~その11~ 鴨居さんの話
午後、私はまた秘書課に戻った。大塚さんは私を見て、にやっと笑い、矢部さんは申し訳なさそうな顔をした。そして、鴨居さんは明らかに、暗い表情で私の顔を見ることもなく、パソコンを打っていた。
一臣さんに対する信頼がなくなったからなのか、私が一臣さんのフィアンセだとわかったからなのか。それとも…。
5時半になると、また一臣さんが現れた。
「アヒル。今日の分、ちゃんとデータ入力できたか?」
私のことは無視して、すぐに一臣さんは鴨居さんに声をかけた。それも「アヒル」ってまた呼んだ。
「あ。すみません。ちょっと、全部はできていません」
鴨居さんは、ものすごく動揺しながらそう答えた。
「そうか。まあ、いい。入力できた分だけ、コピーしていくぞ」
一臣さんは鴨居さんのすぐ横に立ち、USBメモリーを取り出した。すると、鴨居さんはさらに顔を青くさせ、パッと一臣さんから体を離し、肩をすぼめ、固まった。
「なんだよ」
それに気が付いた一臣さんは、
「何を警戒しているんだよ。言っただろ?俺は別に…」
と鴨居さんに小声で話しかけたが、
「すみません。私、もう…」
と鴨居さんは震える声で、一臣さんの言葉を遮った。
「……鴨居、話があるなら聞くぞ」
「え?でも」
鴨居さんは、怯えるような表情で一臣さんを見た。思いっきり一臣さんを警戒しているみたいだ。
「弥生、お前も一緒に来い」
そう言うと、一臣さんはさっさと部屋を出て行った。私も席を立ち、鴨居さんが席を立つまで待ち、一緒に部屋を出た。
廊下には一臣さんと樋口さんもいた。そして、応接室に向かって歩き出したので、私たちもついて行った。
「……」
鴨居さんは、私と目を合わせようとしない。私とも距離を取っている。
「入れ」
応接室のドアを開け、一臣さんがそう言った。鴨居さんは、一瞬ためらったが、私が先に中に入ると、後ろから入ってきた。一臣さんも中に入り、最後に樋口さんが応接室のドアを閉めた。
「座れ」
一臣さんに言われ、ソファに座ろうとすると、
「弥生は俺の隣だ」
と一臣さんに呼ばれた。私はくるりとテーブルの周りを移動して、一臣さんの隣に腰かけた。鴨居さんは私の前に腰を下ろした。樋口さんはドアのところで立ったまま、静かに私たちを見ている。
鴨居さん、なんの話があるのかな。
「話を聞くぞ」
一臣さんは、優しい声と優しい表情でそう鴨居さんに聞いた。
「……」
鴨居さんは俯いたまま、しばらく黙っていた。
「昼間のことか?安心していいって言ったろ。お前には手は出さない。弥生は俺のフィアンセだから、あれもセクハラじゃない」
「そ、それでも、私はショックでした」
「なんで、ショックを受けるんだ?」
「一臣様が、ああいうことをするなんて」
「…。まあ、応接室ですることじゃなかったと、反省はしているが」
え?反省してるの?開き直っているように見えたけど。
「だが、俺と弥生は、結婚もするんだ。婚約をした男女だったら、ああいうことをしたって別にいいだろ。第一、鴨居がショックを受けることじゃない」
「か、上条さん、嫌がっていましたし」
「だから、あれは……」
一臣さんはそこまで言うと、黙り込んで私を見た。
「あれは、応接室であんなことをしたから、弥生が抵抗しただけだ」
少し、むすっとした表情で一臣さんがそう言うと、鴨居さんはちらっと私のことを見た。
「私、一臣さんを嫌がったわけじゃなくって、会社で、それも応接室だったから、抵抗しただけで」
って、何を私も言っているんだ。なんだって、こんな言い訳をしないとならないのかな。でも…。
「一臣さんはセクハラなんかしません。それも、秘書に手を出すようなこともしません。いえ。秘書どころか、自分から女性に言い寄ったり、手を出したりなんかしません」
