~その6~ 秘書課の三田さん
髪を整え、5時半の終業時間が過ぎてから、私は慌てて秘書課に戻った。
ドアを開けると、まだみんな席についていて、すごく静かに仕事をしている。でも、もう葛西さんと大塚さんの姿はなかった。きっと5時半になると、とっとと帰って行ったんだろうな。
「あ、すみません、遅くなりまして」
いったい、どう言い訳をしていいかもわからず、私はそそくさと席に着いた。
「あなたの分の仕事、分けてあるから」
三田さんが突然自分のデスクから立ち上がり、ファイルを持ってきた。
「え?」
「このファイルにある書類、エクセルで表にしておいて」
「…あ、はい」
このファイル一冊まるまるかな。だよね。
「いつまでにですか?」
「明日までよ」
「…え?」
「え?じゃないわよ。今までどこでなんの仕事をしていたか知らないけど、あなたが今日振り分けられていた仕事なの。ちゃんとやってよね。何時までかかっても、明日の朝までには終わらせて!」
ひょえ~。何時までかかるんだ、これ。もしや徹夜?
青ざめていると、三田さんがなぜか私に顔を近づけ、くんくんと匂いを嗅いだ。
「あなた、一臣様と同じ香水つけてるの?」
「え?いいえ。まさか」
「じゃ、なんであなたから、一臣様の香水の匂いがするの?今までどこにいたの?」
ひょえ~~~~~~~~~。この人、怖いよ!
もっと青ざめた。
「か、一臣様の依頼の仕事をしていたんですよね?」
隣の江古田さんが、助け船を出してくれた。
「それでどうして、一臣様の香水の匂いがつくわけ?」
まだ言うか!三田さん、しつこいよ~。
「三田さん。仕事を終えたの?」
細川女史がそう三田さんに聞いた。
「あ、まだです。でももうすぐ終わります」
「じゃあ、席に戻って自分の仕事をして」
「はい」
細川女史も助けてくれた~~。
「他の人は、今日の仕事を終えましたか?」
「まだです」
「では、終わるまで私もここにいますから、続けてください」
細川女史はそう言うと、パソコンの画面を見ながら何かデータを入れ始めた。
「あ、あの…」
私は細川女史のデスクの前まで進み出て、
「私の仕事、まだまだかかりますから、細川さんは先にどうぞ、帰ってください」
と、小声でそう言った。
「まだまだかかるって、何時間くらい?」
「えっと。見当もつかないくらい。もしかすると、夜中…。明け方…」
「今日はそんな時間まで、パソコン使えないわよ。夜11時から、明日の朝の5時まで、全フロアのパソコンのメンテナンスをするから」
「え?そうなんですか?」
11時に終わるとは思えないよ。
「ああ、そう言えば、15階の一臣様の部屋に、ノートパソコンがあるわ」
「え?それって、一臣様使わせてくれますか?」
「そうねえ…。一臣様に頼んでみる?」
「え?い、いいんですか?」
いいって言うとは思うけど。いや、仕事は持ち込むなって怒られるかな。
「まさか、上条さん、15階の一臣様のお部屋で仕事されるんですか?」
今の話を、どうやら細川女史の真ん前の席にいた三田さんが聞いたみたいだ。顔を引きつらせ、そう聞いてきた。
「そうね。一臣様がいいって言ったらね」
私ではなく、細川女子がそう答えてくれた。
「ま、まさか、了解するわけないじゃないですか」
「どうかしら。明日の朝までに仕上げないとならない仕事なんでしょ?三田さんもそう言っていたわよね」
「は、はい。そうですけど」
「ここのパソコン、そんな時間まで使えないし、15階しか使えないんだから、一臣様も了解するしかないんじゃないかしらねえ」
そう言いながら、細川女史はインターホンで一臣様を呼んだ。
「細川女史か?」
「はい。ちょっとご相談がありまして」
一臣様がインターホンに出ると、秘書課にいるみんなが耳を澄まして、会話を聞こうとしているのがわかった。
