~その17~ 真相を聴く
「一臣様、如月様と赤坂様がお見えになりました」
インターホンから、樋口さんの声が聞こえた。
「わかった」
一臣さん、いつもより表情が硬い。私まで緊張してきた。
「弥生、親父の応接室に行くぞ」
「総おじ様の?」
「ああ。他の誰かに婚約破棄の話なんか聞かれたら困るからな」
「社長室の応接室っていうのが、あるんですか?」
「ああ、ある。外部に絶対に内容が漏れないくらい、厳重に守られている部屋だ」
そんな部屋があるんだ。驚いた。
私と一臣さんは、樋口さんと共にまた社長室に向かった。そして、樋口さんがIDカードをかざし、またデスクだけある部屋に入って、樋口さんは、右端にある扉にIDをかざして、ドアを開けた。そこは、立派な応接室だった。
真ん中に長細いテーブルがあり、それを囲むように、三人掛け、二人掛けのソファがそれぞれ一つずつと、一人掛けのソファが三つあった。
「弥生ちゃんもお茶でいいかな?」
すでに総おじ様は一つのソファに座っていた。一臣さんは私の背中に腕を回したまま、二人掛けのソファに腰かけた。なので、私もその横にちょこんと座った。樋口さんはまた、部屋に入らず外に出て行った。
「はい。お茶でいいです」
「もうすぐ、如月氏と赤坂氏も来るよ。今、青山が一階まで迎えに行っているからね」
「まだ、瑠美ちゃんは来ていないんですね」
「ああ。高仁氏と娘さんが見えたら、僕の第一秘書の辰巳が迎えに行くからね」
「辰巳さんって、あの強面の」
あ、いけない。変なこと言っちゃった。
「あはは。そうそう。むすっとしていて、怖いでしょ?高仁氏もきっと辰巳が迎えに行ったら、大人しくなるんじゃないかと思ってね」
「……はあ」
なんだか、総おじ様って、お茶目な人だよなあ。
トントン。ノックの音の後、
「社長、上条如月様と、赤坂冬馬様をお連れしました」
という、青山さんの声が聞こえた。
「ああ。どうぞ、お通しして」
ピッというIDをかざす音がして、ガチャリとドアが開いた。
「高仁おじさんと瑠美ちゃんは、まだですか?」
そう言いながら、兄が入ってきた。その後ろにトミーさんの姿が見えた。
「うん。まだだよ。さあ、中に入って」
総おじ様は、ソファから立ち上がり、二人を出迎えた。一臣さんは座ったままだ。私も立ちあがろうとしたけれど、一臣さんにしっかりと腰を抱かれていて、立てなかった。
「悪いな、如月、トミー。忙しいのに」
一臣さんが座ったままそう声をかけた。兄は、
「いや。こちらこそ、叔父が迷惑をかけて申し訳ない」
と恐縮そうに言ってから、一人掛けのソファに腰掛け、トミーさんは、
「初めまして。赤坂冬馬です」
と総おじ様にお辞儀をした。
「親父とは初対面だったか?トミー」
「トミー?っていうのは愛称かな?トミー君。どうぞ座ってくれたまえ」
総おじ様はそう言ってから、腰掛けた。トミーさんも、遠慮がちに一人掛けのソファに座った。
「瑠美ちゃんはどうやら、高仁おじさんに真実を話していないようだよ、トミー」
「OH!じゃあ、まだ上条高仁氏は、ルミとオミを結婚させようと躍起になっているのかい?」
トミーさんが頭を手で押さえながらそう言った。
「オミっていうのはまさか、一臣の愛称かい?」
総おじ様が、にこにこしながらトミーさんに聞くと、
「あ、はい。そうです」
とトミーさんが頷いた。総おじ様は一臣さんをちらっと見て、
「仲がいいんだねえ。驚いたなあ」
と、目を細めて笑った。
「今はそんなこと、どうでもいいだろ。それより、瑠美って女、何を企んでいやがるんだ」
眉間に皺を寄せ、一臣さんは考え込んだ。足を組み、左手を顎に当て、そして右手はしっかりと私の腰を抱いている。
なんだって、ずうっと私の腰を抱いているんだろう。べったりと私を自分の体に引き寄せたままでいる。
ブルルル…と応接室の電話が鳴り、総おじ様が立ち上がって電話に出ると、
「ああ。連れてきてくれ」
と、突然クールな低い声でそう言った。さっきまでの、お茶目な総おじ様と雰囲気がまるで違う。
「高仁氏が着いたようだよ」
「今の、辰巳さん?」
「ああ」
「親父、高仁氏の前では、どっちの顔をするつもりなんだ?」
え?どっちの顔って?