私は、どうどうと鴨居さんにそう言った。これは別に言い訳じゃない。真実だ。
「弥生の言うとおりだ」
一臣さんは、満足気にそう言ったが、私は、そのあとも言葉を続けた。
「一臣さんが言い寄らなくても、手を出そうとしなくても、女性のほうから言い寄ってきたりしていたんです」
「は?何を言っているんだ、弥生」
「え?でも、そうですよね?」
片眉を思い切り上げている一臣さんに、私は聞いてみた。
「それは昔の話だろ。今は、言い寄ってきても無視しているぞ。他の女になんか、興味だって持たないって言っただろ…」
と、そこまで真剣な目で私に言ってから、一臣さんは、ハッとした表情で鴨居さんを見て、
「いや、それはこっちの話だ。気にするな」
と、言葉を濁した。
「で?鴨居は秘書課を辞めたいって思っているのか」
いきなり、一臣さん、話を切り替えたな…。
「はい」
「また、燃料部に戻るか」
「戻れるなら…」
「そうか」
一臣さんはしばらく黙り込んだ。そして、腕を組んで何やら考えている。
「ふん、そうか」
もう一度そう言うと、一臣さんは静かに口を開き、
「2~3、鴨居に聞きたいことがある」
と、そう言ったあとに、また黙り込んだ。
「一臣様、場所を変えますか?」
「そうだな」
一臣さんは樋口さんの言葉に頷いてから立ち上がり、
「鴨居、話は別室で聞く」
と、そう鴨居さんに言った。
「え?別室って?」
「大丈夫だ。弥生も樋口も一緒に行くから」
鴨居さんの引きつった顔を見て、一臣さんはそう言うと部屋から出た。その後ろを私と鴨居さんが続き、私たちの後ろから樋口さんが来た。
そして、エレベーターにみんなで乗り込み、一臣さんはカードキーを差し込んで15階のボタンを押した。あ、一臣さんの部屋に行くのかな?もしや。
鴨居さんを一臣さんのオフィスに連れて行っちゃうの?なんか、嫌かも。でも、14階の応接室では、誰が聞いているかわからないってことだよね。
鴨居さんの表情は暗い。どこに連れて行かれるんだろうって顔をしている。
「そんなにびびるなよ、鴨居。俺の部屋に行くだけだ」
「え?!」
もっと、鴨居さんがびくついてしまった。
「俺のオフィスだ。そこで話を聞く」
15階に着き、エレベーターを降りた。鴨居さんは、おどおどしながら廊下を歩いた。かなりの挙動不審だ。
「どうぞ」
IDカードをかざしてドアを開いた樋口さんが、そう言った。
「はい」
消えそうな声で返事をして、鴨居さんは一臣さんのあとから部屋に入り、私もそのあとに続いた。
バタン。樋口さんがドアを閉めた。その途端、鴨居さんが不安げにドアのほうを見た。
「そこに座れ」
一臣さんはそう言ってソファに腰かけ、もう一つのソファに鴨居さんを座らせた。
「あの、私、お茶でも淹れましょうか?」
「ああ、そうだな」
私は、廊下に出て行こうとした。でも、
「どこに行く。俺の部屋でお茶でも紅茶でも淹れて来いよ。鴨居は何を飲むんだ?」
と、一臣さんが私を引き留めた。
「え?」
「日本茶、紅茶、コーヒー、何がいい?」
一臣さんが、もう一回鴨居さんに尋ねた。
「な、なんでも。あ、コーヒーは苦手です」
「じゃあ、紅茶を入れてきます」
私は一臣さんの部屋に入った。そして、紅茶を二人分入れ、すぐに戻った。鴨居さんは黙って俯いたまま、固まっていた。
「どうぞ」
テーブルにティーカップを置いた。
「ミルクとお砂糖もよかったら」
と、鴨居さんに声をかけると、鴨居さんはかすかに頷いた。
「そんなに緊張するな。話を聞くだけだ」
一臣さんはそう言ってから、紅茶をすすった。
「い、いただきます」
鴨居さんは紅茶にお砂糖とミルクを入れた。
「それ、アッサムティで、ミルクに合うんですよ」
私がそう言うと、鴨居さんは私を見て、
「そうなんですか」
