~その2~ もう会わない
夜ご飯は、食卓で父、祖父、祖母と一緒に食べた。
「弥生ちゃん。あんなに琴の練習もしたのに」
食べ終わった頃、突然祖母がそう言った。
「え?」
「着物だって自分で着れられるようになったし。全部一臣さんのためにしていたんでしょ?」
「はい」
「なのに、なんでいきなり婚約を破棄するなんて、言い出したの?」
「……」
父は理由まで、祖母に言っていなかったようだ。
「それは…」
なんて言ったらいいのかな。
「弥生はどんなことも、いつでも全力で頑張る子だし、どんなことがあってもへこたれるような子じゃない。それは、お母さんもわかっていますよね?」
父がそう静かに話し出した。すると祖父が、
「今回は、そんな弥生でも越えられない壁があったってことかな?」
と、私に聞いてきた。
「……はい」
私が頷くと、
「だが、大成。緒方氏は簡単に受け入れてくれたのか?」
と、祖父は父に聞いた。
「いや。彼も今、忙しくてあまり時間が取れず、数分しか話せなかった。弥生、すまなかった。緒方氏は、婚約破棄の理由もわからないし、一臣も納得しないだろうし、破棄の話はまた保留と言う形になってしまったんだよ」
と、そう話してくれた。
「保留?」
私はびっくりした。もう、すっかり話もついて、すぐに婚約を破棄にできるのかと思っていた。
「大きなプロジェクトがかかっているからなあ。緒方氏もそんなに簡単には受け入れてくれないだろうなあ」
祖父がそう言って、お茶をすすった。
「か、一臣様はなんて?」
私はこわごわ父に聞いてみた。
「一臣君には会っていないよ。今日は、緒方氏が滞在しているホテルのロビーで少しだけ緒方氏と話ができただけだ。緒方氏から一臣君に話しておくと、そう言っていたが。はたして、どう話が一臣君に伝わるかはわからないな」
「……」
そうなんだ。
ドキン。
一臣様はどうするんだろう。
「じゃあ、弥生は緒方商事を辞めることもできないのか?」
祖父が聞いた。
「それも保留です。とりあえず、弥生の気持ちが落ち着くまで、休暇を取らせてくれとは申し出たんですが」
「弥生ちゃん、辛い思いを会社でも、向こうのお屋敷でもしていたんじゃないの?」
突然、祖母がそう聞いてきた。
「え?いいえ。会社やお屋敷では、全然…」
「だけど、ねえ、大成。向こうのお母様に、あまり気に入られていないって聞いたわよ」
「そんなことで弱音を吐く弱い子じゃないぞ。うちの弥生は」
祖母の言葉に、祖父が強くそう言った。
「……会社はどうする?弥生」
父が聞いてきた。私は一臣様に顔を合わせられる気力も何もかもなくなっていた。
「あ、明日は…」
「休むか?」
父にまた聞かれ、無言で頷いた。
「一臣君には、私から話しておくよ」
「ごめんなさい。お父様にいっぱい迷惑かけて」
「大丈夫だ。もう弥生は休みなさい」
「はい」
部屋に戻った。
会社…。動き出したプロジェクト…。一臣様が私にプロジェクトに参加させるって言ってた。
一緒に工場を回るって。
でも、それもできなくなる。
ギュウ…。胸が痛んだ。中途半端で投げ出してしまうことに、罪悪感も出てきた。
だけど、一臣様の婚約者じゃなくなったら、緒方商事にはいられないよね。どうしたって…。
私が、いなくなったら、どうなるんだろう。
