~その1~ 我が家へ
家に着くまで兄はずっと黙っていた。
家に着くと、玄関に父と祖母、祖父が現れた。それに、卯月お兄様もいた。
「おかえり、弥生ちゃん」
まず、祖母が優しくそう言って出迎えてくれた。
「ただいま。おばあ様」
「おかえり、弥生。元気そうで何よりだ」
祖父もそう言って、私を家の中に入るように促した。だが、
「弥生、なぜ戻ってきた?」
と父が私の前に立ちふさがった。
「父さん!弥生には帰るアパートもないし、これ以上緒方家にいることだってできないんですよ」
如月お兄様が父にそう訴えた。だが父は、動こうとしない。
「父さん、弥生もいろいろと大変な思いをしてきたんだ。しばらく家でゆっくりさせてあげたらいいじゃないか」
卯月お兄様までそう言いだした。
「まさか、逃げ出してきたのか?一臣君のところから」
「え?!」
父の言葉に、びっくりして聞き返した。
「大変なことはたくさんあるだろうと、そう言っておいたはずだ。なのに、たった数日でもう根をあげたのか?」
「………いいえ」
父を見てから、兄の方も見てみた。兄に連れ帰られたのに、なぜ根をあげたと言われたんだろうか、私。
「じゃあ、戻りなさい」
「父さん!駄目ですよ。なんで弥生を一臣氏とくっつけようとするんです?」
兄がまた父にそう言ったが、父はムッとした表情のまま。
「あの…。私、ちゃんと緒方家には戻ります。でも、一臣様の誕生日パーティで琴の演奏をする約束をしたんです。それで、しっかりと実家で練習して来いと言われていて」
「では、一臣君は弥生が実家に戻ることに、反対をしていたわけじゃないんだな。お前が勝手に出てきたわけじゃないんだな?」
「え?はい。私は如月お兄様に連れ戻され…。いえ、言われて帰ってきましたが、一臣様もそれは承知していました」
「如月、なんで連れ戻そうとなんかしたんだ」
父はまだ、ムッとした表情でいる。
「まあ、こんなところで立ち話もなんだから、家の中に入りましょう」
祖母がそう言って、ようやく私たちは家の中に入った。
「弥生ちゃん、琴の練習をしにきたの?」
荷物を私の部屋に持って行くと、祖母が私の部屋に来て聞いてきた。
「はい。それから着付けも自分でできるようになりたくて」
「そう。一臣さんの誕生日はいつ?」
「6月10日です」
「じゃ、ひと月もないのね」
「はい」
「では、猛特訓になるわね」
「……はい。よろしくお願いします。おばあ様」
「弥生」
祖母が私の部屋を去ると、今度は卯月お兄様がやってきた。
「はい」
「一臣氏、どうなんだ」
「何が?」
「いろいろと、その…。女性関係で問題があると如月兄さんが言っていたけど、本当なのか」
「……」
う。思い切り否定したいけどできない。
「だ、だけど、スキャンダルなようなことはしないって、そう言ってましたから、大丈夫かと…」
「……お前のことはどうなんだ」
「え?」
「ちゃんと大事にしてくれているのか?」
「……」
はいと、思い切り頷きたいけど、これもまた素直に頷けない。
「如月兄さんが心配するのは、無理もないと思う。僕はずっと一臣氏のことをよく知らないでいたが、最近、上条グループの子会社でですら噂を聞くようになって、ちょっと心配になってさ」
「卯月お兄様がいる会社でですか?」
「そうだよ。一臣氏は上条グループと緒方財閥がプロジェクトを組んでから、わが社でも有名になった。だが、あまりいい噂は耳にしないんだよ」
「……それって、女性関係の?」
「ああ。仕事はできるし、次期社長としての器もあるくらい、しっかりとしていると言われているが、ネックは女性関係に問題があるところだなってさ。それで何か問題を起こして、会社に悪影響を出さないといいけどって」
「そんな噂?」
「卯月、それは噂じゃなく、本当のことだ」
そこに如月お兄様までやってきた。
「父さんと今朝、弥生をうちに連れ戻すかどうかで、揉めたんだ。父さんはなんだってあんなに弥生と一臣氏のことを結婚させたがっているんだかわからないが、僕はまだ一臣氏をまったく認められない」
「……」
朝、私を迎えに来るまでの間に父と揉めていたのか。それで、兄はずっとだんまりだったのかもしれないな。
「私、戻ってきたわけじゃないです。また一臣様のもとに行きますから」
「弥生?」
「一臣様も、そう言っていました。お兄様は一臣様を誤解しています。一臣様はちゃんと緒方財閥のことを考えているし、それに…」
「それに、なんだ」
「私のことも、大事に思ってくれています」
そう言ってから、いきなり自信がなくなった。
一臣様は優しいと思う。
