~その15~ 不安な気持ち
ダイニングに行くと、お母様が静かに座っていた。
「おはよおうございます」
「弥生さん、おはようございます。一臣はまた、朝食抜きかしら」
「あ、はい。多分、コーヒーだけお部屋で飲むんじゃないかと…」
椅子を国分寺さんが引いてくれて、私は腰掛けた。
「ありがとうございます」
「いいえ。弥生様、お飲み物はどうされますか」
「あ、紅茶でお願いします」
「かしこまりました」
国分寺さんは、静かにキッチンに行った。ダイニングはいつもよりも、静かだった。亜美ちゃん、トモちゃんもすごく静かに動いている。
お母様がいると、みんなの動きがいつもと変わるなあ。
それに、朝食が、洋食になるんだなあ。
「まったく一臣は…。朝ご飯ぐらい、ちゃんと食べたらいいのに。まあ、前よりも顔色も良くなったようですし、多分、夜はちゃんと寝ているんでしょうけど」
ドキン。一緒に寝ていること、お母様にもばれているのかな。
「不眠症も治ったようですね。それとも、あまり眠れず、朝も食欲がないのかしら。どうなんですか?喜多見さん」
ちょうど、私の朝食を運んできた喜多見さんにお母様が聞いた。
「はい。朝食は抜かれることが多いですが、夕飯はしっかりと食べられていますし、夜も眠れているようですよ」
「そう。だったらいいけど」
お母様はそう言うと、ナプキンで口を拭き私のほうを向いた。
「弥生さんには言っておかないとね。龍二が鷺沼京子さんと結婚したいと申し出て、今日にでも京子さんにわたくし、会って来ようと思います。もしかすると、近々、京子さんもこのお屋敷に来るかもしれません」
「え?」
「龍二が大阪に行くまでです。京子さんが龍二との結婚を承諾してくれたら、この屋敷に来てもらって、龍二が大阪に行くときは、一緒に行ってもらいます」
「…そ、そうなんですか」
なんだか、複雑。
「まだ、わかりませんけどね。京子さんは、一臣に熱を上げていましたし…」
「はあ」
だからこそ、複雑。この屋敷に来て、また一臣さんに近づくようなことはないのかなあ。
「は~~~~!眠い。なんだって、こんなに早くに起きないとならないんだよ」
ものすごくふてくされた顔で、龍二さんがダイニングに入ってきた。寝癖は酷いし、なんとスエット姿だ。
「龍二、なんですか、その恰好は」
「いいだろ。どんな格好でいても。自分の家なんだからさ」
「弥生さんに失礼ですよ」
「なんでだ?兄貴の嫁になる人間なんだから、俺には関係ないだろ」
「京子さんだって、もしかしたらお屋敷に来ることになるかもしれないんですよ」
「そうなったら、ちゃんとするよ。今はいいだろ。おい、オレンジジュース持ってきて、そこのメイド。名前なんだっけ」
「立川です」
「ああ、そうそう。弥生付きのメイドだろ?3人もいるんだろ。一人、俺に分けてくんない?弥生お姉さま」
ム!なんだ、その嫌味な言い方。
「龍二。弥生さんに失礼ですよ。あなたがこの屋敷にいる間は、大久保さんにあなたの世話をしてもらいます」
「大久保って…。おふくろに付いてるメイドじゃなかった?確か、かなりの年の…」
「失礼ですよ、そういう言い方は」
「本当のことじゃん。60近くなかったっけ?なんだって、俺にはそんなお年寄りを付けるんだよ。弥生には若いメイドつけているくせに」
「弥生さんには、年が近いほうが何かと話しやすいだろうし、気を使わないで済むだろうと思って、喜多見さんがそう決めたんですよ。一臣だって、メイドは喜多見さんだけです。文句を言わないでください、そんなことで」
ぴしゃりとお母様は龍二さんにそう言った。
「京子が来たら、誰が京子の世話をするわけ?」
「その時に考えます。それより、静かにご飯を食べなさい」
龍二さんの朝ご飯も用意が終わり、龍二さんはふてくされながら、トーストをほおばった。
「兄貴は~~?寝坊?」
「一臣は、朝食は抜きなんだそうです」
「それ、いいわけ?そういうの、おふくろ、うるさく言わないわけ?」
「……。もう、いい大人ですからね。コーヒーだけ飲んで会社に行くと言うなら、それもいいでしょう」
「兄貴には甘いんだな」
「そういうわけではありませんよ。ただ、一臣はちゃんと仕事もしているようですし、わたくしが口をはさむことは何もないようですからね」
