~その4~ 一臣様のお城
父が帰って行ってから、私はお茶を片づけに行こうと応接室を出ようとした。だが、一臣様に呼び止められた。
「弥生」
「はい…?」
ちょっと怖い顔している。あ、もしかして、あれかな。私が一目ぼれなんてしたから、婚約する羽目になっちゃって、怒っているのかな。
「あの…?」
「まあ、また今度ちゃんと話す」
「えっと?何か怒っていますか?もしかして、私が一臣様に一目ぼれしたことを怒っていますか?」
恐る恐る聞いてみた。
すると一臣様は、こっちをぎらっと睨み、
「ああ、そうだな。お前が俺に一目ぼれなんかしなかったら、お前と婚約する羽目にはならなかったからな」
といつもの俺様口調でそう言い放った。
「すみません」
深く頭を下げると、
「まあ、いい。上条氏は俺とお前の婚約をどうするかはわからなかったが、親父はお前と婚約させたがったと思うしな」
と、優しい声になった。
「え?」
「緒方財閥のためにな。念のため他の婚約者の候補を、今日調べてみたんだ。そうしたら、上条グル―プが一番、緒方財閥に利益を盛たらす会社だったってことがわかったからな」
念のためって、なんの「念のため」?
「だから、お前が俺に惚れていようがいなかろうが、婚約することになっていた、どの道な」
「………じゃあ、あの」
「なんだ」
「私って、ものすごく幸せなんじゃ」
「なんでだ」
「だって…。どっち道、一臣様と婚約することになっていたなら、その婚約者を好きになれたってことは、すごく幸せ者なんじゃないかって、ふと、今思って」
「…そうだろうな。ものすごく幸せでめでたい人間だよな」
めでたい?
「良かったな。お前にとっては俺が相手で」
「はい。一臣様で本当に良かったって思います」
「……本当にそうだな」
一臣様は独り言のようにぼそっとそう言ってから、どこか遠くを見た。
「あの?」
「あ、ああ。なんでもない。もう、下がっていいぞ」
「はい。失礼します」
私はお茶碗を乗せたお盆を持ち、応接室を出た。それらを洗って片づけてから、秘書課に戻ると、秘書課の人たちがいっせいにこっちを睨んだ。
「遅いわね。お茶を出すのに何時間かかっているの?」
大塚さん、特に目つきが怖い。
「すみませんでした。あの…」
まさか、父が来てて、なんて言えないし、ここはどうしたら。
ガチャリ。その時、秘書課のドアが開き、樋口さんが入ってきた。
樋口さんだ。う。思わず、助けを求めるところだった。いけない。自分でここは、なんとか切り抜けないと。
「上条さん。先ほどは、こちらの仕事をいろいろとサポートしていただき、ありがとうございました」
突然樋口さんが私にそう言って来た。
「え?はい」
サポート?あ、父のことかなあ、もしかして。
「樋口さんから仕事を何か、頼まれていたんですか?」
大塚さんがそう私に聞いた。
「そうです。上条さんが秘書課に戻るのが遅くなったのは、私の仕事を手伝ってもらっていたからですが、何かその間に問題でもありましたか」
私の代わりに樋口さんが答えてくれた。
「いえ。何もないです。すみません」
大塚さんは可愛い笑みを浮かべてそう言うと、自分の席にと戻って行った。
ああ、さすがだ、樋口さん。ちゃんとフォローしてくれたんだ!
