~その7~ 贅沢すぎ
その日の夕飯は、みんな和やかだった。一臣さんは、
「龍二、腕痛まないのか?」
と、優しく聞いたりして、それに対して龍二さんもはにかみながら、
「ああ、大丈夫だ」
と答えていた。
「京子さんは、龍二のそばにずっとついていたんですか?」
「はい。できるだけ、お役にたちたいと思っています」
わあ。本当にしおらしいお嬢様だ。私とは月とすっぽんだよなあ。
「そうか。よかったな、龍二」
「ふん。俺のことより、自分と弥生のことをどうにかしたら?もうすぐ婚約パーティだろ?なのに、社内じゃ二人のいい噂、聞かないぜ」
「仮面フィアンセの噂か?」
一臣さんが龍二さんに、片眉を上げながら聞くと、
「なんですか?それは」
と、お母様が不思議そうな顔をして聞いてきた。
「言葉のとおりですよ。仮面夫婦のように、表面だけ仲良く見せているフィアンセだと、そう社員に見られているようです」
一臣さんは淡々とそう答え、そして食後に出てきたコーヒーを飲んだ。
「え?表面だけ仲がいいんですか?」
京子さんが、少し驚いたように目を丸くしてそう一臣さんに聞いた。
「表面だけ仲がいいんだったら、わざわざ二人きりになったエレベーターであんなことしないだろ?」
そう答えたのは、龍二さんだった。
「あんなことって?」
お母様が龍二さんに聞くと、一臣さんは、
「ゴホン、ゴホン」
と咳払いをして、龍二さんの話の邪魔をした。
「まあ、正式に婚約発表をしたら、もう誰も何も言わなくなるだろ」
「兄貴がちゃんと、弥生のことを大事にしていたら、仮面フィアンセの噂も消えるかもな」
「……大事にするし、今も大事にしているぞ?」
「今後も、他に女も作らず、ちゃんと弥生を大事にするんだよな?」
「しつこいな、龍二。お前こそ、京子さん一筋になれよな?」
「今は兄貴の話をしているんだ」
あわわ。なんか、やばい雰囲気かも。喧嘩になっちゃう?
「ふん。そんなに龍二は弥生のことが心配なのか?いつの間にそんな仲良くなったんだよ。そっちのほうが不思議でならない」
「…まあ、俺自身も不思議だけどな。多分、弥生が俺の味方になるって言ったからかもな」
「弥生さんが、龍二の味方?」
お母様が、びっくりした目で私を見てそう聞いてきた。
「あ、あの。すみません。生意気なことを言ってしまって」
慌ててそう謝ると、
「いいえ。弥生さんは不思議ね。この屋敷にいるものも全員あなたの味方のようですけど、龍二までがあなたと仲良くなるなんて、思ってもみませんでしたよ」
と、にこやかにそう言ってくれた。
「だから弥生は、俺の嫁に最適なんだ」
「最適?」
一臣さんの言葉に、お母様が聞き返した。
「はい。社内でも、弥生の評判はどんどんよくなっています。弥生を支持するもの、応援するものが増えているんですよ。工場の視察に行ったって、弥生はそこの人たちとすぐに親しくなり、可愛がられています。弥生はきっと、緒方商事、いいえ、緒方財閥の人間皆から、好かれると思いますよ」
ひゃ~~~。一臣さんの言葉、くすぐったい。それに、信じられないよ。私にそんな力なんてあるのかなあ。
「そうですね、そうかもしれないですね」
お母様は静かにそう言うと、にっこりと微笑んだ。
「わたくしだって、いつの間にか弥生さんのことをすっかり気に入っていましたからね」
「あ、ありがとうございます」
嬉しい!
自信はない。自分の力も、自分でよくわかっていない。だけど、お母様や一臣さんにそんなふうに言ってもらえるととっても嬉しい。そんな気持ちに応えたいって思う。
夕飯が終わると、京子さんは龍二さんと一緒に龍二さんの部屋に行った。
「弥生、ピアノ聞くか?」
「え?一臣さん弾いてくれるんですか?」
「ああ」
うわ~~~い!
