~その8~ 会えない日々
翌日から、しばらく一臣様は緒方財閥の企業を回りだし、緒方商事のオフィスにいることが少なくなった。おかげで、一臣様に全く会えない日もあった。
ついて回りたい気持ちでいっぱいだったが、あの葛西さんですら連れて行っていないし、そんなこと申し出ることはできなかった。一臣様もついて来いと言ってくれなかったし。
私は大人しく渡されたファイルを見ていた。だが、それ以外には特に仕事を与えてもらえず、それどころか、どこか葛西さんに冷たく無視されている気もしないでもなかった。
そして、大塚さんは葛西さんとは逆で、私にやたらと嫌味を言って来た。
「ねえ、この前15階に行って、仕事していたのよね?上条さん」
「はい」
「なんだってまた、いきなり新人のあなたが15階になんて行けるわけ?」
「え?」
「庶務課から秘書課に配属されたのだって、絶対に不思議。私、覚えてるわよ。電気交換に来て、一臣様に怒られた人でしょ?即クビになるかと思ったら、秘書課に配属なんて、何をしたの?社長にでも取り入ったの?」
5時半を過ぎ、仕事をみんなが終えて行く中で、大塚さんは私のデスクの前に来て、そんな話をずっとしている。
葛西さんにだって聞こえているだろうけど、注意もしないし、まったくの無視だ。
そこに、外に出ていた豊洲さんが帰ってきた。
「あ!おかえりなさい。お疲れ様でした」
うっわ~~~。大塚さんの豹変ぶりが、すごく怖かった。これが、豊洲さんの言っていた怖さなのかな。
「ただいま。あ~~、疲れた」
「何か冷たい飲み物、買って来ましょうか?」
大塚さんは、首をかしげてそう聞いた。さっきと別人のようだ。
「ああ、いいよ、いいよ。ペットボトルの水、買ってきたから」
豊洲さんはそう言って、水を取り出してゴクゴク飲むと、
「弥生ちゃん、まだ仕事?」
と突然聞いてきた。
「え?いえ。もう終わります」
ファイルも見終わっちゃたしな。他に仕事与えられていないし。聞いても、葛西さんは「特に仕事はないわ」と言うだけだし。
「じゃあさ、ちょっと俺の仕事手伝ってよ。聞いたよ。前に経理の仕事もしていたんでしょ?」
「はい」
「これこれ。交際費とかさあ、交通費とかの書類の提出しないとならないんだよね。面倒くさくってさあ。あ、こういうのって、庶務課で仕事してた?」
「いえ。こういうのはしていなかったです」
「こういうのも、知っておいた方がいいと思うよ?」
「鉄工所にいる時、任されていました。だから、わかります」
「そうなんだ!さすがだなあ、弥生ちゃんは使えるね」
それ、褒め言葉?そう言えば、一臣様も言っていたっけ。
大塚さんは明らかにわかるくらい、私のことを怖い顔で睨みつけ、そして、
「お先に失礼します」
と言って、部屋を出て行った。
「こわ…」
豊洲さんが小声で言うと、
「大丈夫?上条さん」
と、なぜか、あの怖い江古田さんが心配そうに声をかけてくれた。
「え?はい」
「大塚さん、ねちっこいでしょ。私も去年しばらく言われたのよ。海外事業部からどうやって、秘書課に来たのかって。ほんと、しつこいから、睨みを切らして、仕事中ですから、私語はやめてくださいって言ってやったの。意外とこっちが強気で出ると、弱くなるから。一回、ガンと言った方がいいわよ」
あれ?江古田さんって、一見怖そうだけど、そうでもない?
「江古田だから言えるんだろ?弥生ちゃんには無理だ」
「どうして?こういうのはちゃんと言うべきよ。自分で言わないと、誰も助けてくれないわよ」
江古田さんはそう言ってから、ものすごく声を潜め、
「ここの人たち、冷たい人ばかりだから。なにしろ、上司の葛西さんが超クールだし」
とそう囁いた。
「……」
そうなんだ。私にだけクールなわけじゃないんだ。それはそれで、ホッとしたような、でも、複雑な心境。
一臣様、そんなクールな人たちに囲まれて仕事をしているのって、どうなのかなあ。あ、そうか。一臣様の前では、冷たくないのかもしれないな。
「弥生ちゃん、今日一緒にご飯食べようよ」
豊洲さんの交際費の書類を書き終えると、豊洲さんがそう言ってきた。
「駄目です。まっすぐに帰ります」
「え~~~。おごるからさ。秘書課で絶対に歓迎会なんてしてくれなさそうだし、2人だけでしようよ、歓迎会」
「む、無理です。すみません、帰ります」
「前の会社でもそんなに付き合い悪かったの?」
「いえ。そんなことは、ないですけど…。でも…」
絶対に一臣様に知られたら、怒られる。だいいちこの人、私が一臣様のフィアンセだって知ってるくせに。それにこの人にも、フィアンセがいるくせに。
「あ!江古田さんもご一緒にどうですか?」
3人なら、いいかも!
