~その6~ 秘書課の豊洲さん
会議が終わって、樋口さんと会議室を出た。すると、そこには会議室の片づけをするために、葛西さんが待っていた。
「上条さん」
「はい」
「お仕事の方で、一臣様のサポートをされるんですね」
「え?」
「今は秘書のお勉強をなさっているとか」
いつの間に、そんな情報を?
「青山さんから聞きました」
え?青山さんって、確か社長の秘書の。
すると、どこからともなく、青山ゆかりさんが現れた。
「初めまして、社長の秘書をしている青山です。今後ともよろしくお願いします、弥生様」
あ、私に挨拶?うわ。近くで見ても綺麗だし、スタイル抜群で色っぽい。
「は、はい。よろしくお願いします」
私は緊張しながら、ぺこりとお辞儀をした。
青山さんはにこりと微笑み、会議室から出てきた一臣様に何か話しかけ、そのあと、社長のもとに駆け寄った。
社長は私をちらりと見た。私は慌ててぺこりとお辞儀をしたが、顔をあげるとすでに社長は背中を向け、廊下を青山さんと歩いて行ってしまっていた。
なんだ。話しかけられるかとも思ったんだけどな。自意識過剰だったかな。
「弥生」
一臣様が声をかけてきた。するとその横に、葛西さんがなぜかぴたりと寄り添った。
なんでかなあ。ちょっと嫌だなあ。
「会議のメモは取ったか?」
「あ、すみません。一言一句聞き逃さないように、メモを取らずに聞いていたので取っていません」
「そうか。それで、聞いていてどうだった?」
「えっと。あの、ここではちょっと」
周りに重役の人がいて、私が話しづらそうにしていると、
「ああ、じゃあ夜だ。夜に話を聞く。お前はいったん、秘書課に戻れ。あとのことは葛西、頼んだぞ。こいつの面倒をちゃんと見てくれよな」
と一臣様はそう言って、樋口さんと廊下を歩いて行ってしまった。
ポツン。私は葛西さんと取り残された。
「秘書の仕事を教えますので、一気に覚えてください」
葛西さんは、また敬語に戻っている。15階に行った時には、怖い顔で話しかけて来たのに、今は顔も冷静だ。
葛西さんのあとを歩きながら、秘書課に戻った。それから、葛西さんは私のデスクに、ドンとファイルを何冊も置き、
「こちらを読んでください。わからないことがあれば、わたくしか大塚に聞いてください」
とそう言って、自分のデスクに戻ってしまった。
うそ。それだけ?
ファイル、数えたら7冊あった。これを全部見ろっていうことだよね。
椅子に腰かけ、私は一つずつファイルを開いてみた。時計を見ると、もうすぐ5時だ。こんな時間に、こんな大量のファイルを渡されてしまったのか。
これ、全部見終えないと、帰れないのかな。だとしたら、一臣様が夜って言っていたけど、一臣様には会うことができないってことかな。
いけない。今は、こっちのファイルに集中。早くに秘書の仕事を覚えないといけないんだった。でも、さっきの会議でものすごく集中していたから、脳みそが疲れてしまっている。半分も文章が入ってこない。
「15階に行かれていたんですか」
いきなり、隣の人が聞いてきた。江古田さんだったっけ?
