~その13~ 緒方財閥の内情
一臣様と車に乗った。一臣様は、
「ふ~」
と溜息を吐くと、眉間にしわを寄せた。
「どうかなさいましたか?」
助手席に座っている樋口さんが聞いてきた。
「ああ、おふくろのことだ」
「奥様が何か?」
「おふくろは、上条グループと緒方財閥が結びつくのを邪魔しているとしか思えない」
「さすがにそれはないでしょう」
「もし、そんな気が全くないのだとしたら、危機感がなさすぎる」
「奥様は経営の方はあまり、関心が無いようですからねえ」
「そうなんですか?」
私はつい、口を挟んでしまった。それから、あ、出過ぎたことをしたかなと思って急いで口を結んだが、
「おふくろは、お得意様との付き合いや、新たなプロジェクトの企画や、そういうちょっと派手目なことには興味を持つが、経営とかそういうことには関心が無いんだ」
と、一臣様は普通に話してくれた。
「今の緒方財閥の実情もご存知ないと思います。多分、社長も詳しくはお話していないのではないでしょうか」
「……それで、俺の結婚相手に対してものんきな考え方なんだな」
「のんき?」
私はまた、口を挟んでしまった。
「おふくろは、由緒正しい歴史のあるっていう、そういう家系が好きなんだ。おふくろもそういう一族の出だしね」
「そうなんですか」
「ああ。ただし、おふくろの父親の会社は、いい状態じゃなかった。経営難に陥っていて、緒方財閥に合併吸収され、どうにか生き延びた会社なんだ」
「そうだったんですか」
「おふくろは、そのへんもあまりわかっていない。本当ならおふくろの父親の会社は、おふくろの弟の大悟さんが継ぐはずだった。でも、合併吸収されちゃったからね。社長の椅子なんてなくなっちまったわけだ。でも、かなりのやり手で優秀だから、親父が緒方財閥の副社長の座につかせたんだ」
「あ。今の副社長は、お母様の弟さんなんですね」
「ああ。親父の弟の健次郎っていう人は、まったく仕事に興味を持たない人で、やたら美術品とか骨董品が好きでさ、そういうものばっかり集めて、金を使い果たしていたんだ。で、困り果てたジジイ…、あ、ジジイっていうのは俺の祖父のことだ。そのジジイが、アメリカに美術館を建てて、そこの館長にさせちゃったんだ。自分の好きなものに囲まれてるんだから、健次郎おじさんも、まんざらじゃなかったみたいで、今は館長を楽しんでいるようだけどな」
「その人の娘さんが汐里さん?」
「ああ、そうだ。誰かから聞いたか?」
「はい。チェリストだって…。とても素敵な方なんでしょうね。きっと、ザ、お嬢様っていう感じの」
「汐里がか?」
一臣様は眉をひそめた。
「汐里ははっきり言って、男勝りの性格してて、勝気で負けずきらいで。まあ、そんなだから、世界的なチェリストになれたんだろうけどな」
「へえ…。すごい人なんですね」
「ある意味な。まあ、お嬢様っていうよりも、アーティストかな。それも、プロ根性丸出しの」
「……」
そうなんだ。ちょっと惹かれるっていうか、会ってみたいなあ。どんな人なんだろう。
「お嬢様は趣味でしか楽器をしないからな。あんなふうにプロになって金稼いでいるんだから、たいしたもんだよ」
「本当にすごい人なんですね」
「今、憧れ抱いているのか?」
「あ、わかりましたか?」
「わかりやすいなあ、お前。目、輝くもんな」
そう言うと、一臣様はくすっと笑い、それからまた私のことをじっと見た。
「なんですか?」
「おでこ広いなあと思って。だから、デコピンがしたくなるんだな」
「あれ、痛いんです。もうやめてください」
「なんでだ?いいだろ?これでも親しみ込めてデコピンしているんだぞ」
「いいです。そんな親しみは込めなくても」
クスクス。助手席からも、運転席からも笑い声が聞こえてきた。
「あれ?俺はなんの話をしていたんだっけ?もっと、真剣な話をしていたと思ったが」
「奥様のことですよ」
樋口さんが静かにそう答えた。
「ああ、そうだった。とにかく、おふくろは、経済観念ってものがないんだ。いや、見ようとしていないのか、わざと見ないでいるのか…」
「わざと、見ない?」
私はまた、口を挟み込んでしまった。でも、もう、一臣様は樋口さんとではなく、私に向かって話をしてくれていた。
「ああ。けして緒方財閥は、いい状態じゃないんだ。お前のいた鉄工所も売上悪かったんじゃないのか?赤字じゃなかったか?」
