~その9~ セクハラ専務
朝ご飯も終え、着替えも化粧も済ますと、ちょうど8時半になった。
「行ってきます」
と言って、一臣様の部屋を出ようとすると、
「おいおい、待てよ。これ持って行かないでどうするんだよ」
と、パソコンから印字した用紙とファイルを一臣様から渡された。
「あ!そうだった」
「大丈夫か?お前、昨日ちゃんと寝れたのか?」
「寝れました…」
でも、朝の出来事が衝撃的すぎて、仕事のことをド忘れしちゃっただけで。
「一臣様は、ちゃんと眠れましたか?」
「眠ってないように見えるか?」
「いいえ。顔色もいいし、元気そう」
「だろ?しっかり眠れたぞ」
一臣様はそう言ってにっこりと笑った。
うっひゃ~~~。その笑顔は不意打ちだ。目が釘付けになった。こんな笑顔、初めて見るかも!
「怖いな。うっとりとした目で見るなよ。ほら、早く秘書課に行け。遅いと怒られるぞ」
「細川女史にですか?」
大変。
「いや、細川女史はお前には怒らないな。でも、なんかうるさそうなのがいたろ?三田だっけ?」
ああ…。三田さん。
「あいつ、俺に気があるかもしれないから、お前にきつく当たったり、いじめたりするかもしれないな。注意しておけよ。何かあったら俺でもいいし、細川女史に言えよ」
「…はい」
一臣様に15階のエレベーターまで見送られ、エレベーターに乗り込んだ。8時半にはまだ、役員たちは出社していないようで、15階のフロアは静まり返っていたし、廊下に電気すらついていなかった。
14階にエレベーターが止まり、ドアが開くと、ちょうど、江古田さんが隣のエレベーターから降りてきたところだった。
「あ、おはようございます。上条さん。仕事終わりましたか?」
「はい。1時に終わりました」
「ええ?夜中のですか?そんな時間まで、残っていたんですか?まさか、一臣様も?」
最後の方は思い切り江古田さんは、声を潜めて聞いてきた。エレベーターの前で立ち止り、私はどう答えていいか悩んでしまった。
「えっと」
言ってもいいのかな。江古田さんは私たちが婚約していることも知っているんだし。
「はい。一緒でした」
「じゃあ、それから家に帰ったりして、大変だったんじゃないですか?」
「え?」
「あれ?でも、このスーツ、昨日と同じ…」
やばい。会社に泊まったってことは、知られないほうがいいのか。そうだよね。泊まりでってなると、一臣様と泊まったわけ?ってことになるよね。いくら婚約者でも、結婚前なんだし。
ああ!大失敗だ。スーツの着替えを持って来てもらうんだった。
と、その時、エレベーターがチン!と音を立てて14階に止まり、ドアが開くと、
「あ、弥生。つかまってよかった。携帯忘れてるぞ。あと、脱いだブラウスも15階に置きっぱなしだから、ちゃんと取りに来いよ、わかったな」
と、一臣様がエレベーターから顔を出してそう言うと、私に携帯を手渡し、またそのエレベーターにカードキーをさして、扉を閉めた。
「え?」
それを隣で見ていた江古田さんが、カチンとかたまってしまった。
「泊まったんですか?一臣様のお部屋に」
「……はい」
うわ~~。もう嘘つけないから、正直に答えちゃったよ。それも、脱いだブラウス取りに来いだなんて、絶対になんか、江古田さんは誤解をしている。
ほら。赤くなってるし。
と、その時、江古田さんの後ろに置いてある、観葉植物の影から、ものすごく怖い目が光っているのが見えた。
怖い!お化け?ゾクゾク~~~!!!
