~その10~ 秘書課の葛西さん
4時に間に合うように、会社に行った。エントランスに入ると、しっかりと樋口さんが待っていてくれた。
「樋口さん。すみません。お待たせしちゃって」
「大丈夫ですよ。まだお時間はあります。すでに一臣様は10階の大会議室にいます」
「私、今日は秘書って…」
「大丈夫です。会議室の隅にわたくしと一緒にいてくだされば、それだけで特になにかするわけではありませんから」
「そ、そうなんだ。良かった。ちょっと緊張しちゃいました」
「そのスーツ、とてもお似合いですよ」
「喜多見さんがすすめてくれたんです。これが明るい印象になっていいと思いますよって。でも、私、ベージュのスーツを着たのは初めてで似合っているかどうか…」
「形も大きさも色も、ぴったりですよ。スーツや服を一臣様が選んでおられましたが、そのスーツも一臣様が買われたものですよ」
「え?あ…。クローゼットに入っていた服って、やっぱり全部一臣様が?」
「はい。他にも、普段着になるようなブラウスなども、買っておられましたが…」
「はい。タンスの引き出しに入っていました。あ、でも、全部は寮に持ってこれないので、その一部だけを今、喜多見さんの家に置かせてもらっています」
「一臣様が選んだお洋服は気に入られましたか?」
「はい。ただ、久世君からもらった服がなくなっていて」
「ああ。それは申し訳ありません。わたくしが処分させていただきました」
「……そうなんですか。なんだか、久世君のお母様に申し訳ないなあ」
ぼそっとそう呟いてみた。でも、それに対しての返事は、樋口さんは何もしてくれなかった。
そんな会話をしながらエレベーターに乗り、10階に着いた。そして大会議室に着くと、
「遅い」
と、また一臣様に怒られた。
なんか、いっつも「遅い」って言われているような気がする。
「すみませんでした」
一臣様は両手を腰に当てたまま、私の顔を覗き込んだ。
「……顔、ペンキついていないな」
「え?だ、大丈夫です。ちゃんと鏡で確認してきました」
わあ。顔、近い。ちょっと恥ずかしくて顔あげられない。私の顔、赤いかもしれない。
「ふん…。まったく。突然日曜大工なんか始めやがって」
パチン!
いたた!おでこ、デコピンされた…。なんで?
「怪我もしなかっただろうな?」
「はい。大丈夫でした。根津さんにいろいろと手伝ってもらって、スムーズにうまくいきました」
私はオデコを撫でながらそう答えた。あ、一臣様、離れちゃった。もうちょっとそばにいて欲しかったなあ。ドキドキするけど、やっぱりそばにいて欲しい…なんて。
「根津か…。怖くはなかったか?職人肌で、あまり俺にも親父にもおふくろにも、愛想いいところを見せたことはないが」
「え?あ、根津さんがですか!?」
「そうだ。なんでそんなに驚いている」
「え?でも、すごく優しくて、楽しそうに鼻歌も歌っていて、私もすごく楽しかったです…けど?」
「はははは!」
うわ。なんでいきなり一臣様は笑ったんだ?
「聞いたか?樋口。根津に弥生は気に入られたようだぞ」
「そのようですね」
え~~~~?気に入られたもなにも、最初から根津さん、いい人だったよ。一臣様の方があまり根津さんのことを知らないんじゃないの?
