~その1~ 婚約を破棄してください
家に帰ると、祖母が出迎えてくれた。でも、私は、
「気分悪いから、ご飯いらないです。それから、すぐに寝ます」
と、顔を見られないように俯きながら、さっさと自分の部屋に行った。
「大丈夫?弥生ちゃん」
ドアの前で祖母が聞いてきた。
「大丈夫です。心配しないで。寝ていたら治ります」
ああ、心配かけて申し訳ない。でも、こんな思い切り泣きましたっていう顔は見せられないよ。
私は何も考えないようにした。でも、そうすればそうするほど、一臣様の冷たい目や、葛西さんと一臣様のキスシーンが浮かんできた。
冷たかった。一臣様の唇。
キスして初めて分かった。一臣様になんとも思われていなかったってことが。
ギュ~~~。また、胸が痛くなった。喉も苦しいし、泣きそうになった。
一臣様と結婚してからも、一臣様は跡継ぎを作るというだけの目的で、私を抱くのだろうか。愛がなくても。
それって、今日のキスくらい、冷たさを感じるのだろうか。
そう思うと、胸が張り裂けそうになり、苦しくなった。
こんなにも苦しいものだったんだ。愛されないってことは。
愛のないキスがこんなにも冷たいものだったなんて。
じゃあ、愛がないのに、一臣様に抱かれるのは、もっともっと苦しいものなのかな。
愛がないのに、好きでもない人を抱くのは、一臣様だって、辛いことなんじゃないのかな。
ズキ…。
痛い。胸の奥が…。
一臣様に、そんな辛い苦しい思いを、私はさせてしまうのか。
もう、すでに会社の犠牲になって、私との婚約を受け入れた。どんなに嫌でも、断ることができなかったんだ。
一臣様にはもう、つらく苦しい思いをさせているんだ。
私が、一臣様を好きにさえならなかったら。
全部、私のせいなんだ。
一臣様のそばにいること、支えになること、役に立てること、それが私の幸せだった。
でも、違うよ。何を勘違いしていたんだろう。本当の幸せは、一臣様が幸せになることなんじゃないの?
いろんなことの犠牲になって、好きな人とも結婚できず、好きでもない人を抱いて、子供産ませて、ずっとその人や会社に縛られながら生きていくのなんて、一臣様の幸せじゃない。
ギュ~~。胸がもっと痛くなった。痛くて、痛くて、苦しくて、とても眠れなかった。
そして、ずっとずっとあの冷たいキスの感触が私の唇から消えないでいた。
翌朝、目は開けることができないくらいに腫れていた。
「弥生ちゃん、どう?具合は良くなった?」
朝早くから、祖母が聞きに来た。
「ううん。まだ、頭痛がしています」
「お医者さん呼ぶ?」
「平気です。熱もないし」
「熱がないのに頭痛があるの?片頭痛?」
「ううん。あ、微熱があるみたいです。でも、平気だから、おばあ様」
「そう?あんまりつらかったら言ってね。お薬持って来るわよ」
「ありがとう」
ああ、嘘をついてごめんね、おばあ様。
ずっと眠れなかったからか、私はそれから眠気に襲われ、何時間も寝てしまい、起きてみるともう12時をまわっていた。
「弥生?」
ドアをノックして、父が私に話しかけて来ていた。
「あ、はい」
「入るぞ」
やばい。この腫れた目、お父様に見られてしまう。でも、もう遅い。
「熱があるって聞いたけど、大丈夫か?」
「はい」
「昨日、出張でたった今、帰ってきたんだ。どうした?風邪でも引いたか?」
私は布団に潜り込んだまま、
「いいえ」
と答えた。
「弥生。顏見せてみなさい」
父にそう言われ、そっと布団から顔を出すと、
「どうした?泣き顔だな。何かあったのか?」
と聞かれた。ああ、やっぱり、泣き顔だってわかるんだな。
「………お父様」
私は、そう言ってから、布団から起きだし、畳の上に正座をした。
「ん?なんだ。改まって」
父も、私の前にきちんと正座をして座った。
「お願いがあります」
「なんだ?」
私は、言うのをためらった。頭の中では、やめたら?とか、このまま、一臣様と結婚しちゃいなよ、っていうささやきが聞こえた。
でも、やっぱり、私は一臣様をこれ以上苦しめたくない。一臣様には幸せになってほしい。一臣様には好きな人と結婚してほしいから。と、そう心の中で呟いて、
「一臣様との婚約を解消してください」
とそう父に申し出た。
「…弥生?なんでだ?いきなりどうしたんだ。何か、一臣君とあったのか?」
「……お願いします」
私は父の前で頭を下げた。