と、ちょっと表情を和らげた。
コクンと鴨居さんは一口紅茶を飲んだ。そして、鴨居さんがティーカップを置くと、一臣さんが口を開いた。
「鴨居は誰かに推薦されて、秘書課の面接を受けたのか?」
「推薦というか、私は秘書課に向いていると言われたんです」
「誰にだ?」
「係長です。私を指導してくれていました。バイタリティもあるし、明るいし、一臣様の今の秘書が、そういうタイプだから、きっと鴨居も一臣様の秘書になれるってそう言われて…」
樋口さんがデスクに座り、パチパチとすごい速さでパソコンを打ち出した。
「燃料部第一課、古淵係長ですね」
「はい」
「樋口、古淵係長の経歴、詳しく教えてくれ」
「はい。年齢は29歳。2年前まで大阪支店にいました。大阪支店の前は…、本社の機械金属部。菊名さんと同じ課ですね」
「ふむ…。29歳で係長か」
「4月に昇進試験があったようですが、断っていますよ」
「昇進試験を断った?なんでだ?」
「理由はわかりません」
「鴨居は知っているか?」
「あまり出世とかに興味がないって、そう言っていたことがありました」
鴨居さんは、おずおずとそう一臣さんに告げた。この部屋に入ってきた時よりも、かなり落ち着いたのか、声もだんだんと出るようになっていた。
「ふ~~~ん。そうか。樋口、俺にも見せろ」
一臣さんはデスクのほうに行き、パチパチとパソコンを打ち、
「ああ、へえ。そういうことか」
と、何やら納得している。
「鴨居、この古淵係長ってのは、大学の先輩か?」
「はい。同じ大学ですけど、学部も違いますし、私と同じ時期にいたわけでは…」
「日吉も先輩か?」
「日吉さんって、機械金属の?」
「そうだ」
「はい。日吉さんは私が大学にいた頃からの知り合いです。同じ学部でした。私、緒方商事を受ける前に、日吉さんに相談したことがあります。就職相談の先生に、日吉さんを紹介してもらって、日吉さんが快く引き受けてくれて、実際に会っていろいろと相談に乗ってもらっていました」
「どんな相談だ?」
「会社の試験や面接のアドバイスです。あと、会社の人にも、話してくれるって言っていました」
「会社?」
「人事だか、総務だかに知り合いがいるとおっしゃって。それに、同じ大学の先輩が会社にいるから、その人にも掛け合ってくれるとか…。多分、古淵係長のことだと思います」
「そういえば、鴨居はコネで入ったのか?」
「コネって?」
「親や親せきに、緒方財閥の人間はいるのか?」
「いいえ。まったくいません」
「それは珍しいな。ほとんど、この会社はコネで入ってくるやつばかりだ。特に最近ではな。親や親せきに関係者がいないと、信頼できないところもあるからな」
「信頼できないってどういうことですか?」
鴨居さんが、顔を赤くしてそう一臣さんに聞き返した。
「ああ、悪い。別にアヒルが信頼できないって言っているわけじゃないぞ」
いきなり、一臣さんは優しい口調に戻ってそう言った。鴨居さんは、ほっとした顔をして背もたれにもたれかかり、
「コネがない分、日吉先輩は相談に乗ってくれたんだと思います」
と、静かな口調でそう言った。
「…なるほどな」
一臣さんは腕を組みながら、デスクからソファに戻った。
「それで、古淵係長の推薦で、秘書課を受けたのか」
「係長の推薦かどうかはわかりません。でも、課長から秘書課の面接を受けてみたらどうだと言われて、それで受けることにしたんです」
「そうか。わかった。じゃあ、もう一つ、聞きたいことがある」
「あ、はい」
かなり、緊張がほぐれたようで、鴨居さんは普通に一臣さんの顔を見て、頷いた。
「俺の噂はどこで仕入れた?」
「噂ですか?」
「秘書課の女に手を出しているとか、そういう噂だ」
「それは、私が秘書課に移動すると言ったら、周りの人がみんなして、一臣様に気をつけろと…」
