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ビバ!政略結婚  作者: よだ ちかこ
第3章 フィアンセのいろいろな顔
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~その10~ 一臣様の怒り

 5時半を過ぎ、終業の時間になると一臣様が樋口さんと一緒に秘書課に現れた。ドアが開き、一臣様が顔を出すととたんに秘書課の空気が張りつめた。


 ちょうどその時、湯島さんと豊洲さんが外出先から戻ってきた。一臣様が秘書課にいるので、湯島さんはものすごく驚いたようだ。あ、そうか。今日の会議の資料での一連の出来事を、この二人はいなかったから知らないもんなあ。


「葛西、それから大塚」

 一臣様は、秘書課の奥の葛西さんの席まで行ってから、2人に声をかけた。葛西さんはクールな表情のままでその場に立ち、大塚さんは、わざとらしい笑顔を作って一臣様のそばまで進み出た。


 樋口さんは入り口付近に立ったまま、ぐるっと秘書課を見回して、一臣様のほうに視線を向けた。


「会議に間に合うように、資料を揃えてくれたのはよくやった」

 あれ?褒め言葉?

「とんでもございません。当然のことをしたまでです」

 大塚さんは、もっと笑顔を作り、可愛い声で一臣様にそう言った。


 だが、葛西さんは微妙に顔を引きつらせ、ドアの付近で、どうしたらいいのかわからないのか、立ちすくんでいる湯島さんも、なんだか怖がっている。

「バカだな、大塚。一臣が褒めた後は怖いのを知らないのか?」

 ぼそっと小声で囁いたのは、いつの間にか私のすぐ横に来ていた豊洲さんだ。


 え?そうなの?


「ところで、葛西。大塚に今日の資料のことを任せた後、ちゃんと確認はしたのか?」

「いいえ。申し訳ありません。15階に今日はずっといたので、すべて大塚さんに任せてありました」

「大塚は、任せられるような人間なのか?」


 その言葉で、大塚さんの顔色は変わった。だが、また笑顔を作り、

「今回は、江古田さんと上条さんが失敗したからこんなことになりましたが、今後はそのようなことがないよう、わたくしもちゃんと注意して」

と言い出した。


「なんだ?それは」

「は?」

 一臣様の顔も声も、一気に変わった。その場の空気も冷たく凍るようだ。


「お前、たいがいにしろよな!緒方商事の秘書だろ?秘書らしい態度を示せ。責任もって仕事をしろ。それができないなら、辞めちまえ!」

 うわ~~~。一臣様、怒鳴った。


 江古田さんも、湯島さんも、他の社員もみんな、その声で震えあがった。あの豊洲さんですら。

 大塚さんは笑顔のまま、顔が凍り付いている。


「なまぬるいことすんなよ!資料の内容と関係のない箇所だからって、省いてもいいと思ったのか?このページがないことに気が付かなかったら、大変なことになっていたんだ。内容よりも大事な部分だってこともわかっていないのか、この、あほが!!!!」

 ひゃ~~~~~~。


「わ、わたくしの、せい、ですか?」

 大塚さんは震えあがりながらそう聞いた。

「………はあ?」

 わあ。一臣様の顔、めちゃくちゃ怖い。片眉だけ思い切り上がってる。こめかみには血管浮き出てるし。


 大塚さんは黙り込んだ。

「バカだな、あいつ。ちゃんと謝ればいいのに」

 私の横で、また豊洲さんがぼそっとそう言った。


「葛西」

 一臣様は大塚さんのほうを見ず、葛西さんのほうを見て、

「お前、こんなやつに大事な仕事を任せていたんだぞ。とんでもないことをしていたって、思い知ったろ」

とものすごくクールな声でそう言った。


「…はい」

 葛西さんは俯いたまま頷いた。

「お前、15階には来なくてもいい。部下の指導もできないんなら、お前も秘書失格だ」

「え?!」


「俺の仕事のサポートは、他の人にしてもらう。だから、お前はここでちゃんと部下を見ていろ」

「サポートは他の人って、いったい誰が?」

 葛西さんは顔色を変え、私のほうを見た。見たというより、睨んでいる。


「……誰かなんて、お前は気にしないでいい。とにかく、15階にはもう来るな。わかったな」

 そう言うと、一臣様はちらりと大塚さんのほうを見て、

「大塚の処置は、樋口、お前に任せる」

とそう言って、秘書課の奥からドアに向かって、まだ怖いオーラを発しながら黙って歩いてきた。


 そして、私の横で止まった。

 うわ。私も何か、怒られるのかな。


「おい」

 ドキン!