「私はまだ仕事があるの。お二人でどうぞ」
「ほら。そういうことだからさ。2人で行こう」
「無理です。豊洲さん、桔梗さんに怒られますよ」
「まさか。歓迎会だよ?そのくらい大目に見てくれるさ」
「私のほうが怒られます。雷、落ちます。多分」
「かず…。おっと。君のあれだ。彼氏に?」
今、一臣様の名前出しそうになったんだな。
「上条さんに彼氏なんているの?!」
江古田さんがものすごい驚いている。そんなに、驚くことかなあ。
「いるんだよ。そいつ、他の男と飯食ってるだけで、怒るわけ?」
「多分」
「怒んないだろ。そのくらいで」
「……」
そうなのかな。あれ?怒らないのかな?
久世君の場合は、久世君が怪しいから怒っていただけか。他には、トミーさんの時には、婚約破棄みたいなことを兄が言っていたから怒っていただけだし。
じゃあ、私が他の男性と二人でご飯食べていても、怒ったりしないのかな。妬いたりもしてくれないのかもしれない。
それに、この豊洲さんには、私の補佐をしてくれって頼んでいたくらいだし。
う~~~~ん。ここは、どうしたら?
「えっと」
誰かに相談する?樋口さん…。ダメか。じゃあ、じゃあ?
「決まり!行こう。怒ったりしないさ。歓迎会なんだからさ」
豊洲さんは私の肩に手を回し、
「お先!」
と江古田さんに言って、私を連れて部屋を出た。
「あ、あの、私、ロッカーにカバン取りに行かないと」
「あ、そうか。ロッカーに入れてあるのか。じゃ、一階のロビーで待ってるよ」
「はあ」
私はやっぱり、不安になってきて、ロッカー室で携帯を開き、樋口さんにメールをした。すると、すぐに電話がかかってきた。
「弥生様。今日のところはまっすぐにお帰りになる方がよろしいかと思います」
なんて素早い対応。素早い返事。
「わかりました」
「特に男性と二人きりと言うのは、これから先、お断りしてください。一臣様も今、スキャンダルなことはしないように注意されていますし、弥生様も、どこでどなたが見ているかわかりませんので、そういうことは一切しないようにしてください」
「あ。そうですよね!私、また軽はずみなことをするところでした。豊洲さんには断って、すぐに帰ります」
「はい。等々力さんが待っていますので、車を正面玄関に回してもらって、お帰り下さい」
「はい。ありがとうございました」
携帯を切って、私はロッカー室を出た。やっぱり聞いてよかった。もし、行っていたら、一臣様に怒られるどころか、ものすごい迷惑をかけていたかもしれないんだ。
今は一臣様も、注意されているみたいだし、私も気を付けよう。勝手な行動は一切しないようにしよう。
一階に行くと、ロビーの椅子に腰かけ、豊洲さんが待っていた。
「豊洲さん」
「ああ、弥生ちゃん。何食べたい?好きなものでいいよ」
「やはり、帰ります」
「え?なんで?」
「私、今、勝手な行動をすると、緒方財閥に大変な迷惑をかけてしまうんです」
「え?」
「一臣様も、注意しているみたいなので、私も気を付けることにしました。なので、これで帰ります。お疲れ様でした」
「まさか、それ、本気で言ってる?」
「はい?」
「一臣が何を注意してるって?」
「ですから、スキャンダルなことにならないようにって」
「ああ。そっか。まあ、そうかもね。でも、表向きだよ」
「表向き?」
「君さあ、もしかして、何も知らないの?そんなことないよね。一応一臣のこと、知ってて結婚するんだよね?」
ああ。もしかして、如月お兄様が言っていたようなこと?
「それ、兄から聞きました。でも、一臣様、スキャンダルになるようなことは、一切しないって、そうはっきりと言っていました」
「……ははは」
何で豊洲さん、笑ったの?
「弥生ちゃん、こっちこっち」
手招きをするので近づくと、思い切り顔を寄せて豊洲さんはひそひそと耳元で話しだした。
「あのね、目立つところではしないだろうけど、あいつには絶対に秘密にできる場所があるんだよ」
「え?」
「隠れ家っていうかさあ、女といちゃつくならもってこいの場所。どこかわかる?」
「え?」
「オフィス。15階って、役員しか行けないところだよ。それも、一臣の部屋って、はっきり言って、樋口さんと葛西さんだけでしょ?入れるの」
「……それ、どういう意味ですか?」
「つまり、そう言う意味。これは忠告。後で知って、君がショックを受けないように」
付き合っていたってこと?葛西さんと?そう言いたいの?
