~その7~ ムードのムの字もない
私は仕事に集中しだした。一臣様は静かにソファで書類を読んでいた。そして、しばらくすると、樋口さんが来て、
「夕飯、お持ちしました」
と、まるでホテルのルームサービスのようなワゴンを押して現れた。
「ああ。悪い」
一臣様は、平然とした顔でそれを受け取り、ソファの隣にワゴンを止めた。
「弥生、冷めないうちに食うぞ」
ワゴンの上段には、ハンバーグステーキ。サラダ。それから、テリーヌやサーモンなどのオードブルとパンが乗っていて、下段には飲み物が、ポットやピッチャーのまま乗っている。
「これ、どこから?」
「6階のカフェだ。夜に行ったことはないのか?ちょっとした酒もあって、カフェバーみたいになっているぞ」
「そうなんですか?昼間しか開いていないのかと思っていました」
「いや。夜の9時までやっている。俺は行ったことはないが、こうやってたまに、樋口に頼んで持って来てもらう」
「ルームサービスみたい。そんなサービスもしているなんてすごいカフェですね」
「あ、言っておくが、15階にしか持ってこない。役員たちしか頼めない代物だ。普通の社員が頼んだって、そんなサービスあるわけないと、失笑されておしまいだ」
そうなんだ。15階って、ほんと、特別扱いなのね。
「では、わたくしはこれで」
「ああ。樋口、仕事終わったなら帰っていいぞ。等々力はもう帰らせた。そうだ。樋口から上条家に電話を入れてくれないか。弥生は会社に泊まらせるって」
「はい、かしこまりました。では、失礼します」
そう言うと、樋口さんは部屋を出て行った。
「会社に泊まるなんて言って、お父様びっくりするかなあ」
「そうだな。樋口から上手く言ってくれると思うがな。さ、弥生、食うぞ」
一臣様と、ジュースで乾杯した。なんの乾杯なのかわからないが、一臣様が私とグラスを合わせ、乾杯と言って来たので、私も乾杯と言ってみた。
「……なんの乾杯ですか?」
ジュースを一口飲んでから、私は聞いてみた。
「ああ。そうだな。お前が初めて会社に泊まりこんで、仕事をすることになった夜に乾杯かな」
「……」
嬉しくないなあ。もっと、他に言いようはないのかな。たとえば、2人きりでオフィスに泊まる初めての夜に乾杯…とか。
そういえば、そういう洒落たことを一臣様が言ったのを聞いたことがない。普段から言わない人なのか、相手が私だから言わないだけなのか。
ロマンチックな雰囲気にもならないし、甘い言葉をささやくような事にもなったためしがない。
なんでかなあ。私だから?一臣様がそういうキャラ?わかんないけど、寂しいよなあ。
「弥生?どっか具合でも悪いのか?」
「いえ」
あ、暗くなっていたのがわかっちゃったかな。
「だったら食えよ。冷めるとまずくなるぞ」
「あ、はい」
私はオードプルから、サラダ、パン、ハンバーグと順にたいらげ、
「お腹いっぱいです」
と言って、お水を飲んだ。
「ははは!やっぱりよく食うな」
う。また笑われた~~。
「デザートは用意してもらってないぞ。それ以上太ったら困るからな」
グッサリ。
なんだかなあ。絶対に一臣様とはムードが出ないんだよなあ。どこをどう見ても恋人じゃないし、婚約しているとも思えないよ。
「さて。仕事にかかるか」
一臣様はワゴンを部屋の外にだし、また部屋に戻ってきた。
「お腹いっぱいになったからって、寝るなよ、弥生」
「寝ません!」
「寝そうになったら、シャワーでも浴びてこい。タオルでもバスローブでも揃っているからな」
「はい」
「ただし…」
「?」
なんか、真剣な目で私を見たぞ。
「俺を襲うなよ」
ガク。なんだって、そうなる。襲うわけないじゃん!
「襲いませんから、安心してください」
そう言うと、一臣様は、
「そうか、それで一安心だな」
と言って、また笑った。
仕事を再開した。終わるかどうかもわからないけど、今はやるしかない。
あっという間に12時をまわり、目が疲れて来て、私は水を汲みにデスクを離れた。
あ、うそ。ソファで一臣様が寝てる?!
く~って可愛い寝息を立てて寝ちゃってる。なんで?