「はい!」
「ははは。喜び方半端ないな」
「だって、とっても嬉しいんです」
わくわくしながら、私は一臣さんと大広間に行った。そして一臣さんは、大広間のドアをしっかりと閉め、ピアノの横に椅子を持ってきて私を座らせると、
「じゃあ、弥生のためだけに弾くからな?」
と、耳元で囁いた。
グラ…。その言葉だけですでに、腰が抜けそうになった。
一臣さんはピアノの前に座ると、すうっと深呼吸をして、ピアノを弾きだした。
わあ、すごい。なんて綺麗な音…。
うっとり。ピアノを弾く時の一臣さん、なんだってこうも、麗しいんだろう。
うっとりとして聞いていると、一臣さんは弾き終わり、椅子から立ち上がり、私にキスをしてきた。
「え?」
「うっとりと見ているなよ」
「だ、だって、あまりにも素敵すぎて…。今の曲はなんていう曲ですか?」
「ショパンの『雨だれ』だ」
「雨だれ…。一臣さん、ショパンが好きなんですね」
「ああ。そうだな」
「……はう」
思わず、ため息が漏れた。なんだって一臣さんって、素敵なんだろう。ピアノ弾かせたらこんなに上手で麗しいし、カンフーや少林寺までできてしまうなんて。
「なんだ、その『ハウ』っていうため息は」
「素敵すぎて、つい出ちゃいました」
「……」
一臣さんは何も言わず、片眉を思い切りあげた。
「怖いな。ストーカー発言だな」
ぽつりとそう言ってから、一臣さんはくすっと笑い、
「弥生、そんなに俺が素敵に見えるのか?」
と聞いてきた。
「はい。とっても…」
うっとりしながらそう言って、すぐに我に返った。あ、今のも怖いって言われちゃうかも。
「そんなに俺が好きか?」
「…はい」
また、何か嫌味でも言われちゃうかな?なんて思いながら一臣さんを見ていると、
「それ、他の女に言われたら、気持ち悪いだろうな」
と呟いた。
「気持ち悪いですか?」
ガーーーン。
「気持ち悪いし、怖いだろ?始終うっとりした目で見つめられ、素敵すぎるだの、ものすごく好きだの言われたら」
ガガガーーーン。
「なんで、ショックを受けてるんだよ?バカだな」
一臣さんはそう言うと、私のおでこにチュッとキスをした。
「他の女だったらって言ったろ?弥生にそれだけ惚れられているのは嬉しいぞ」
「え?う、嬉しいんですか?」
「ああ。うっとりとした顔、可愛いしな」
ひゃあ?可愛い?怖いじゃなくって?
「もう1曲聞くか?」
「はい!」
嬉しい!!嬉しすぎる!!!
「ははは。お前、本当にわかりやすいなあ。目、輝きすぎだろ」
一臣さんは笑いながら椅子に座ると、
「次はショパンじゃない。知っているか?パッヘルベルのカノンだ」
とそう言ってから弾きだした。
知らない…。クラシックはまったくわからない。だけど、一臣さんの弾く音色に、私はまた引き込まれていった。
素敵だ。素敵すぎだ。こんな素敵なフィアンセを持って、私はなんて幸せ者なんだ。贅沢すぎちゃうかも…。
うっとり……。
うっとりの目は、継続したまま。部屋に帰っても、お風呂に入っても、ずうっとうっとりとしていた。一臣さんの腕に抱かれても。
翌日。私と一臣さんは、ボディガードに日陰さんを連れ、鶴見の工場に向かった。工場長は私を見て大喜びをしてくれ、工場のみんなは、私たちを大歓迎してくれた。一人を除いて。
「何しに来たんだ?一臣」
一臣さんが豊洲さんのそばに行くと、豊洲さんは一臣さんのことを睨みながらそう聞いてきた。
「工場の視察だ。お前に会いに来たわけじゃないから安心しろ」
