~その13~ 冷たいキス
15階に着いた。
もし、一臣様の部屋に、葛西さんがいたらどうしよう。なんだか、いきなり不安になってきた。
足がすくむ。一歩前に進むのが怖い。やっぱり、引き返そうか。見なかったらわからないことだ。
ううん。大丈夫。大丈夫だから。前に進んで、私。
自分に言い聞かせ、一臣様のオフィスのドアの前でIDカードをかざした。
ガチャリ。ドアを開けようとすると、中からぼそぼそという話し声がした。
そっとドアを開いた。そして、そっとドアの影から、中を覗いた。
「大阪になんて、本当は行きたくないんです」
葛西さんだ。
「なんで、一臣様は、私を大阪に行かせるんですか?」
「親父が決めたことだ」
え?
社長が?一臣様が決めたんじゃないの?
「私は、ずっと一臣様のそばにいたかったのに!どうして?だから、副社長の第2秘書になるのも断ったんです。なのに、なんでですか?」
「仕方ないだろう。お前は俺の秘書には無理だって、親父もそう判断したんだ」
「じゃあ、一臣様が社長に私をここに残すよう、そう言ってください」
「無理だ」
「お願いです。私は、一臣様のことをずうっと思って来たのに!」
「だから、無理なんだよ」
一臣様の声が、大きくなった。すると、葛西さんは泣きながら、一臣様にしがみつき、キスをした。
「………!」
ドアをほんの少し開けただけだった。でも、いつの間にかドアはしっかりと開き、私の姿を、葛西さんとキスをしながらも、一臣様が見つけた。
見つかった。見ているのをばれてしまった。
違う。
そんなことじゃない。今、起きている問題は、そういうことじゃない。
でも、考えたくない。考えたくもない。一臣様と葛西さんの関係なんて…。
足が動かなくなっている。そして、震えている。血の気も引いていく。
一臣様は、葛西さんが唇を離すと、一度葛西さんの顔を見てから、また私の顔を見た。
「弥生、なんでここにいるんだ」
そして静かにそう私に聞いてきた。
「上条さん?」
私に背中を向けていた葛西さんが、後ろを振り返り私を見た。
「あ…。すみません。私、スケジュール帳を取りに…」
口を開いた瞬間、崩れそうになった。涙があふれ出し、次の瞬間には私は、走っていた。
さっきは足が全く動かなかったのに、猛ダッシュで、廊下を走った。そして、エレベーターホールにたどり着き、必死になってIDカードをかざしてボタンを押した。
「弥生!」
一臣様の声がした。私は何回もボタンを押した。早く来て!一臣様に顔、合わせたくないよ。
「お前の手帳を取りに来たんだろ?これだろ?」
一臣様がエレベーターホールに来た。エレベーターはまだ、15階に来ていなかった。
私は、振り返ることもできずに、ただ佇んでいた。
「これを取りに来たんだろ?ちゃんと持って帰れよ」
一臣様はそう言うと私の横に立ち、私の手に手帳を持たせた。
なんで、そんなに冷静でいるの?
葛西さんとキスしているところを私に見られても、平気なの?なんで?
「弥生?」
俯き黙っていると、一臣様が顔を覗き込んできた。私は必死に泣くのを我慢して、一臣様に顔も見られないようにそっぽを向いた。
「なんだよ。おい。無視するな。どうしたんだ」
一臣様は、私の肩を掴み、私の体を一臣様のほうに無理やり向けた。
どうしたんだ?なんでそんなこと聞いてくるの?!