愛人を外に作ることもしないって言ってくれた。だけど、一臣様にとっては、会社を守るためであって、私のためなのかどうかはわからない。
「これからの一臣氏の行動を見させてもらうよ」
如月お兄様はそう言うと、私の部屋を出て行った。
「弥生、俺は如月兄さんほど反対はしていないよ。ずっとお前が一臣氏に思いを寄せてきたのも知っているし」
「卯月お兄様」
「だからまた、なんか辛いことがあったらメールしろよな?力になれることがあったら、いつでも力になるから」
「はい。お兄様ももうすぐ結婚でしょ?準備大変なんじゃないの?」
「ああ。仕事もハードだし、忙しくてデートもできない」
「そんなに忙しいのに、わざわざ今日来てくれたの?」
「弥生にしばらく会っていなかったから、会いたかったんだ。でも、僕はもう帰るよ。今日は新居に家具がいろいろと届く日だから、行かないと」
「幸せそうだね、お兄様」
「まあね。待ちに待った結婚だからね」
「卯月お兄様のお嫁さんになる人は、幸せ者だよね。すごく大事に思っているんでしょ?」
「そう言うこと聞くなよ。照れるだろ?弥生も幸せになれるといいな」
「…うん」
卯月お兄様は私の頭を優しく撫でてから、部屋を出て行った。
卯月お兄様は、如月お兄様よりも楽天的だ。いつも明るく、バカな冗談を言って笑わせてくれる。だから私も、卯月お兄様といると、冗談を言って明るくしていられる。
如月お兄様には言えないようなことも、卯月お兄様には言えた。メールもほとんど如月お兄様には何か用がない限りしないけど、卯月お兄様には、しょっちゅう何かというとメールしていた。
葉月は、きついことも平気で言うし、喧嘩になることもあるので、あまりメールで本心を言ったり、何かを相談することもなかった。だから、一番の相談相手って言うと、卯月お兄様かもしれない。
ブルル…。ブルル…。
「メール?」
携帯が振動したので見てみると、なんと一臣様からのメールだった。
>無事着いたか?何かあった時には、メールでも電話でもしてこいよな。
それだけ書いてあった。
「メアド、樋口さんが調べたのかな」
ぶっきらぼうな言葉。だけど、嬉しい。
>無事着きました。ありがとうございます。
そう返信を送った。一臣様からはもう返信が来ることはなかった。
家には正月やお盆には帰っていたから、そんなに久しぶりな感じもしないし、懐かしさもない。どっちかっていうと、私はすでに一臣様が恋しかった。
一臣様のコロンの匂いのするあの部屋が。一臣様がいつも一緒にいてくれるあの部屋が。
昨日はバスタブで寝ちゃったし、レストランで寝たこともある。そのたび、すごく迷惑を一臣様にかけていたんだ。でも、一臣様はそんな私を呆れながらも、投げ出さないでいてくれた。
「頑張る!琴も着つけも。それで、一臣様の誕生日パーティでは、他の人に負けないくらいの演奏を…。いや、負けるかもしれないけど、だけど、最善を尽くすんだ!」
少しでも見直してもらえるように。
その日は、すぐにおばあさまの部屋に行き、琴の練習と、着付けを習い、部屋に戻ってからもずっと復習をした。
理想のお嬢様には程遠いかもしれないけれど、できるだけのことはしたいもん。そう思って、ずっと練習をしていた。
翌日、如月お兄様は、朝早くにホテルに戻った。アメリカから単身で出張に来ているが、同行したトミーさんがホテル住まいなので、打ち合わせなどをしやすいようにと、兄もホテルに泊まっているらしい。
私は父、祖父、祖母と一緒に丸1日をゆっくりと過ごした。お庭を散歩したり、祖父には久しぶりに合気道を手合せしてもらった。
午後は、祖母に琴を教わったり、着付けを習った。着物は母の着物を着た。着物を見るたびに母を思い出した。
「一臣さんのお誕生日には、弥生ちゃんのためにつくった着物を着てね」
祖母が優しくそう言ってくれた。
夕飯も父や祖父、祖母と和やかに食べた。昨日からずっと、食卓には和食が並び、お手伝いの志津さんと祖母が私の好物をいっぱい作ってくれた。
嬉しかった。それに美味しかった。このお料理、一臣様にも食べてもらいたいなあ、なんて思いながら私は味わった。
翌朝、またみんなで食卓を囲んだ。
「弥生は今度、秘書課に移動したのか?」
「え?お父様、ご存じなんですか?」
「ああ。いろいろと報告は受けているからね」
「一臣様からですか?」
「いや。秘書の樋口さんや、社長の秘書の青山さんからだ」
そうだったんだ。
「緒方社長も、弥生のことは気に入ってくれているようだし、頑張っているようだね、弥生」
「え?はい。会社に貢献できるようにと、最善を尽くしているのですが…」
「ん?」
「……一臣様には怒られてばかりで」
