えている。
いつまで、こんな日々が続くんだろう。
バサ…。突然、私の手元にあった書類を取り上げられた。
「え?」
なんで?びっくりして私の書類を取った人の腕を見た。
なんだか、見覚えのあるスーツ。そして、次の瞬間、一臣様のコロンがその人からしてきた。
「…?!」
私は顔をあげて、その人を見た。
「か、一臣様?なんでここに?」
「日陰が弥生がパスポートを申請にしに行っていると、連絡してきた」
「え?」
「家に行っても、門前払いだからな。家の外でしかお前と会えないだろ」
「……」
うちに来たの?いつ?
私は思わず、じっと一臣様の顔を見てしまった。
「写真、目が腫れててブス顏だな」
「え?」
「お前、二重だろ?この写真、一重になってるぞ。こんな写真でパスポート作っていいのか。こんなじゃアメリカで、写真と本人の顔が違っていて、空港で捕まるぞ」
「……」
いつもの、嫌味たっぷりな一臣様だ。
ボロ。涙が目からあふれた。慌てて私はその涙を手で拭った。
「な、なぜ、ここに?」
「連れ戻しに来た」
「か、帰りません。私。もう、帰れません。婚約だって破棄したし…」
「まだだ。親父もまだ、そんなこと認めていない。俺もだ」
「……でも」
「ああ、いいから、一度屋敷に戻れ。お前が婚約破棄をしたいと申し出たと、等々力の奴が口を滑らせて、屋敷中の従業員がそれを聞いて、ストライキしているんだ」
「す、ストライキ?」
「ああ、お前が戻ってくるまで、働かないと言っている」
「え?!」
「俺に、弥生を連れ戻すまで、働かないと言って、立川も小平も、日野も、喜多見さんまでが寮から一歩も出てきやしない」
「ええ?!」
喜多見さんも?
「等々力も車を出さないと言い張っているし、コック長までが、料理をしない。今、屋敷内は大変なことになっているんだ」
「う、うそ」
「嘘じゃない。明日には、龍二もおふくろも、屋敷に戻ってくる。どうするんだ。今のままストライキを続けていたら、全員クビだぞ?」
「でも…」
「お前があいつらに会って、ちゃんと納得いくように説明しろ。俺から説明しても聞きやしない」
「……」
ストライキ?私が婚約破棄したから?嘘でしょう?
「あいつらは、弥生じゃなきゃ、仕えたくないって言ってるんだ。絶対に屋敷に戻ってくると約束したのにって、そう言って怒っているぞ。特に、立川と小平はな」
「亜美ちゃんと、トモちゃんが…」
「それまで、ほったらかしにして、アメリカに行くのか」
「………いいえ。ごめんなさい。一度、皆に会ってちゃんと話します」
「…じゃあ、今すぐにだ。明日にはおふくろが帰ってくるんだから。今すぐにストライキを中止させて、仕事に戻らせろよ」
「はい」
一臣様は、私が書いたパスポートの申請書をその場で破り捨てた。
「え?」
「また、書けばいいだろ」
そう言うと、私の腕を掴んで、ずんずんと歩き出した。
ビルを出ると、樋口さんがいた。
「弥生、つかまえたぞ」
そう一臣様が言うと、
「弥生様、少しやつれましたか?」
と樋口さんが優しく聞いてきた。
「い、いいえ」
私はそう答えるのが精いっぱいだった。樋口さんの優しさに触れ、泣きそうになったからだ。
樋口さんが運転する車に乗り、お屋敷に向かった。本当に等々力さん、ストライキ中なんだな。
「……」
一臣様はずっと、窓の外を見て、黙っている。
私は胸がずっと苦しかった。
一臣様のコロンがする。ドキドキする。でも、涙が出るほど、胸が苦しい。
会えないと思っていた一臣様に会えたのが、嬉しいっていう気持ちもある。だけど、またすぐに別れが来るんだと思うと、苦しくなる。
「あいつらに、俺は、どう説明したらよかったんだ」
「え?」
「弥生が突然、婚約を破棄にしろと言ってきたと、本当のことを言った。でも、みんな納得しなかった。俺が破棄するよう仕向けたんだろって言うやつまでいて…。理由を言ってくれと言われたが、俺がその理由を聞きたいくらいだ」
「……」
一臣様は外を見たまま、そう話しだした。
「いきなり、ごめんなさいと謝られ、上条氏にまで、弥生の気持ちをわかってあげてくれなんて言われたって、わかるわけがない」
「……」
「俺には、なんで謝られたのか、まったくわからない」
そう言うと、一臣様はまた黙り込んだ。
そして、お屋敷に着くまで、ずっと私の方は向かなかった。
お屋敷に着くと、樋口さんがドアを開けてくれて、私は車を降りた。お屋敷からは、国分寺さんだけが現れた。
「や、弥生様!お帰りになったんですか?」
国分寺さんはそう言って、突然寮に向かって走って行ってしまった。
「国分寺、報告に行ったのか」
一臣様が車から降りると、そう樋口さんに聞いた。
「そのようですね」
一臣様は、私のほうを一切見ることもなく、お屋敷の中に入って行った。