「いつもの顔だよ。この前もそうだっただろ?」
「そうか」
いつもの顔って、どういうこと?あ、今の総おじ様の顔ってことかな。穏やかで、時々お茶目に笑う。
と思っていたら、大きな勘違いだった。
辰巳さんが、高仁おじ様と瑠美ちゃんをお連れした。ドアを開き、
「社長、お二人をお連れしました」
と、顔を一切あげず、ものすごく丁寧にそう言ってからも、お辞儀をしたままでいた。
総おじ様は、すくっとソファから立ち上がった。そして、
「どうぞ。中にお入りください」
と、兄とトミーさんを招き入れた時とは、まったく違った口調でそう言った。
兄とトミーさんにも緊張が走った。そして、一臣さんの顔まで変わり、クールな顔つきになった。
「う、うむ」
高仁おじ様が、むすっとしたまま入ってきた。でも、瑠美ちゃんは入り口で、トミーさんを見つけて顔をひきつらせ、立ち止まっている。
「瑠美、どうしたんだ?こっちに来なさい」
高仁おじ様の言葉で、ようやく瑠美ちゃんは足を動かした。でも、まったくこっちを見ないで、うつむいたままだ。
「お茶の用意をするよう、青山に伝えてくれ」
総おじ様は、威厳のある声でそう辰巳さんに言うと、辰巳さんは、
「は!」
と一礼して、静かにドアを閉めて出て行った。
あの、強面の辰巳さんが、ひれ伏すようにしていた。ちょっとびっくりだ。
総おじ様を見ると、高仁おじ様と瑠美ちゃんが座るのを確認してから、深々とソファに座り、まっすぐと二人を見つめている。
「この前、一臣の話を聞き入れてもらえなかったので、今日は如月氏と赤坂氏にも来ていただきましたよ」
総おじ様、怖い。話し方から声から顔つきから、出ているオーラもまるでいつもと違う。一臣さんのバースディパーティでも、もっと穏やかだった。重役会議で見た総おじ様は、確かに威圧感があったけれど、ここまで怖くなかったよ。
さっき、いつもと同じって言ってなかった?これが、いつもの顔なわけ?
「赤坂君って言ったね。君は瑠美と面識があるのか」
「はい。ありますよ。イギリスで会いました。ね?ルミ」
「……いえ」
「え?」
「あ、はい」
瑠美ちゃん、挙動不審だ。さっきから、落ち着きがない。ずっと俯き、ちらっとトミーさんの顔を見ると、すぐに視線を下げた。でも、そのあとまた目線をあげ、私の腰に回っている一臣さんの手を見たようだ。それも、じっと見ている。
瑠美ちゃんだけじゃない。高仁おじ様も私の腰をしっかりと抱いている一臣さんの手を見てから、私と一臣さんを順番に見た。
「仲がいいというところを、見せつけているようだね。だけど、内情は知っているよ。本当は弥生ちゃんとの婚約をとても嫌がっていたこともね」
高仁おじ様は、一臣さんの顔を睨むようにしてそう言った。
「本当に仲がいいですよ。この二人は。いつも、こんなふうにべったりくっついていますからね」
そう答えたのは、総おじ様だ。
「…騙されないぞ。いや、本当はな、一臣君みたいなやつに、大事な娘をやりたくなんかない。それは、大成だって同じ気持ちなんじゃないのか。いや、如月君、君も反対していたって聞いたぞ!」
わあ。今度は兄まで巻き込んだ。
「はい。反対していましたよ。なにしろ、一臣君には、いい噂がありませんでしたからね。ですが、今はちゃんと弥生のことも大事に思って…」
「そんなことは聞いていない。私が言いたいのは、うちの娘の貞操を簡単に奪っておいて、他の女性と結婚しようとしている根性が気にくわん。いや、これは上条家の家訓なんだ。絶対に守ってもらう。そして、瑠美を大事にすると約束しろ」
出た。ハチャメチャな言い分。高仁おじ様って、もっと明るくて楽しい人だと思っていたのに。いつも、社交的だし、笑顔を絶やさない感じだったし。やっぱり、大事な娘のことになると、人が変わっちゃうものなのかな。
隣から、ふうっと小さなため息が漏れた。ちらっと一臣さんを見ると、片眉を思い切りあげていた。
「身に覚えがないと、何回言ったらわかるんですか。それに、僕じゃないですよ。あなたの大事な娘さんに真相を聞いたんですか?」
「瑠美は、一臣氏が酔った勢いで襲ってきたと言っている」