「はい」
「なんでまた、新人のあなたが、15階に?私は一度も行ったことがないと言うのに」
そんなことを言われても、困ってしまう。
「江古田さん、私語は謹んで。仕事の邪魔はなさらないように」
すぐに、葛西さんが注意をしてきた。
「はい」
江古田さんは、すぐにパソコンのほうに目をやり、仕事に戻ったようだ。
なんだ。葛西さんは、誰にでも厳しいのかもな。
それからは、ファイルを見るのに集中した。
「お先に失礼します」
次々に秘書課の人たちは帰って行き、逆に外回りをしていた男性社員が帰ってきた。
「あれ?君誰?」
私がファイルを必死に見ていると、横から声をかけてきた人がいた。
「え?」
顔をあげると見かけない若い男性社員。
「ああ、今日から秘書課に移動になった、上条さんだよ。ほら、庶務課にいた」
そう湯島さんがその人に私を紹介した。
「ああ!庶務課の変な人!え?その人がなんでまた、秘書課に!?」
変な人って言った?今。
「人事異動。庶務課から秘書課に移動なんて、異例中の異例。なんかあるんでしょ?ねえ?上条さん」
大塚さんがそう口を挟んできた。そして、若い男性社員に向かって、可愛い笑顔で、
「豊洲さん、もう帰ります?一緒に帰りませんか?」
とそう聞いた。
「ああ、まだ仕事があるんですよ。すみません。お疲れ様でした」
「……お疲れ様です。豊洲さんはお仕事熱心ですね」
また、可愛らしく大塚さんは微笑み、そして秘書課を出て行った。
「怖いなあ、彼女」
豊洲さんが突然そう言った。
「女は化けるって言うけど、俺がいない時、彼女態度変わっているんだろうなあ」
豊洲さんがそう話を続けると、それを聞いていた湯島さんが、
「変わってるよ。でも、それでもまだ、何百も、猫をかぶっていると思うけどね」
と、小声で言って、
「さ、僕は仕事終わっているから、もうこれで失礼するよ。お先」
と部屋を出て行った。
秘書課には、私、江古田さん、豊洲さん、そして葛西さんだけが残った。
し~ん。みんな、仕事に熱中しているから、とても静かだ。そんな中、葛西さんのデスクのインターホンが鳴った。
「葛西?いるのか」
うわ!一臣様の声だ。声だけでわかっちゃう。当たり前か。今、胸が高鳴っちゃったよ。
「はい。何か御用ですか?」
すぐに葛西さんが返答した。
「言い忘れていたが、I物産との会食は、相手側の都合で来週になったからな。お前ももう帰っていいぞ」
「はい、かしこまりました。一回、15階に顔は出さなくてもよろしいですか?」
「ああ。特に用事はない。まだ他の奴は残っているのか?」
「はい。数人…」
「そうか。樋口もいるし、たまには早くに帰っていいぞ」
「はい。ありがとうございます。お疲れ様でした」
そう言うと、なぜか小さな溜息を葛西さんはすると、デスクの上を片づけだした。
「わたくしは先に帰らせていただきます。あなたたちもキリのいいところで終わらせてください」
「はい」
私以外の人が、返事をした。私はどこがキリのいいところかわからず、それを聞こうとしたが、目が合ったというのに、葛西さんに思い切り無視をされてしまった。
「お先に」
葛西さんは、そう言うと、さっさと部屋を出て行った。
「今日は、ふられたな、彼女」
豊洲さんが小声でそう呟いた。すると、それを聞いていた江古田さんが、
「やめなさいよ、豊洲さん。すぐにそうやって、勘ぐるけど、一臣様と葛西さんはそんな関係ではないと思うわ」
ときつい口調で言った。
え?一臣様と葛西さん?
「どうだか。I物産との会食だって、なんだって葛西さんが行く必要があるんだ?あれは、帰りに2人でとこかに行くか、それかもともと、I物産との会食なんてなかったかのどっちかじゃないのか?」
「豊洲さん!ここに何にも知らない新人さんがいるのよ。変なこと言って本気にしたらどうするの?もうやめたら?」
う…。そうだよ。変なこと言わないでよ。けっこう、気になるっていうか、そういうのを聞くと今、落ち込んじゃうんだから。
「名前、なんだっけ?上条さんだっけ?」
「はい」
「俺は豊洲浩介。25歳。一臣氏とは同じ学年だ。で、江古田さんとは同期になる」
「そうなんですか」
「…上条何さん?」
「弥生です」
「へえ。可愛い名前だね」
もしかして、けっこうな遊び人?そういえば、着ているスーツも、なんだかオシャレというか、格好つけてるっていうか。
「それ、何?さっきから見ているファイル」
「え?これは、葛西さんに目を通すようにと言われたもので」
「ああ。秘書の心得みたいな?そんなもん、真面目に読んでるの?俺も秘書課に入って来た時に、目を通せとは言われたけど、見たことないよ」
え?そうなの?みんな、読んでいるものではないの?
「私はちゃんと見ましたよ」
江古田さんはそう言った。ああ、さすがだ。この人だけは、他の秘書の人とは違う感じがする。着ているスーツも、髪型も、化粧も。
他の人たち、なんか派手だもん。きらびやかにしているし、スーツまで華やかで。葛西さんは違っているけど。
「弥生ちゃんの歓迎会開かない?それを決めに、今日どっか、飲みに行かない?」
「は?」
なんで、そうなる?