「か、葛西さんは?」
「まだ、部屋にいる」
「今日は、葛西さんと食事に行かれるんですか?」
泣くのを必死に我慢して聞いた。
「いや、俺はI物産との会食があるから、そっちに行く。葛西は最後の挨拶に来ただけだ」
「……最後の?」
「そうだ」
「…それだけ?」
「…何が言いたい?」
足ががくがくした。これ以上何か話したら、涙がこぼれそうだ。
「何が言いたいんだ」
一臣様が、私の腕を掴んで聞いてきた。
「葛西さんと…、お付き合いしていたんですか?」
「え?」
「今も、続いているんですか?」
「なんだ?それは。誰かから聞いたのか?」
「豊洲さんから」
「浩介?」
一臣様の腕の力が強くなった。
「浩介がなんて言っていたんだ」
「一臣様と葛西さんが、お付き合いしてるって。きっと、今も一臣様の部屋で別れを惜しんで抱き合ってるって。だから、行って邪魔するなって」
「そんなことを、あいつが?」
「わ、私、そんなこと言われても、一臣様を信じていたし…。でも、やっぱり来なかったら良かった」
「え?」
「み、見たくなかった。キスしているところなんて」
「あれは、葛西が勝手にしてきたんだろ。俺がしたわけじゃない」
「でも、一臣様、ずっとキスしていました」
私に気が付いても、全然平気でキスしてた。
「それが?」
それが?
一臣様の顔を見た。眉間にしわを寄せているけど、すごくクールな目をしている。
チン…。その時、エレベーターのドアが開いた。
「それがって、なんでそんなこと言うんですか?他の人とキスしているところなんて見たくなかったです。一臣様はやっぱり、葛西さんと付き合っていたんですよね?これからもですか?大阪行っても、ずっと付き合うんですか?結婚しても?」
「何をバカなことを言ってるんだ、お前は」
「バカじゃないです」
ボロボロボロ。思い切り涙がこぼれ落ちた。
「バカだろ?浩介に何を吹き込まれたか知らないが、簡単に刷り込みされやがって」
「だって、豊洲さんの言っていたことは当たっていたじゃないですか?!」
「お前は俺より、浩介を信じるのか?」
「だって、キスしてた!私、この目で見ました!」
「ああ、そうか。お前もキスしてほしかったのかよ」
「え?」
「じゃあ、してやる」
え?
グイっと一臣様が私の両腕を掴んだ。そして、私にキスをすると、私をそのまま思い切り押して、エレベーターの中に押し込んだ。
「これで満足か?家に帰って頭冷やせ!」
一臣様はそう言い放ち、くるりと背中を向け、エレベーターホールから去って行った。
エレベーターのドアが閉まった。私は一人、エレベーターの中に取り残された。
力尽きて、座り込み、私はそのまましばらくエレベーターの中で泣いた。
嗚咽をあげて泣いた。胸が苦しくて苦しくて、喉が苦しくて、息ができなかった。
一臣様のキスは、信じられないくらい冷たかった。
初めてのキスだった。ずっと初めてのキスは一臣様とと決めていた。
それは叶ったのに、あんなに冷たいキスを望んでいたわけじゃない。
掴まれた腕も痛かった。一臣様の言葉も、目も、全部が冷たかった。
凍り付いたような目で、私をエレベーターの中へと押し込んだ。
優しさも、感情も、何も感じられないキス。私が欲しかったキスじゃない。でも、あれは、一臣様の本心なんだ…。
まだ、涙は止まらなかった。でも、よろよろと立ち上がり、1階のボタンを押して、カードキーを差した。一刻も早く、このビルから出たかった。
何も考えたくない。ううん。真っ白で考えることもできない。
1階に着き、必死の思いでエレベーターを降りた。役員専用のエレベーターだったから、誰も他の人は乗ることもなく、私は役員専用の出口から、逃げるようにビルを出た。
あてもなくふらふらと歩いた。必死で涙を抑えるのに、また涙があふれだし、止まらなくなる。その繰り返しだ。
どこをどう歩いたかもわからない。大通りは避け、裏の通りを歩いた。人はほとんどいなくって、私は嗚咽をあげ、泣きながら歩いていた。
あれが、本心だとしたら、一臣様は私のことを、ずっと嫌っていたんだろうか。
そこには、私への思いも感情も何もなかったんだろうか。
婚約も結婚も覚悟を決めたって言っていた。でも、私との婚約を嫌がっていた頃と同じように、私のことはまだ嫌ったままだったんだろうか。
私は、ずっとこれからも、一臣様に嫌われたままなんだろうか。
そんな思いが湧いてきて、もっと涙はあふれてきた。
胸は苦しくて、張り裂けそうだ。
私は、これからもずっと、あの、優しさも感情もないキスを、一臣様からされるんだろうか。
一臣様はずっと、私のことをただ、義務でキスしたり、抱いたりするんだろうか。
駄目だ。苦しい。胸が苦しくって、もう一歩も歩けない。
「弥生ちゃん?」
裏通りの隅っこでうずくまっていると、知っている声で、私の名前を呼んだ人がいた。
この声…。もしかして…。
顔をあげると、そこには久世君がいた。
「やっぱり!どうした?何かあった?具合悪いのか?」
「…く、久世君…」
知っている顔だったからか、また、涙が一気にあふれ出てきてしまった。
「ひいいっく」
「なんかあったんだね?おいで。ここ、俺の姉さんの美容室の勝手口なんだ。びっくりした。姉さんが勝手口の外から、女の人の泣き声がするって言うから、見に来てみたんだ。弥生ちゃんなんでびっくりしたよ」
久世君のお姉さんの?