一臣さんも冷たくそう言うと、とっとと豊洲さんから離れ、工場長と一緒に工場の中に入って行った。
「豊洲さん、お久しぶりです」
私は、まだ一臣さんの背中を睨みつけている豊洲さんにそっと話しかけた。
「弥生ちゃん、婚約発表もうすぐだろ?」
「はい」
「今のうちだよ。一臣から逃げるなら」
「え?」
「女と遊ぶわ、気に入らないやつはすぐに飛ばすわ、クビにするわのワンマンなやつに、弥生ちゃんはずっと飼われることになるんだよ?そんなでいいわけ?」
「飼われる?」
「弥生ちゃんのことだって、ただの跡継ぎ生産機くらいしか思っていない」
ムッ。まだ、この人こんなこと言っているんだ。工場で働いて、少しは性格変わったかと思ったのにな。
「豊洲さんは一臣さんを誤解しています」
「それは、弥生ちゃんの方だろ?」
「いいえ。ちゃんと一臣さんのそばにいて、一臣さんを知って私は一臣さんを好きになったんです」
豊洲さんの顔を、真剣に見ながら私はそう言った。
「一臣のそばにいて、一臣の何が見えたんだ?我儘で、横暴で、女好きで、とんでもないお坊ちゃんだっただろ?」
「いいえ!大事な人たちを守ることができる、寛大な器を持った人です!」
「へえ!そりゃ、驚いた。そんな人間が、頭に来たくらいで、簡単に切り捨てるんだぜ。人を駒のように」
「豊洲さんのことですか?そう思うんだったら、この工場で真面目に働いてからものを言ってください」
「わかったような口をきくな。俺だけじゃない。秘書課の人間、切り捨てただろ?三田も、大塚も、葛西も」
「大塚さんは戻ってきましたし、葛西さんは自分の意志で辞めたんだし、三田さんたちは、辞めさせられる理由があったからです」
「携帯が水没していたって事件か?弥生ちゃんのことをいじめていたっていうのが、立派な理由ってわけ?一臣が気に入らないってだけの理由だろ?」
「人の携帯盗んで、トイレに水没させるような人、緒方商事の秘書課に置いておけると思いますか?もし、豊洲さんがその人の上司だったら、どうしますか?」
「……お、俺は別に人の上になんか立たないから、そんなことわからなくてもいいんだよ」
「この先、部下ができるかもしれないじゃないですか」
「………」
「一臣さんの周りには、本当に一臣さんを慕っている人ばかりがいます。一臣さんはそういう人たちを心から信頼しています。その信頼関係は、本当に素晴らしいんです」
「へ~~~。あのロボット樋口氏みたいな?」
「ロボットじゃないです。樋口さんのことも誤解しています」
「わかったよ!君と話していても埒が明かない。でも、これだけは言っておく。俺は、ここで働いて、緒方商事に戻るからな。いつか、一臣を怖がらせるだけの人間になってやるからな」
捨て台詞?それとも、本気?
「ここの工場の研修はどうですか?面白いですか?」
「……面白いかどうかなんてわかりゃしない。工場で働くのも初めてだからな」
「そうですか。でも、ここの技術者、みなさん優秀だと思いませんか?」
「そうかもな」
「ここで働いていたら、きっと豊洲さんもそうなりますよ。楽しみですね?」
嫌味ではなく、心からそう言うと、豊洲さんはムスッとした表情のまま、
「上条グループの人間も、町工場から働き出すんだよな?」
と聞いてきた。
「はい。兄もそうでしたし、弟も町工場で働いています」
「ここは確かに、秘書課にいる時よりも、毎日充実しているかもな」
豊洲さんはそう言うと、自分の持ち場にすたすたと歩いて行ってしまった。
あれ?
