~その5~ 婚約破棄!?
翌日、早めに起きてお弁当を二つ作り、昨日教えてもらったようにメイクをしてみた。でも、アイラインがうまくできず、アイラインだけ諦めた。
「薄すぎないかな、この化粧。それにこの口紅だと、なんだか子供っぽくならないかな」
鏡を見ながらしばらく考え込んだ。だが、出社時間が迫って来て、慌てて昨日もらった服に着替え、昨日もらったベージュのパンプスも履き、家を飛び出した。
こんなフワフワした生地のブラウスは初めて着るから、変な感じだ。オレンジ色のブラウスに白のカーディガンを羽織り、ベージュのパンツ。それに、高いシャンプーのおかげなのか、髪もサラサラになっている。
こんな女の子女の子した格好は初めてしたから、歩いていてもとっても変な感じだ。本当に似合っているんだろうか。
「おはようございます」
総務部のドアを入って挨拶をした。それから総務部の横を通り過ぎると、みんなが、
「誰?」
と言いながら私を見ていた。
変なのかな?
「おはようございます!」
庶務課に行き、もうすでにデスクについていた臼井課長と細川女史に挨拶をした。
「おはよう。上条さん、イメージ変わったねえ」
「あら。髪もバッサリと切っちゃったのね。ボブ、似合ってるわよ」
「ありがとうございます。あ、細川さん、この服、変じゃないですか?」
「ううん。すっごくまとも。昨日買ったの?」
「いいえ。頂きました。でも、頂いちゃったりして申し訳ないので、改めて何着か、買いに行こうかと思っていまして」
「その服、新しいGeorge・kuzeのブランドじゃないの?」
「そうなんです。細川さんもご存知ですか?ジョリ・クゼっていうお店の…」
「昨年オープンした、ここからすぐのところにあるブティックでしょう?久世君のお母様のお店」
「はい。今度一緒に行ってみませんか?」
「私が?!」
「はい」
「…そ、そうね。可愛らしい服は着れないけど、パンツくらいなら、履けそうなのもあるかもしれないしね。いいわよ。付き合っても」
「ありがとうございます。じゃ、早速今日にでも!」
「そうね」
「あ、それから、久世君は、毎日オフィスにやってきますか?」
「ここに?さあ。大学もあるんだし、毎日バイトのシフト、入れていないんじゃない?」
「ですよね…」
お弁当、作ってきたんだけどな。渡せないかな…。
「あれ?!」
「え?!」
日陰さんがいつの間にか席にいて、私を見て大声を出したのでびっくりした。こんな大きな声を出した日陰さん、初めてかも。
「上条さん、別の誰かがいるのかと思った。ああ、びっくりしたよ」
「そうですか?変ですか?」
「いや。変ではないけど…」
そう言うと、日陰さんはすぐにパソコンを開き、こそこそと何かし始めた。
「何しているんですか?」
「メールのチェック。仕事の依頼があるかどうか」
「あ、じゃあ、私も調べないと」
私もデスクのパソコンを起動させ、メールのチェックをした。
「あ、最上階の役員用のトイレが、詰まってしまっていて使用できないようですよ、課長」
日陰さんが、臼井課長にそう報告すると、
「じゃあ、すぐに業者を呼んで、直してもらって」
と、臼井課長が答えた。
「はい」
「あ、日陰さん。トイレ、朝から使用できないってことは、困っている人がたくさんいるのでは」
「最上階だから、役員の人たちだけだ」
「でも、役員の方々が、お困りですよね」
「…そうだろうけど、何か?」
「じゃ、すぐに行って直してきましょうよ」
「は?僕が?」
「…トイレの詰まっているのって、あの、スッポンっていうので、簡単に直せますよね。あれ、ないんですか?」
「掃除用具入れにあるだろうけど…」
「それさえあれば、すぐに直せます。わざわざ業者さん呼ぶ必要はないですよ。お金だってかかっちゃうじゃないですか。勿体無い」
「は?僕がそれをするの?悪いけど、そんな仕事はさすがに…」