「なんだって、そんな嘘を言うんだ。あんた、ここにいるトミーが初体験の相手なんだろ?」
「それは!」
瑠美ちゃんは顔をぱっとあげた。そして、トミーさんと目が合い、また思い切り下を向いた。
「言いがかりは寄せって言っているだろ」
高仁おじ様は、声を震わせた。
「言いがかりではないです。上条家の家訓に従うならば、僕がルミと結婚をしなければならない」
トミーさんは、とても冷静に高仁おじ様にそう告げた。
「瑠美!トミーという男のことは知らないと私には言ったな?でも、会ったことがあるのか」
「…はい。ごめんなさい。私はトミーではなく、トーマスって呼んでいたから別人かと」
嘘だ。だって、結婚式のあと、トミーさんを見て、逃げて行ったんだから、トミーさんとトーマスが同一人物だって知っていたはずだよ。
「あんた、なんで嘘を言うんだ。弥生に恨みでもあるのか?」
一臣さんが低い声で、瑠美ちゃんを責めるように聞いた。
「う、嘘じゃない…です。あの時、一臣様はすごく酔っていたから、きっと覚えていない」
「俺は、酒を飲んだ後は、女を抱かない。飲み過ぎたとしたら尚更だ」
え?でも、旅行行った時も、一昨日も、しっかりと私のことを抱いたよね。お酒飲んだ後にだって。
そんなことを思いつつ、ちらっと一臣さんを見た。でも、一臣さんはまっすぐ前を向いたまま、話を続けた。
「それに、万が一、その時に何か俺と間違いがあったとしても」
「間違いだと?間違いで済ませるのか!」
一臣さんが話をしているのに、高仁おじ様がいきなり切れてそう大声を上げた。するとすかさず、
「話を最後まで聞いたらどうです?」
と総おじ様が、とても静かに高仁おじ様に諭すように言った。高仁おじ様は、「う…」と言って黙り込んだ。やっぱり総おじ様、今日は違っている。座っているだけでも、威圧感がある。
「確か、上条家の家訓は、結婚まで操を守る、もしくは初めての相手と結婚する…でしたよね?」
念を押すように一臣さんはそう言ってから、
「だから、僕が瑠美さんと結婚するのではなく、ここにいる赤坂氏が責任を取らないとならないわけですよ」
と、クールにそう言い放った。
なんだか、一臣さんも一回熱くなりかけたのに、総おじ様の態度が落ち着いているからか、一臣さんまで落ち着きを取り戻したなあ。
あれ?でも、私の腰を抱く手に、今、ぎゅっと力が入った。
「じゃあ、赤坂氏が、うちの娘をたぶらかしたと言うのか」
「たぶらかしただなんて、とんでもない。僕は本気でルミを愛していた。ルミもそうだと思っていた。だけど、僕のほうがふられたんですよ」
「なんだと?」
「ルミは、ひと夏だけの恋として終わりにしたいと言ってきたんです」
「………」
瑠美ちゃんは、今にも泣きそうになるのをこらえているのか、ぐっと唇を噛んだ。顔は青ざめ、さっきからずっと俯いている。
「瑠美、こいつらは嘘を言っているんだろう?」
そう言う高仁おじ様の声も、必死に聞こえないふりでもしているように、瑠美ちゃんは目も閉じた。
「ルミ、本当のことを話したらどうだ?弥生とオミの婚約の邪魔なんてしないで。なんだって、二人の仲を引き裂こうとするのかい?」
「仲を引き裂く?そんなつもりないです」
瑠美ちゃんは、ふるふると震えながらそう言ってから、やっと顔をあげて私と一臣さんを見た。
「私だって、本当のことを知っています。一臣様がどんなに女癖が悪く、酷い男かも。そして、弥生ちゃんが何度も泣かされているってことも」
「は?」
一臣さんが片眉を思い切り上げて聞きかえした。
「確かに、一臣氏は女癖が悪かったかもしれない。でも、今はちゃんと弥生のことを真剣に…」
「騙されているんです、如月さんは!」
「瑠美ちゃん、私、何度も泣かされてなんか…」
「私は、久世さんから事情を聴いています。弥生ちゃんは、大学の時から一臣様を慕っていて、会社に入ってからも、一臣様に健気に思いを寄せているのに、一臣様にはまったく相手にされず、いつも泣かされているって」
「久世がそんなことを言っていたのか?」
ブルブルっと一臣さんの、左手の拳が震えた。それに、私の腰を抱いていた手にも熱が加わった。