もしかして、もしかすると、すでに豊洲さんは変わり始めているのかな。一臣さんに対しての敵対心みたいなものはあるものの、なにくそ!的なものが、豊洲さんを動かし、この工場で働くことで、働く充実感みたいなものが芽生え、変わってきているのかもしれない。
何年先かわからないけれど、豊洲さんは立派な技術者になっているかもしれないなあ。
そんなことを思いながら、事務所に向かい、事務の人たちにお茶やお菓子をごちそうになった。ここの工場にはたまに来ていたので、顔見知りの人も多く、懐かしかった。
「鉄工所から緒方商事に移って、もう一臣氏の秘書をするほど、上条さんは出世したのねえ。すごいわ~」
同じ年の事務の人がそう言ってきた。
「ねえ、一臣氏ってどう?怖いって噂も聞いたんだけど」
「怖いと言えば怖いですけど。でも、とても会社のために働く素晴らしい方です」
「そうなの?見た目も素敵よね。ホームページや、広報誌で写真は見ていたけれど、実物はもっと素敵だわ。いいわね~~。あんな素敵な人の秘書をしているだなんて」
「でも、女癖悪いって噂も聞いたわ。上条さん、大丈夫?」
そう聞いてきたのは、30代後半の事務員さん。
「はい」
ちょっと顔が引きつったかも。実はすんごいスケベなんですなんて、言えないしなあ。
「フィアンセもいるっていう話よねえ。だけど、緒方財閥総帥の御曹司ですもの。そりゃ、素敵なフィアンセがいても、おかしくないわよねえ」
ギクギク。そのフィアンセは私なんだけど、とても「素敵」とは言えないかも。
「さっき、挨拶に行った時、一臣氏からいい匂いがしたわ~。本当に素敵。きっとモテるんでしょうね~」
「結婚しても愛人とか作るのかしら」
「きゃあ。愛人?なってみたい」
え?
なんか、どんどん話が変な方向にいっちゃってるけど。
「秘書だったら、愛人になれる可能性あるの?上条さん」
「な、ないです。って、私は、あの、その」
フィアンセなんですって言ってもいいの?でも、まだ正式発表前だし。
「いやあ、一臣氏、わざわざ来ていただきありがとうございました。どうぞ、事務所でお茶でも飲んで行ってください」
その時、工場長が一臣さんを引き連れ事務所にやってきた。途端に、事務の女性陣は色めきたった。
「お茶がよろしいですか?それとも、おコーヒー?」
コーヒーに「お」までつけちゃったよ…。
「いや。すぐに出るのでおかまいなく」
一臣さんはそう言うと、私の隣の椅子に腰かけた。
事務員さんはそれでもお茶を淹れて、一臣さんに持ってきた。
「あ。弥生、ちゃっかり甘いものまでいただいたのか」
「う…。はい。いただきました」
しっかり、クッキーも、お煎餅も、そのうえ、おまんじゅうまで。
「そんなに食って、また太るぞ。いくら、婚約パーティでドレスを着ないとはいえ、そのままブクブクと太ったら結婚式でドレスを着れなくなるぞ?いいのか?」
ギクギクーー。それは困る。
「え?上条さん、結婚されるの?まあ、おめでとう!どなたと?職場恋愛?」
目敏く、今の話を聞いた同じ年の事務員さんが聞いてきた。
「あ、あの」
「弥生は僕のフィアンセですよ」
「………え?」
一臣さんが簡単にばらした。そして、事務所にいる全員が目を点にした。
「弥生は、上条グループの社長の娘で…。今週末に僕との婚約も正式に発表されますし、婚約パーティもありますから。また、広報誌などに載るとは思いますが、今後とも弥生をよろしくお願いします」
うわあ。一臣さん、私のことしっかりと紹介しちゃった!
「上条さんが、一臣様のフィアンセだったの!?愛人じゃなくって」
「愛人?」
「あ、なんでもないですわ。おほほほほ」
30代の事務員さんは、焦りまくりながら、一臣さんに笑いかけた。
「上条さんが、フィアンセ…。まあ~、まあ~、まあ~、羨ましいです~~~」
私と同じ年の事務員さんは、やたらと羨ましがっていた。
そりゃ、そうだろう。一臣さんがうっとりとした目で見られたら怖いと言っていたけれど、この同じ年の事務員さんはずうっと一臣さんをうっとりと見ていたし、羨ましがるのも納得だ。だって、私ですら、こんな素敵な人と結婚できることが今もって信じられないと言うか、贅沢すぎだって感じちゃうんだから。
婚約発表もパーティも、あと何日もない。秒読み段階だ。ああ、どんどん緊張してきた。
ドキドキだ。
一臣さんはずうっと、余裕の顔。きっと、婚約するからって何も緊張しないんだろうな。
どうか、何事もなく、へますることもなく、終わって欲しいと祈るばかりだ。