~その10~ これっていじめ?
ドアを開けた時の一臣様の顔は、眉間にしわが寄っていた。怖い。怒っている顔だよね?これ。
だが、一気に一臣様は表情を変え、
「申し訳ありません。うちの秘書がコーヒーをこぼしたそうで。火傷されなかったですか?」
と丁寧にそう言って、お客様に近づいた。
「大丈夫だよ。ズボンにちょこっと垂れただけだ」
「ですが」
「一臣君。この秘書は新人かい?なんでこんな新人、よこしたんだ?」
専務が一臣様にそう言うと、一臣様は私を見た。
「お前か…」
ああ、一臣様、今、私の失敗だって気が付いたんだ。
「上条さん。このタオルを渡して差し上げて」
「あ、はい」
さすがだ。細川女史、ちゃんとタオル持って来てくれたんだ。
「申し訳ありませんでした。スーツはクリーニングいたします」
そう細川女史も言った。それに、一臣様も、
「会社まで車でお送りします」
と、お客様に低い姿勢で申し出た。
「ああ、大丈夫だよ。ほら、そんなに目立たないだろ?このスーツもそんなに高いものじゃないしね。車もいいよ、一臣君。電車で帰るから」
「そういうわけには。弥生!お前からもちゃんと謝れ。この方、上条不動産の社長だぞ」
「え?上条不動産?」
「ああ、そうだ。お前も知っているだろ?」
「弥生ちゃんかい?」
そのお客様が目を丸くした。
「あ~~~~!!!!!おじ様!正栄おじ様!」
「……お、おじ様?」
私が喜んで正栄おじ様に抱きつくと、目黒専務は目を白黒させて驚いた。
「一臣君、弥生ちゃんは君のフィアンセだったっけね?そうか。それで今、秘書として働いているのかい?」
「はい、そうです」
一臣様はにこやかにそう答えた。
「フィ、フィアンセ?!」
目黒専務は今度、顔を青白くさせた。
「ああ、目黒君。弥生ちゃんは上条グループの社長の娘なんだよ。上条グループの社長はね、僕の従弟に当たるんだ。弥生ちゃんに会うのは何年ぶりだ?まだ、小学生だったなあ、弥生ちゃんは」
「いいえ。母のお葬式で会いました。でも、何も話しもしなかったですよね、おじ様」
「ああ、そうだったね。弥生ちゃんは、だんだんとお母さんに似てきたね」
「おじ様、一瞬わかりませんでした。お髭生やしていたのに剃っちゃったんですね」
「ああ、だいぶ白髪が出てきたから、髭はやめたんだよ」
「お髭無い方が若返ります」
「ははは。そうかい?」
「あ!車用意しますし、スーツもクリーニングに出します!そうだ。今度うちに来てください。そのスーツを持って来てくれたら、ちゃんとクリーニングして返します。それで、父や祖父、祖母に会っていってください」
私がそう言うと、正栄おじ様はにこにこしながら、
「弥生ちゃんがそう言うなら、そうしようかな」
と言ってくれた。
「では、すぐに車を用意させます」
一臣様はそう言うと、樋口さんに携帯で連絡を取った。テーブルの上にこぼしたコーヒーは、江古田さんが綺麗に拭いていてくれて、細川女史がすでに新しいコーヒーを淹れ直してくれていた。
「では、わたくしはこれで」
一臣様はものすごく丁寧にお辞儀をして、
「お前たちも、下がっていいぞ」
と、私や江古田さんにそう言った。私と江古田さん、そして細川女史はお辞儀をして応接室を出た。
「は~~。良かったですね。お知り合いで」
江古田さんが廊下を歩きながらそう言うと、細川女史が、
「それにしてもお優しい方でしたね。寛大で低姿勢で。さすが上条不動産の社長ですね」
と、ほっと胸を撫で下ろしてそう小声で言った。
「ああ、そうだな。前から上条不動産の社長は、良い方だと評判を聞いていた。お会いするのは、今回で3度目だが、いつもこんな若造の俺にも低姿勢なんだよなあ」
一臣様までがそんなことを言った。
「弥生は、正栄おじ様と呼んでいるのか?」
「はい。上条正栄おじ様。父の従弟で、やっぱり武道家なんです。私が小学生の頃はうちの道場に空手を教えに来ていたおじ様から、空手を習っていました」
「まあ、空手が強いんですか」
江古田さんがびっくりしながら聞いてきた。
「はい。正栄おじ様は本当にお優しい方で、練習の時は厳しいんですけど、練習が終わるとがらっと変わるんです。それで、一緒に甘い和菓子を食べながら、いろんな武道家の話をしてくれました」
「そうか。武道家のね…」
今度は一臣様が相槌を打った。
そんな話をしながら、廊下をみんなで歩いていると、
「一臣君」
と後ろから正栄おじ様の声が聞こえてきた。
「あ、なんでしょうか?」
一臣様は丁寧にまた、正栄おじ様のほうを向いた。
「江古田さん、その布巾、洗いに行きましょう」
細川女史は江古田さんを連れ、その場を離れた。多分、私、一臣様、そして正栄おじ様だけにしてくれたんだろう。
「昔からの付き合いだからね、彼のことは悪く言えないんだけどね」
「は?」
「専務だよ。前にいた秘書の子にも、スキンシップをよくしていたけど、弥生ちゃんのお尻も触っちゃったんだよ。それで、弥生ちゃんが、驚いてコーヒーをこぼしちゃったんだ。だから、弥生ちゃんのせいじゃないんだよ。弥生ちゃんは怒らないであげてくれないかな」
正栄おじ様、それを言いにわざわざ?