「相談?」
「秘書課の上条さんなんですが」
「……上条がどうかしたか」
「今日、ほとんど自分に与えられた仕事を終わらせることができず、残業になると思うのですが」
「そ、そうか」
あ、一臣様、ちょっと声が小さくなった。
「明日までには終わらせないとならない仕事で。ですが、今日は、11時までしかパソコンが使えないので」
「ああ、メンテナンスがあるのは、今夜だったっけな」
「それで、一臣様の部屋のノートパソコンを使うわけにはいきませんか」
「ああ、いいぞ」
「え?!」
と、びっくりした声をあげたのは、三田さんだ。
いや、他の人も、あまりにも一臣様が簡単に了解したのでびっくりしているようだ。湯島さんなんか、目を丸くさせ、私のほうをじいっと見ている。
「ではのちほど、上条さんを15階に行かせますが」
「……わかった」
そう言うと一臣様はインターホンを切ってしまった。
「ですが、細川さん。15階で一人きりで残って仕事をさせるなんて、ちょっと行き過ぎかと」
湯島さんがそう言った。
「それに、お一人で一臣様のお部屋にいるなんて、そんなこと許されるんですか?15階って、樋口さんと葛西さんしか行けない階ですよね」
三田さんまでがそう言いだした。
「じゃ、どこで上条さんは仕事をするの?一臣様のノートパソコンを、持って来てもらうわけにもいかないし。それとも、あなたたちが仕事を手伝う?そうしたら、11時までには終わるかもしれないわね」
「私、手伝います!」
江古田さんが張り切って手を挙げた。でも、他の人は誰も何も言わなくなった。湯島さんや、三田さんもいきなり黙り込んでしまった。
「一臣氏がOK出したんだから、いいんじゃないの?」
いつの間にか、どこかに行っていた豊洲さんが部屋に戻って来ていて、そう言いながらスーツの上着を脱いだ。
「豊洲さんは確か今日、パソコンでの入力を頼んだはずですが、どちらに行かれていたんですか?」
「トイレ」
うそだ。…と思う。わざわざトイレに上着着て行かないと思うし。っていうか、細川女史に対して口のきき方がなってない!
バタン!
とその時、いきなりドアが開き、一臣様が現れた。
うわ。なんでかな。何で来ちゃったんだろう。なんか、顔怖いけど。
まさか、私が仕事を山ほど抱えているから、怒りに来たとか?
しん。一気に秘書課に凍り付いた空気が流れた。
「ああ。細川女史、申し訳ない」
え?一臣様が謝った?
びっくりしてみんな、一臣様のことを見て、そのあと、細川女史のことも見た。
「何がですか?」
「上条だ。今日1日、借り出しちゃって。仕事、終わらなくなっちゃったんだな?」
「はい。そうですね」
細川女史は淡々とそう答えた。うっわ~~。さすが細川女史。一臣様に対しての態度がでかい。葛西さんとはまったく違う。
「そうか。明日からは気を付ける。で、今日中に終わらせないとならない仕事なのか?や…。上条弥生」
一臣様が今度は私に聞いてきた。
「はい。このファイルの中の資料、全部エクセルで表にするんです」
「結構な量だな」
一臣様はそのファイルの中を見た。
「あの、それは明日の、資材部の会議で使う資料なんですが、資材部の本部長からの依頼で、今日中にと言われていたものです」
三田さんが、ちょっとびくつきながら、一臣様にそう言った。
「明日の会議か。何時からかわかるか?三田」
「え、はい。確か10時からだと」
「わかった。それまでに、終わらせたらいいんだな」
一臣様はそう言うと、私のほうを向き、
「行くぞ」
と一言そう言った。
「え?」
「15階。もたもたしていられないだろ。夕飯はまた、弁当でも買ってきてもらうか…。いや、何かデリバリーでも頼むか」
え?