それとも、今も、続いているって、そう言いたいの?
人の目につくところでは、一切スキャンダルになるようなことはしないけど、一目に絶対につかないところなら、今もしているってこと?
そんなわけない。そんなわけ…。だって、ちゃんと兄の前で言っていたし、私にも外で愛人は作らないって言っていたし。
私は、一臣様の言葉を信じるもの。
呆然としながら、正面玄関の前に止まっていた等々力さんの車に乗った。
「弥生様?具合でも悪いんですか?」
「いいえ。大丈夫です」
「そうですか…。あ、もしかすると、ずっと一臣様に会えていないからですか?」
「ご存じなんですか?」
「はい。わたくしも会っていませんからねえ。一臣様は最近、遠くに行かれることが多いようで、朝も早いですし、帰りも遅いですよ」
「一臣様、大丈夫でしょうか。また、不眠症になっていなければよろしいんですけど」
「それでしたら…」
明るくそう言ったので、一臣様の不眠症が治ったのかと思ったら、
「前から不眠症でしたので、前と変わりないかと…」
と等々力さんは、そう続けた。
「え?」
「ですが、そうですね。一臣様もきっと、早くに弥生様にお会いしたいと思っていると思いますよ?」
等々力さん、それ、私を励ましてくれた?
「ありがとうございます」
そう言うと、等々力さんは、ショパンをかけてくれた。
一臣様の好きなショパンだ。
ああ、私は琴の練習をしっかりしないと。一臣様の誕生日パーティで演奏するんだから。
それを思いだし、どうにか気持ちを切り替えた。
琴の練習は、きついことはなかった。逆に琴の音は、私の心を癒してくれた。
琴を練習するときには、必ず着物も着た。不思議と着物を着ると、気持ちまでしゃんとしてきた。
大丈夫。一臣様を信じよう。
そう思って、琴の練習に私は集中した。
着付けの特訓の成果もすぐに出た。私は一人で着物を着れるようになっていた。
一臣様の誕生日まで、あと2週間余り。それまでに、琴の演奏、完璧にするぞ!そう意気込みながら、その日は布団に入った。
だからなのか、なかなか寝付くことはできなかった。
翌日。今日も一臣様は、外回りだろうか。なにしろ、その日のスケジュールは会社に行かないと、私には知らされないので、会えるのか会えないのかがわからない。
一臣様のスケジュール管理は、樋口さんと葛西さんだけで、他の人は事前に知ることが許されていないのだ。
私ですら…。
私って、私って、フィアンセだよね?
やっぱり、ちゃんと発表されるまでは、婚約者として見てもらえないのかな。誰からも。
そんな暗い気持ちで車に乗り、会社に向かった。
あ、そうだ。等々力さんなら、今日のスケジュールを知っているかも。
「あの、今日は一臣様は?」
「今日ですか?朝は早かったですから、また遠出をするのではないでしょうか」
「……そうですか」
がっかりだ。
いったい、いつになったら会えるんだろう。メールや電話をしてもいいのだろうか。一臣様からは、メールも電話もないけれど、私からするのは、失礼にあたるのかなあ。
だって、用事も何もないわけだし。
会社に着き、秘書課に行くと、葛西さんが大塚さんに何やら事細かく指示を出しているところだった。
「では、よろしくお願いします」
そう言うと、葛西さんは大きな手帳やファイルを持って、秘書課を出て行った。
あ、もしかして、15階で一臣様とスケジュールの打ち合わせ?!一臣様、今日はこのビルにいるの?