「私がしてきます!」
「え?ちょっと、上条さん、本気?」
細川女史が目を丸くした。臼井課長も驚いて立ち上がり、バーコードの髪がハラリと前にたれた。
「はい。本気です。今すぐ行って、直してきます!」
「ちょっと待って。え~~~?!」
私は席を立ち、後ろから細川女史の止める声がしたが、一目散にエレベーターに乗りに行った。
「最上階は…、15階」
エレベーターのボタンを押しても、何も反応しない。
「あなた、最上階に何の用事ですか?キーがないと行けませんけど。それか、役員専用のエレベーターでしか行かれませんよ」
一緒に乗っていた女性社員が、そう教えてくれた。
「あ、そうか。そうだった!」
慌ててエレベーターを降り、総務部に引き返そうとすると、前から一臣様の第一秘書の樋口さんがやってきた。
「あ!樋口さん」
「…庶務課の上条さんでしたね。おはようございます」
「おはようございます!あ、これからもしや、最上階に行かれますか?」
「はい」
「じゃあ、ご一緒してよろしいですか?」
「は?何か最上階に用事ですか?」
「役員用のトイレが詰まっているということで、今から直しに行くんです」
「…どこに業者の方が?」
「え?私が一人で直しに行くんですが…」
「は?!」
樋口さんは、あまり表情を変えず、淡々とお話をされる方だが、珍しく目を見開き、口を大きく開けた。
「上条さんが、直される?」
「はい!」
「出来るんですか?」
「はい。勿論です。簡単に直ると思います。こういうの、慣れているので」
「慣れているというと、今までにこういうお仕事をされていたとか?」
「いえ。大学時代の下宿先で、よくトイレが詰まっちゃって、直していたんです」
「はあ、なるほど…」
エレベーターが来て、一緒にエレベーターに乗り込んだ。
「おはようございます」
数人、同じエレベーターに乗ってきた。樋口さんは14階のボタンを押し、黙ってエレベーターの奥まで入っていった。
「あの、14階ではないんですが…」
「14階について、エレベーターに乗っている人が全員降りてから、キーを差し込みます。でないと、誰でも最上階に私と一緒に行けちゃいますからね」
「あ、なるほど」
エレベーターは12階の時点で、私と樋口さんだけになった。
「役員専用のエレベーターもあるんですか?」
「あります。そちらには、通常、一般社員は入れないようになっています。役員のIDカードがないと乗ることができません。私も、役員のどなたかのお供をする場合のみ、そちらのエレベーターを使用しますが、私一人だと、乗ることは不可能です」
「え?そうなんですか?厳重なんですね」
「当然です。最上階には社長も、副社長もいらっしゃいますからね」
14階に着くと、樋口さんはカードキーを差し込み、15階のボタンを押した。扉が閉じられ、エレベーターは最上階に向かった。
「役員用トイレですが、エレベーターホールを出て、右側にあります。本当にお一人で大丈夫ですか?」
「はい。お茶の子さいさいの朝飯前です」
「そうですか。頼もしいですね。それでは」
15階に着くと、樋口さんは、反対側に颯爽と歩いて行ってしまった。
「ありがとうございました」
私は樋口さんの背中に丁寧にお辞儀をして、役員用トイレに向かって歩き出した。
「なんか、すごいな。このフロアー。床の絨毯はふかふかだし、エレベーターホールにはすごい絵や、ソファがあったし」
会社というより、高級ホテルに近いかもしれない。
「あ、ここかな。トイレ…」
他の階とは明らかに違うトイレのドアだ。
「失礼します。庶務課のものです。トイレの修繕に参りました」
そう言ってトイレを開けた。中には誰もいなかった。
「トイレも豪華だ。トイレの中にまで調度品があるし、鏡もなんだかすごい豪華…」
ちょっとびっくりしながら、トイレの奥に進むと、「使用不可」と書かれた紙が貼ってあった。
