~その1~ また、怒られる
翌日、出社すると 部屋全体がものすご~~く張りつめた空気になっていた。すでに出社している社員は、デスクでもくもくと仕事をしていて、話をしている人も誰もいない。
なんだろう。私もそっと自分のデスクに座った。
あ、葛西さんのところに、大塚さんがいる。なんか、様子がおかしいみたいだ。
「期限は昨日ですよね。今日の午前中の会議に必要なデータです。私は大塚さんにお願いしましたよね?」
「…はい」
「それを、なんで覚えていないと言うんですか?」
大塚さんが何か失敗しちゃったのかな。
「申し訳ありません。資料のことで一臣様からお叱りを受けて、記憶が混乱してて」
「混乱していて、頼まれていた仕事を忘れたんですか?」
「も、申し訳ありません」
「あなたのパソコンにデータは入っていないんですか?まったく、手を付けなかったわけ?」
「はい。何もデータが残っていなくって」
「大塚さん!10時には会議が始まるんです!頼んできたのは、食品部の本部長ですよ。どう責任を取るつもりなの?」
「すみません」
「すみませんじゃないわよ!あなたは、移動になるからいいけど、その責任全部私が取らされるのよ?!」
うわ。怖い。葛西さん、とうとう怒鳴りだした。
「どうかなさったんですか?葛西さん」
そう言いながら、樋口さんが静かに入ってきた。
「あ…!」
葛西さんの顔が今度は青くなった。樋口さんにばれたっていうような顔をしている。
「いえ。だ、大丈夫です」
「10時からの会議がどうとかと、聞こえましたが?」
「……」
葛西さん、もしや樋口さんに知られたくなかったのかな。しらを切ろうとしたみたいだけど。
「も、申し訳ありません。実は、今日の会議で資料として使うので、エクセルで表を作ってほしいと頼まれていたものがあったのですが、大塚さんがそれを忘れてしまったらしく」
え?エクセルで表?
あ、あれ?もしかして、私が大塚さんから頼まれていたもの?!
「そのデータをそのまま、大塚さんが紛失してしまって」
「す、すみません。これですか?!」
私は慌てて自分のパソコンを開いた。エクセルで作った資料、そう言えば中途半端のままだ。
私のパソコンを覗きに、葛西さんが来た。
「そうです。これです。なぜあなたが?」
「ああ!思い出した!私、あの時忙しくて、その表を作るのを上条さんに頼んでおいたんだった」
大塚さんがいきなり大きな声をあげた。
「す、すみません!すぐに作って印字します!」
「印字はいいから、作り終えたら食品部に送信して」
葛西さんにそう言われ、私はすぐに表を作り食品部に送った。
「内線は何番ですか?」
「え?」
私が葛西さんに聞くと、葛西さんは一瞬キョトンとした顔をした。でも、葛西さんの後ろから樋口さんが番号を教えてくれた。
「食品部のどなたに直接話せばいいんでしょうか。本部長ですか?」
「部長のほうがいいですね。そのメールは食品部の部長に送られるようになっていますから」
「はい」
樋口さんにそう言われ、私はすぐに内線で部長を呼んでもらい、メールにエクセルのデータを添付して送ったことを告げた。
「届いていますでしょうか」
「今、見てみるからちょっと待ってね」
電話に出た食品部の部長は、とても優しい声でそう言った。
「ああ、ちゃんと届いた。会議には間に合うから。どうもありがとう」
「あの!本部長に謝りに行きたいのですが、今、いらっしゃいますか?」
「うん。本部長の部屋にいるよ。君は秘書課の?」
「上条と言います。昨日までの期限のものを遅れてしまって申し訳ありませんでした」
「いやいや。間に合ったからいいよ。本部長は早めに会議室に行くから、謝るならその前に来たほうがいいかもね」
そう言って、食品部長は電話を切った。
「樋口さん!私、本部長に謝りに行ってきます!」
「何を言ってるの?勝手なことしたりしないでちょうだい。謝りに行くなら私が…」
葛西さんがそう言いかけると、
「いえ。上条さんに謝って来てもらいましょう」
と樋口さんは、葛西さんの言葉を止めた。
「はい。行ってきます」