「ははは。まあ、怒られないようにしっかりと仕事を覚え、一臣君のサポートができるように頑張りなさい」
「はい。お父様」
朝食のあと、そんな話をお茶をすすりながら父として、それから出かける支度をした。
すると、
「ピンポン」
と、チャイムが鳴った。
「は~~い」
お手伝いの志津さんが玄関に出て行くと、
「弥生様のお迎えに参りました」
という等々力さんの声が聞こえてきた。
「等々力さん?!」
びっくりして玄関に行くと、
「おはようございます、弥生様。お迎えに参りました」
とにっこりと笑っている等々力さんがいた。
「お迎えって?」
「これから、わたくしが会社までの送り迎えをいたします」
「でも、一臣様は?」
「一臣様は樋口さんの車で会社に行かれましたよ。準備はよろしいですか?」
「はい」
「では、まいりましょう」
そこに祖母と父が来て、等々力さんに挨拶をして、
「わざわざありがとうございます。これからも、よろしくお願いします」
と二人で頭を深く下げた。
「あ、いや。頭をお上げください。これはわたくしの仕事です」
等々力さんは恐縮そうにそう言った。
「弥生、この方にご迷惑をかけるんじゃないぞ」
「はい」
「いってらっしゃい、弥生ちゃん」
「いってきます、おばあ様」
そのあと祖父も見送りに来てくれて、私は玄関を出て車に乗った。
「さすが、弥生様のお父様とおばあ様ですね」
「え?」
等々力さんにそう言われ、キョトンとしていると、
「あんなふうに、丁寧にお辞儀をされられたのは、弥生様と弥生様のご家族だけですよ」
と等々力さんが言った。
「そうなんですか?」
「緒方家ではありえませんからね。いや~~、びっくりしました」
そう言うと、等々力さんはちょっと微笑み、
「弥生様、元気そうで良かったです」
とバックミラー越しにそう言ってくれた。
「ありがとうございます。私、等々力さんに会えてすごく嬉しいです」
「そうですか!それはわたくしもですよ。自分から弥生様の送り迎えを申し出ようと思っていたくらいです。ですが、一臣様から先に、送り迎えをするようにと言われたので」
「一臣様から?」
「そうですよ。電車で行くとなると大変だろうし、それに、緒方家にとって弥生様はもう、大事なお方ですからね」
嬉しい。
ああ、会社で一臣様に会うのが待ち遠しい。一刻も早くにお会いしたい。
私はワクワクしながら、会社までの道のりを楽しんでいた。
が…。それも、ほんのつかの間…。
秘書課は、女の園だった。男性社員もほんの数人いたが、ほとんどが外に出ていて、課で仕事をしているのは女性だけ。
それも、綺麗で、頭もよく、上品で、仕事のできる才女ばかり。私のような女子社員はいなかった。
ここには、私が上条グループの人間だっていうことを知っている人は本当にいないようだし、庶務課とはまったく、大違いだ。
と、思い知らされるまで、時間はそんなに必要じゃなかったのだ。
緒方商事に着いて、私はエントランスに行った。そこで、細川女史を見かけ、
「細川さん」
と声をかけた。
「あ!上条さん。頭はもう大丈夫なの?」
「はい。ご心配かけました。あ、私ったら何も挨拶にもうかがわないですみませんでした」
「いいのよ。でも、いつでも庶務課に遊びに来て。みんな、歓迎するから。とはいっても、日陰さんもいないし、私と臼井課長だけなんだけどね」
「え?なんで日陰さんいないんですか?」
「あら?聞いていないの?一臣氏から」
「はい」
なんだろう。
「じゃ、いいわ。いつか話してくれると思うし。それに、私もそのうち、違う部署に異動になるかもしれないから、庶務課には新たな子たちが来る予定になっているしね」
「え?細川さん、庶務課にいなくなっちゃうんですか?じゃ、どこに行けば会えますか?日陰さんにもどこに行けば」
「大丈夫。そんなに不安がらないで。確かに秘書課は大変な部署だけど、あなただったらやっていけるわよ。それじゃ、早くに行くといいわ。あそこの女子社員怖いから」
「…怖い?」
「まあ、一番怖いのは一臣様だけどね。ふふふ」
そう言って細川女史は総務部のほうに行ってしまった。
私は「怖い」って言葉に不安を感じながら、エレベーターに乗った。
秘書課というと、葛西さんがいる。葛西さんはそんなに怖いとは思わないけど、一臣様にべったりなのが、ちょっと嫌だ。
あ、あと、なんだか上から目線でものを言う、大塚さんって人もいたなあ。
あ、かなり、嫌かも…。
グルグル。首を横に振り、気持ちを切り替えた。
「が、頑張るぞ~~」
そう誰もいないエレベーターで気合を入れ、14階でエレベーターを降りた。
そして秘書課にまっすぐに向かって行った。