「中、入って。こんなところで泣いてて、変なやつに絡まれたら大変だよ」
久世君は優しく私を抱き起して、ドアを開け、お店の中に入った。
「こっち。従業員の休憩室あるから、そこにおいで」
久世君は、私を抱きかかえながら、休憩室に連れて行ってくれた。
私は抱きかかえてもらわないと歩けないほど、足が震えていた。
「はい。ここに座って。待ってて、何かあったかいものでも、持ってくる。あと、姉さんにも弥生ちゃんだったって報告してくるから。ね?」
「はい」
休憩室のパイプ椅子に腰かけた。涙は止まっていた。思考も止まっていた。
何も、考えたくない。
「弥生ちゃん?どうしたの?何があったの?」
久世君のお姉さんが来た。その後ろから久世君も、紅茶を入れたカップを持って現れた。
「……」
ああ、今、何も話したくない。笑うこともできないし、とても、平気ですなんて嘘もつけない。
「姉さん。俺が話を聞くから、出てってくれない?」
久世君がそう言ってくれた。
「そ、そう?わかったわ」
久世君のお姉さんは、休憩室を出て行った。
「はい、紅茶。まだ熱いから気を付けて」
「ありがと…」
フーフーと、少しだけ紅茶をさまし、私は紅茶を飲んだ。喉の奥、胸の奥までがほわっとあったかくなった気がした。
「落ち着いた?」
コクンと頷くと、久世君も隣のパイプ椅子に座った。
「大丈夫かな?もう」
「はい」
「何があったか、聞いてもいい?もしかすると、一臣氏とかな?」
「………」
思い切り俯くと、
「あ、図星?」
と久世君に言われた。
「……」
また、涙がつつーと頬を流れた。
「あのさ。弥生ちゃんには、あいつ不向きだよ」
「……え?」
「弥生ちゃんみたいな純情な子、無理だよ。あいつと結婚するなんて」
「……」
「何があったかは知らないけど、あいつの素行なら知ってる。いろんな噂も聞いていたし、社内でも見てきたしさ」
「………」
また、つつーと涙が流れた。
「結婚、無理してすることないよ。絶対に幸せになんかなれないって。なんだって、会社や親の犠牲にならないといけないわけ?政略結婚なんてさ、もう古すぎだって」
「………」
何も言い返せなかった。
親の犠牲。会社の犠牲。それは、私ではなく一臣様だ。
私より、よっぽど、一臣様が犠牲になっているんだ。
だって、会社のために、好きでもない、ううん。どっちかって言ったら、嫌いな私と結婚しないとならない。
「か、一臣様には、好きな人がいるんでしょうか」
「あいつに?さあね。ただ、高校生の時、付き合ってたモデルがいて、そのモデル追っかけてアメリカ行ったって話は聞いたことがあるけどね」
如月お兄様が言っていた人だ。
「……。私が、一臣様を好きになったりしたから、一臣様が会社の犠牲になることになったんですよね」
「え?」
「私のせいなんです…。一臣様が悪いわけじゃない…」
「何言ってるんだよ。弥生ちゃんだって、犠牲者だろ?このまま、結婚したら、ずうっと、あんなやつと暮らしていくんだよ?いや、あいつ、家にも帰らなくなるんじゃないか」
ううん。私が一人でいて泣いていたりしたら、如月お兄様に契約白紙にされられるから、家には帰るって言っていた。
でも、そういうのも全部、会社のために言っていた言葉だったんだ。
本心は違う。
ああ。私はまた、大きな大きな勘違いをしたんだ。勝手に、一臣様は優しいって思い込み、ずっとそばにいて、ずっと幸せでいられるって思い込み、勝手に私だけが盛り上がってた。
でも、一臣様は違っていたんだ。私との結婚を、きっと一瞬でも望んだことなんかなかったんだ。