顔を引きつらせ、動けないで私もかたまっていると、観葉植物の後ろから葛西さんが顔を出した。
「おはよう。上条さん」
「………おはようございます」
怖い。ものすごく怖かった。声が震えちゃった。
葛西さんは、ものすごく冷めた表情をして、エレベーターホールからロッカー室に向かって、歩いて行った。
「今の、葛西さんも聞いていたんですよね。でも、いつからそこにいたんだろう」
私がそう言うと、
「ああ、そういえば、私と同じエレベーターに乗ってました」
と、江古田さんは普通に答えた。
そうか。江古田さんは葛西さんの、あのめちゃくちゃ怖い目を見なかったのか。あれって、一臣様の部屋に私が泊まったことを知って、あんな目で私を睨んだんだよね。
秘書課に行くと、すでに三田さんがいて、
「上条さん、間に合ったの?」
と聞いてきた。
「はい。間に合いました。一応、資材部にデータを送信しましたが、プリントアウトもしておきました」
そう言って私は、三田さんに用紙とファイルを渡した。
「…そ、そう。間に合ったんだったらいいけど。何時までかかったの?それに、一臣様、ずっと付き添うって言っていたけど」
「…え。えっと。1時には終わりましたので」
あ。なんか変な言い方しちゃったかも。
「1時?夜中の?そんな時間まで、一臣様を付き添わせたの?!」
三田さんが、そう叫んだ。それも怖い声で怖い顔をして。
「どうかした?三田さん」
いつの間にか細川女史が部屋に来ていて、三田さんに近づきながらそう聞いた。
「え?あの。上条さんが昨日は1時までかかったって」
「あら。1時で終わった?徹夜にならなくて良かったわね」
「はい」
「でも、一臣様も付き添われたみたいで。そんな迷惑をかけたんですよ」
「それは迷惑じゃないでしょ?一臣様が上条さんに仕事を言いつけて、それで上条さんのするべき仕事が溜まってしまったんだから。期限のあった仕事なんだから、それまでに終わらせるのを一臣様が責任もって付き添われるのは、当然と言えば当然のことよ」
細川女史はビシッとそう言いきった。もう三田さんは何も言えなくなってしまっていた。
「細川さん。一臣様はお忙しいのに、上条さんの仕事の付き添いまでしていたら、一臣様のお体が持ちません。秘書だったら、そういうことまで気を使うべきです」
そう強気の発言をしたのは、葛西さんだ。
「今日の一臣様のスケジュールは、10時からアポが入っているけど、それまでは特に何もないし、今朝はゆっくりと出社できると思うけど」
細川さんは、特にスケジュール帳を見ないでもそう言ってのけた。きっと、一臣様の1日のスケジュールが頭に入っているんだ。
「……ですが、一臣様はお泊りになられたみたいで。ご自宅まで帰られなかったなんて、疲れがきっと取れずじまいです。最近、顔色も悪かったし、細川さんも上条さんも、もっと気を使うべきです。特に、上条さん!あなた、あまりにも一臣様に迷惑をかけすぎです!」
う…わ…。葛西さんが、また親の仇みたいな目で私を睨んだ。怖い。
「すみません」
私が謝ると、私の隣で三田さんが、
「まさか、上条さんまでが会社に泊まられたわけじゃないわよね?!」
と、これまた鬼のような形相で聞いてきた。
う~~~ん。本当にこの秘書課って怖い女の人だらけだ。
「とにかく、頼まれていた資料は作成できたし、今日の仕事にみなさん、取りかかってください。今日の皆さんの仕事の振り分けですが」
細川さんは手をぱんぱんと叩いてから、そう話し出した。そしてそれからは、テキパキとみんなに指示を与えだした。
みんなに指示を出すと、なぜか私にだけは細川女史は仕事の指示をくれなかった。
「あの、細川さん、私は」
もしかして、昨日仕事を終わらせなかったから、なんか、処罰でもある…とか?
「上条さんは、一臣様の方で仕事があるかもしれないので、確認してから指示を出します。それまでに資材部にデータがちゃんと送れたかの確認をしておいて」
「はい」
「一臣様の仕事?」
「何で上条さんが?」
「なんか、上条さんって、特別扱いされてない?」
そんなことを、細川女史が部屋を出て行ってからみんなで、話しだした。
三田さんも後ろを振り向き、私をぎとっと見ている。でも、大塚さんと葛西さんは、話にも参加せず、黙々と仕事に取り組んでいた。
細川女史が15階から戻ってきた。ちょうど9時の始業のベルが鳴った時だった。
「上条さん、一臣様に確認したら、午前中は特に仕事はないようよ」
「はい」
「それで、上条さんには午前中、専務の要請があるから、それに行ってもらおうかしら」
「専務?」
「お得意さんが来るらしいの。お茶出ししてくれる?」
「あ、はい」
「午後はまた、一臣様が仕事を頼みたいらしいから、お昼終ったら15階に行ってね」
「はい、わかりました」
私は席を立ち、隣の応接室に向かった。たいてい、15階の役員たちは、14階の秘書課の隣にある応接室を使う。他の階よりも豪華で、ソファもテーブルも、置いてある調度品も立派だ。