「上条さん」
「はい?」
樋口さんがまた、私を呼んだ。
「何か仕事は、葛西さんから指示されていますか?」
「いえ…。あ、大塚さんから聞くようにと」
「そうですか。では、大塚さんは葛西さんから何か指示を受けていますか?」
「それが、特には。樋口さん、上条さんはまったくの秘書の仕事は新人ですよね。何からしてもらったらいいでしょうか。さきほども、上条さんは失敗をしてしまって、一臣様にお叱りを受けたばかりで」
「…では、午後から会議がありますから、その手伝いをしていただきましょう。上条さん、午後の会議は重役会議なので、資料も厳重に扱わないとならないものです。ですからこれから、15階に移って仕事をしていただきます」
「はい、わかりました!」
私は、樋口さんのあとを意気揚々とついて行った。15階に樋口さんと行くと、樋口さんはフカフカの絨毯の廊下を進み、
「ここです」
と言って、ドアに自分のIDカードをかざした。
ドアから中に入ると、そこは受付のようになっていた。デスクには葛西さんが座っていて、その横には、黒い布張りのソファと、ピカピカに磨かれた黒光りしているテーブルが置いてあり、デスクの後ろには、大きな棚があり、たくさんのファイルや本が並んでいる。
そして、その部屋の奥に、もう一部屋。見るからにお偉いさんが中にいるんだろうなって言う感じの、重厚そうな扉。こちらの部屋と向こうの部屋の間にある壁は、かなり厚そうだし、もしかすると、その部屋は防音の部屋かもしれないっていうのがわかるくらい、重々しそうな雰囲気が漂っている。
「上条さん、何か用事ですか?」
怪訝そうな顔で葛西さんが言った。
「え、あの…」
「樋口さん、なぜ上条さんのような秘書課の新人を、15階に連れて来たんですか?」
「午後の会議の資料は、こちらにありますか?」
「いいえ。ちゃんと一臣様のお部屋に入れてあります」
「一臣様は、お部屋にいらっしゃいますか?」
「はい、お戻りになられました」
え?っていうことは、あの、重厚そうな作りのドアの向こうに、一臣様のお部屋があるってこと?!
樋口さんは、デスクの上にあったスピーカーのようなものに向かって、
「樋口です」
とそう告げた。
「入れ」
一臣様のこもった声が、そのスピーカーから聞こえた。あ、これって、インターホーンかな。
「失礼します」
ドアを開け、樋口さんが中に入った。私もそのあとに続こうとしたら、思い切り腕を葛西さんに引っ張られた。
「痛い…」
「あなた、何しているの」
「え?」
「一臣様のお部屋には、私と樋口さん以外の秘書は入れないのよ。そもそも、この階に来れるのも、私と樋口さんだけ」
ものすごい怖い顔で睨みながら、そう葛西さんは言った。
「あ、そうなんですか?すみません。知らなかったもので」
ドアは私の前でパタンと閉まった。私はそのドアの前で、どうしたらいいかわからず、呆然としてしまった。
「なんで樋口さんは、あなたなんかを15階に連れて来たの。あ、何かしでかして、あなた、一臣様に怒られたわよね?まだ、許してもらえていないの?あ、まさか、樋口さんまで巻き込んでいるんじゃないでしょうね」
「いえ。あれはもう、解決しているっていうか、終わっています。ちゃんと」
「じゃあ、なぜ」
「仕事を樋口さんが、私に…」
「え?」
「午後の会議の資料の手伝いをしてほしいと言っていたので…」
「午後の会議は、重役会議なの。その資料をまったくの新人に任せるわけないじゃないのよ」
葛西さんの顔、もっと怖くなった。
その時、ガチャリとドアが開き、
「上条さん、これが会議の資料です。これは、15階からはもう、会議まで持ち出せませんので、ここで目を通していただけますか」
と樋口さんが私に言った。
「樋口さん?なぜ、上条さんがその資料を?」
「重役会議には、上条さんも出席していただくので」
「なぜですか?わたくしですらその会議には、中に入ることは許させていません。樋口さんだけではないですか、許されているのは」
ガチャリ。
「あ、一臣様」
葛西さんが一臣様を見た。
「樋口さんが、わかのわからないことを申しております」