「へ~~。あ、そういえば、弥生お姉さんは、兄貴の秘書しているんだったっけ?今日、俺、本社に顔出すから、仕事っぷりを見てやるよ。そうだ。俺の秘書は誰になるわけ?もしかして、京子?」
「京子さんは、体も弱いようですし、仕事は無理でしょう」
「そんなに弱くないと思うけどね。まあ、弥生ほど頑丈じゃないだろうけど」
ムカムカ。なんか、さっきから、私に対して嫌味ばかり言っている気がするけど。でも、ここは抑えて、抑えて。
「弥生お姉さん。兄貴は、夜這いに来たりすることあるわけ?」
「龍二!いい加減にしなさい」
「………」
さすがにお母様が切れた。龍二さんも黙り込んだ。
でも、龍二さんは横目でずっと私を見ている。なんか、嫌だなあ。
朝食が済み、私は挨拶をしてダイニングを去った。龍二さんにつかまらないよう、とっとと階段を上っていたが、後ろから「おい」と龍二さんが追いかけてきた。
あ~~あ。つかまっちゃった。
「なんですか?」
「京子が屋敷に来るって話、聞いただろ?」
「はい」
「お前、いじめたりするなよ」
「しません。そういうことは苦手ですから」
「ふ~~~ん」
しげしげと、また龍二さんが私を見た。
「な、なんですか?」
「なんか、雰囲気変った?」
「変わっていません」
何が言いたいんだ。この人。
「まあ、いいや。で、あんたさあ、兄貴にほっておかれてるの?それとも、相手にしてもらってるの?」
もう~~~。何を聞いてくるんだ、この人は。
「ど、どうでもいいでしょ。人のことは」
そう言いながら私は、どんどん2階に上がった。
「なあ、昨日言った忠告は覚えているよな」
「…はい」
龍二さんは確認するように言った後、2段抜かしで階段を上り、
「お先」
と言って、自分の部屋に入って行った。
なんなんだろうなあ。あの人。ただ、私をからかっているのかなあ。
だけど、京子さんのことは、けっこう真剣なのかな。私にいじめるなって忠告したりして。
自分の部屋に入ってから、一臣さんのドアをノックした。
「いいぞ~~~、入っても」
という、緩い声が聞こえてきて私はドアを開けた。
一臣さんは、Yシャツとスラックス姿で、ソファにくつろいでいた。片手には新聞、片手にはコーヒーカップを持ちながら。
「龍二に会ったか?」
「はい。お母様もいました。もしかすると、近いうちに京子さんが屋敷に来るそうです」
「うわ。また、面倒くさいのが来るんだなあ」
一臣さんは片眉を上げた。それからコーヒーを飲むと、ふうっと息を吐いて、カップをテーブルに置き、新聞を畳んだ。
「そろそろ行くか」
「はい」
一臣さんはソファを立ち、ネクタイを持って鏡の前に立った。そして、Yシャツの襟を立て、ネクタイをくるりと巻いた。
それを後ろから、私はうっとりと眺めていた。
かっこいいなあ。男の人がネクタイをする姿って、麗しいよなあ。それに、あの広い肩幅。男らしいなあって思っちゃう。
きゅきゅっとネクタイを締めると、一臣さんは上着を羽織り、
「さあ、行くぞ」
とアタッシュケースを持ち、涼しい顔で部屋を出た。私もカバンを持って後ろから出ようとして、
「あ。自分の部屋から出ます」
と、慌てて、内側のドアから私の部屋に抜けた。
危ない、危ない。廊下に龍二さんがいる可能性もあるんだもんね。
そして、自分の部屋から廊下に出ると、一臣さんの姿はすでになかった。
早いなあ。一人だと歩くのも早いよね。いつも、私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いているんだろうなあ。
階段を降りると、玄関を出ようとしている一臣さんが見えた。そして、玄関から出ると、
「あっち~~。蒸し暑いな、今日は」
と一臣さんの文句を言っている声が聞こえてきた。
確かに。なぜか、屋敷の中はいつも涼しい。特にエアコンがついているわけではないようだ。部屋もいつも、肌寒さを感じるくらいなんだけれど、外のほうが蒸すなんて…。
だけど、まだ緒方家は緑も多いし、高い木も多いので、心地がいい。会社に着くと、暑さはさらに増す。社内はもうエアコンがきいているから、蒸し暑くはないけれど。
「弥生、乗れよ」
「え?」
一緒の車でいいの?