「食品部の本部長のお部屋は7階の、食品部1課の奥にありますよ」
「はいっ」
樋口さんにそう教えてもらい、私は急いでエレベーターで7階に下りた。
本部長ってどんな人かな。怖い人かな。とりあえず、私のミスだし、葛西さんや大塚さんが責任取ることにならないといいんだけどな。
会社の役職について、臼井課長からも樋口さんからも聞いたけど、15階にいるのは、社長、副社長、一臣様、専務、常務、それから監査役とか、相談役とか、そういう役員がいるそうだ。
で、本部長は各部に部屋があり、特に秘書がついているわけでもないらしい。部にいる女子社員達が会議のサポートをしたり、お客さんが来れば、お茶を出したりしているらしいが、たまにかなり相手がお偉いさんになってくると、(大手の社長や、副社長など)秘書課の秘書が、おもてなしをすることもあるんだそうだ。
で、ごくたまに、本部長が部の女子社員ではなく秘書に仕事を頼んでくることもあるらしい。
なんでだか、知らないけれど。それだけ重要なデータだからなのか。
でも、言えることはただ一つ、秘書課で頼まれる仕事がどれも、各部にとって重要でミスなんて許されないくらいのものだってことだ。
なのに、私はそれをミスしてしまったんだ。
これ、一臣様に知られたら、大目玉をくらうくらいじゃ済まないかも…。あ、血の気が今引いた。どんなに怖い本部長でも、一臣様に比べたら仏に見えるかも。
食品1課のドアの前でIDカードをかざし、中に入った。さすが営業の部署だ。電話は鳴り響き、デスクでおとなしく仕事をしている人がほとんどいない。パソコンを見ながら電話をしていたり、パソコンをしながら、資料を見ていたり。とにかくみんな忙しそうだ。
私はいくつかのパーテーションを抜け、その先の窓際にあるガラス張りの部屋にたどり着いた。ガラス張りのドアには、食品本部長室と書かれてあった。
トントン。ドアをノックした。すると、
「どうぞ」
という柔らかい優しそうな声が聞こえた。中にいる本部長の顔は、デスクで書類を見ながら答えていたので、下を向いていて見えなかった。
ガチャリ。ドアを開け、
「秘書課の上条です。失礼します」
と言って中に入った。そしてドアを閉めてすぐに、私は本部長に向かって、ぺこりとお辞儀をした。
「このたびは、申し訳ありませんでした」
「ああ。部長から会議に間に合ったという連絡が入ったよ。間に合ったんだから、大丈夫だ」
顔をあげてみると、まったく怒った表情もなく、穏やかな顔をしている50代後半くらいのちょっと頭の禿げた、ちょっと恰幅のいい、福耳のおじさんが座っていた。
仏じゃなくて、七福神。恵比寿さん、もしくは布袋さん!
「あ、ありがとうございます」
良かった~~。何か一気に気が抜けた。
「秘書課の、上条さんだっけ?新人かな?」
「はい。配属されたばかりです」
「ああ。じゃ、ちょっと会議の準備、手伝ってもらおうかな」
「はい」
本部長の名前は、恵比寿…ではなく、海老名さんだった。惜しい!恵比寿さんだったら、ぴったりの名前だったのに。
なんてバカなことを考えながら、海老名本部長の後ろを歩いて行った。
会議室は7階にもあった。ここの会議室もまた立派な会議室だ。
海老名本部長のほうが先に入り、電気をつけた。すると一つだけ、パチパチと消えそうな蛍光灯があった。
「あ!この蛍光灯、今すぐに交換した方がいいですね。私、庶務課に連絡します」
そう言って、会議室の電話から庶務課に電話をした。すると懐かしい、臼井課長の声がした。
「臼井課長ですか?!私です!上条です~~~!」
もう、何年も会っていないかもっていうくらいの勢いでそう言うと、臼井課長はわっはっはと笑い、
「どうしたんですか?何かお辛いことでも?」
と優しく聞いてきた。
うそ。心配してくれたのかな。
「いえ。7階の会議室の蛍光灯が切れそうなので交換したいのですが…。どなたか、手の空いている方、いらっしゃいますか?」
「今ねえ。庶務課には僕と、細川さんしかいないんだよ。細川さんは今、消耗品の補充をしに出ているし、他にいないんだよねえ」