「…ふん。みんながそう思っているってことか。じゃあ、弥生が俺のフィアンセだってことは、聞かなかったのか」
「はい。そこまでは」
「仮面フィアンセの噂はどこで聞いた?」
「日吉先輩からです。日吉先輩だけは、一臣様はみんなが噂するような人じゃないって言っていました」
へえ。そうなんだ。日吉さんって、後輩思いだし、さすがプロジェクトチームの一員だけあって、一臣さんのことわかっていたのかな。
「仮面フィアンセだと、日吉から聞いたのか?」
「はい。一臣様はあまりフィアンセのことをよく思っていないので、表面でだけ仲良く見せているんだと。でも、会社のためにそうしているのだから、一臣様のことを責めたりしたら悪いって…」
「日吉はいつ、そんなことをお前に言ったんだ」
「…秘書課に移動になる前です。周りの噂に惑わされず、ちゃんと秘書の仕事をしたら認められて、一臣様の秘書になれるかもしれないと」
「へえ、そうか」
「一緒にお仕事をしていて、一臣様の仕事熱心さや、会社に対する誠実な思いを知ることができた。一臣様の秘書になれるなんて、光栄なことなんだって、そんなことも言っていました」
すごい。そこまで、日吉さん、一臣さんのこと見抜いていたんだ。それで、鴨居さんは一臣さんの秘書になろうと最初から目指していたんだな。
「わかった。鴨居、もう帰っていいぞ。悪かったな。わざわざ、こんなところまで呼び出して」
「え?いいえ」
「エレベーターで14階まで送ります」
樋口さんがそう言うと、鴨居さんは恐縮してしまった。
「大丈夫です。一人でも戻れますので」
「いいえ。本来でしたら、鴨居さんが15階に来ることはできないので、どなたかに見つかったら怒られますよ。わたくしが一緒でしたら大丈夫ですので」
「え?そ、そうなんですか?」
「15階は、役員クラスの人間か、その秘書しか来れない場所だからな」
一臣さんがそう言うと、鴨居さんはなぜか、一臣さんのオフィスを見回した。
「一臣様の秘書になれたら、ここに来れるんですね」
「秘書は辞めるんだろう?」
「え?あ、はい」
鴨居さんは一瞬、うっとりとした表情を見せたが、すぐに我に返ったようだった。
「まあ、すぐに辞めないでもいい。もう少し考えてから結論を出しても構わないからな」
一臣さんはまた、優しい表情でそう鴨居さんに言った。鴨居さんは「はい」と頷き、部屋を樋口さんと出て行った。
「む~~~~~」
鴨居さんがいなくなると、いきなり一臣さんは難しい顔をして、紅茶を飲んだ。それから、しばらく黙り込み、
「弥生、樋口が戻ったら、屋敷に帰るぞ」
と、唐突にソファを立ち上がった。
「え?あ、はい」
そして私の腰をグイッと抱き、一臣さんの部屋に入ると、
「今日は一緒に風呂に入るぞ。いいな?」
と、私を抱きしめた。
うわわ。いきなり、いつものスケベな一臣さんになった。
「一緒に…入れるんですか?」
「ああ。弥生の体も念入りに洗ってやるぞ」
きゃわ~~~。そんな恥ずかしいことを言われても、なんて答えていいか。はい、どうぞって言うのも変だし、自分で洗うと言うと、きっと拗ねちゃうし。
「部屋ではいちゃつくぞ。だが、龍二がいるからな。部屋の外ではそっけなくするぞ、いいな?」
「あ、はい」
そうだった。また、冷たくされちゃうんだった。覚悟しないとな。でも、龍二さん、味方になったんだっけ。
味方。
味方って?
自分でも「味方になる」とか言っておいて、何をどうしたらいいかもわかっていない。ただ、龍二さんがもし、一臣さんのことを慕っているとしたら、また仲良くなったらいいのになあ、ってそんなことを漠然と思っている。
そして、早くに龍二さんの前で、仲の悪いふりをしないでもよくなったらいいのにな。