「あ。ここね」
中を開けると、確かに、水かさが増し、今にも溢れかえりそう。
「用具入れは、一番奥のドアかなあ」
開けてみると、ビンゴ。
「スッポン、ちゃんとあった~~!」
と、そこに役員の人らしき人が入ってきた。
「うわ!君は誰だ?」
「あ、庶務課のものです!トイレの詰まりを直しに来ました。すぐに直りますので、お待ちください!」
「…庶務課?君が直す?」
「はい。すぐに済みますので」
私はスッポンを持って、
「よっしゃ。スッポン!」
と何度か試みた。
「何をしているのかね?」
そこに他の役員もやってきた。
「今、直しています。少々お待ちを!」
トイレの中からそう言って、また「スッポン!」と力いっぱいやってみると、
「ジャー」
と勢いよく水が流れ出した。
「あ!流れた!」
「ああ、直せたかい?」
「はい。直せました~~。もう大丈夫…」
トイレから顔を出してそう言うと、ふたりの役員の後ろから、一臣様と樋口さんが私をじっと見ている姿があった。
「あ!」
「庶務課の新人。こんなところで、何をしている」
一臣様、仁王立ちで、顔が引きつっている。
「トイレの詰まりを直しに来ました。あ、もう直りました」
「だから、なんでお前がここにいる?業者の人間は?」
「いません。私一人で十分でしたので」
「なんなんだ!髪型や化粧、服装はまともになった。でも、そんなものを持って、お前はいったい、何がしたいんだ!」
「まあ、まあ、一臣君」
役員の一人がなだめようとしたが、一臣様のおでこには青筋が立ち、顔色はどんどん赤くなっていった。
「申し訳ないですが、他のトイレをご使用ください。ちゃんと直ったかどうか、業者を呼んで確認させますので」
その人に樋口さんがそう言って、役員のふたりをトイレから追い出してしまった。
「お前は馬鹿か?!蛍光灯は自分で交換してもいいが、こんなことまで自分でやろうとするな」
「でも、慣れていましたから」
「慣れていた?ここに来る前はどんな仕事をしていたんだ!」
一臣様は、フルフルと拳を震わせながらそう言った。
「緒方商事の子会社、緒方鉄工所の経理をしていました…けど?」
「そこでもトイレのつまりを直していたのか?」
「いえ!学生の時住んでいた下宿先で、よくトイレが詰まっていたんです。それを直していました」
「いったい、どんなにボロいところに住んでいたんだ!ああ、いい。そんなことはどうでも。それよりも先に、さっさとそのスッポンを片付けろ」
「はい」
「それから、お前の手、思い切り消毒しろよな!その手でこの辺のドア、つかんだりするなよな」
「一臣様、意外と綺麗好きなんですね」
「意外とは余計だ!早くしろ。樋口、業者に連絡を入れろ」
「はい。もう連絡入れたので、そろそろ到着する頃かと」
「え?樋口さん、連絡したんですか?」
「万が一、使用してまた詰まっても、困りますので」
「……そ、そうですか」
私じゃ、役に立てなかったってことかな。
「お前はいいから、早く手を洗え!」
一臣様はまだおでこに青筋を立てたまま、私にそう怒鳴った。
私は慌てて、洗面台で手を洗った。
「そういえば、どうやってこの階に来れたんだ?カードキーがないと来れないはずだが」
横でまた、拳をふるふると震わせながら、一臣様が聞いてきた。
「あ、それでしたら、私がお連れしました」
「樋口が!?」
「はい」
「お前、なんだって、そんなこと」
「上条様が、とても張り切っていたので、断るわけには…」
「上条?」
「はい。上条弥生様です」
樋口さんはそう言うと、私の方を向いて会釈をした。
「上条…弥生?」
「一臣様に調べるようにと言われましたので、昨日すぐに上条弥生様のことは、調べさせていただいたんですが…」
樋口さんは会釈した体勢を保ちながら、そう言った。