「はい?!」

 声をひっくり返して返事をした。っていうか、ひっくり返っちゃったんだけど。


「お前じゃない。豊洲」

「あ、俺?何ですか?」

「今日の夜、空いてるな?」

「え…。あ、まあ。空いてるって言えば空いてる」


「付き合え。話がある」

 一臣様はそう言うと、部屋を出て行った。樋口さんはそのあと、とても静かに大塚さんのほうに寄って行き、

「話がありますので、隣の応接室に来てください」

と、これまた静かな落ち着いた声でそう言った。


「は、はい」

 大塚さんの声は消えそうだった。

 樋口さん、いつもと雰囲気が違った。静かに話すのは一緒だけど、その、静かに話す声がかえって怖さを醸し出していた。


 私にはいつも、声も表情もとても優しくて穏やかで、安心できるのに、今のはかなり、怖かった。


 もしかして、一臣様も樋口さんも、私の知らない怖い部分がきっとまだまだあるんだ。だから、今、湯島さんも、江古田さんも、他の人もがちがちにかたまって、何も言わず、震えあがっているんだな。

 あ、豊洲さんを覗いてだけど。


 豊洲さんのこの余裕はやっぱり、社長のご子息だからなのかな。緒方自動車っていったら、すごい会社だもん。そこの3男とはいえ、おぼっちゃまなんだよね。


 あ、そんなおぼっちゃまだってことは、みんな知っているのかな。江古田さんは、同期だからっていう感じで、普通に接していた。大塚さんは、なんだかいつも、媚をうっているように見えたけど。


 大塚さんが樋口さんに連れられ、秘書課を出て行くと、湯島さんはやっと自分の席に着き、くずれるようにデスクにうつっぷせた。

「は~~~~。怖かった」

 そう言ったのは、湯島さんだけじゃない。他の秘書課の社員もみんな、ほっとしながらも、まだ青ざめている。


「やっぱり、怖いな、一臣氏は」

 顔をあげて、湯島さんがそう言った。

「樋口さんも…。いつも何を考えているのかわからなくて、怖いですよね」

 そう言ったのは、江古田さんだ。


「まったくだ。忠実なロボットみたいだよね、あの人。本当に人間なの?って、たまに疑うよ」

 豊洲さんは、一人だけみんなと表情が違う。余裕の笑みまで見せ、そう言いながら自分のデスクに行った。


「それだけ、一臣様に信頼されているんですよね。それは、とても羨ましいし、そんな秘書に私もなりたいけど」

 江古田さんがそう言うと、江古田さんの前の席の人が、

「一臣様の秘書を狙っているの?無理でしょ。葛西さんですら、外されたのに」

と、江古田さんのほうを見ながら、小声で言ってきた。


「外された?」

 江古田さんが聞くと、

「そういうことでしょ。もう15階にも来るなってことは、もう俺の秘書をやめろって言われたってことじゃない」

と話を続けた。


「第2秘書だったんじゃないの?葛西さんって」

 ひそひそと、自分のデスクからまたこっちに戻ってきて、豊洲さんが聞いた。

「違うわよ。第2秘書を狙っていたみたいだけど、まだ正式に一臣様が、決めていたわけじゃなかったみたい」

「へえ。それにしては、いっつも一臣氏にくっついていたし、15階に入り浸っていたじゃん」


「それは…。あ、あんまりここで言うことじゃないから言わないけど」

「愛人?」

 ほとんど声を出さず、口だけ動かして豊洲さんが聞いた。


「そういうことは、言えないけど。単なる噂だし。あ、し~。葛西さんがこっちを睨んでる」

 そう言われ、豊洲さんは、

「あ~~~。俺、一臣氏に一緒に酒でも付き合えって誘われてるし、そろそろ退社します。お疲れ様でした」

と、そう言って上着を持って、さっさと部屋を出て行ってしまった。


 愛人?