「弥生。理由を言いなさい。何が原因だ?」
「……私は、一臣様の婚約者として失格なんです」
「なぜだ?」
「一臣様を幸せにはできないんです。だから、お願いします」
「どういうことだ?2人を見ていて、とてもいい雰囲気だったぞ」
「違います。あれは、一臣様がずうっと無理していたんです」
「無理を?」
「お父様、お願いします。一臣様にはもっと他にも、一臣様にふさわしい女性がいます。その中から、一臣様が本当に好きになられる方と結婚してほしいんです」
「それは、弥生じゃないのか?」
「はい」
「弥生じゃないとなんで言い切れるんだ」
「……」
「一臣君も弥生を気に入ってくれているんじゃないのか?」
「……」
ボタ…。畳の上に涙が落ちた。それを父が見ていた。
「弥生?」
「わかるんです。私じゃないって。だから、苦しいんです」
「……」
「一臣様を苦しめていることが、何よりもつらいんです。一臣様は今までだって、ずっと会社や一族の犠牲になっていたんです。友達と遊ぶことも、親子の時間も、何もかも奪われて、自由も奪われてきていたんです」
「……それで?」
父は優しい声でそう聞いてきた。
「私、これ以上犠牲になってほしくないんです。一臣様には、ちゃんと一臣様が愛する人と結婚してほしいんです」
「……」
「だから、婚約を解消してください。でも、解消しても、どうか、上条グループと緒方商事のプロジェクトは、続けてくださると約束してください」
「弥生…」
「勝手なお願いだってわかっています。でも、お父様。これだけは、お願いします。お願いを聞いてくれたら、私、なんでもします」
そう言って私は畳でおでこが擦り剥けるくらい、頭を下げた。
「わかった。わかったから、顔をあげなさい」
父にそう言われて顔をあげた。私の顔はきっと、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「弥生…。それで、こんなに泣いたのか?」
「……」
「わかった。弥生。一つだけ、言うことを聞いてくれたら、今の約束を聞こう」
「なんですか?」
「一臣氏と離れることになっても、出家したりしないな?」
「…それは」
「やっぱり、考えていたのか」
「いいえ。そこまではまだ…」
「じゃあ、出家はしないと約束しなさい」
「はい」
「本当だね?」
「はい」
「弥生が、一臣君が好きな人と結婚して幸せになってほしいと願うように、うちの家族みんなが、弥生の幸せを願っているんだ。一臣君のことを忘れることができたなら、ちゃんと好きな人と結婚して、幸せになってほしい」
「…はい。お父様」
ボロボロ。また涙があふれた。
父は優しく私の頭を撫で、
「緒方氏には、私から話すよ。大丈夫だ。きっとわかってくれるさ」
と言ってくれた。
「ごめんなさい」
「謝ることじゃないぞ、弥生」
「……でも、一臣様にふさわしい女性になるようにって、ずっとお父様に言われていたのに、実現できなかった」
「……弥生は十分頑張ったよ」
父の言葉で、また涙があふれ出た。そして、父の胸に抱きついて泣いてしまった。
「うんうん。泣きたいだけ泣いていい。それで、落ち着いたら、今後のことを考えなさい」
「はい」
それから、父は優しく私の背中や頭を撫でてくれ、私はしばらく父の胸で泣いた。
もう、涙が枯れるっていうほど泣いただろう。目がもっと腫れぼったくなった。
その日は1日部屋に閉じこもった。食欲も全くなかったが、父が夕方やってきて、
「志津さんがお前のためにお粥を作ってくれたよ。食べなさい」
と言って、お盆にどんぶりを乗せて持って来てくれた。
「ありがとう」
私は父や志津さんの優しさを噛みしめた。
一臣様との婚約を解消してくださいと申し出たら、父は怒り出すかと思った。もしかしたら、一臣様のお屋敷に今すぐ帰れって言うかもしれないと、そう思ったが、父はすんなり聞き入れてくれた。
翌日、日曜日。如月お兄様は、すでにアメリカに帰っていたが、アメリカから電話が来た。
「弥生!父さんから聞いたぞ。一臣氏との婚約破棄にするんだって?」
「…はい」
「そうか。よく決意したな。それで、緒方商事も辞めるんだな?」
「はい。婚約者でもないのに、居座ったりしたら図々しいし、一臣様に申し訳ないですから」