「赤字でした。ある時からガクンと売上が下がって…。受注がいきなり減ってしまったんです。それから、辞めていった人もいたし、もう一人の事務の人も辞めさせられそうになって、私、お給料を半分にしてもらったんです」
「は?半分?」
「はい。家賃も安いアパートだったし、生活には困らなそうだったので、減らしてもらって、その事務の方にいてもらいました」
「…そんなことまでしていたのか?お前は」
「はい。それでも、工場自体が危うくなって。事務の人もいよいよリストラかっていうとき、私、緒方商事に転職の話が来て、急いで辞めたんです。だから、事務の方は今も働いていると思うのですが」
「そうか。工場、危うい状態なのか。だが、そんな工場は他にもたくさんあるし、子会社でも経営難のところがだいぶある」
「……」
「その赤字をどうにか、緒方商事で補っているわけだが、それにも限界があるしな。それで、関西とアメリカに乗り出すプロジェクトを企画した。これを成功させ、どうにか巻き返そうという戦法なんだが…。おふくろはそのへんも、わかっていない」
「…わかっていないっていうと?」
「だから、お前と結婚できないってことは、上条グループと強く結びつきができないわけだろ?ライバル社が上条グループと手を組んだりしたら、緒方財閥の巻き返しは望めないんだよ」
「…でも、如月お兄様も、私と一臣様が結婚できなくても、プロジェクトから手を引くことはしないって…」
「ああ。だが、いつ、上条グループが寝返るかもわからないからな。お前が俺と結婚していたら、まあ、緒方財閥にお前っていう人質をとっているようなもんだから、そうそう緒方財閥から寝返ることはできなくなるだろうけどな」
「そ、そんなあくどい事兄も父も考えていません。上条グループはそんな人間いませんから」
「だといいがな」
「そうなんです。本当にそうなんです」
私はつい必死に一臣様に言っていた。
「お前の親族がそうでも、ほかのやつはどうだ?あのトミーってやつは、アメリカの支社長になるんだろ?平気で寝返るかもしれない」
「え?」
「信頼なんか簡単にできないさ。現に我が社でだって、ライバル社に寝返って、出て行った技術者も多くいる。まあ、給料もいいし、研究所も環境もライバル社のほうがよかったら、出ていってもこっちも何も言えないけどな」
「そんな…。そんな人がいたんですか?」
なんか、ショックだ。簡単に自分の利益だけのために、会社を辞めてライバル社に行ってしまうだなんて。
「いた。それが原因で、緒方財閥の企業の業績がガタンと落ちた。技術者を大量にすっぱ抜かれたんだ。その後、そういうことがないよう、かなり気をつけているが、今度は産業スパイが現れた。いつの間にか入り込んで、緒方財閥で開発したものを、他企業に高く売ったりしているんだ」
「……まだ、そのスパイが我が社にいるんですか?」
「いる。大体の目処はついているんだがな。お前がいた鉄工所の発注が来なくなったっていうのは、開発して売り出そうとしていた商品が、他企業に先に売り出され、2番煎じになってしまって、売れなかったんだ。だから、発注が全然来なくなってしまった」
「でも、それを開発したのは、緒方財閥の企業なんですよね」
「ああ、そうだ。それをスパイが、他企業に売った…。よくある話さ」
「ひどいです。そんなの。だって、必死になって開発したんですよね?きっと時間かけて頑張って。それで、これから売り出そうっていうときに…。そ、そんなのってないです」
「そうだな。ひどい話だよな」
「…それで、鉄工所も被害を?」
「ああ。そういう小さな工場はもろに被害を被るな。緒方財閥の企業から仕事を引き受けている工場だからな。商品が売れたら、工場も発注が増えるんだが、商品がコケたら、おしまいだ。発注が来なかったら、工場も動くこともないしな」
「そういう工場がたくさんあるんですか?」
「そうだ。もし、今回のプロジェクトが失敗したら、親父は、そういう工場を閉鎖させ、リストラも考えなくてはならないと、そう言っている」
「閉鎖?リストラ?」
「ああ、そういえば、おふくろはさっさと閉鎖させて、赤字だしてる会社はとっとと手放したらいいし、リストラで人も減らしたらいいって、そう言っていたことがあったな…。そんな考えだから、上条グループとのつながりも、重用視していないのかもな」
「…そんな!そういう小さな工場だって、みんな必死に働いてて、養っていかなきゃならない家族もいて、それなのにそんなに簡単にリストラとか閉鎖とか…、そんなのってないです…。そんな簡単に切り捨てちゃうなんて。人は物じゃないんです」