トントン。一応ノックをしてドアを開けた。あ、まだ誰も来ていなかった。
私はテーブルの上を拭いたり、お茶のセッティングをした。日本茶でいいよね。専務ってきっとおじいちゃんだよね。あの相談役みたいな。
そこに、ドアが開き、
「ああ、秘書課の新人さんかな?」
と50代前半の男の人が入ってきた。
この人が専務かな。わりかし、若そう。もっと、年配の人かと思ったのに。
「はい。上条です。よろしくお願いします」
そう言ってぺこっとお辞儀をすると、その人は、
「ああ、丁寧にどうもね。今日のお客さんは、僕がまだ部長をしていた頃からの付き合いで、大事な取引先の社長だから、粗相のないようによろしく頼むよ」
とそう言って、私の肩をぽんぽんと叩いた。
「はい」
社長が来るのか。それは気合を入れないとなあ。
「あれ?日本茶を淹れようとしてた?」
「はい」
「駄目駄目。社長はコーヒーが好きなんだ。それ、大塚さんから聞いてない?」
「すみません。聞いていませんでした」
「しょうがないなあ。いつもは大塚さんが来てくれるのに。彼女、忙しいの?」
「え…はい」
そうか。この専務はまだ、大塚さんが移動になることを知らないんだな。
「上条さんだっけ?コーヒーはちゃんと、ドリップのを淹れてくれよ。くれぐれも、インスタントなんか出すんじゃないよ。味にうるさい社長だからね」
専務は私に思い切り近づき、私の背中に手を置いたまま、そう言った。
なんか、やたらとこの人、スキンシップをしてくる人だなあ。
それに、今、私に近づいたとき、胸に目線いってたよね。まさか、大塚さんより小さいって思っていたりしないよね。
あ!今、私のお尻とか、太ももに目がいっていたよね。
って、気のせいかな。一臣様がやたらと、昨日の相談役のことをエロ爺って言っていたから、この人まで疑いの目で見ちゃったよ。
それから5分後、お客様がやってきた。
「あ~、目黒君。久しぶりだね」
「社長、お待ちしていましたよ」
この専務は目黒さんっていう名前なのね。一応、役員の顔と名前を前に庶務課にいる時に、パソコンで確認したんだけど、全員は覚えられなかったな。
私はコーヒーを淹れ、まずはお客様の前にカップを置き、目黒専務の前にも置いた。すると、
「ああ、君、君。社長にはミルクとお砂糖も用意してあげてくれ」
と、私のお尻を専務がぽんぽんと軽く掌で叩いてきた。
「え?!やめてください!」
私は思い切り専務の手を払いのけ、その拍子に手にしていたトレイがテーブルの上にあったコーヒーカップに当たり、バシャっとカップを倒してしまった。
「あ!」
大変。お客さんのほうに向かって、こぼれたコーヒーが流れて行く。
「何してるんだ!君は!」
「すみません」
私は慌てて、自分のハンカチをポケットから出したが、間に合わない。すでにお客さんのスーツのズボンにコーヒーがこぼれてしまった。
「ああ!大丈夫ですか?やけどしませんでしたか?」
「うん、大丈夫だよ」
お客様は穏やかにそう言ってくれた。
「い、今、拭く物を持ってきます!」
私は慌てて、応接室から飛び出した。部屋の中からは、専務の謝る声と、応接室の電話で専務が秘書課に怒鳴っている声が聞こえてきた。
ああ。失敗だ!でも、お尻に触るなんて、あの専務、セクハラだよ~~!!!
廊下に出て、雑巾か何かがないか、給湯室に探しに行こうとしていると、秘書課の部屋から江古田さんと三田さんが、飛び出してきた。
「何したの?上条さん!」
三田さんが思い切り怒っている。
「お客様にコーヒーをこぼしてしまって」
「なんですって?」
江古田さんが給湯室に入っていき、すぐに布巾を持って来てくれた。三田さんはなぜか、くるっと後ろを向き、
「細川さんに連絡します」
と言って、また秘書課の部屋に入って行ってしまった。
あ~~~~~。どうしよう。どこかの社長さんなんだよね。
私は胸をドキドキさせながら、応接室に江古田さんと戻り、
「申し訳ありませんでした」
と言って、布巾をお客様に渡した。
「そんなもので、拭かせるのか!もっとまともなものはないのか?え?」
専務がカンカンに怒っている。それとは対照的に社長は、
「ああ、大丈夫。これでささっと拭いて、あとはクリーニング出しちゃうから」
と、優しくそう言ってくれた。
なんか、この人、寛大だ。っていうか、見覚えがある。この優しい声、優しい雰囲気。どこでだったかなあ。
「クリーニング代はこちらが払います」
専務はそう社長に言った。
「ああ、大丈夫。長年の付き合いじゃないかい、目黒君。そんなに秘書のことも怒らないであげてよ。今のは君にも非があるわけだし」
「え?わ、私にですか?」
あ、専務、顔が青くなった。
バタン!
と、そこに思い切りドアを開け、一臣様が先頭に、その後ろには細川女史も応接室に入ってきた。
うっわ~。一臣様にきっと怒られるんだ!雷落とされる~~!!!