「じゃあ、瑠美ちゃんは、弥生の身代わりにでもなろうとしたのか?」
「いいえ。如月さん、そういうわけじゃないです。身代わりというより…、私のほうが、一臣様を相手にしても大丈夫だって思ったからです」
「どういうことだ?瑠美」
ずっと黙って聞いていた高仁おじ様が、口を開いた。高仁おじ様は、顔を青ざめさせている。本当は聞きたくないのに、どうにか口を開いて聞こうとしているように見えた。
「お父様。わたくし、お父様が思うような純粋で、穢れを知らないような女性ではありません。弥生ちゃんは、上条家の家訓を守ってきたかもしれない。結婚する相手に捧げるまではきっと、貞操も守っていたと思います」
そう瑠美ちゃんが言うと、一臣さんは隣で頷いた。
「じゃ、じゃあ、瑠美は…」
「トーマス、いえ。赤坂さんが言うように、わたくしは、19歳の時、イギリスで赤坂さんに捧げました」
「な、なんだと?19の時にだと?」
高仁おじ様の顔色がもっと悪くなった。
「はい。ごめんなさい。お父様には言えませんでした。絶対に叱られるだろうし、イギリスから日本に連れ戻されると思ったんです」
「……」
高仁おじ様は、瑠美ちゃんを真横で見つめながら、眉間に思い切り皺を寄せた。顔が小さく小刻みに震え、怒りを抑えているようにも、ショックを隠そうとしているようにも見えた。
「上条家の家訓も知っていました。トーマスに、日本に帰ったらちゃんと付き合おうとも言われました。でも、そんな約束を守ってくれるわけないだろうと思ったし」
「なんで?ルミ。僕は真剣だったよ」
「だって、あの頃トーマスは、世界を回るっていう夢があって、まさか、上条グループで働いたり、如月さんの部下になるなんて思わなかったし」
「え?」
「全部、ひと夏の夢で終わらせたかった。いい思い出のままにして、私の胸に仕舞い込んでおくつもりだったの。あなたが、私の初めての相手だってことも、絶対に誰にも知られないように黙ってた。でも、セックスをしてしまったら、初めてじゃないってことがばれちゃうかもしれない」
「それで、見合いを断り続けていたのか?瑠美」
「それもあります。でも、一番の理由は、縛られるのはもう嫌だったんです」
「どういうことだ?」
「お父様が選ぶ見合いの相手、どの方も、私を家に縛り付けようとした。わたくしはもっと自由に、どこにでも行きたいし、仕事だってしたい。世界だって飛び回りたかった」
「だから、見合いをしても断り続けていたのか?」
「そうです。結婚なんてしないでもいいくらいなんです。でも、お父様は、わたくしが独身でいることに対して、肩身の狭い思いをしていらっしゃったし、仕事をするのも反対していた。だから、なんとか、わたくしを自由にしてくれる方と結婚しようと思ったんです」
「それで、僕と結婚したら自由でいられるとでも思ったわけですか?」
一臣さんが、クールな表情で瑠美ちゃんに聞いた。トミーさんも、兄もずっと黙って聞いているだけだった。総おじ様は、とても厳しい目つきで、瑠美ちゃんを見ていた。
「はい。でも、一臣様の前に、わたくしは広末物産の跡継ぎの方とお付き合いをしました。彼は、自由な人でした。恋愛に対しても、縛ることなく、わたくしを自由にしてくれていました。この人なら結婚してもいいかもしれない、それに、お父様も許してくれるかもと思ったんです」
「だが、広末物産の御曹司は、別の女性と結婚した…」
そう兄が瑠美ちゃんに言うと、瑠美ちゃんは黙って頷いた。
「彼には、前から決まっていたフィアンセがいたんです。わたくしだけが、知らなかった。他にも彼はお付き合いをしている女性がいました。その方たちは、そのことを知りながらも付き合っていたんです。みんながみんな、恋愛に対して自由でした。彼は、わたくしもフィアンセがいながらも、付き合っていると思っていたようで」
「なるほどね。確かに自由だな」
兄がそう言って、ちらっと一臣さんを見た。
「それで、次に狙ったのが、一臣氏ってわけか?」
