~その10~ 一臣様の怒り
5時半を過ぎ、終業の時間になると一臣様が樋口さんと一緒に秘書課に現れた。ドアが開き、一臣様が顔を出すととたんに秘書課の空気が張りつめた。
ちょうどその時、湯島さんと豊洲さんが外出先から戻ってきた。一臣様が秘書課にいるので、湯島さんはものすごく驚いたようだ。あ、そうか。今日の会議の資料での一連の出来事を、この二人はいなかったから知らないもんなあ。
「葛西、それから大塚」
一臣様は、秘書課の奥の葛西さんの席まで行ってから、2人に声をかけた。葛西さんはクールな表情のままでその場に立ち、大塚さんは、わざとらしい笑顔を作って一臣様のそばまで進み出た。
樋口さんは入り口付近に立ったまま、ぐるっと秘書課を見回して、一臣様のほうに視線を向けた。
「会議に間に合うように、資料を揃えてくれたのはよくやった」
あれ?褒め言葉?
「とんでもございません。当然のことをしたまでです」
大塚さんは、もっと笑顔を作り、可愛い声で一臣様にそう言った。
だが、葛西さんは微妙に顔を引きつらせ、ドアの付近で、どうしたらいいのかわからないのか、立ちすくんでいる湯島さんも、なんだか怖がっている。
「バカだな、大塚。一臣が褒めた後は怖いのを知らないのか?」
ぼそっと小声で囁いたのは、いつの間にか私のすぐ横に来ていた豊洲さんだ。
え?そうなの?
「ところで、葛西。大塚に今日の資料のことを任せた後、ちゃんと確認はしたのか?」
「いいえ。申し訳ありません。15階に今日はずっといたので、すべて大塚さんに任せてありました」
「大塚は、任せられるような人間なのか?」
その言葉で、大塚さんの顔色は変わった。だが、また笑顔を作り、
「今回は、江古田さんと上条さんが失敗したからこんなことになりましたが、今後はそのようなことがないよう、わたくしもちゃんと注意して」
と言い出した。
「なんだ?それは」
「は?」
一臣様の顔も声も、一気に変わった。その場の空気も冷たく凍るようだ。
「お前、たいがいにしろよな!緒方商事の秘書だろ?秘書らしい態度を示せ。責任もって仕事をしろ。それができないなら、辞めちまえ!」
うわ~~~。一臣様、怒鳴った。
江古田さんも、湯島さんも、他の社員もみんな、その声で震えあがった。あの豊洲さんですら。
大塚さんは笑顔のまま、顔が凍り付いている。
「なまぬるいことすんなよ!資料の内容と関係のない箇所だからって、省いてもいいと思ったのか?このページがないことに気が付かなかったら、大変なことになっていたんだ。内容よりも大事な部分だってこともわかっていないのか、この、あほが!!!!」
ひゃ~~~~~~。
「わ、わたくしの、せい、ですか?」
大塚さんは震えあがりながらそう聞いた。
「………はあ?」
わあ。一臣様の顔、めちゃくちゃ怖い。片眉だけ思い切り上がってる。こめかみには血管浮き出てるし。
大塚さんは黙り込んだ。
「バカだな、あいつ。ちゃんと謝ればいいのに」
私の横で、また豊洲さんがぼそっとそう言った。
「葛西」
一臣様は大塚さんのほうを見ず、葛西さんのほうを見て、
「お前、こんなやつに大事な仕事を任せていたんだぞ。とんでもないことをしていたって、思い知ったろ」
とものすごくクールな声でそう言った。
「…はい」
葛西さんは俯いたまま頷いた。
「お前、15階には来なくてもいい。部下の指導もできないんなら、お前も秘書失格だ」
「え?!」
「俺の仕事のサポートは、他の人にしてもらう。だから、お前はここでちゃんと部下を見ていろ」
「サポートは他の人って、いったい誰が?」
葛西さんは顔色を変え、私のほうを見た。見たというより、睨んでいる。
「……誰かなんて、お前は気にしないでいい。とにかく、15階にはもう来るな。わかったな」
そう言うと、一臣様はちらりと大塚さんのほうを見て、
「大塚の処置は、樋口、お前に任せる」
とそう言って、秘書課の奥からドアに向かって、まだ怖いオーラを発しながら黙って歩いてきた。
そして、私の横で止まった。
うわ。私も何か、怒られるのかな。
「おい」
ドキン!