「…大丈夫だよ。親父はあまり、そういうことをしたがらない人だし、そのためにもプロジェクトを成功させたらそれでいいんだから」
「じゃあ、上条グループは今、緒方財閥にとって大事な取引先なんですね」
「ああ、そうだ」
「上条グループと緒方財閥が結びつくのって、とても重要なことなんですね」
「そうだ。お前も理解したか?」
「……」
「お前と俺の結婚には、緒方財閥の未来がかかっているって言っても過言ではないんだぞ」
「そうなんですね」
「少しは、自分の立ち位置がわかったか?」
「え?」
「おふくろにはピンと来ていないんだ。いや、全く理解できていないかもしれないな」
「立ち位置?」
「ああ、親父がお前と俺との結婚を決めたのも、俺にちゃんと緒方財閥を背負って立つなら、お前との結婚を受け入れろって言っていたのも、そういうことなんだ」
「…そう言われたんですね、社長に」
「ああ」
だから、受け入れた。私のことを。
「だから、俺の婚約者が他に候補がいようが、お前に決まるんだよ」
「……」
「おふくろがなんて言おうと、反対しようとも、親父は俺とお前を結婚させるから」
「……」
「なんでそこで、沈んだ顔になるんだ?俺と離れるのは嫌なんだろ?」
「え?あ、はい」
「じゃあ、喜べよ。お前と俺は引き離されることなんか絶対にありえないから」
「……」
「だから!なんでそこで、暗くなるんだって言ってるんだ。喜ぶところだろ?」
「でも、一臣様は…」
「なんだ?」
「……」
会社のために、私と結婚するの、嫌じゃないんですか?聞いたら、ああ、嫌だって言うだけかもしれない。嫌でもしょうがない。俺の背中には緒方財閥で働く人、その家族、全部を背負っているんだって…。
「それだけの責任があるんですね」
「ああ、なんだ、お前も責任感じて暗くなっていたのか?」
「い、いえ。そういうわけでは…」
「俺は、かなりプレッシャーを感じているぞ」
「え?」
「かなり重い。思っていた以上にな」
「一臣様…」
それで不眠症にまでなってしまったの?
「俺は親父を軽蔑していた。好きでもない女と結婚して、子供生まれたら、愛人作って、外で遊んで」
「え?」
「それに、家にほとんど帰ってこようともしないで、仕事ばっかり。子供のことも、家族のこともほっぽらかしだ」
「…そうだったんですね」
でも、そんな父親を軽蔑するのは無理ないと思うな…。
「だけど、緒方財閥を背負って、一人でやってきたんだからな。ものすごいプレッシャーや、いろんなものを抱えながら、ずっと緒方財閥で働く人たちを支えてきたんだ。それ、考えたらさ、すげえよなって最近は思う」
一臣様…。
「家に帰って来れないくらい、忙しかったんだろうし…。心の拠り所が、愛人の場所だけだったのかもな」
「だけど、それではお母様がかわいそうな気がします」
「ああ。おふくろにも愛人はいるから。それも、かなり若い男」
「え?!」
「あの夫婦は、外に愛人作って、家に寄り付かないっていう変な夫婦なんだ」
「…それも、なんだか悲しいですね」
「いいんじゃないか。俺も軽蔑していたけど、今ではそんな夫婦関係もありなんだろうなって思うさ」
「え?そう思われるんですか?」
ちょっとショックかも。
「俺も、お前とどうしても結婚しないとならないってわかった時には、親父みたいに子供だけ産ませて、あとは外に愛人作って、家に帰らなかったらいいだけかって、正直そんなことも考えていた時もあったし」
「…………え?」
うそ。…………。
一臣様は私の顔を見た。そして、おでこにまたデコピンをした。
「痛い」
「今、顔面蒼白だったぞ。魂抜けてたか?」
「う、はい。抜けました」
「はははは!」
なんで笑うの?本気でショックを受けていたのに。
「安心しろ。もうそんなこと考えていないから」
「え?」
「お前、ほっぽらかして家に帰らなかったら、干からびそうだし」
「は?」
「お前のことを泣かしたら、如月氏に上条グループとの契約も何もかも、白紙にさせられそうだしな」
「……」
「そういうわけにはいかないからな」
「じゃあ、外に愛人…」
「作んないから安心しろ」
「じゃあ、心の拠り所」
「俺にはいいペットができたんだ。隣にいると、爆睡できる。それで十分だ」
「それって、私…?」
「ああ。へんてこで妙ちくりんなペットだ」
「……」
私だ。じゃあ、私だけで十分っていうこと?