そんなわけないよねえ。???なんか、変な感じだ。
「お前は面白いな。誰とでも仲良くなる」
「そんなことはないですけど。でも、上条家の庭師の人とも、仲良かったって言えば仲良かったかも」
「根津みたいな、怖い人か?」
「いいえ。とっても優しいおじいちゃんでした。もう70を過ぎているのに、仕事を見事にこなすおじいちゃんだったんです」
「へえ…。じゃあ、根津みたいにとっつきにくいことはなかったんだな、その庭師は」
「え?根津さんも、全然とっつきにくくないですよ。職人肌の、ちょっと頑固そうで怖そうなイメージはありましたけど、中身はやっぱり優しいあったかい人情味溢れる人でした」
そう言うと、一臣様も樋口さんも、黙って私をじっと見た。
「あれ?私、何か変なこと言いましたか?」
「見た目怖そうで、頑固そうだったんだろ?そういうところが、とっつきにくくなかったかと聞いていたんだがな」
「全然!私、昔からああいう職人気質の人って好きなんです。かっこいいじゃないですか!他にも、大工さんとか、左官屋さんとか」
「そうか。お前って本当に、変わってるんだな。変わっているお嬢様だってことを一瞬忘れてたぞ」
「え?」
「普通、職人気質な人間に憧れるようなお嬢様はいないからな」
「……やっぱり?」
「まあ、いい。でも俺にそういうのを求めても無理だぞ」
「まさか。そんなこと、一臣様に求めていないです。だって、一臣様はスーツ姿が一番似合います。大学の頃は私服姿で、それもそれで素敵でしたけど、会社に入ってスーツ姿の一臣様を見てから、私もっと惹かれたっていうかなんていうか…」
「わかった。それ以上言うとストーカーみたいで怖いから言うな。それより、今日の会議は、あの隅で樋口と内容を聞いていたらいいからな。これが今日の会議の資料だ。今のうちに一応目を通しておけ」
「はい」
私は一臣様から書類を受け取った。そして、ちらっと一臣様を見た。やっぱり、今日の一臣様もかっこいい。今日は紺色のスーツなんだ…。
って、待てよ。今、ちょっと胸に突き刺さるようなことを言われた気が…。
ああ…。ストーカーみたいで怖いって…。
ズ~~~ン。今頃沈んだ。スーツ姿が素敵って、ただそれを伝えたかったのに、なんで気持ち悪がられたり、怖がられたりするんだろうか。
なんか、私の好きだっていう気持ちを拒絶されているような気になってきて、めちゃくちゃ落ち込む。
「はあ…」
溜息をつきながら、部屋の隅に行った。樋口さんは、
「こちらの椅子にどうぞお座りください」
と椅子を用意してくれた。
「でも、樋口さんは立っているんですよね?」
「いえ。会議が始まりましたらわたくしも、椅子に座りますよ。立っている方が目立ってしまって、目障りでしょうから」
なるほど。そういう配慮か。さすがだなあ。
樋口さんみたいな秘書って、どうしたらなれるのかな。いつも相手の気持ちを優先させているんだろうな。
私もそんなふうになれたら、一臣様に「気持ち悪い」なんて言われることもなくなるのかなあ…。
気持ちが沈んだまま、一臣様から渡された資料を見た。海外に進出するプロジェクトのプランが書かれていた。
「企画書なのかな?」
上条グループと緒方商事での、合同プロジェクトのようだ。
もしかして、このプロジェクト、私と一臣様が結婚するのと関係があるんだろうか。私と一臣様が結婚するっていうことは、上条グループと緒方財閥がより結びつきが強くなるっていうことなんだろうか。
昔、まだ日本がひとつに統一されていなかった頃、国と国が結びつくために、政略結婚があったように。
そんなことをボケっと考えながら、資料を見ていると、会議室に人がゾロゾロと入ってきた。
そして、そのあと、兄とあの「トミーさん」も、何人かの上条グループの人を連れて、会議室に入ってきた。
「やあ、一臣君。今日はよろしく頼むよ」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
兄は、私が部屋の隅の隅にいたからか、私に気づくこともなく、一臣様と一緒に部屋の奥へと進んでいった。
そして一臣様が席に着くと、そこに葛西さんが来て、一臣様のすぐ横に顔を近づけ耳打ちで何か話したり、胸元のポケットから手帳を出して何かを書いたりしている。