もし、一臣様が葛西さんを好きだったとしたら、親が決めた婚約者もいなくなるんだもん。もう、一臣様は自由の身だし、誰と付き合おうが結婚しようが大丈夫なんだよね。だから、葛西さんとお付き合いを続けることもできるんだ。
だから、葛西さんが大阪に行くこともなくなるかもしれない。
一臣様が本当に好きな人が、葛西さんじゃなくて、高校の頃付き合っていたモデルの人だったら。
今もその人がアメリカにいるとしたら、アメリカから日本に帰ってきてもらって、結婚することだってできる。
なんの制限もない。好きな人と、一緒にいられるんだよね、一臣様は。
緒方社長に保留にされても、私はアメリカ行きの準備をすることにした。翌朝、父が仕事に行く前に、葉月がいたカリフォルニアに行こうと思うと、そう告げた。
父は、弥生がしたいようにすればいいと一言言って、出かけて行った。
緒方社長とは、三日後にアポイントを取ってあるから、その時しっかりと、婚約破棄を受け入れてもらうと、そう約束もしてくれた。
私は何も考えたくなくて、午前中、祖父と剣道をした。道場を雑巾がけしてから、しばらくぶりに素振りから始まり、そして、祖父に手合せしてもらった。
「弥生、すっかり衰えたぞ。迷いがいっぱい見られる」
「……」
見抜かれた。何も考えないようにしようと思えが思うほど、一臣様が頭に浮かんでいた。それを必死に消そうとして、もがいていた。
「座禅でもするか?弥生」
「……ごめんなさい。おじい様。少し部屋に戻って、頭を冷やしてきます」
私はおじい様に礼をして、道場を出た。
汗をとてもかいたので、シャワーを浴び、それから部屋に入った。そして、ただただ、ぼ~~っとした。
でも、なんにもしないでいると、ますます一臣様のことを思い出してしまう。一臣様の笑顔や笑い声、片眉をあげる癖、癖のある髪。
背中、颯爽とした歩き方、パソコンをうつ時にはメガネをかけてた。それも、似合っていた。
スーツ姿、ネクタイをゆるめて、椅子にくつろぐ姿。時々見せてくれた優しい目。
全部、全部、全部大好きだった。
ギュ~~~~。
痛い。胸が締め付けられる。そして、涙がまたあふれてくる。
また、私は泣いた。涙なんてもう出ないんじゃないかってほど泣いたのに。
5時半を回り、志津さんが私の部屋に来た。そして、
「何か食べたいものはございますか?」
と優しく聞いてくれた。
「志津さんが作った煮物が食べたいです。志津さんの作るお芋の煮っ転がし、大好きなの」
そう答えると、志津さんは「はい」と優しく微笑み、キッチンに戻って行った。
「私も手伝います」
そう言って私もキッチンに行き、ジャガイモの皮むきを手伝いだした。
6時、父が帰ってきた。玄関まで志津さんと出迎えに行くと、
「何か、一臣氏から連絡はあったか?弥生」
と、すぐにそう聞いてきた。
「いいえ。何も」
ああ、そうだった。携帯は水没して、今、樋口さんが持っているんだった。連絡を入れようにも入れられないのかもしれない。
でも、調べたら自宅の電話くらいわかるか…。
一臣様はどうしているんだろう。社長から婚約破棄を私が申し出たと、もう聞いているんだろうか。
今日、仕事を休んだことはどう思っているんだろう。
怒っている?それとも、なんの連絡もないってことは、なんとも思ってない?