「新しい人はまだなんですか?」
「来週から来るよ。2人も入ってくるんだ」
「わかりました!じゃ、私が今、取りに行きますから」
「え?取りにって?」
臼井課長がそう聞いてきたが私はすぐに電話を切り、
「本部長。今、脚立と蛍光灯を持ってきますね!まだ、会議には間に合いますか?」
と即、聞いた。
「まだ30分以上あるからね。上条さんが持って来て交換するのかい?あ、もしかすると君は、庶務課にいた蛍光灯を交換しちゃうって有名な女の子かな?」
え。有名なの?私。
「多分、そうです…。とりあえず、すぐに持ってきます!」
そう言って私は会議室を出て、急いで一階までエレベーターで下り、そのあとも大ダッシュで倉庫まで走り、臼井課長の、
「え?まさか、君が交換するのかい?」
という声に、「はい」と大きく返事をし、脚立と蛍光灯を持って7階に戻った。
「はあ、はあ」
息切れた。運動不足かも。そう言えば、最近運動していないもんなあ。
「お待たせしました」
会議室の中にはまだ、海老名本部長しかおらず、海老名本部長は自ら、プロジェクターを用意したり、ホワイトボードを動かしたりしていた。
「あ、それもあとで、私がします」
「いいよ、いいよ。いつもしていることだから」
「え?!でも、食品部の女子社員は?」
「みんな、忙しいからねえ」
「他の男性社員は?」
「忙しいから。僕が一番暇しているからねえ」
うそ。いいの?それって…。
「今、すぐに蛍光灯交換しますね」
そう言って脚立に上った。でも、脚立がぐらつきそうになり、本部長が脚立をおさえてくれた。
「すみません。すぐに終わりますから」
なんだか、申し訳なかったかなあ。
あ、そういえば、一臣様にも脚立、支えてもらったっけ。
なんて思っていると、ドン!といきなりドアが開いた。
「や、弥生?!」
え?この声?
私はちょうど古い蛍光灯を外したところで、ドアのほうを見れなかったが、声で一臣様だとわかってしまった。
「あれ?一臣君。どうしたんだい?」
「本部長。何をしているんですか?」
「何をって?」
「………」
なんか、一臣様の顔、怖いんですけど。
あ、そうか!私がミスしたことを聞いて、怒りに来たのか!
「弥生!お前、本部長に何、脚立持たせてるんだ!」
「は?!」
「ああ、いいんだよ。一臣君。上条さんは、わざわざ庶務課まで蛍光灯を取りに行って交換しているんだ。いや~、こっちこそ、申し訳ない。こんなことまでしてもらっちゃって」
「いいんです。本部長。脚立から手を離してください」
そう言って一臣様は私の横にやってきて、本部長の代わりに脚立をおさえた。
「いや。でも、一臣君にそんなことをさせるのもなあ」
「もう慣れてます。こいつの脚立をおさえるのは、これで3度目ですから」
「え?」
あ。海老名本部長の目が点になった。一臣様、そんなことをばらさなくても…。
「えっと。一臣様、新しい蛍光灯取ってもらえますか?」
そう静かに頼むと、一回ぎろっと私を睨み、一臣様は古い蛍光灯を私から受け取り、新しいのを取ってくれた。
「弥生…。いえ、秘書課の上条がミスをして迷惑をかけてしまい、申し訳ありませんでした。本部長」
「え?いやいや。それも、会議には十分間に合ったし、一臣君に謝ってもらうことじゃないよ。大丈夫だ」
「間に合ってよかったです。重要な資料だったのではないですか?秘書課に依頼されるくらいだから」
「いや。食品部の女子社員はみんな手が空いていなくって、それで、秘書課にお願いしたんだ。ああ、すまなかったなあ。秘書課もみんな忙しかったよねえ」
え?そ、それが真相?
「いえ。大丈夫です。これからも、秘書課の人間を使ってください」
「いや。悪いからいいよ。部の誰かに頼むとするよ。じゃあ、一回部屋に戻ろうかな」
そう言って本部長は会議室を出て行った。
私は話を聞いていて、つい手が止まってしまっていたが、また蛍光灯を取り付ける作業に取り掛かった。
「おい」
脚立をささえている一臣様が、怖い声でそう私を呼んだ。
怒られる?ミスったこと?