「申し訳ないなんて思う必要はないぞ。詳しいことは父さんから聞いていないが、どうせ、一臣氏の女性関係を弥生も知って、嫌になったんだろう?全部、一臣氏が悪いんだからな」
「いえ。一臣様が悪いんじゃないんです」
「いいから、弥生。アメリカに来い。上条グループのアメリカ支社で働いたらどうだ?きっと、トミーもお前が来るってわかったら、喜ぶぞ」
「……すみません。如月お兄様には申し訳ないですけど、私、もしアメリカに行くなら、誰も私を知らないところで、再出発したいんです」
「……そうか。まあ、上条家の人間なら、誰かに頼らず自分の力で立ち上がりたいって思うのも、当然かもな。でも、アメリカは日本とは違う。誰も知らないところでっていうのは、危険だぞ。俺も家族もみんなお前の味方なんだから、いつでも頼っていいんだぞ、な?」
「はい」
電話を切ってから、涙があふれた。今さらだけど、家族の温かみを感じた。
そして午後からは、卯月お兄様と葉月も家にやってきた。
「弥生、父さんから聞いたぞ」
父はみんなにあっという間に報告しちゃったんだなあ。
「よくよく考えてのことなんだな?婚約破棄、一時の感情だけで、決めたんじゃないんだな?」
卯月お兄様は、如月お兄様とは正反対のことを言って来た。
「…はい。よくよく考えました」
「だったらいいが。俺はお前に後悔だけはしてほしくないからな」
「…はい」
卯月お兄様も、私のことを本気で考えてくれているんだ。
「弥生。緒方商事も辞めるんだろ?これからどうするんだよ」
それに引き替え、なんとも話し方もぶっきらぼうだし、弟だって言うのに偉そうに葉月がそう聞いてきた。
「まだ、考えてない」
「まさか、弥生。出家しようなんて考えてないよな」
卯月お兄様は、顔面蒼白にして聞いてきた。
「出家?!何言ってるんだよ、兄さん。いくら弥生がバカでも、そんなことは考えるわけないじゃん」
葉月、バカってなに?バカって。
「いや。葉月。弥生は一臣氏と結婚できなかったら、尼さんにでもなろうかって、本気で考えていたからな」
「卯月お兄様、それはしません。父とも約束したし」
私がそう言うと、卯月お兄様はほっと安心した顔になり、その隣で葉月は、はあ?って呆れた顔をした。
「弥生、本気でそんなこと考えてたわけ?お前って相当なバカだよな」
「うるさいよ。葉月。喧嘩売ってるの?」
「それよりさ、お前、これからどうするんだよ。まさかずっと家に閉じこもってるわけにも行かないだろ」
「……。日本から離れようかなって、そんなふうに考えてる」
「日本から?」
卯月お兄様がびっくりして聞いてきた。
「うん。日本にいると、どうしても一臣様のことを忘れることができなさそうで。だから、思い切って、まったく一臣様と縁のない場所に行こうかなって」
「どこだ?アフリカとか?」
葉月が聞いてきた。なんだって、いきなり、アフリカなんだ。
「如月お兄様が、アメリカの上条グループに来ないかって言ってきたんだけど、上条グループにいたら、また一臣様と会う可能性もあるし、だから、アメリカでも、まったく上条グループとも一臣様とも関係のないところに行きたくて」
「それじゃ、カリフォルニアに行けばいいじゃん」
「え?」
「俺が留学していたところだよ。ホームステイ先を紹介してもいいぞ。気候もいいし、ホームステイ先の人たちもあったかくっていい人ばかりだし、傷ついた心を癒すにはもってこいだ」
「葉月がいたところ?」
「いいかもしれないな。留学して、なにか弥生が進みたい道を見つけたらどうだ?」
卯月お兄様までがそう言ってくれた。
「…そうだね。なんか、のんびりできそうだし、いいかもな。カリフォルニア。あ、でも、私、英語全く駄目」
「じゃ、英語の学校に行けば?あっちのカレッジで英語勉強してさ、それからその先のことは考えてもいいんだしさ。人生長いんだし、ゆっくりとしてきたらいいじゃん」
葉月がそう言った。
「そんなのんびりしていたら、行き遅れるぞ、嫁に」
「卯月兄さん。いいじゃん。結婚がもしできなくたって、結婚ばかりが人生じゃないさ」
「そうか~?やっぱり俺は、弥生には幸せな結婚をしてほしいけどな」
卯月お兄様はそう言った。でも、葉月は、
「ま、いいよな?弥生は弥生の人生、歩いたらいいだけのことだ」
とそう言って、私の背中をバンバン叩いた。
「痛いよ、葉月。葉月って本当に、お気楽だよね」
兄弟の中で誰よりもお気楽だし、私よりも変わっていると思うんだけどなあ。