まるで一臣様と打ち合わせでもしたかのように、同じ紺色のスーツ。スーツの中は胸元のちょっと開いている白のタンクトップ。かがむと胸元がよく見えそうなほどの…。そして胸元にはキラッと光るダイヤのペンダント。
一臣様も、なんだか顔を近づけ、葛西さんと小声で何やら話し、それから葛西さんは、周りの人にお辞儀をして、一臣様の席から離れ、私と樋口さんがいる部屋の隅に来た。でも、椅子に座ることもなく、立ったままだった。
全ての人が着座すると、すっと、これまたかっこいいパンツスーツを着た、背の高いエキゾチックな顔立ちをした美女が、大きなスクリーンの前に立ち、
「今日の進行をさせていただきます、緒方商事海外事業部第2課の、広尾と申します。よろしくお願いします」
と、澄んだ声で挨拶をした。
モデル並みの小さな顔と、長い手足。この人が広尾さん。前に、久世君が言ってた。一臣様と仲のいい海外事業部のやり手…。
確かに堂々としていて、すごく仕事ができるって感じの女性だ。
一臣様はずっと、黙って話を聞いているだけだ。そのうち、トミーさんが登壇して、話をし始めた。
「上条グループのアメリカ支社、企画開発部部長補佐の赤坂と申します。今回は上条本社の海外事業部のプロジェクトに参加することになり、アメリカからこの会議に出席するために日本に来ました。よろしくお願いします」
部長補佐?そんなすごい役職だったんだ。あれ?兄は確か、部長だったっけ?じゃあ、兄の下で働いているのがトミーさんなんだなあ。
トミーさんは、今回のプロジェクトについて、詳しく説明をして、それを兄はただ黙って聞いていた。
兄と一臣様は真正面に座っている。なんだか、時々目線を合わせ、無言で兄は一臣様に圧力をかけている気すらするんだけど、気のせいだよね。
その視線を、静かに一臣様は外し、それから何気なくこちらに視線を向けた。すると、兄までが私の方を見た。
あ、兄にここに座っているのを見つかったかな。兄の私を見る目、ちょっと怖いんだけど。
2時間が経過して、会議が終わった。もう会食の6時を過ぎていた。
「では、場所を移して皆さんで、食事をしながら親睦を深めましょう」
そう広尾さんが言うと、上条グループから来た人たちも、にこやかに席を立って、移動を始めた。
「はあ」
「緊張されましたか?」
私の溜息を聞き、樋口さんが声をかけてきた。
「はい、ちょっと…」
なにしろ、兄の目が怖くって。兄はいったい、会議を聴きに来たのか、私を見張りに来たのか、どっちなんだっていうくらい、こっちを見ていたよ?
「一臣様!」
隣にいた葛西さんが、一臣様がドアの近くに来ると近寄っていき、また耳元で囁くように一臣様に話しかけた。
あの人の癖?それとも、秘書の人って誰でもあんな感じで話をするの?
でも、前はあんな感じで話ていたなかったよね。なんか、感じ悪い。上条グループの人が見たって、内緒話でもしているみたいで、感じ悪いかも。
すると、葛西さんが話をしているというのに兄は一臣様に近づき、
「一臣君。君ももちろん会食には参加するんだろうね」
とそうちょっときつい口調で言った。
「はい。少し遅れますが、参加します」
「少し、遅れる?」
「申し訳ありません。他の仕事で、ほんの少しお時間をいただきます」
一臣様ではなく、なぜか葛西さんがそう言った。
「………この方は、君の秘書かい?」
「はい。わたくし、一臣様の秘書の葛西尚美と申します」
葛西さんは兄にそう言ってお辞儀をした。
「へ~~。一臣君はいったい何人の秘書を抱えているんだい?あそこにいる樋口氏だけかと思ったら、たくさんいるんだねえ」
「……」
あ。一臣様の眉がぴくって動いた。もしや、怒ってる?
「僕にも欲しいくらいだが…。いや、やっぱりいらないかな。僕は僕のことを自分で管理しているし、なんでも自分でするようにと育てられているからね」
うわ!今の、イヤミ?如月お兄様、どういうつもりで…。
「葛西は確かに秘書だが、秘書課の人間です。僕についているのは、樋口だけですよ」
一臣様が顔色一つ変えずにそう言うと、隣にいた葛西さんの方が顔を赤くした。そして、
「はい。わたくしは秘書課の葛西と申します」
と、焦ってまた自己紹介をし直した。
「では、あそこにいるのは?」
兄は私を見た。え?私のことを聞いているの?!