「は?お尻?」
「ああ。前にいた秘書の子は、適当に笑ってごまかしていたけどね。弥生ちゃんは、とっても純粋な子だからね。それに、僕にとっても大事な子だし、セクハラされているのを黙って見ていられなくてね」
「………」
うっわ。一臣様の怒りのオーラ、半端ない。
「わかりました。今後、絶対にこのようなことがないように気を付けますし、そんなセクハラ専務には、弥生さんのことを一切近づけません。俺…いえ、わたくしが責任もって弥生さんは守りますので安心してください」
一臣様は一気にそう言って、また丁寧にお辞儀をした。
「ああ、一臣君は弥生ちゃんのことを大事に思ってくれてるんだね。これなら、大成も安心だな」
「…大成?」
一臣様が正栄おじ様の言葉に、そう聞き返した。
「うちの父の名前です。上条大成っていいます」
「あ、そうか。上条グループの社長の名前か。すみません。すぐにわからなくて」
「いやいや。う~~ん、こうやって見ても、弥生ちゃんと一臣君はお似合いだ。ははは」
そう言いながら、正栄おじ様は応接室に戻って行った。
「………」
あ、なんか、一臣様から怒りのオーラが発せられている気が…。
そっと一臣様のほうを見てみた。すると、思い切り眉間にしわが寄っていた。
「すみませんでした。コーヒーこぼしたりして」
「……目黒専務…。あんのエロ爺」
「え?」
「弥生のケツに触っただと?!」
ひょえ~~~。怒りマックス?なんか、頭から湯気出てるかも。
「来い!」
なぜか、私の顔もぎろっと睨み、一臣様に腕を掴まれ秘書課の部屋に連れて行かれた。
「細川女史!」
秘書課の部屋に入ると、一臣様は細川女史に向かって、
「上条弥生は、絶対に専務だろうが常務だろうが、相談役だろうが、誰であろうが要請依頼があったとしても行かせるな!」
と、そう言い放った。
「は?」
細川女史が目を丸くして一臣様を見た。
「弥生は俺につかせる。俺の仕事を補佐してもらうから、他の奴からの依頼は受けないようにしてくれ」
「はい、かしこまりました」
細川女史は物静かにそう答えた。一臣様は、
「弥生、午後からは15階に来い。仕事がある」
とそう言って、颯爽と部屋を出て行った。
「え、何で上条さんだけ?」
「それより、弥生って呼び捨てにしていたわよ」
秘書課の中はしばらく騒然とした。でも、細川女史の咳払いで、一気に静かになった。
ギロ…。睨みつける怖い視線を二つ感じた。一つは三田さん。もう一つは葛西さんだ。ものすごく怖い目で私を睨み、それから目の前のパソコンに視線を移していた。
午前中は、細川女史にデータ入力の仕事を依頼され、それに集中した。お昼になると、江古田さんに誘われ、また6階のガーデンテラスに行き、お弁当を食べた。
「あの目黒専務って、セクハラの疑いが前からあったんですよ」
突然江古田さんがそう言って来た。
「え?そうなの?」
「私は、目黒専務の依頼を受けたことがないんですが、たいてい、大塚さんが行っていました。でも、大塚さんって、ああいうおじさんのあしらい方がうまかったらしくって」
あしらい方?