私は数歩遅れて、お屋敷に入った。
「弥生様!!!」
お屋敷のダイニングの方から、亜美ちゃんがすっ飛んできた。その後ろからはトモちゃんや、日野さんも。
「帰ってきたんですね!」
私はその言葉に、何も答えられなかった。
「弥生は、なんで婚約を解消するのか、その理由を言いに来ただけだ」
一臣様が、私に向かってすっ飛んできたみんなにそう大きな声で言った。
「え?!」
みんな、走るスピードを一気に下げた。
「理由もわからず、婚約解消なんて納得いかないと、お前らが言っていたから、直接お前らに話すようにと連れて来た。これで、本人から聞いて納得して仕事に戻るな?」
「…い、嫌です。私たち、弥生様以外のどなたにも仕えたくありません」
トモちゃんが涙目でそう言った。亜美ちゃんも隣で、泣きそうになっている。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。
「なんなんだよ。じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
「こ、婚約解消なんて、しないでください。弥生様」
もう亜美ちゃんは泣いている。涙を流しながらそう訴えてきた。
「一臣様のせいですか?何か会社であったんですね?私たち、いつだって味方だって言ったじゃないですか!」
トモちゃんが鼻をすすりながらそう言った。
「あ、あの…」
「俺のせいか?弥生」
一臣様が私の後ろからそう聞いてきた。
「いいえ。違います。私のせいなんです」
私がそう言うと、トモちゃんも亜美ちゃんも日野さんも、いっせいに首を横に振った。
「………。弥生。こいつらに納得のいくように説明しろ。でも、その前にまず、俺に納得いくよう理由を話せ。わかったな?」
一臣様は、すごく低い声でそう言うと、私の腕をむんずと掴み、2階への階段を上りだした。
「か、一臣様!弥生様を怒ったりしないでください!」
「私たちがストライキを起こしたのは、弥生様のせいじゃないですから。それは絶対に怒らないでください」
トモちゃんと、亜美ちゃんがそう言った。
「し、心配しないで」
私は2人にそれだけ言って、一臣様に腕を引っ張られ、小走りで一臣様の部屋までついて行った。
バタン!一臣様は私を部屋に入れると、思い切りドアを閉めた。中に入ると、一臣様のコロンの匂いがして、懐かしさや愛しさが一気に胸からあふれだし、苦しくなった。
一臣様はまだ私の腕を掴んでいる。そして、そのままベッドまで行くと、私をドスンとベッドに座らせた。
ベッドは、くしゃくしゃだった。ベッドメイキングされていないようだ。ああ、喜多見さんが仕事を放棄しているからか。
「ベッドで、寝ていたんですか?」
「え?!」
一臣様が私の質問に、いらだつように聞き返してきた。そして、スーツの上着を脱いで、椅子にぽんと放ると、一臣様もベッドにどかっと座った。
「ね、眠れたんですか?ベッドで」
「眠れるわけがないだろ。お前がいないのに」
「……」
「ベッドがくしゃくしゃなのは、俺が、お前が勝手に婚約を破棄にするとか言い出して、頭に来て、布団や枕に当たっていたからだ」
「………すみません」
「それで?」
「え?」
「何が原因だ。俺が納得いくように説明しろ」
「………」
「なんで謝った?」
「…それは、私が一臣様を好きになったせいで、婚約させられたからです」
「そのことだったら、前にも言ってあるだろ?お前が俺を好きになろうがならなかろうが、親父はお前と俺を婚約させてた」
「いいえ」
「させてたんだ!」
「いいえ。父がそんなことはさせません。絶対にさせません」
「………」
一臣様は無言になって、私のほうをじっと見ている。私は視線を感じながらも、一臣様の顔は見ることができなかった。下を向き、両手を組んだ。
「それで?なんでいきなり、婚約破棄にまで発展したんだ。お前の発想がまったくわからない」
「……」
「原因は、会社での嫌がらせやセクハラじゃないんだな?」
「はい」
「仕事のプレッシャーか?」
「いいえ」
「じゃあ、なんだ」
「……」
私が黙っていると、一臣様は溜息をつき、それから私の顔を覗き込んできた。
「…!」
びっくりした。顏、近い。
「すごい泣き顔だよな。ずっと泣いていたのか」
「……」
また、涙が出てきた。
「泣いているのはなぜだ?俺との婚約が嫌になったからか?」
私は首を横に振った。
「じゃあ、俺から離れたくないからか」
私は首を横にも縦にも動かせなかった。
離れたくない。でも、離れなくちゃいけない。
「あれか?」
「……」
「俺が葛西とキスしたからか?」
「………」
ボロボロボロ。涙が一気に頬を流れ落ちてしまった。
ああ。必死に抑えていたのに!