「ああ、上条には午後の会議に出てもらう。そのために、資料に目を通してもらうが…」
一臣様は、クールな口調でそう言うと、
「中に入れ」
と私のほうに向かってそう言った。
「は?一臣様?なぜ、上条さんを?」
「説明は後だ。俺もまだ、目を通さないとならない資料がたくさんある。葛西は、14階の会議室にプロジェクターを用意しておけ」
「ですが」
葛西さんが何か言おうとしたが、一臣様は無視して樋口さんに向かって話しかけた。
「樋口、上条氏をちゃんと、送って行ったか?」
「はい。エントランスまでお送りました」
「車は?ちゃんと呼んだんだろうな」
「それが、寄るところがあるので、結構ですと断られまして」
「……そうか。まさかと思うが、電車で帰ったりしないよな?弥生」
「え。えっと、父はたまに、電車を使うことも…」
「そうか。上条グループの社長の行動はお前と同じくらい計り知れないな。まあ、いい。樋口、昼飯もここで食うことになりそうだ。何か用意してくれ。あ、弥生は弁当でも持って来てあるのか」
「いえ。今日は何も…」
「じゃあ、樋口、弥生の分も頼む」
「かしこまりました」
樋口さんはそう言うと、さっさと受付を出て行った。
でも、葛西さんはまだ、目を見開いたまま、立ちすくんでいる。
「葛西、14階の会議室に行けと言ったはずだが?」
「か、上条さんって言うのは、まさか、上条グループの」
「え?」
「樋口さんが送られたのは、上条グループの社長ですよね?」
「そうだ。午前中にお見えになっていた。お前がアポを受けたんだから、そんなことはわかっていただろう?」
「その…。そちらの上条さんは、まさか、上条グループの?」
「ああ、そうだ。ご令嬢だ。俺の婚約者だ」
「………」
う…。葛西さんの目が、スローモーションのように徐々に見開いていった。そして、怖いくらい、大きな目をして、私を見ている。
「葛西。早く会議室だ。それが終わったら、休憩にしていいから」
「……はい」
「弥生、お前はここで会議まで缶詰だ。あと、2時間しかない」
「え?」
「資料、全部に目を通せ。かなりあるぞ」
「は、はい」
私は慌てて一臣様と一緒に部屋に入った。
「うわ」
一臣様のお部屋は、やっぱり、一臣様のコロンがした。
「あ!まずい。言い忘れた」
突然、一臣様はそう言うと、部屋を一目散に出て行ってしまった。
「何かな?」
わからないけど、どれが会議の資料かもわからず、勝手に触っても怒られるだろうから、一臣様が戻られるのを待つことにした。
その間に、私は部屋を見回した。部屋は予想を超えるくらい広かった。大きな窓、その前には大きなデスク。その前には応接セット。大きな3人掛けくらいのソファと、長細い低めのテーブルが置いてある。そのテーブルの手前には、一人がけのソファが二つ。
壁際にはずらりと棚が並び、本、ファイル、そしてお酒の瓶も並んでいる。
それに、大きめのスピーカーやテレビも棚に置いてある。
そして、反対側の壁には、大きな絵が飾ってあり、低めのチェストの上には、コーヒーメーカーとポットが置いてある。その奥にあるのは、小さめの冷蔵庫。黒くてモダンなデザインだ。
どことなく、色合いや雰囲気は、お屋敷の一臣様の部屋に似ている。
もう一つ奥に部屋があるようで、ドアが開いていたので覗いてみた。あ。洗面台だ。
それに、シャワールームだよね、あれ。シャワーもここで浴びれるのか。ガラス張りのシャワールームなんて、外から丸見え。っていっても、こっちの部屋には窓がないから、誰にも見られることはないんだな。
バスローブやバスタオルがかかっていて、その横に小さめの個室。あ、多分、トイレ。
それに、クローゼットもかなり大きめ。中に何が入っているかわからないけれど、もう、ここに住めちゃうかもっていう雰囲気だ。
そうか。この部屋に来たら、なんでも揃っちゃっていて、朝、ここでくつろいで、コーヒーを飲むことも、朝食をのんびりと食べることもできるんだなあ。だから、お屋敷でわざわざ、コーヒー飲んだり、朝ご飯を食べたりしないのかもしれない。
自分のオフィスで仮眠することもあるって、前に言っていたっけ。この、大きなソファで寝ているのかな。