「仕事あるんですよね?豊洲さん」
江古田さんがそう言うと、豊洲さんはようやくパソコンを見た。
「あ~~~あ。面倒くさいよなあ。秘書課。俺、秘書課になんで配属になったのかな。本当は営業とか、企画開発とか、そういう部署に行きたかったよ」
「文句言わないの。秘書なんてなかなかなれないのよ」
江古田さんがまた、きつい口調で言った。そうか。同期だから、こんなにバンバン言い合っているのか。
「江古田は、秘書課希望だったんだっけ?でも、最初は海外事業部に配属されたよな?」
「ええ。1年だけ。そのあと、秘書課に移って来たけど」
「不思議な経路だね。あ、弥生ちゃんもか。庶務課から秘書課は、相当な出世だよ。いったい、どうやって秘書課に来たわけ?色目?一臣氏に気にいられた?」
「……いいえ」
なんか、この人、嫌かも。無視してファイルに集中しよう。
「さて。私は終わったわ。それじゃ、お先に」
江古田さんはそう言うと、さっさとパソコンを閉じて部屋を出て行ってしまった。
あ、あれ?いきなり仕事おしまい?っていうか、まずい。このナンパな人と二人きりだ。
どうしよう。このファイルっていつまでに見たらいいの?今日はもう終わりにしていい?でも、残っていたほうがいい?
それより、夜にまたって、一臣様言っていたけど、それはどうなの?
「弥生ちゃん。夜食でも食べない?」
「いえ。お腹空いていませんから」
グ~~~~。
ああ!なんてタイミングでお腹が鳴るんだ!!いつもながら、絶妙すぎるでしょ。少しは考えて鳴ってよ。
「お腹減ってるじゃん。なんか、食べに行かない?それから仕事したらいいじゃん。ね?」
「いえ。もう少し、していきますから。お一人でどうぞ」
「冷たいなあ。弥生ちゃんって、上条グループのご令嬢の弥生ちゃんでしょ?」
「え?」
「俺、大学一緒だったんだけど。知らない?覚えていないかな」
「ええ?!」
「一臣の先輩。会社では一応、緒方さんとかって呼んでいるけどさ、大学ではあっちのほうが、後輩だったんだよね」
「……え。それで、あの。なんで私のこと知っているんですか?」
「……。まあ、いろいろと?」
いろいろとって?
とその時、
「開けるぞ」
いきなり、秘書課のドアを開け、一臣様が入ってきた。
「なんだ。まだ残っていたんだ」
私に言ってるんじゃないよね?豊洲さんのほうを見ているし。
「邪魔だった?俺」
「いや。ちょうどいい。樋口から、浩介がいいんじゃないかって提案があったところだった」
「何?俺が何?」
「浩介さあ、秘書課の仕事しながら、他の仕事もしない?」
「ダブルワーク?なんだってまた、俺が」
「ダブルワークじゃなくて…。いずれは、秘書課をやめて、こっちに本腰を入れてほしいって思っているんだけどな」
「何?秘書より面白い?」
「多分」
「へえ。一応聞いてから、返事していいか?」
「ああ」
なんか、仲のいい友達って雰囲気だな。大学の先輩っていうだけあって、この豊洲さんは一臣様に対して、まったく媚びることもないし、同等な感じで話している。
あ、それに、年は一緒なんだもんね。一臣様は留学していて、1年大学遅れて入ったし。
「こいつ、弥生だってもう知ってるか?」
「知ってるよ。名前教えてもらってすぐにぴんと来た。で、一臣と婚約したから、秘書課に移動になったわけ?」
「ああ、そうだ。秘書の仕事を覚えてもらっている」
「それ、秘密にしないとならないこと?」
「秘書課で知っているのは、樋口と葛西だけだ」
「葛西さん、知ってんの?へえ」
「……」
一臣様は一瞬、ぎろっと豊洲さんを睨んでから、
「弥生は秘書の仕事より、俺の仕事の補佐を将来はしてもらうつもりだ」
と話を続けた。
「補佐?」
「ああ。こいつ、なんかすげえんだ」
「へえ。すげえって、何が?」
「…うまく言えない。でも、今日の会議で集まった常務やら専務より、ずっと使える」
使えるって…。褒めてもらっているのかなあ。
「ふうん。そうなんだ」
豊洲さん、なんだか面白がってる?
「それで、浩介。お前も弥生のアドバイザーっていうか、補佐になってくんない?」
「俺が、弥生ちゃんの補佐?」
「そうだ。……お前、弥生を名前で呼んでいるのか?」
「いいだろ?友達のフィアンセなんだからさ」
「いつ、俺とお前が友達になった。上司と部下だろうが」
「今は違うだろ?友達としての頼みじゃないの?」
「上司としての、相談だ」
「ふ~~~ん。ま、いいよ。よくわかんないけど、秘書の仕事、面白くないし、そっちのほうが楽しそうだもんな。弥生ちゃんとも仲良くなれるし」
「物好きだな、お前。だいたい、お前にもフィアンセいるだろ?」
今、物好きって言った?よね…。ちょっとショック。
「あ~~~~~。フィアンセっていうか、腐れ縁っていうか」
「フィアンセの方がいらっしゃるんですか?」
良かった~~。それなら、私、そんなに構えることないよね?