「一臣様」
呼んでも起きそうにない。私はタオルケットをクローゼットから持って来て、一臣様にかけた。
私が添い寝をしなくても、寝ちゃったなあ。寝れるようになったのかな。それとも、この部屋だったら、仮眠も簡単に取れちゃうのかしら。
「ん…」
あれ?一臣様の顔をじっくりと見ていると、一臣様は目を開けた。
「弥生?」
「はい」
「仕事は?」
「まだ。もうちょっとかかります」
「ふあ~~~。俺、寝てたのか」
「はい」
「そうか。弥生。もう俺はしっかりと寝る体制になるから、お前も仕事終わったら横に来いよ」
「え?」
「いいな」
「はい」
一臣様は突然Yシャツを脱ぎだした。
うわ。なんで目の前でいきなり?びっくりして一臣様の上半身を凝視してしまうと、
「見るなよ」
と言って、一臣様は立ち上がり、隣の部屋に行ってしまった。
なんかずるい。私がスカート履く時にはじっと見ていたくせに。
なんて思いつつ、しっかりと私の目には、一臣様の上半身裸の素肌が焼きついてしまっていた。
やばいやばい。仕事に集中。
一臣様はどうやら、顔を洗ったり歯を磨いたりしていたようで、服を脱いでバスローブになり、隣の部屋から戻ってきた。
「寝るか~~。お前も寝る時は服脱げよ。また、皺になるからな」
そう言うと、一臣様はソファベッドに寝そべり、タオルケットを肩までひきあげ、目を閉じた。
寝るんだ。添い寝なくても…。
寝れないって言っていたのになあ。あれ、嘘だったのかなあ。
私は椅子に座り、またパソコンに向かった。カチカチとパソコンをうっていると、何やら視線を感じ、一臣様の方を見てみた。すると、一臣様がじっと私を見ていた。
「寝れないんですか?」
「ああ」
「明るいから?電気暗くしますか?」
「いや、いい。そんなことしても寝れないから」
「……さっきは寝てましたよね」
「うん。たまに、ああやって書類を見ているうちに寝ることがある。まあ、長くて1時間くらいだけどな」
ああ、そういえば、車や会社の部屋で仮眠は取っているって言ってたっけ。それがこのことか。
「だけど、いざ寝ようとすると、目が冴える」
「あ、そういうことってありますよね」
「お前もあるのか」
「たま~~に」
「……仕事に戻っていいぞ。俺のことは気にするな」
「はい」
私はまたパソコンの画面に目を向けた。
カチカチ。私がパソコンをうっている音だけが部屋に鳴り響いた。
「弥生」
「…はい?」
一臣様に呼ばれて顔をあげると、
「ああ、そのまま仕事を続けてていいぞ」
と言われた。
「はい」
私はまたパソコンのほうを向いた。
「お前もずっと一人暮らしだったんだよな。寂しくはなかったのか」
「いいえ。特には。大学の時には必ず、住人や大家さんといたし、アパート暮らしの時には、隣との壁が薄くって、いろんな生活音が聞こえていたから、寂しいとは思いませんでした」
「そうか」
「一臣様はあのお屋敷の部屋、寂しいですよね。広いし…」
「もう慣れた」
「え?」
「一人も慣れてた。でも、こうやって誰かがそばにいるのを体験すると、一人は寂しくなるな」
「……今、お屋敷で寂しいんですか?」
「そうだな。お前いないと、つまらないな」
寂しいかって聞いたのに。
「だけど、お屋敷に帰らない日もあったんじゃないですか?誰かと、どこかに泊まる日も」
…って、口から出てて、びっくりした。わあ、なんつう質問を私はしちゃったんだ。すっごくすっごく気になっていたこととは言え、聞きたくなんてなかったのに!
「あった」
え?
ズキ――――ン。
なんか、胸の奥が痛い。
「それこそ、何日も帰らない日もあった。誰かがいないと駄目で、ぬくもりを求めていた時もな…」
ズキッ。
誰か、一臣様をあっためていた人がいたんだ。
「でも、どうしてだか、心までは満たされなかった。いっつも…」
え?
「どっかで、ぽっかりと空いたままで、寒かったな」
一臣様?
「埋めようとすればするほど、その穴はでかくなっていったのかもな」
「今でも…ですか?」
「………今は、穴より、プレッシャーのほうがでかい」
「背負ってるものですか?」
「ああ」
一臣様はそうぽつりと言うと、黙り込んだ。
「でも、たまに一人きりの夜は、また虚無感に襲われる」
「え?」
「ぽっかりと空いてて…。空しくて…」
「い、今もですか?」
「今?」
「はい」
私は一臣様の顔は見ることができなかった。今も空しいと言われるのが怖くて。
「今…か~」
一臣様はしばらく黙ってしまった。
なんで黙っているのかな。まさか寝てる?なわけないよね、とか思いつつ、気になり一臣様を見た。すると、一臣様はじいっと私のことを見ていた。
「あ、あの?」
「早く仕事終わらせろよ」
「え?」
「それで、添い寝しろ。でないと俺が寝れない」
「……はい」
でも話しかけてきたのは、一臣様なんだけどな。それに、返事だって聞かせてもらっていない。
カチカチと表を作り、ようやく全部完成して、印字をしてから、私はパソコンの電源を切った。
「終わりました」
時計を見ると、1時を過ぎていた。
「ああ。顔洗っておいで」
一臣様はまだ、起きていた。
「はい」
私は隣の部屋に行き、顔を洗ったり、歯を磨いてトイレも済ませ、バスローブに着替えて、一臣様のところに行った。
「ほら。早くベッドに横になれよ」
う…。それ。なんだか、セリフだけ聞くと、ドキッてしちゃうよね。
私はほんのちょっと恥ずかしがりながら、一臣様の横に寝そべった。一臣様は私にもタオルケットを掛け、
「ああ、これでようやく寝れる」
と安心しきった声でそう言った。
だよね。寝るだけなんだよね。でも…。一臣様はなぜか、べったりと私を抱き寄せ、私の胸はものすごい勢いで早く鳴りだした。
「弥生」
ドッキ―ン!