 単なる噂だし。


 駄目だ。そこの会話がずうっと、頭の中で繰り返している。考えたくないのに。

 

 私も特に仕事がないので、パソコンの電源を切り、

「お先に失礼します」

と言って、席を立った。


「お疲れ様でした」

 隣で江古田さんが、丁寧に挨拶をしてきた。あれ?昨日とほんのちょっと態度が違うなあ。一臣様にあんなことを言われたからかな。


「江古田さんと上条さんは、どんな処分を受けるんですか?」

 いきなり、葛西さんが自分のデスクから大きな声でそう聞いてきた。

「はい?」

 びっくりして、江古田さんと同時にそう聞き返してしまった。


「一臣様に呼ばれた時、なんて言われたんですか?」

「えっと…」

 私は江古田さんと一回目を合わせ、それからしばらく黙り込んでしまった。


 なんて言えばいいんだろう。


「言えないんですか?」

 葛西さんは、クールな声で聞いてきた。

「いえ。あの…。注意を受けました」

「それだけですか?」


「はい」

 私がそう答えると、葛西さんはまた私を睨みつけ、

「そうですか」

と、視線をそらした。


「お先に失礼します」

 私はもう一回そう言って、部屋を出た。

 だが、出る時に聞こえてしまった。


「なんなの?あの人。なんか、一臣様にひいきされてない?」

「いったい、どうやって取り入ったの?」

「あんな風貌をしているくせに。一臣様の好みのタイプでもないし」

「裏で何をしたのかしらね」


 秘書課の女性陣の声だ。


 怖いなあ。あんなふうに私のこと見ていたんだなあ。

 少し、いやかなり、ガックリ来ながら、私はロッカー室に行った。そして携帯を見ると、一臣様からメールが届いていた。


>豊洲と飲む。お前も来い。一階のロビーにいろ。

 それだけのメール。一臣様らしいと言えば、らしいけど。


「なんだか、メールって言うより、電報?」

 チチキトク。スグカエレ。みたいな…。


 ああ、それで思い出した。母の死を。あの時も父から、こんな感じのメールが来たっけなあ。


 私は、塾に行っていた。母は一度、危篤状態になったけど持ち直し、もう大丈夫と医者から言われていて、父からも、私や兄たちに、もう大丈夫だから、学校に行きなさいと言われていた。


 学校から帰り、塾に行った。中学3年にあがったばかりで、それまで学習塾になんて通わなかったのに、受験のために塾に行きなさいと言われて、行き出した。


 携帯は持って行った。塾に着いてすぐ、教室で私の携帯が鳴った。

>母、亡くなる。病院に来なさい。


 信じられない文章だった。

 そのメールは兄たちや葉月にも同時に送信されていた。


 私はどうしていいかわからず、如月お兄様に電話した。兄は一回家に帰りなさい。卯月が家で葉月とお前を待っているから、とそう言った。


 父のメールは、まるで電報みたいだったよね、とお葬式のあと、卯月お兄様が言った。如月お兄様は、

「父さん、気が動転してて、長い文章は打てなかったんだよ。だから、あんな文になったんだ」

と教えてくれた。


 母の死に目に会えなかったのは、悲しかった。でも、母は一人で死んだわけじゃない。父がそばにいた。父は、医者から大丈夫だと言われても、ずっと母のそばにいた。


 突然の異変。そして、あまりにもあっけなく心臓が停止したと父は言っていた。

 母はそんなに苦しむこともなく、異変が起きてからは意識もなく、この世を去っていったよと。

 そして異変が起こる前に、父に、幸せだったとそう言っていたよと。

 