「大学時代からの付き合いの子だよな?俺らと違って、親同志が決めたわけじゃない。本人同士が決めた婚約者だ。だよな?」
「そうだよ」
「そろそろ結婚しないのか?」
「まだ、結婚資金も溜まってないよ。親に出させようとしたら、自分で稼げって言われたからな」
「大変だな。お前もいろいろと。お前の親変わっているしな」
「?」
私がきょとんとしていると、
「こいつは、緒方自動車の社長の息子だよ。と言っても3男で、緒方自動車の社長を引き継ぐわけでもないし、勝手に自分で職に就けと、親から見放されている息子なんだ」
と一臣様が説明してくれた。
「おい。一臣。そう言うと、語弊があるだろ。見放されているわけじゃない。自分の力を試せって言われたんだ」
「そうだったな。で、結局自分の力だけじゃ就職できず、俺や親父に泣きついて、緒方商事に入ってきたんだよな」
「……まあ、そう言われたら、そうなんだが」
なんだ。そうだったんだ。あ、じゃあ、緒方財閥の一族の人なんだな。一臣様とも大学だけじゃなく、もっと交流があったのかもしれない。
「でも、親父はお前のこと気に入ってる。仕事もできるやつだって、そう信頼もしている。だから、緒方商事に入れたんだ。それも、秘書課に。いずれは俺の片腕にって思っているのかもしれないしな」
「俺を?」
「親父は信頼できるやつしか、俺の身近には置かない。まあ、秘書課には信頼できるか怪しい奴もいるが、お前は親父が秘書課に入れた人間だから、信頼されているってことだ」
「初耳だな」
「その片腕になるお前だったら、俺も信頼できるからな。やってくれるよな?」
「いいよ。弥生ちゃんのそばにいられるんだろ?楽しそうじゃん」
「だから!弥生のって言うよりは、俺の補佐だ。変に弥生に近づいたりちょっかいだしたら、奥さんに言いつけるからな。お前の奥さん、怖いんだろ?」
「奥さんじゃないよ、まだ」
「でも、言いつける。名前なんだっけ?なんか、花みたいな名前」
「桔梗だ」
「ああ、そうそう。難しい名前だよな。なかなか覚えられない」
「簡単だろ?」
「桔梗さんっていうんですか。素敵なお名前ですね」
「だろ?なのにこいつは、全然覚えないんだ。いっつも聞いてくる」
「女の名前を覚えるのは苦手なんだよ」
「じゃあ、弥生ちゃんの名前は?」
「…弥生は覚えやすいだろ?暦と同じだし、簡単だ」
「……でもお前、付き合ってた女いっぱいいたけど、ほとんど覚えていないだろ?それにいつも、名字で呼んでいたよな?名前でなくって」
「だから、覚えるのが苦手だって言ってるだろ?」
うそ。付き合ってた女の人を苗字で?あ、そういえば、祐さんが、私の名前を一臣様が呼んでて、珍しいって言っていたっけ。
「秘書課の女性の名前は?わかってるのか?」
「ああ。苗字はな」
「下の名前だよ。大塚は?」
「…さあ?聞いたこともないし、わからないな」
「大塚は、真歩だろ?大塚真歩。たまに酔うと自分のこと、真歩ちゃんって呼んでるかなり危ない奴だよ」
「へえ。全く知らないな。一緒に飲んだこともないし、興味もない」
そ、そうなんだ。一臣様、大塚さんには興味ないんだ。ちょっとだけ、ホっとした。
「葛西さんは?」
「葛西?ん~~~~。前に聞いたことはあるが、忘れたな」
「葛西尚美だろ?一臣、付き合っていたんだから、そのくらい覚えておけよ」
「え?」
今、なんて?
葛西さんと、一臣様が付き合っていた?
「おい。勝手なことを言うな」
私の顔を見てから、一臣様が睨むような目で豊洲さんを見た。
「あ、悪い。ごめん、弥生ちゃん。聞かなかったことにしてくれ、な?」
豊洲さんの必死な弁解が、逆に私を落ち込ませた。
一臣様は無言になり、そのあと、
「仕事終わらせろ。夕飯食いに行くぞ」
と、私にかなり冷たくそう言った。
「はい」
返事をしたつもりだったが、声にならなかった。ああ、頭の上にまた、岩が。
ドスンドスンドスン。
一臣様の本命は、もしかすると上野さんじゃなくって、葛西さんなの?