「は、はい」
こわごわ、脚立の上から見下ろすと、一臣様はなぜか私の顔を見ず、真ん前を向いている。
「あの…」
怖い。もしかしてものすごく怒っていて、今、眉間にしわでも寄せているのかな。顏、見れないからわかんないよ。
「あの本部長は俺より背が低いよな」
「はい。少し低いですね」
「すると、あれだな。もろ、お前の太ももに視線がいくな」
「へ?」
「お前、今日ずいぶんと短いスカートなんだな」
「いえ。一臣様が揃えてくれたスーツ、どれも同じ長さです。特別今日のが短いわけじゃ…」
「そうだ。どれも、膝丈よりも短い。ってことは、脚立なんかに乗ったら、太もも丸見えだよな」
「………ですね」
「お前、背伸びしてみろ」
「?」
私は言われた通り背伸びをした。
「そうやって、蛍光灯を外したよな」
「はい」
「……ちょっと俺がかがめば、パンツまで丸見えだな」
「え?!うわ!見ないでください!!!!」
私は慌てて、背伸びをするのをやめて、脚立の上に座り込んだ。
「あほ。そうやったほうが、さらに足の間からパンツが見えるぞ」
「うぎゃ~~~!!!」
焦ったからか、脚立がぐらつき、今にも倒れそうになった。でも、一臣様が冷静に私と脚立をおさえ、脚立が倒れることはなかった。
「別に俺にパンツを見られてもいいだろうが」
「よくないです!」
いいわけないでしょう~~~!!!
「いいんだよ。でも、他の男に…、それがたとえ、おっさんでもよくないだろ!」
へ?
「あのエロ爺。お前の太ももに目をやっていたぞ。もし、触られてたらどうするんだよ」
「な、ないです、そんなこと」
「わからないだろっ!脚立おさえるつもりで、間違ってお前のももをさわっちまったとか、そんな言い訳だっていくらでもできるし」
「ななな、ないです、そんなこと!どうして間違って、私のももに触っちゃうんですか?脚立と間違うわけないじゃないですか!」
「そうか?脚立がぐらついて、慌てたら、脚立よりお前の太ももに手がいくかもしれないだろ?こうやって」
一臣様は、脚立からいったん手を離すと、私のふとももにするっとも右手を滑らせた。
「きゃ?!」
そのまま、もう片方の手で私の腰を掴み、私を抱きかかえるような形になり、そのうえ太ももを触った右手は、そのままスカートの中まで入ってきそうになった。
「うわ!!!駄目!!!!」
また慌てると、脚立がぐらついた。でも、一臣様がしっかりと私を抱き留め、また脚立の揺れはおさまった。
「な?いくらでも、どうとでもなるだろ?」
「………え?」
「触ろうとしたら、いくらでも触れるんだからな。今だって、お前が脚立から落ちそうになったのを抱き留めて、その勢いでお尻だって触れているわけだし」
お尻?
うわ!一臣様の手、私のお尻にある!
「は、離してください!」
こんなところを誰かに見られたら!
「蛍光灯つけられたんだな?」
「はい」
「じゃあ、もう脚立から下りろ」
そう言って、一臣様は私を抱きかかえ、ひょいと脚立から下ろしてしまった。
あ、あれ?意外にも一臣様って、力ある?抱えてもらった時、腕に力こぶあったし。
「わかったな?」
「え?」
「もう、庶務課にいるわけじゃないんだ。こういう仕事は庶務課に任せろ」
「でも、庶務課って今、人出不足で」
「庶務課に言えば、業者がやってきて、ちゃんと蛍光灯くらいさっさと交換する!お前がでしゃばる仕事じゃない!」
「は、はいっ」
ひょえ。怒鳴られた!
「こんなミニスカート履いて、脚立なんかに上るなよ!わかったな!?」
「はい」
「…どうしても、ど~~~~しても、自分でするって言ってきかないなら」
ドキン。まさか、クビにする…とか?
「俺を呼べ」
「………は?」
「俺が脚立をささえるから、他の奴にささえさせるな」
「……」
え?
「いいか?わかったな!」
「はいっ」
いえ。よくわかっていません。本当は。どういうこと?!
一臣様は、
「脚立は倉庫に片づけておけ」
とそう言って、会議室を出て行った。
あれ?いったい、何をしに来たのかな。一臣様は。怒りに?それとも、えっと???
よくわからないまま、私は古い蛍光灯と脚立を持って、庶務課の奥の倉庫にしまいに行った。