「狙ったわけじゃありません。ジョージ・クゼのお店や、ファッションショーで会った久世さんが、私が弥生ちゃんのいとこだって知って、弥生ちゃんと一臣様が結婚するのをどうにか阻止したいと言ってきたんです」
「久世が…」
また、一臣さんが眉間に皺を寄せた。
「そこで、私も思い出したんです。数年前、一臣様とパーティで会って、一臣様がものすごく酔って、わたくしのマンションに泊まったことを」
「泊まった?俺がか?」
「覚えていないんですね。それだけ酔っていましたものね。泥酔していたし、あの頃から一臣様の噂は知っていましたから」
「噂?」
「女性関係の噂です。確かに、酔って気分が悪いと寝てしまい、あの夜は何もありませんでした。朝方、お迎えの車が来て、ふらふらとお帰りになられましたし」
「やっぱりな」
「じゃあ、瑠美は私に嘘をついたのか?」
高仁おじ様は、項垂れながら瑠美ちゃんに聞いた。声はすでに元気がなく、相当ショックを受けているようだった。
「ごめんなさい、お父様。わたくし、一臣様と結婚したら、自由になれるって思ったんです」
「…俺が酔っぱらって、記憶も定かじゃないと思い、好都合だとでも思ったわけか」
「はい」
「酔っぱらっているから、あんたが処女かどうかも覚えていないだろうって、そうふんだんだな?」
「そうです。そうすれば、上条家の家訓を守ったことにもなるし、弥生ちゃんだって、不幸せにならないで済むし、わたくしは、お父様から解放され、今の緒方商事の社長夫人のように、海外でもどこでも自由に行けるって、そう思ったんです」
「弥生が不幸にならないでも済む…だと?」
「久世さんが、このまま一臣様と結婚したら不幸になると。ご自身で弥生ちゃんを幸せにするんだとそうおっしゃって」
「久世の言うことなんか、信用するな!弥生を幸せにできるのは俺だけだ!」
うわ。一臣さんが切れた。こめかみに青筋が立っているし、思い切り、テーブルまでバンと強い音を立てて叩いたし…。
「それに、こんなことを言ってはなんだが、けして僕の奥さんは自由なんかじゃない。緒方財閥の総帥の嫁になるということは、簡単なことなんかじゃないんだ。自由どころか、いろんな犠牲をはらって、彼女は僕と結婚したんだよ」
総おじ様の話し方も、表情もがらっと変わった。瑠美ちゃんに優しくそう言うと、そのあと、私を見た。
「弥生ちゃんには、そんな覚悟ができている。でも、どうしてそんな覚悟ができたと思う?」
また、総おじ様は瑠美ちゃんを見た。
「弥生ちゃんはね、一臣を愛しているんだ。だから、どんな苦労も、大変なことも、乗り越えていく覚悟があるんだよ」
総おじ様?!うそ。そんなふうに思っていてくれたの?
「苦労じゃない。弥生も俺も、苦労だなんて思っていない。二人が一緒なら、たいした苦労なんかない」
「え?」
一臣さん?
「弥生がいたら、俺はなんだって大丈夫だって思えるし、弥生もそう感じている」
一臣さん。一臣さんもそう思っていてくれたんだ。
嬉しい!
「ほ~~。本当に愛の力っていうのは、素晴らしいものだね。僕は一臣が羨ましいよ。僕と妻にはそんな絆はないからね」
総おじ様はそう言うと、如月お兄様を見て、
「君も愛する人と結婚したんだったっけね?」
と静かな声で聞いた。
「はい。ですから、高仁おじさん、僕は上条家の家訓を変えようと思います。初めての相手と結婚するのではなく、愛する人と結婚する…と」
「なんだと?」
「そのほうが、より素晴らしいと思いませんか?」
如月お兄様がそう言うと、なぜか、瑠美ちゃんが泣き出してしまった。
「瑠美?どうしたんだ?」
「あ、愛する人と結婚できたら、わたくしも嬉しいです。だけど、愛する人を裏切ってしまったり、嫌われてしまったら、どうしたらいいんですか?」
「瑠美にはそんな男がいたのか」
「…わ、わたくしは、上条家の家訓だけで、愛する人を縛ることなんかできなかったんです。だって、その人は世界を旅していたんです。世界の話をするときにはキラキラと目を輝かせていて。そんな方を結婚で縛ることなんて」
「それって、トミーのことか?」
一臣さんと、ほとんど同時に兄もそう聞いた。
「僕!?」
トミーさんも、目を丸くして、瑠美ちゃんをじっと見つめた。