「お前の体温ってやっぱり、ランに近い」
「……へ?」
「柔らかいし、犬みたいだ」
う~~~~、わん。ってか?やっぱり、ペットどまりなのね、私は。
一臣様のコロンの匂いに、思い切りドキドキしながらも、心の奥底ではがっかりしつつ、私は目を閉じた。
そして、一臣様から聞こえてきたスースーという寝息を聞き、一気に安心に包まれ、私も眠りに落ちて行った。
プルルル。プルルル。プルルル。
何の音かな。あ、一臣様の携帯のアラーム音だ。
目が覚めた。一臣様はまだ、私を抱きしめたままだった。
ブルルル。ブルルル。
音がだんだんと大きくなり、一臣様はようやく目を覚まし、アラームを止めた。
「は~~~。7時か。まだ寝ていられるな」
え?2度寝?
「何時に起きたらいいんですか?」
「う~~~ん。会議もないし、俺は別に何時でも。確か、アポが10時に入っていたっけなあ」
え?そうなの?羨ましい。
「お前はいつも、何時に出社してるんだ」
「8時半には秘書課にいます」
「そうか。じゃあ、朝ご飯も食うし、そろそろ起きるか」
「朝ご飯…。って、どこで?」
「ああ。8時から、前のビルのカフェがあいてるぞ。たまにそこで、パンとコーヒーを買って、ここで食うんだ。あとで、買いに行くか」
「はい」
なんか、そんなのも嬉しいかも。
ルン。ああ、朝から私ってばハイテンションかも。
「ふわ~~~~~~あ。よく寝た。ほんと、お前がいると、良く寝れるんだよなあ」
そう言いながら、一臣様は隣の部屋に行った。
ガチャ…。ジャ―――。って、シャワーの音。
あれ?シャワー浴びてるの?あのガラス張りのシャワールームで?
きゃあ。じゃあ今覗いたら、一臣様はオールヌード!?
い、いけない。そんなの、見てしまってはいけない!いくらフィアンセとはいえ、そんな破廉恥なことしちゃダメたってば、私!
見に行きたい気持ちを必死に抑え、私はまず、水を飲んだ。でも、どうしてもトイレに行きたくなり、隣の部屋のドアの前まで行ってみた。
さすがに誰もいないかもしれないけど、廊下にあるトイレには行けないよね。こんな格好で。やっぱり、ガラス張りのシャワールームの中は見ないようにして、トイレに行くしかないよね。
ドキ。ドキ。ドアを開けた。シャーっという、シャワーの音はまだ聞こえていた。
トイレは、シャワールームの隣にある。なるべくシャワールームは見ないようにして、トイレに行かないと。
そう思いつつ、シャワールームに背中を向けながら、トイレのすぐ近くまで行った。でも、いきなりシャワーの音が消え、ドン!っとシャワールームのドアが、私の背中に思い切り当たってきた。
「いった~~~!!!」
痛がって、しゃがみこむと、
「弥生?お前、シャワー浴びてるところを見に来たのか?それとも、一緒に浴びようとしに来たのか?!」
と、一臣様の怒鳴り声が頭の上から聞こえてきた。
「と、とんでもないですっ!トイレに来ただけですっ!」
そう言って、背中を痛がりながら、一臣様のほうを見ようと振り返ると、目の前に一臣様の…。
か…。一臣様の…!
「ウ…。ぎゃ~~~~~~!!!!!エッチ~~~~!!!」
慌てふためき、私はトイレに飛び込んだ。ああ、びっくりしすぎて、尿意もひっこんじゃったよ~~~!!!!!
「弥生!お前、大概にしろよな!お前のほうが勝手に見に来たんだからな!なんなんだ、そのエッチ!って言うのは!」
一臣様の怒鳴り声が、トイレのドアの前から聞こえてきた。
「あ、あわわわ。み、見ちゃった。もろに目の前で」
「見られて騒ぎたいのはこっちなんだからな!」
え?
「くっそ~~~~。エッチなのはどっちだよっ。この変態!」
「変態じゃないです。見たかったわけじゃないんです~~~!!!!」
「ふん!どうだか!」
ああ、一臣様が思い切り誤解している~~。
ドッスン。ルンルン気分もどこへやら。なんだって、こう、一臣様と一緒にいると、変なことばっかり起きるのかなあ。
やっぱり、ムードのムの字もないよね。
落ち込んじゃって、しばらく私はトイレに入り浸っていた。そして、ものすごく恥ずかしがりながら、でも、勇気を持ってトイレを出て、隣の部屋に行くと、
「長かったな。便秘か?」
と、一臣様に言われた。
だ~~か~~ら~~~!!!!
ムードのムの字もないけど、デリカシーのデの字もないよね!!!!!