 私はしばらく泣けなかった。卯月お兄様と葉月は泣いていた。葉月は、母の死がショックだったようで、すがりつくように病室で泣いた。


 それを見て、私は泣けなかった。葉月の背中を撫でるので精一杯だった。

 

 如月お兄様も泣かなかった。母が死んでから、ずうっと涙を見せなかった。葬儀の間中、兄は父よりもしゃんとしていた。

 父のほうが、魂の抜け殻のようになってしまっていて、如月お兄様はきっと、自分だけはしゃんとしていないとと思ったんだろう。


 そんな兄を見ていて、やっぱり私も泣けなかった。

 ずうっとずうっと、泣かなかった兄は、お墓に母の骨を納骨するとき、はじめて泣いた。

 お墓にすがりつくようにして泣いた。


 私はその姿を見て、一緒に泣いた。2人で、わんわん泣いた。崩れるようにして泣いた。

 そんな私たちの背中を優しく撫でてくれたのは、父や卯月お兄様や、葉月だった。


 私はその時、家族の絆を感じた。

 私が傷ついている時には、家族の誰かが私を支えてくれて、家族の誰かが傷ついている時、私が支えるんだ。


 母の死は、悲しかったけれど、より家族の絆を深めてくれた。



 そんなことを思い出しながら、私は一階のロビーに行った。

 ロビーのソファには、豊洲さんだけがいて、

「ああ。やっと来た。でも、一臣はまだ来てないよ」

と、待ちくたびれたっていう顔をしてそう言った。


「良かった。まだだったんですね」

「何がいいもんか。樋口氏が来て、今日は弥生様もご一緒されます。もう少しお待ちくださいって言って来たけど、待たせ過ぎだよ!」

 せっかちなのかな、この人は。


「あれ?樋口さんが来たんですか?じゃあ、もう大塚さんとの話は終わったんでしょうか」

「だろ?」

「……早いんですね」

「クビ!で、おしまいじゃないの?」


「え!?大塚さん、クビ?まさか!」

「じゃ、移動。そんだけのことをしでかしたんだろ。それに、なんか処分でもくださないとさ、示しがつかないだろうし」

「示し?」


「他の奴への示し」

「え、でも…」

「あのさあ。のほほ~~んとしているようだから、言っておくけど」

「はい」


「一臣って、怖いよ」

「え?」

「一臣だけじゃない。社長も副社長も、あの樋口さんも」

「…どういうことですか?」


「あまり、人を人と思っていない。平気でばっさり切り捨てることができる、そういう人間だ」

「そ、それだけではないと思います」

「そうかなあ。君さ、庶務課にいたんだよね。君が入る前の庶務課の人間が、ほんのちょっとしたことで、一臣に辞めさせられたの知ってる?」


「その話は聞きました」

 川口さんのことだよね。

「そう。それまでも、一臣は怖がられていたけど、そうは言っても、単なるわがままなボンボンくらいに思われていたんだよね。それがあの一件から、わがままだけじゃなく、横暴でかなりのワンマンだと言われるようにもなったし、一臣を怒らせたら怖いってんで、みんな、相当一臣を怖がるようになったよ」


 え~~~~!!真実は違うのに!その川口って人は…。

 でも、そこは絶対に漏らしてはいけない、極秘のことなんだよね。


「豊洲さんは平気なんですか?一臣様が怖くないんですか?」

「俺?うん。怖くないね。別にクビになってもいいしさ。って言っても、できないよ、あいつには」

「なぜですか?」

「俺の親父がそんなこと許さないからさ」


「……」

 そうなのかな?

「さすがに一臣だって、緒方自動車の社長にははむかえないでしょ」

 そうかなあ。この人、一臣様をきっと思いっきり誤解していると思うんだけど。


 あ、そうか。誤解か。わかっていないんだ、きっと、一臣様の本当の姿は。

 じゃあ、この人が言っていることは、真に受けないでもいいってことなのかな。

 



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