「いい。調べなくても名前だけでわかる。つまり、この変な奴が、俺のフィアンセだってことだな?樋口」
「はい」
「………。この、トイレのスッポンを持って自分で直してみたり、脚立を持って来て蛍光灯の交換をしてみたり…。いや、それ以前に、びんぞこメガネのストーカーが、俺のフィアンセだったって事だな?」
「びんぞこストーカー?」
樋口さんは顔を上げ、不思議そうな顔をして私を見た。
「大学時代、俺のことをいつも物陰から見ていた気持ち悪い女だ。吸殻も持って帰ってみたり、帰りにつけてきたり」
「そんなこと、ありましたか?」
「とぼけるな!あの頃もお前に、変な奴がいるから調べろ。あのストーカー女をどうにかしろと言っておいた。ずっと、そんな女性、いらっしゃいませんって、すっとぼけていたが」
「はい。ストーカーはいませんでしたから。ただ、遠くから一臣様の様子を見ている一臣様のフィアンセでしたら、いらっしゃいましたが…」
「知っていたのか。知っていてわざと、すっとぼけていたんだな!」
「……なんのことでしょうか?」
「樋口~~~!!!!!お前は…。はっ!お前、まさかこのストーカー…、いや、婚約者がうちの会社に入ったことも知っていて、俺に黙っていたのか!」
「いえ。わたくしも存じておりませんでした。社長が弥生様を庶務課に配属されたのではないかと思われます」
「親父が?!」
「はい」
「裏で手を回したのか…。コネっていうのは親父のことか?上条弥生!」
「はい、そうです。すみません!」
私は深々と頭を下げた。
ああ、名乗り上げる前に知られてしまった。まだ、一臣様にふさわしいレディにもなっていないというのに!
「嘘だろ。上条グループのご令嬢っていうから、どんなにおしとやかで、清楚な女性かと。あ!それに確か、前に写真で見た時には、こんな変な奴じゃ…」
「それは、弥生様の成人式のお写真では?」
「そうだ!もっと清楚なイメージのする写真だったぞ!騙したのか?」
「いえ。騙していません!多分、撮った写真家の腕がいいんじゃないかと」
私は焦ってそう言い訳をした。
「合成写真か、CGじゃないのか?」
「……う。もしかすると、ほんのちょっと、どこかを直したかも」
「それでは、やはり騙したのか?!」
「そそそ、そんなつもりはないです!ごめんなさい!でも、ほんの少しでも、綺麗に写ったらいいなって思って、いろいろとカメラマンに注文はしたんですが」
「…こ、こいつ」
わ!一臣様の顔、さらに怖くなった。それに今にも、私のことを殴りにきそうな気迫すら感じる…。
「一臣様、気を確かに。これから会議が始まります」
「その前に、親父、社長室にいるんだろ?文句言ってきてやる!俺は、こんな結婚認めないってな!」
え?!
「まだ正式に発表もされていないんだ。だいたい、上条グループと結婚するのは、関西でのプロジェクトを成功させるためだろう?!だったら、俺には関係ない。大阪支社をのちに背負って立つのは、弟の龍二だ。あいつとこいつが結婚すれば済むことだろ?!」
「いえ、これにはきっと社長の色々な考えが」
「それを今、聞いてきてやる。いや、聞くつもりも無い。絶対に俺はこいつと結婚する気はないからな!破談にしてやる!」
一臣様はそう言い放ち、トイレを出て行った。
「お待ちください…」
その後ろから樋口さんも出ていこうとしたが、
「大丈夫ですか?弥生様」
と私の顔を覗き込んできた。
「…だ、大丈夫です。でも…」
「はい?」
「わ、私は、一臣様にとって、迷惑なだけでしょうか」
「え?」
「い、今の今まで、ずっと一臣様のお役に立てるようにと頑張ってきたのですが、迷惑なだけだったのでしょうか」
「……そんなことはないです。一臣様も、突然のことで驚かれただけだと思いますよ?さあ、もう庶務課にお戻りください」
「……はい」
樋口さんに付き添われ、エレベーターホールまで行った。私の頭の中は、真っ白だった。