「はい?!」
声をひっくり返して返事をした。っていうか、ひっくり返っちゃったんだけど。
「お前じゃない。豊洲」
「あ、俺?何ですか?」
「今日の夜、空いてるな?」
「え…。あ、まあ。空いてるって言えば空いてる」
「付き合え。話がある」
一臣様はそう言うと、部屋を出て行った。樋口さんはそのあと、とても静かに大塚さんのほうに寄って行き、
「話がありますので、隣の応接室に来てください」
と、これまた静かな落ち着いた声でそう言った。
「は、はい」
大塚さんの声は消えそうだった。
樋口さん、いつもと雰囲気が違った。静かに話すのは一緒だけど、その、静かに話す声がかえって怖さを醸し出していた。
私にはいつも、声も表情もとても優しくて穏やかで、安心できるのに、今のはかなり、怖かった。
もしかして、一臣様も樋口さんも、私の知らない怖い部分がきっとまだまだあるんだ。だから、今、湯島さんも、江古田さんも、他の人もがちがちにかたまって、何も言わず、震えあがっているんだな。
あ、豊洲さんを覗いてだけど。
豊洲さんのこの余裕はやっぱり、社長のご子息だからなのかな。緒方自動車っていったら、すごい会社だもん。そこの3男とはいえ、おぼっちゃまなんだよね。
あ、そんなおぼっちゃまだってことは、みんな知っているのかな。江古田さんは、同期だからっていう感じで、普通に接していた。大塚さんは、なんだかいつも、媚をうっているように見えたけど。
大塚さんが樋口さんに連れられ、秘書課を出て行くと、湯島さんはやっと自分の席に着き、くずれるようにデスクにうつっぷせた。
「は~~~~。怖かった」
そう言ったのは、湯島さんだけじゃない。他の秘書課の社員もみんな、ほっとしながらも、まだ青ざめている。
「やっぱり、怖いな、一臣氏は」
顔をあげて、湯島さんがそう言った。
「樋口さんも…。いつも何を考えているのかわからなくて、怖いですよね」
そう言ったのは、江古田さんだ。
「まったくだ。忠実なロボットみたいだよね、あの人。本当に人間なの?って、たまに疑うよ」
豊洲さんは、一人だけみんなと表情が違う。余裕の笑みまで見せ、そう言いながら自分のデスクに行った。
「それだけ、一臣様に信頼されているんですよね。それは、とても羨ましいし、そんな秘書に私もなりたいけど」
江古田さんがそう言うと、江古田さんの前の席の人が、
「一臣様の秘書を狙っているの?無理でしょ。葛西さんですら、外されたのに」
と、江古田さんのほうを見ながら、小声で言ってきた。
「外された?」
江古田さんが聞くと、
「そういうことでしょ。もう15階にも来るなってことは、もう俺の秘書をやめろって言われたってことじゃない」
と話を続けた。
「第2秘書だったんじゃないの?葛西さんって」
ひそひそと、自分のデスクからまたこっちに戻ってきて、豊洲さんが聞いた。
「違うわよ。第2秘書を狙っていたみたいだけど、まだ正式に一臣様が、決めていたわけじゃなかったみたい」
「へえ。それにしては、いっつも一臣氏にくっついていたし、15階に入り浸っていたじゃん」
「それは…。あ、あんまりここで言うことじゃないから言わないけど」
「愛人?」
ほとんど声を出さず、口だけ動かして豊洲さんが聞いた。
「そういうことは、言えないけど。単なる噂だし。あ、し~。葛西さんがこっちを睨んでる」
そう言われ、豊洲さんは、
「あ~~~。俺、一臣氏に一緒に酒でも付き合えって誘われてるし、そろそろ退社します。お疲れ様でした」
と、そう言って上着を持って、さっさと部屋を出て行ってしまった。
愛人?