このまま、何も起きず、時は過ぎて行くんだろうか。父と緒方社長の間だけで話し合われて、一臣様は私たちの婚約のことに、何も関わらず、もう私にも会いに来てもくれず、とっとと私のことなんか忘れるんだろうか。
ああ、バカだ、私。もう顔を合わせるのも辛いっていうのに、会いたいって思っているなんて。
私はまた志津さんとキッチンに戻った。
ピンポン…。その時、門の外のチャイムが鳴った。
「は~~い」
志津さんがインターホンに出た。それからすぐに、志津さんは、父を部屋まで呼びに行った。
まさか、一臣様が来た…とか?まさか…ね。
父は、キッチンの私のところまで来ると、
「弥生は出てこなくてもいいからな」
と一言だけ言い残し、玄関に向かって廊下を歩いて行った。
私はそっと、キッチンのドアを少しだけ開けて、耳を澄ました。
「やあ、一臣君。話を緒方氏から聞いたのかな」
父がそう言っているのが聞こえてきた。やっぱり!一臣様が来たんだ。
「弥生さんはどこですか?」
一臣様の声だ。すごく怒っている。
「話を聞いたんだね?弥生は君にはもう会わない。婚約も破棄してくれと、そう弥生も言っている」
「……突然のことすぎて、納得できません。弥生さんはどこですか?話を直接聞きたいんですが」
「弥生ではなく、私が話をする。こっちの部屋にどうぞ、一臣君」
父がとても静かにそう言った。
だが、一臣様は、
「弥生さんはどこにいるんですか?勝手にあがらせてもらいます!」
と、そう声を荒げ、ズンズン廊下を歩きだし、こっちに向かってきた。
「一臣君!弥生は君には会いたくないと言っている!」
父がそんな一臣様を止めた。
「弥生さんが会いたくないって言っても、こっちは会って直接話をするまで帰れません」
「一臣君。とにかく今日のところは帰ってもらえないか?」
「なぜですか?!」
一臣様、思い切り怒ってる。
どうしよう。出て行った方がいいの?
「一臣さん!弥生ちゃんにはもう会わないであげて」
そこにどうやら、祖母までが部屋から出てきたようだ。
「はい?!」
「弥生ちゃんのこと、もうこれ以上苦しめるのはやめて」
「はあ?!」
一臣様は、祖母の言うことに、相当切れたようだ。ものすごい呆れたような声が聞こえてきた。
「弥生!!出てこい!今すぐに話を聞かせろ!」
とうとう一臣様が、その場で怒鳴りだした。
「一臣さん、帰って頂戴」
祖母が必死にそう言っているのが聞こえる。
「弥生!いるんだろ?聞こえてるんだろ?」
……。一臣様の声。ああ、声を聞いただけでも泣きそうだ。
「なんなんだよ。いきなり婚約解消って、わけわかんないぞ!いい加減にしろよ!」
「一臣君!」
父の声も必死だ。
「今日、会社まで休みやがって。何が原因だ!三田の嫌がらせか?セクハラ専務か?それともなんだ!!」
そう一臣様が大声をあげて言った。
「セクハラ?!嫌がらせ?」
父と祖母の声が同時に聞こえた。そしてそのあと、祖父の、
「なんだ。それは!一臣君」
という大声まで聞こえてきた。ああ、祖父まで部屋から出て来ているんだ。
駄目だ。もう収拾がつかない。私が出て行くしかない。
私はキッチンのドアを開け、廊下に出た。すると、すぐに一臣様が私の姿を見つけ、ずかずかと廊下を歩いて近づいてきた。
「弥生ちゃん、本当なの?会社で嫌がらせやセクハラされたの?それが原因?」
一臣様の後ろから祖母が、小走りでやってきて私にハラハラした様子で聞いてきた。
「違います、おばあ様」
私は祖母にそう答えた。
「じゃあ、なんだ。新しいプロジェクトが重荷で、逃げ出したのか」
一臣様が、ものすごい怖い顔で聞いてきた。
「……ち、違います」
私は一臣様の顔を一瞬だけ見て、すぐに視線を下げた。
「訳が分からない。なんだっていきなり、婚約を解消にしろと言い出した。それに、会社も辞めるって言ったらしいな。お前、あのプロジェクトを中途半端で投げ出す気か?」
ああ、やっぱり言われてしまった。
「も、申し訳ありません」
私は下を向いたまま謝った。
「一臣君。それぐらいで勘弁してあげてくれ」
父が静かにそう言いながら、私のすぐ横に来て、