そう思ったら、ほんのちょっとテンションがあがった。そしてそれと同時に、一臣様に会いに行く葛西さんが羨ましくなり、2人きりであの部屋にいるのかと思うと、胸がギュっとした。
不安だ。
こんな不安は初めてかもしれない。
あ~~。ダメダメ!仕事だよ。今日はしっかりと、仕事を与えてもらわないと。
「大塚さん」
「はい?」
私はちょっと強気になりながら、大塚さんに、
「私は今日、なんの仕事をしたらよろしいですか?」
と聞いた。
「葛西さんからの指示は?」
「何もないです」
「ファイル見ておけって」
「もう、すべて読みました」
「そう。じゃあねえ…」
大塚さんは小悪魔的な微笑を浮かべると、
「今日の午後の会議で使う資料、プリントアウトしてくれますか?」
と言ってきた。
「はい。わかりました」
ちゃんとした仕事で、私はまたテンションがあがった。
大塚さんから渡されたUSBメモリーをパソコンに差し込み、言われた通りにファイルを開きプリントアウトをした。枚数もちゃんと確認し、それをすぐに、大塚さんに渡した。
「仕事早いわね。ちゃんと枚数確認したの?」
「はい。きちんとしました」
「そう。じゃあ、次の仕事は…。封筒開けね。今度は失敗しないでちょうだいね」
そう言われ、ドサッと封筒を手渡され、私はそれを持って、席に戻った。
一つずつ宛名も、差出人も確認して封を開けた。中には、一臣様宛で、女性の個人名の封書もあり、それを見てもものすごく気になってしまった。
う…。我慢我慢。個人名でも、どこかの取引先の人かもしれないし。
それらの仕事を終わらせると、
「エクセル使える?この表を作って欲しいんだけど」
と新たな仕事を頼まれ、それを終わらせると、
「この書類、午前中に全部、ファックスして」
と、ドンとデスクに書類の束を重ねられた。
なんか、今日はやたらと仕事がある。暇よりも嬉しいけど。
私はそれらを注意深く、相手先を間違えないように送った。
そんなこんなであっという間にお昼になった。
肩の凝りをほぐしながら、秘書課を出て、お弁当を持ってビルの6階に行った。6階には社員食堂があり、その食堂の横にはカフェテラスもあって、そこから外のガーデンテラスにも出られた。
緑に覆われたベンチが並び、ここはなかなかの気持ちのいいところで、私はそこでお弁当を食べている。
庶務課にいた時は知らなかった。ここを教えてくれたのは、江古田さんだ。
「は~~~。外気持ちいいな」
なにしろ、ずうっとデスクにいるからなあ。
このベンチ、人がいないのはやっぱり、外が暑いからかな。まだ5月だと言うのに、太陽の日差しはしっかり夏って感じだもんなあ。
「はあ」
またため息が出た。
「食べて元気になろう。もしかしたら、今日は一臣様に会える可能性だってあるんだし」
そう言って、私はお弁当を食べだした。
食べ終わり、ロッカー室に戻ろうとすると、江古田さんに会った。
「あ、江古田さんはどこで食べていたんですか?」
「社員食堂よ。あなたは今日もお弁当?」
「はい。私が作ろうとしたんですけど、今日も祖母が作ってくれてしまって」
「お母様は?」
「中学の時に亡くなりました」
「あ、そうなんだ。ごめんなさい」
「いいえ」
そんな会話をしながら、ロッカー室を出て、庶務課に戻った。すると、大塚さんが慌てた感じでやってきて、
「江古田さん。これ、大至急閉じてくれないかな。午後の会議の資料なの。会議が早まったらしくって、私、他の急な仕事があって、できないものだから」
と江古田さんに話しかけた。
「はい、わかりました」
江古田さんはハキハキと答えて、その書類の束を受け取った。あ、私がプリントアウトしたものだ。それを大塚さんがコビーしたんだな。
「あの、私も暇ですから、手伝います」
そう江古田さんに言うと、
「あなたには、これをやってほしいの。さっき、エクセルで表を作るの早かったでしょ?これも作ってくれる?これも、急ぎなのよ」
と、大塚さんに仕事を頼まれた。
「はい、わかりました」
私は頼まれた仕事を黙々とやった。隣りでは江古田さんがたくさんある資料をテキパキとホチキスで止めて行き、あっという間に作業を終わらせた。
「ありがとう。助かったわ。あ、会議があと30分で始まる。急いで江古田さんと上条さん、これを10階の大会議室に持って行ってくれる?」
「はい」
大塚さんにそう言われ、私はいったん、エクセルで表を作るのを止め、ログオフにして江古田さんと秘書課を出た。
書類の束は、一人だと持ちきれなかった。
「さすがですね。これだけの書類を一人だけで、あの短時間でまとめちゃうなんて」
そう言うと、江古田さんは、
「でも、いつもなら、中の確認までちゃんとするんだけどね。その時間がなかったわ」
とそう、答えた。
「枚数とかですか?」
「あと、ちゃんと順番通りになっているかとか。もう、大塚さんを信じるしかないわよね、こういうのって」
「そうですよね」
そんな会話をしながら、10階の会議室に入って行き、私たちは資料を並べて秘書課に帰った。
「お疲れ様でした」
やけに大塚さんの笑顔が、わざとらしかった。それに、気が付いたときに、ちゃんとチェックすればよかった。ううん。もっと早くに勘ぐればよかった。
だけど、私も江古田さんも、そこまで人を疑うことを知らない人間だったのだ。