「では、一臣様、上条さんのことは一臣様に任せてよろしいんですね?」
細川女史がそう言うと、一臣様はくるっと細川女史のほうを見て、
「ああ、面倒見る。だから、細川女史は仕事が終わったら帰っていいぞ」
とそう言って、私の腕を掴み、歩き出した。
「あ、あ、荷物。ロッカーに入ったまま」
「早く取って来い」
「はいっ」
慌てて荷物を取りに行った。一臣様は手に私のファイルを持ったまま、14階のエレベーターの前で待っていてくれた。
「すみません」
「荷物全部持ったか?もう14階には来ないぞ」
「大丈夫です」
そして、一臣様とエレベーターに乗ろうとすると、秘書課の入り口から三田さんがこっちを見ているのが見えた。
「一臣様!」
三田さんは走ってこっちまで来ると、エレベーターに乗ろうとしていた私たちを引き留め、
「わたくしも、15階に行って上条さんの手伝いをします」
と言い出した。
「え?」
なんで?さっきまで、そんなこと一言も言わなかったよね。
「上条さん一人では大変ですから。それに、上条さんお一人で残るなんて、心細いと思うし」
三田さんがそこまで言うと、一臣様は私の腕を掴みエレベーターに乗り込み、
「大丈夫だ。上条の仕事なんだし、上条が何とかする。それと、上条一人で残るわけじゃない。俺も残るから心配はいらない」
とそう言って、エレベーターのドアを閉めてしまった。
あ。
今のって、言ってよかったのかな。なんか、ドアが閉まる瞬間に、三田さんが思い切り驚いていたけど。
「一臣様」
「なんだ」
「一臣様が一緒に残るっていうことになるとですね」
「ああ」
「2人きりで一臣様の部屋にいるってことが、ばれるってことですよね」
「別にいいだろ」
「いいんですか?」
「何がダメなんだ。まあ、俺とお前が婚約しているのは伏せてあるが、そのうち発表されるんだ。だから、なんの問題もない」
え?
「でも、でもですね。発表までまだ日にちがだいぶあって」
「ああ。そうだな」
「あの三田さんって、なんか鋭いって言うか」
「何がだ」
「私から一臣様の香水の匂いがするって。なんか、勘違いしているかも」
「何の勘違いだ」
「だから、私と一臣様が」
「ああ。付き合ってるとか、恋人だとか、そういう関係だと勘違いしているってことか?」
「はい」
「いいだろ?恋人どころか、婚約者だ。2人でいちゃつこうが何しようが、かまわないだろ?」
「い、いちゃついてなんていません!」
いちゃつきたいけど。そんなムードじゃないし、いつも。
「そう思われるかもしれないって、それを心配しているんだろ?お前は」
「はい」
「いいだろ。別に。今日だって、仕事が終わったら、2人きりで部屋で抱き合うのかしら、とか思われていようが、勝手に妄想膨らまされようが、どうでもいいだろ?」
「よくないです」
「なんでだよ。いいだろ?別に」
なんで、「いいだろ?」って簡単に言うの?
「まあ、実際には抱き合うなんてありえないけどな。あ、残念だったか?期待させたか?」
「いいえ!」
なんか、だんだんと不安な気持ちが増してきた。
一臣様、言ったよね。葛西さんもアイロンかけたって。葛西さんの服がくちゃくちゃになるようなことをしたの?
2人が付き合っているようなこと、豊洲さんが言ってたよね。もしかして、堂々と付き合っていたの?部屋に葛西さんを呼んで、2人きりでいること、しょっちゅうあったんだよね。
周りで噂になっても、まあ、いいかって済ませていたの?
そういえば、上野さんとも堂々と腰に手を回して、どこかに行っちゃったっけ。
周りにいた人も、2人が付き合っていることを黙って見ていた。特に何も言わず。
今までも、そうやって、噂になろうがかまわず、仲良く付き合っていたってこと?
だから、そんなに気にしないでいるの?
駄目だ。また、悶々としてきちゃった。過去だよ、過去。もう終わったこと。
一臣様は、だって、外に女は作らないって言ってたもん。
スキャンダルになるようなことはしないって、はっきりと断言していたもん。
15階の一臣様の部屋に2人で入った。一臣様は、
「俺も、目を通す資料がたくさんあるし、お前はそこに座って、仕事していいぞ」
と、デスクを指差した。
「え?一臣様のデスク?」
「ああ。ソファだとパソコンしにくいだろ?俺がソファで書類を見るから」
そう言うと一臣様は、ネクタイを外し、
「お前も、窮屈だったら、パンプスも脱いでいいからな」
と言って、隣の部屋からスリッパを二つ持ってきた。
「それ…」
「ああ、俺のとお前のだ」
なんで二つあるんだろう。誰かが使ってた?葛西さん?
あ~~~~~~~~~~~~。もう!考えたくないよ~~!
どうにか葛西さんのことは頭から追いだし、私は仕事に集中することにした。