「弥生の決意は固いんだよ」
と、一臣様のほうを向き、そう言った。
「決意って?」
一臣様が父に聞いた。
「弥生は、そんなに簡単にへこたれもしない。何があっても、頑張ってやり遂げる子だ。それを一番知っているのは私だ。だが、そんな弥生が、私に土下座して、畳に頭擦り付けて、君との婚約を破棄にしてくださいと言ってきたんだよ」
「……土下座?」
一臣様が、相当驚いたのか、声をひっくり返した。
「弥生ちゃんが、土下座?本当なの?大成」
祖母もびっくりしている。
「どんなことがあっても、一臣君のために頑張りなさいと、ずっと言って来た。弥生はそれに一生懸命こたえようと頑張ってきた。そうだな?弥生」
「はい」
「だが、どうしても、乗り越えられないものがあったんだ。私は娘が可愛い。土下座してまで頼まれたら、もうこれ以上頑張れとはさすがに言えない」
「………」
一臣様は無言になった。でも、しばらくして、
「じゃあ、弥生は俺と婚約破棄して、出家するのか」
と私に聞いてきた。
「い、いいえ」
私が精いっぱいの声でそう答えると、
「弥生は出家なんかしない。それは私と約束してくれた。しばらく、アメリカで暮らすことにしたんだよ」
と、父がその先を言ってくれた。
「アメリカ?まさか、久世と一緒にか?!」
一臣様がまた、声を荒げた。
「違います。久世君とも、誰とも一緒に行ったりしません。一人だけで、誰も知らないところに行きます」
私は、つい必死にそう答えて、一臣様の顔を見てしまった。
一臣様の目、私を睨んでいる。眉間にしわを寄せ、怖い顔をしている。
「ごめんなさい」
その顔を見て、私は思わず謝っていた。
「え?」
「ごめんなさい、一臣様。私のせいです。全部、私のせいです。でも、もう離れます。諦めます。本当に今まで、ずっと長い間、ごめんなさい」
婚約って形で、しばりつけてごめんなさい。好きになったりしてごめんなさい。バカな夢見てごめんなさい。
ごめんなさい!!!
私は頭を下げた。頭を下げてから、ひっくひっくと泣きだしてしまった。
「……なんで、謝ってるんだ」
「…ごめんなさい」
私はまた謝った。
「一臣君、弥生もこうしてこんなに謝っているんだし」
父がそう言うと、
「だから、なんだって、謝ったりしているんだ!」
と、また一臣様は怒り出した。
「……」
私はもう何も言えなくなっていた。胸が苦しくて、涙がどんどんあふれてきて、言葉にできなかった。
「一臣君。わかってあげてくれないか。弥生の気持ちを」
「わかりません」
「一臣君?」
「わかりません。俺には何が何だか、さっぱりわかりません!でも、そんなに俺から離れたいんだったら、アメリカでもどこにでも行け!あとから、婚約破棄したことを後悔しても、やっぱり俺のそばにいたいって言っても、もう後戻りはできないからな!」
一臣様はそれだけ言うと、くるっと背中を向けて、玄関に向かって廊下をずんずんと歩き出した。
「一臣様、よろしいんですか?」
樋口さんの声がした。ああ、ずっと玄関にいたんだ。
「いい!帰るぞ、樋口」
「ですが、ちゃんと弥生様のお話を聞かないでいいんですか?」
「いいって言ってるだろ!帰るぞ!」
そう言うと、一臣様は靴を履き、玄関を出て行った。樋口さんは最後にこちらを向き、ぺこりとお辞儀をした。そして、私のことを悲しげに見て、ドアを閉めた。
ヘナヘナと、私はその場に崩れるように座り込んだ。それも見て、父がすぐに私を抱き起こし、
「大丈夫か?弥生」
と優しく聞いてきた。
「はい。大丈夫…」
ううん。大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない。
ボロボロと涙がまたあふれ、私はその場で泣き出した。
「う…う~~~~」
泣き崩れ、父にしがみついた。
「弥生ちゃん」
祖母が後ろから優しく背中を撫でてくれた。
これで、きっともう会うことはないんだ。
これで、終わったんだ。
もう、一臣様が私に会いに来てくれることはないんだ。
自分で決めたこと。なのに、こんなにも辛い。
涙はなかなか止めることができず、私はずっと泣き続けた。