「…秘書です」
一臣様はあまりこちらも見ずに、そう答えた。
「秘書?やはり、秘書課の人間ってことかな?」
「そうです。秘書の仕事を覚えてもらっています」
一臣様がそう言うと、隣にいた葛西さんの方が何やら慌てていた。
「か、一臣様?あの方は確か…」
「葛西。彼女は秘書課に配属されたんだ。これからは、君が指導をちゃんとしてくれ」
「え?あ、はい」
「……というと、前は秘書課ではなかったのかな?」
兄が意地悪そうにそう聞いた。まさかと思うけど、兄は私が庶務課にいたことを知っているのかもしれない。
「上条様、もう他の皆さんは会食の会場に移られています。どうぞ、上条様もお急ぎください」
そこに樋口さんが、すっと近づきそう言うと、兄とトミーさんは、
「ああ、そうだな」
と言って、大会議室を出て行った。
「おい。お前も先に行っていろ」
「え?私…もですか?」
一臣様にそう言われ、私は渋々先に大会議室を出た。私と一緒に樋口さんも大会議室を出てきた。
振り返ると、一臣様はまだ葛西さんと一緒にいた。
「一臣様も、来られるんですよね?」
二人で寄り添って話をしているのを見ながら、私は樋口さんに聞いた。
「すぐに来られますよ」
樋口さんにそう言われ、私は前を向いて歩き出した。すると、ちょっと前を歩いていた兄とトミーさんが立ち止まって私を待っていた。
「弥生」
「どうしたんですか?お兄様」
「秘書課に移動したっていうのは本当か?」
「え?」
「庶務課に配属されたと父さんに聞いたぞ」
お父様がバラしたのか。一番バラして欲しくなかった人物に。
「あの!あのですね。庶務課で会社の大まかな仕事の内容とか、歴史とか緒方財閥のいろんな企業とか、そういったことを勉強させてもらっていたんです」
「庶務課でか?」
「はい。庶務課の方々は皆さん、緒方財閥のことに詳しくて」
「庶務課がか?」
「そうです。とにかく、それも、社長のお考えのことだって、お父様は言っていました」
「はあ。父さんはなんだって、何があっても、口出しもせず黙っているんだ」
「それは、その。きっとお父様なりのお考えがあって」
「そうは思えない。お前のことを思っていたら、この結婚だって」
そう兄が言おうとして、私の隣に樋口さんがいることを思い出したのか、いきなり黙り込んだ。
「まあ、とにかく。今は、会食のことを考えよう。ねえ?弥生。きっと美味しいものがたくさんある」
兄の隣でのんきな顔をして、明るくトミーさんがそう言ってきた。
「はい」
兄とは対照的なのかな。兄はちょっと心配性で、神経質なところもあるけれど、このトミーさんは楽天的で、明るそうだ。
トミーさんは私の背中に手をまわして歩きながら、
「さあ、美味しいものを食べようね、弥生」
と明るく私をエスコートしてくれた。さすがアメリカ人。じゃなかった。ハーフだっけ。
そういえば、一臣様も、背中に手を当てて、エスコートしてくれたっけ。あの時は心臓がバクバクしたよなあ。
一臣様のエスコートって、なんとなく優しくて、ドキドキしちゃう。背中も優しく、支えてくれていた。
あれって、やっぱり、女性とたくさんお付き合いしているから、慣れているのかな。
なんて思ってしまい、勝手にまた落ち込んだ。
やめよう。
葛西さんと仲のいい一臣様のことが、いまだに気になって、後ろ髪を引かれる感じだけど、気にしても仕方ない。
前だ、前。前を向け。明るく前を向け~~、私。
必死にそう言い聞かせ、私はトミーさんと明るく話しながら、会食をするレストランに向かった。
兄を見ると、私とトミーさんが仲良さそうにしているのを、ちょっと嬉しそうに微笑みながら見ていた。でも、その笑顔の奥で、何かを企んでいるようなそんな気もして、一瞬鳥肌が立った。
お兄様、変な企みはやめてくださいね。
お願いだから、私と一臣様の邪魔をするようなことはやめてくださいね!
そう私は心の中で叫んでいた。