単なる噂だし。
駄目だ。そこの会話がずうっと、頭の中で繰り返している。考えたくないのに。
私も特に仕事がないので、パソコンの電源を切り、
「お先に失礼します」
と言って、席を立った。
「お疲れ様でした」
隣で江古田さんが、丁寧に挨拶をしてきた。あれ?昨日とほんのちょっと態度が違うなあ。一臣様にあんなことを言われたからかな。
「江古田さんと上条さんは、どんな処分を受けるんですか?」
いきなり、葛西さんが自分のデスクから大きな声でそう聞いてきた。
「はい?」
びっくりして、江古田さんと同時にそう聞き返してしまった。
「一臣様に呼ばれた時、なんて言われたんですか?」
「えっと…」
私は江古田さんと一回目を合わせ、それからしばらく黙り込んでしまった。
なんて言えばいいんだろう。
「言えないんですか?」
葛西さんは、クールな声で聞いてきた。
「いえ。あの…。注意を受けました」
「それだけですか?」
「はい」
私がそう答えると、葛西さんはまた私を睨みつけ、
「そうですか」
と、視線をそらした。
「お先に失礼します」
私はもう一回そう言って、部屋を出た。
だが、出る時に聞こえてしまった。
「なんなの?あの人。なんか、一臣様にひいきされてない?」
「いったい、どうやって取り入ったの?」
「あんな風貌をしているくせに。一臣様の好みのタイプでもないし」
「裏で何をしたのかしらね」
秘書課の女性陣の声だ。
怖いなあ。あんなふうに私のこと見ていたんだなあ。
少し、いやかなり、ガックリ来ながら、私はロッカー室に行った。そして携帯を見ると、一臣様からメールが届いていた。
>豊洲と飲む。お前も来い。一階のロビーにいろ。
それだけのメール。一臣様らしいと言えば、らしいけど。
「なんだか、メールって言うより、電報?」
チチキトク。スグカエレ。みたいな…。
ああ、それで思い出した。母の死を。あの時も父から、こんな感じのメールが来たっけなあ。
私は、塾に行っていた。母は一度、危篤状態になったけど持ち直し、もう大丈夫と医者から言われていて、父からも、私や兄たちに、もう大丈夫だから、学校に行きなさいと言われていた。
学校から帰り、塾に行った。中学3年にあがったばかりで、それまで学習塾になんて通わなかったのに、受験のために塾に行きなさいと言われて、行き出した。
携帯は持って行った。塾に着いてすぐ、教室で私の携帯が鳴った。
>母、亡くなる。病院に来なさい。
信じられない文章だった。
そのメールは兄たちや葉月にも同時に送信されていた。
私はどうしていいかわからず、如月お兄様に電話した。兄は一回家に帰りなさい。卯月が家で葉月とお前を待っているから、とそう言った。
父のメールは、まるで電報みたいだったよね、とお葬式のあと、卯月お兄様が言った。如月お兄様は、
「父さん、気が動転してて、長い文章は打てなかったんだよ。だから、あんな文になったんだ」
と教えてくれた。
母の死に目に会えなかったのは、悲しかった。でも、母は一人で死んだわけじゃない。父がそばにいた。父は、医者から大丈夫だと言われても、ずっと母のそばにいた。
突然の異変。そして、あまりにもあっけなく心臓が停止したと父は言っていた。
母はそんなに苦しむこともなく、異変が起きてからは意識もなく、この世を去っていったよと。
そして異変が起こる前に、父に、幸せだったとそう言っていたよと。
私はしばらく泣けなかった。卯月お兄様と葉月は泣いていた。葉月は、母の死がショックだったようで、すがりつくように病室で泣いた。