「見てると面白いしな。飽きないくらい間抜けなやつだしな」
「わ、私?」
「…そのペットだ。多分、一生隣にいても、飽きないかもな」
「……」
う。今の、ちょっと胸に響いた。嬉しいかも。
一臣様はそう言ったあと、顔を窓の方に向けた。そして、
「樋口、等々力、今、耳をダンボにして聞いていただろ」
と、前の二人に向かってそう言った。
「いえ。なんのことですか?わたくしは真剣に運転していましたので、聞こえませんでしたよ」
「わたくしも、明日のスケジュールのことを考えていて、まったく耳に入ってきませんでした」
わあ。二人とも思い切り、白々しい嘘を…。
「ふん…」
一臣様はまた、窓の外を見た。
一臣様の背中には、本当にたくさんの、たくさんの人たちが乗っかっている。その重みで一臣様は潰れたりしないんだろうか。
「一臣様」
「なんだ?」
一臣様がこっちを向いた。
「もし、辛かったり、苦しかったらどんどん言ってください。私なら平気です」
「平気?」
「はい。弱音を一臣様がはこうがなんだろうが、全然平気です。ちゃんと聞きます」
「…そうか」
「それから、背中に背負っているものが、重かったら降ろしてください」
「そう簡単には降ろせないさ」
「いいえ。半分降ろしてくださってもいいです。それ、私がよいしょって背負いますから」
「え?」
「大丈夫です!私、頑張って背負います」
「…」
一臣様は一瞬目を丸くしたかと思ったら、次の瞬間、
「ブハハハハハ」
と大笑いをした。
「え?わ、笑うところですか?今の」
「ははは」
「クスクス」
あれ?樋口さんと等々力さんも笑ってる。
「あはは。すごいよな、お前は。本当によいしょって軽く背負いそうなところがすげえよ。なあ?樋口」
「はい。そうですね」
「ははは!今、かなり重さが軽くなった」
「え?」
「軽くなったよ」
「本当にですか?」
「でも、お前も頑張りすぎて、潰れるようなことがないようにしろよな?」
「は、はい。でも、大丈夫です。体力には自信があるんです。それに、私、腕力も握力も普通の女子以上にあるんですよ」
「だろうな。逞しそうだもんな」
「はい。任せてください!」
「ははは!元気になったな」
「え?」
「パワー出たな」
「…はい」
「お前のパワーの源はやっぱり、俺なんだな」
「はい!」
「……そっか。俺の役に立とうとすると、俄然元気になるんだな、お前は」
「はい!」
クスクス。また、樋口さんと等々力さんが笑った。
「弥生、もう俺にふさわしい女になるとか、そういうこと考えなくてもいいぞ」
「え?どうしてですか?あ、どんなに頑張っても無理だからですか?」
「ふさわしいとか、ふさわしくないとか、そんなの関係ないからだ」
「え?」
「お前はもう、十分、すげえやつだから、そんなこと考えないで、そのままでいたらいい」
「このままで、ですか?」
「ああ。そのままでいろ。そうしたら、俺にも緒方財閥にもパワーくれるからさ」
「私がですか?」
「もう、ふさわしくないとか、ごちゃごちゃ考えて勝手に落ち込むなよ」
「…はい」
「ははは」
一臣様はまた笑った。その笑顔はなんだか、無邪気な子供のようで可愛かった。
一臣様は、最近、すごくよく笑うかもしれない。その笑顔を見られるのが、私の幸せになっている。そして、それも私にたくさんのパワーをくれていた。