「善は急げだ。すぐにパスポート作っちまえよ。俺も、ホームステイ先に連絡して、部屋が空いているかどうか聞いてやる」
「うん。ありがとう、葉月」
「そんなに急がなくてもいいだろ?弥生。俺の結婚式には出てくれよ」
「大丈夫です。その前にアメリカに行くことになっても、結婚式にはちゃんと帰ってくるから」
私がそう言うと、卯月お兄様は、
「大丈夫なのか?お前、本当に」
と、心配そうに聞いてきた。
「だ、大丈夫です。心配しないで」
「そうか?」
卯月お兄様は、私の頭を優しく撫でて、
「じゃあ、ごめんな?これから、結婚式の打ち合わせがあるんだ。もう行くけど、何かあったらすぐにメールしろよ」
とそう言って、私の部屋を出て行った。
「なんか、暗い、お前」
卯月お兄様が出て行ってから、重い溜息をすると葉月にそう言われた。
「…う、うるさいな。葉月はどうなの?今の職場、頑張ってる?」
「頑張ってるよ」
「彼女とは?うまくいってるの?」
「うまくいってるよ」
「良かったね」
「なんだよ。弥生だって、一臣様の会社で働けるって、ついこの前だろ?るんるんのメールよこしてきたのは」
「……」
「それなのに、もう破局迎えてやんの。だっせ~」
ムカ~~~。これだから、葉月にはなんにも知らせたくなかったんだ。絶対にこうやって、生意気なことを言ってきて、喧嘩になる。
「一臣氏の浮気でも発覚した?」
「……」
「浮気じゃないか。弥生のことを本気で好きでいたわけじゃないもんな」
「なんでそれ知ってるの?!」
「なんでって…。弥生だけが盛り上がってた婚約だろ?大学時代の話聞いていたって、弥生のただの追っかけって感じだったじゃん」
「……」
そうだけど。追っかけどころかストーカーだって思われていたし。
「如月兄さんが、一臣氏は女癖が悪いから、弥生には無理だって言ってたけどさ。弥生、一臣氏にふさわしい女になるんだって、去年からやたら頑張っていたよな」
「う、うん」
「で?根をあげたの?それとも、まったく一臣氏に相手にされなかったの?」
「どっちも…」
「あははは。全然駄目じゃん」
「わ、笑うな」
「結婚する前に、ダメだってわかって良かったじゃん。婚約破棄なら簡単だけど、離婚ってなったら大変だったよ。それも、婚約も正式発表の前なんだろ?よかったな。早めに気が付いて」
「気づくって?」
「だから、弥生には緒方財閥のぼんぼんなんか、相手にできないって」
「あのさあ、葉月。なんだか、さっきからすっごく失礼なことばっかり言ってるよ」
「だって、そうだろ?まあ、噂でしか聞いたことないけどさ。一臣氏って本当に女癖悪いみたいだし、相当なワンマンだって噂だし」
「ワンマン?」
「緒方商事の社長、ワンマンなんだろ?その性格、そのままんま受け継いでるって噂だよ」
「ワンマンだなんて、そんなことないよ。一臣様は、責任があって、今、それで必死に…」
たくさんのプレッシャーや、たくさんのストレスと、睡眠障害になるほど、戦ってるんだから。
私は言葉が続かなくなり、黙り込んだ。一臣様のことを思いだし、泣きそうにもなった。すると、葉月が、
「暗い、弥生」
と言って、背中をバンバンと叩いてきた。
「痛いってば」
「さて、俺も帰ろうっと。これからデートだし」
「本当に彼女とうまくいってるんだね」
「うん。それじゃな、弥生。あ、ホームステイのことは、俺に任せていいからさ。じゃあな」
明るくそう言って、葉月は部屋を出て行った。
みんながいなくなると、一気に部屋がし~~んと静まり返り、寂しさが増した。
父は今日、一臣様のお父様に会いに行っている。婚約解消をしてほしいと申し出に。
そして、一臣様の耳にも入るんだよね。
勝手に、こんなことを進めてしまって、怒るだろうか。
それとも、ほっとするだろうか。
それとも、一臣様にはなんでもないことで、なんとも思わないんだろうか…。
一臣様のことを思い出しそうになり、必死に違うことを考え出した。ちょっとでも、思い出しただけで涙が出てくる。
「忘れる。一刻も早く」
だから、一刻も早くに日本も出たいくらいだ。
葉月が言っていたように、すぐにパスポートを取りに行こう。それから、ホームステイ先が空いていたら、すぐにでもアメリカに行く。
そんなことを決意して、私はパソコンでカリフォルニアのことを調べ出した。