それを見て、私は泣けなかった。葉月の背中を撫でるので精一杯だった。
如月お兄様も泣かなかった。母が死んでから、ずうっと涙を見せなかった。葬儀の間中、兄は父よりもしゃんとしていた。
父のほうが、魂の抜け殻のようになってしまっていて、如月お兄様はきっと、自分だけはしゃんとしていないとと思ったんだろう。
そんな兄を見ていて、やっぱり私も泣けなかった。
ずうっとずうっと、泣かなかった兄は、お墓に母の骨を納骨するとき、はじめて泣いた。
お墓にすがりつくようにして泣いた。
私はその姿を見て、一緒に泣いた。2人で、わんわん泣いた。崩れるようにして泣いた。
そんな私たちの背中を優しく撫でてくれたのは、父や卯月お兄様や、葉月だった。
私はその時、家族の絆を感じた。
私が傷ついている時には、家族の誰かが私を支えてくれて、家族の誰かが傷ついている時、私が支えるんだ。
母の死は、悲しかったけれど、より家族の絆を深めてくれた。
そんなことを思い出しながら、私は一階のロビーに行った。
ロビーのソファには、豊洲さんだけがいて、
「ああ。やっと来た。でも、一臣はまだ来てないよ」
と、待ちくたびれたっていう顔をしてそう言った。
「良かった。まだだったんですね」
「何がいいもんか。樋口氏が来て、今日は弥生様もご一緒されます。もう少しお待ちくださいって言って来たけど、待たせ過ぎだよ!」
せっかちなのかな、この人は。
「あれ?樋口さんが来たんですか?じゃあ、もう大塚さんとの話は終わったんでしょうか」
「だろ?」
「……早いんですね」
「クビ!で、おしまいじゃないの?」
「え!?大塚さん、クビ?まさか!」
「じゃ、移動。そんだけのことをしでかしたんだろ。それに、なんか処分でもくださないとさ、示しがつかないだろうし」
「示し?」
「他の奴への示し」
「え、でも…」
「あのさあ。のほほ~~んとしているようだから、言っておくけど」
「はい」
「一臣って、怖いよ」
「え?」
「一臣だけじゃない。社長も副社長も、あの樋口さんも」
「…どういうことですか?」
「あまり、人を人と思っていない。平気でばっさり切り捨てることができる、そういう人間だ」
「そ、それだけではないと思います」
「そうかなあ。君さ、庶務課にいたんだよね。君が入る前の庶務課の人間が、ほんのちょっとしたことで、一臣に辞めさせられたの知ってる?」
「その話は聞きました」
川口さんのことだよね。
「そう。それまでも、一臣は怖がられていたけど、そうは言っても、単なるわがままなボンボンくらいに思われていたんだよね。それがあの一件から、わがままだけじゃなく、横暴でかなりのワンマンだと言われるようにもなったし、一臣を怒らせたら怖いってんで、みんな、相当一臣を怖がるようになったよ」
え~~~~!!真実は違うのに!その川口って人は…。
でも、そこは絶対に漏らしてはいけない、極秘のことなんだよね。
「豊洲さんは平気なんですか?一臣様が怖くないんですか?」
「俺?うん。怖くないね。別にクビになってもいいしさ。って言っても、できないよ、あいつには」
「なぜですか?」
「俺の親父がそんなこと許さないからさ」
「……」
そうなのかな?
「さすがに一臣だって、緒方自動車の社長にははむかえないでしょ」
そうかなあ。この人、一臣様をきっと思いっきり誤解していると思うんだけど。
あ、そうか。誤解か。わかっていないんだ、きっと、一臣様の本当の姿は。
じゃあ、この人が言っていることは、真に受けないでもいいってことなのかな。