仕方なく、受け入れただけで、心から私と一緒にいたいなんて、思ったことなんかなくて。きっと、これからもずっと…。
「アメリカ、行かないか?俺と一緒に」
いつの間にか、久世君は私の手を握りしめていた。
「え?」
「俺、留学するんだ。あっちで、本気でデザインの勉強をする。親父に、古着のリメイクして遊ぶのもいいが、デザインの勉強を本格的にしてから、そういうことをしたかったらすればいいって言われてさ…。なんか、本気でデザインの勉強するのも悪くないかもなって、そう思えてさ」
「アメリカ?」
「うん。弥生ちゃんも留学してみたいって言ってたよね?行かない?弥生ちゃんなら、アメリカでも頑張っていけるよ。なんか、やりたいこと見つけて、それを生きがいに生きてみるってのも、弥生ちゃんには向いてると思うよ?」
「やりたいこと?」
「もったいないよ。結婚だけが人生じゃないんだしさ。もっと、自分の人生なんだから、自分のやりたいことをして生きていこうよ。できたら、俺と一緒にさ」
「………」
生きがい?
私の生きがいは、私のやりたいことは、ずうっと、一臣様のお役に立つことだった。
でも、それが、一臣様にとっては迷惑なことだったとしたら?
「あの、待ってください!勝手に入らないでください!」
突然、ドアの外からお姉さんの声がしてきた。
「失礼します。こちらに弥生様がいらしてますよね?」
そう言って、休憩室のドアを開けたのは、樋口さんだった。
「あ…」
私は涙でぐっしょり濡れた、とんでもない顔をしていた。樋口さんは、そんな私を見て、一瞬目を細め、
「弥生様、帰りますよ。荷物はもうロッカーから持って来てあります」
とそう言って、私の真横に立った。
「どうして、ここがわかったんですか?」
「日陰氏から連絡が来ました」
ああ。そうか。ずっと日陰さん、私のあとをついてきていたんだろうな…。どこに行っても、わかっちゃうのか。
「弥生ちゃんを見たらわかるよな?こんなに泣くほど辛い目に合ってるんだ。それなのに、なんで、また一臣氏のもとに帰らないとならないんだよ」
「あなたには関係のないことです。口出しはしないでいただきたい」
樋口さんは、ものすごくクールにそう久世君に言うと、
「さあ、まいりましょう。もう店の前まで等々力さんの車が迎えに来ていますよ」
と、私にはいつもの通りの優しい声でそう言った。
「…等々力さんの?じゃあ、私、家に帰れるんですね」
「はい。上条家のほうにちゃんとお送りします」
「わかりました」
私はテーブルにあったティッシュケースから、ティッシュを引っこ抜き、鼻を噛み、涙を拭いた。ゴミ箱にそれを捨てて、
「久世君。ごめんね?お騒がせしました」
とそう言って、樋口さんと一緒に休憩室を出た。
「弥生ちゃん、本当に大丈夫?」
「はい」
「アメリカのこと、まじで考えてよ。ね?」
「………」
私はそれには答えなかった。そして、お店の中を通り、お姉さんにも挨拶をして、
「ありがとう、久世君」
ともう一回お礼を言って、美容院を出た。
停めてあった、等々力さんの車に乗った。樋口さんは、
「申し訳ありません。一臣様とI物産との会食に行きますので、ここで失礼します」
と丁寧に私に言うと、後部座席のドアを閉めた。
等々力さんは静かに、車を走らせた。
一臣様は、来てはくれないんだな…。ふと、寂しさや空しさがこみ上げ、また涙が頬をつつーと流れた。
「大丈夫ですか?弥生様」
「はい」
「何か音楽をかけましょうか?」
等々力さんが優しく聞いてくれた。でも、何を聞いても今は、一臣様のことを思い出しそうで、
「いいえ。いいです」
と断った。