ガチャリ。
「弥生?」
一臣様の声がして、私はシャワールームのある部屋から、隣の部屋に顔を出した。
「あ、なんだ。部屋を勝手に覗いていたのか」
「すみません。ドアが開いていたから」
「まあ、いい。で、どうだ?俺のオフィスは」
「すごいですね。あのガラス張りのシャワールームとか、すごくかっこいい」
「俺がシャワー浴びている時、覗くなよ」
「覗きません!」
「それから、お前もそこは使っていいぞ。トイレもあるし、ここは便利だぞ」
「ですよね。すごいですね…」
「ああ、俺の城みたいなもんだ」
「……」
私は黙って部屋をもう一回見まわした。
「一臣様のお部屋よりも、ちゃんと整頓されていますね」
「一応職場だからな」
「お客さんが来られることもあるんですか?」
「まだないな」
「整頓は一臣様が?几帳面なんですね」
「いや。樋口と葛西に任せてある」
「葛西さん?」
ああ、思い出した。この部屋は葛西さんと樋口さんしか入れないって。
「秘書課では葛西さんと樋口さんしか、ここには入れないんですか?」
「そうだ。あの二人しか15階に来るカードキーは持っていない」
「……」
なんか、今、すごく複雑な気持ちになった。
葛西さんはこの部屋に自由に出入りできて、一臣様の身の回りの世話をしたり、この部屋を綺麗にしたりしているんだ。
ううん。もしかすると、もっと、いろいろと…。
……。駄目だ!今、思い切り変な想像をするところだった。
まさか、葛西さんもあのシャワールーム使ったのかなとか、一臣様がシャワールームを使っている時に、覗いたりしたのかなとか。
まさか、一緒にシャワー浴びるようなことが…。
だ、だ、駄目だ。なんつう妄想をしているんだ。なんか、血の気が下がってきた。なんか、くらくらする。貧血?
「葛西にはちゃんと秘密にするように言ってあるから安心しろ」
突然、私がくらくらしていると、一臣様が話しかけてきた。
「え?!なな、何をですか?!何を秘密?!」
やっぱり、秘密にするようなことをお二人はしていたってこと?!
「お前が上条グループの令嬢で、俺の婚約者だってことをだ。他の連中が知ったら、ややこしいだろ」
「あ、はい」
そ、そのことか。ああ、びっくりした。
「あ、でも、葛西さんにはなんで、ばらしちゃったんですか?」
「そっちのほうが、あれこれ詮索されずに済んで、面倒くさくないだろ?」
「……はあ」
詮索?
「さて。昼飯が来るまで、仕事に専念するぞ」
「あ、はい」
私はソファに腰かけ、一臣様から渡された資料を読みだした。一臣様は自分のデスクの椅子に座り、他の書類に目を通しだした。
ふと、一臣様を見た。
あ、なんか、本当にお屋敷の一臣様のお部屋にいるみたいだ。
「なんだ?」
いつもながら、すごいなあ。なんだって、私が一臣様を見ていると、わかっちゃうんだろう。
「すみません。なんだか、お屋敷の一臣様の部屋にいるような、そんな気になって」
「ああ、そういえばそうだな」
「……ちょっと、嬉しかったっていうか」
「屋敷の俺の部屋が好きなのか?」
「はい。好きです。なんだか、落ち着くっていうか、安心するっていうか」
「そうか…」
一臣様は静かにそう答えると、また書類に目をやった。そしてこっちを見ないで、
「お前は不思議だな」
とぽつりと言った。
「え?」
「そこにいるのに、あまり存在を感じさせない」
「えっと。存在感が薄いとか?」
「いや。ある。存在感はある。だが…」
また、一臣様は顔をこちらに向けた。
「ああ、そうか。違和感っていうか、威圧感がないんだな」
「威圧感?」
「すっと、溶け込むように自然になじんでいる。俺の空間に」
「一臣様の空間?」
「俺の部屋だ。今も、屋敷でも…。お前がそばにいても、空気が和んでいて、居心地がいい。だから、お前がいてもまったく気を使わないで済む」
「……」
「ふ…」
一臣様は静かに笑うと、また書類のほうに目をやり、
「そのへんで、寝ていたりする猫みたいな感じだよな」
とそう言った。
猫…。
やっぱり、ペット止まりなのね、私って。
でも、そう言ってくれるのは嬉しかった。