「だから、セクハラがあるかどうかも、明るみになっていなかったんですけど、昨年辞めた秘書が、やっぱり被害にあっていたみたいで」
「え?!」
「やたらとタッチしてくる専務らしいですね。背中とか肩とか。お尻にも軽く手を振れてきたりするって。それを我慢していたら、食事に誘われたり、欲しいものがあれば買ってあげるとか言われたりして、しつこく言い寄って来たらしいですよ」
「それが原因で辞めたんですか?」
「原因の一つかも。とても真面目な社員で、鬱になっちゃったんですよ。入社して3ヶ月で」
「え~~!たった3ヶ月で?」
「大塚さん、最初私に目を付けて、ねちっこく嫌味を言ってきていたのが、私が強気で出たら、私からその人に的を変えたみたいで。何かって言うと嫌味言ったり、仕事押し付けたり」
わあ。大塚さんって、本当に新人いびりしていたんだ。
「でも、これはあくまでも噂なんですけど」
「はい?」
ものすごく江古田さんが声を潜めたので、私は耳を近づけた。
「大塚さんより、陰険ないじめを三田さんがしていたっていう噂があるんです」
「え?」
「大塚さんはみんなの前でだから、新人のこといじめてるなあって、一目瞭然だったんですけど、三田さんは陰でいじめるから、もっとたち悪いとかなんとか…」
「そ、そうなんですか。三田さんって、怖いんですね」
「上条さんも気を付けてくださいね。三田さんって、一臣様のこと好きみたいですよ。その辞めちゃった人も、一臣様にお熱をあげてて、具合が悪い日に一臣様にほんのちょっと優しい言葉をかけてもらったんですけど、それが原因でいじめられたんじゃないかって、秘書課の女子社員がみんな言っていましたから」
「………」
そういえば、一臣様も、三田は俺に気があるみたいだから、何かあったら俺に言えって言っていたなあ。その新人秘書がいじめにあって、辞めたってことも知っていたのかもしれない。
「ありがとう。気を付けるようにします」
私は江古田さんにそうお礼を言って、江古田さんと14階に戻った。そして、ロッカー室に荷物を入れようとして、
「あ、携帯…」
と携帯がないことに気が付いた。
「携帯、テラスに忘れたんですか?」
「いいえ。秘書課の部屋に忘れたようです。多分、デスクの引き出しです」
「あ、だったら、大丈夫ですね。部外者も入って来れないし」
そう言いながら、私たちは秘書課の部屋に向かった。
そして、一臣様からメールなどが来ていないかどうかをチェックしようと、携帯を見てみようとして引き出しを開けたが、携帯はどこにも見当たらなかった。
「あれ?」
確かに、ここに入れっぱなしだったと思うんだけどな。カバンにも入っていなかったし。
「携帯、ないんですか?」
江古田さんが心配そうに聞いてきた。
「はい。ここに入れたはずなんだけど」
「ガーデンテラスにやっぱり、忘れたんですか?」
「確か、ここに入れた記憶が」
「誰か部外者の人が入ったんでしょうか…」
そんな話をしていると、
「ちょっと~~。誰?トイレに携帯落としたままの、ぼけてる人は!」
と言いながら、大塚さんが入ってきた。
「あの、トイレに携帯って?」
「すぐそこの女子トイレの一番奥。携帯が水没しているわよ。そのせいで誰も入れないし…。あそこのトイレ使うのって、秘書課くらいだから、この中に落として気づかないぼけてる人がいるんじゃないの?」
「上条さん、お昼の前にトイレ行きました?」
「う、ううん。でも、一応見てきます」
そんな会話をしていると、大塚さんが、
「上条さんなの?」
と呆れた顔をして聞いてきた。
「いえ。携帯がなくなっちゃってて。一応見てきます」
もう1度そう言ってから私は秘書課の部屋を出た。後ろから江古田さんと、なぜか大塚さんまでついてきた。
トイレに行くと、歯を磨いたり化粧をしている秘書課の人がいて、
「あ、大塚さん。持ち主わかりました?」
と聞いてきた。でも、大塚さんは何も答えず、
「一番奥よ」
と教えてくれた。
見に行ってみると、私の携帯がトイレの中に水没していた。
「私のです。このストラップ、祖母からもらったもので」
なんで?なんでここに?!
「え~~。落としたことにも気が付かないなんて、相当ぼけてるわよね」
「きっと、一臣様に贔屓されて、ぼけぼけしていたんじゃないの?」
化粧直しをしていた人たちがそう言って、笑いながらトイレを出て行った。
「それじゃあ、もう使えませんね。でも、見つかってよかったですね」
江古田さんは、きっと私を励ましてくれたんだろう。だが、大塚さんは怖い表情をして黙っている。
こんなことがあったら、誰よりもまず一番に嫌味を言ったり、笑ったりしそうなのに。
「上条さん、ここのトイレ使ったの?」
大塚さんが怖い顔のまま聞いてきた。
「いいえ。今日はこの階のトイレは使っていません。さっきお昼を食べる前、6階のトイレを使ったし、朝は15階の…」
と言おうとして、一臣様の部屋のトイレを使ったとばれては大変と、それ以上は話すのをやめた。
「携帯、どこに置いていたの?ロッカー?」
「いいえ。秘書課のデスクの引き出しに…。入れっぱなしで、お昼に行っちゃったんです」
「戻って引き出しを開けたら、そこにはなくて、トイレに水没してた?」
「はい」
「そうか。前と同じ手口。これ、同じ人が犯人よねえ」
「え?」
私と江古田さんは、びっくりして聞き返した。
「前と同じって?」
江古田さんはそう聞いてから、
「あ、もしかして、昨年辞めた板橋さん?」
と、はっと気が付いたようにそう言った。
「そう。板橋さんの携帯もトイレに水没していたの。いつの間にかなくなっていたのよね」
「…同じ人が犯人って、それ、もしかして」
江古田さんは声を潜め、
「三田さん?」
と、ほとんど口だけを動かして、大塚さんに聞いた。
「あたり。あの人、ほんと裏では怖いのよ。でも、三田さんがしたっていう徹底的な証拠もなくて、三田派の秘書の人たちが、板橋さんが自分で落としたんでしょって口をそろえてそう言って、その事件はそのまんまお蔵入り」
「……」
酷い。人の携帯をこんな目に合わせるなんて。大塚さんもかなりのものだったけど、わかりやすかった分、まだまし。
こんな陰で陰湿ないじめをするなんて、なんか、許せないかも!
「あなた、一臣様に気に入られているし、それが気に食わなかったんじゃない?三田さん、これからも嫌がらせしてくるかも。あなたが自ら辞めるように仕向けて来るわよ、きっと」
大塚さんはそう言って、私の顔を覗き込んだ。
「私は堂々とクビにしてやろうと、いろいろ揺さぶりかけたんだけど、あなた、どうも一臣様に守られてるみたいだし」
「は?」
堂々とクビにしてやる?すっごい発言したなあ、今。でも…。
「大塚さんはなんで、私をクビにしたかったんですか?」
「そりゃ、気に入らないから。それだけ。たいてい、新人はいじめてみるの。で、強い人は残る。江古田さんみたいに。弱い人は辞める。ただそれだけよ」
怖いってば。
「そうですか。でも、堂々としている分、まだ、大塚さんはいいですよね」
江古田さんがそう言った。いや、よくないでしょ。だけど、陰でっていう方が陰険かな。
「三田さんは、自分だってばれないようにして、相手を追い込んでいくからね」
「そっちのほうが、怖いですね」
「……。あなた、一臣様に守られてるようだから、多分、大丈夫だとは思うけど、一応、細川さんにも樋口さんにもこの件は話しておいたほうがいいわよ。ただ、三田さんや、三田派の秘書に聞かれないところでね」
「大塚さん。上条さんを敵対視していたのに、味方するんですか?」
江古田さんがびっくりして聞いた。
「敵対視なんてしていないわよ。新人だからいびっていただけで」
う~~ん。悪びれず言えるところがすごいかも。
「それに大塚さん、ずっと元気なかったのに、元気になっていますね」
「ああ、庶務課に移動になって、テンション下がっていたけど、なんか、開き直っちゃって」
「え?」
「仕事を真面目にする気はないけど、まあ、うまくやっていくわ。昨日の帰り、庶務課に挨拶に行ったら、課長、けっこう面白そうだし。私以外に入ってくる人、中途採用の男子社員なんだって。いじめがいありそうでしょ?」
わあ。なんか、もう見上げた根性だって気がしてきた。
「大塚さん。臼井課長は本当にいい人なんです。ぜひ、庶務課でも頑張ってください」
「…あなたたちには、会うこともないと思うけどね」
「なぜですか?」
「1階の奥と、14階なんて、そうそう会えないじゃない」
「でも、たとえば、6階のカフェで会うとか、仕事終わってから会うとかできますよ」
私がそう言うと、
「やだ~~。あなたと仲良く友達にでもなれって言うの?冗談じゃないわよ」
と大塚さんはそう言ってから、しばらく黙り込んで、
「でもまあ、三田さんに何かやられたら、相談にはのるわよ。私、三田さんのことは大嫌いで、口も利きたくないくらいだったし、味方にはなってあげるわ」
と言ってきた。
「……よ、よろしくお願いします」
なんだか、よくわからない展開だけど、あのすっごく嫌な感じの大塚さんと、仲良くなっちゃうのかもしれない、私…。