私は一臣さんのあとに続いて車に乗った。
ドアを等々力さんが閉めて、運転席に乗り込んだ。いつものように、助手席から、樋口さんがクールに挨拶をする。
「あの、私、一緒の車でいいんですか?」
「ああ。俺の秘書をしているって、龍二も知っているんだろ?だったら、問題はない」
わあい。嬉しい。また別々に会社に行かないとならないかと思っちゃった。
「龍二は誰の車で行くんだ?」
「中野島さんの車で行かれます」
「ああ。親父の運転手の一人…」
「はい」
そう樋口さんが物静かに答えた。
私は一臣さんの隣でうきうきしていた。それが、一臣さんに伝わったようだ。
「ん?何で弥生ご機嫌なんだ?」
「え?それは、一臣さんと同じ車に乗れたから」
「くすくす」
いきなり、さっきまで静かだった樋口さんが笑った。
「本当に嬉しそうですねえ」
等々力さんもバックミラーで私を見て、微笑んだ。
「は、はい…。だって、龍二さんがいるから、別々に会社に行かないとならないかって思ったんです」
かあ~~。なんだか、恥ずかしいなあ。朝からお二人に笑われた。
「あ…忘れた」
突然、一臣さんが私の顔を見てそう呟いた。
「お忘れ物ですか?お屋敷に引き返しますか?」
そう等々力さんが聞いた。車はすでにお屋敷を出て、スピードを上げ始めていたところだった。
「いや。屋敷に忘れたわけじゃない。まあ、いいか。俺のオフィスですれば」
「……お仕事ですか?」
私は首を傾げなからそう聞いた。すると、一臣さんは私の腰を抱き、私の耳元に口をつけ、
「キスだ。お前にキスをするのを忘れた」
と囁いた。
うひゃ~~!何を言い出すんだ。もう!恥ずかしくて私の顔が猛烈に熱くなった。
「あほ。そんなに真っ赤になるな」
一臣さんに鼻をつままれた。
「なあ、樋口、今日の昼は弥生と食えそうか」
「お忙しいですね。でもなんとか、時間があくように調整してみます」
「ああ、頼む。もう分刻みのスケジュールは嫌だぞ。それに、夜遅くなるのも…。屋敷には龍二がいるんだし、弥生一人を先に帰らせるのも不安だ」
「そうですね…」
樋口さんはそう言うと、スケジュール帳と睨めっこをし始めた。
一臣さんは私の指に指を絡めた。
私も、できたらずっと一臣さんと一緒にいたいよ。車内では、なるべく一臣さんのことを感じていたくて、私から一臣さんにべったりとくっついてしまった。
そして会社に着いた。役員専用のエレベーターで、樋口さん、一臣さんと15階に行き、一臣さんのオフィスに入った途端、電話が鳴った。
「はい。樋口です」
樋口さんが、素早く電話に出て、
「はい。お待ちください」
とすぐに一臣さんと電話を替わった。
「お父様からです」
「こんな朝っぱらから?」
そう言いながら一臣さんは電話に出た。そして、数分話すと、思い切りムッとした表情になり電話を切った。
「ああ。ほらな。会社に着いた途端、頭の痛いことが飛び込んできた。樋口、社長室に行くぞ。あ、そうだ。いい機会だから、弥生も親父の部屋見せてやるから一緒に来い」
「え?はい」
「いいんですか?一臣様。何か問題があったのではないんですか?」
樋口さんが、少しいつものクールな表情を崩してそう一臣さんに聞いた。
「いいや。あの、瑠美って女のことだ。弥生にも関係があるから、弥生も連れて行く」
瑠美ちゃんのこと?ああ~~~。一臣さんじゃないけど、朝から気がめいる。
う~~。でも、気持ちを変えないと。落ち込んでいる場合じゃないよね!
一臣さんは私の背中に腕を回し、私と一緒に廊下を歩いた。その少し前を樋口さんが歩いていく。
15階のエレベーターホールから、一臣さんのオフィスは近い。その奥へは一回も行ったことがなかった。
廊下にはフカフカな絨毯。ところどころに、壺や絵画。ドアというドアが、14階とは違った重厚な感じの扉。それも、全体的に落ち着いた色合いで、本当に会社じゃなくて立派なホテルのようだ。
そして廊下の一番奥に、もっと重厚そうな重々しい扉があり、そこに樋口さんがIDをかざし、扉を開けると、さらにいくつかの扉があった。それに、デスクがあり、その上に電話機も置いてあった。
「…なんか、物々しいというか、厳重なんですね」
私は一臣さんに小声で言った。扉の中にはすでに、2カ所も監視カメラがついている。
樋口さんは、受話器を取り、番号を押すと、
「樋口です」
と一言告げた。
「どうぞ」
受話器から、女性の声がもれて聞こえてきた。樋口さんは、また一つの扉の前でIDをかざし、その扉を開けて、私たちを先に通し、樋口さんは扉を閉めた。
「一臣様、お待ちしていました。あら、今日は弥生様もご一緒ですの?」
そう聞いてきたのは、今日も体の線がぴったりと出るセクシーなスーツを着た青山ゆかりさんだ。
「ああ。親父は?部屋?」
「はい。お待ちです」
青山さんがインターホンで、
「一臣様と弥生様がお見えになりました」
とそう告げた。
すると、
「一臣か?中に入っていいぞ」
という、総おじ様の声がインターホンから聞こえた。
そして、一臣さんは、その奥にあるこれまた厳重そうな扉を開けて、私を引き連れ中に入った。でも、樋口さんは中には入ってこなかった。
「弥生ちゃんも来てくれたんだね!どうぞ、ここに座って。何か飲むかい?おやつはいるかな?」
「いい。弥生は子供じゃないんだぞ、親父。それより、またあの高仁って親父が何か言ってきたのか?」
一臣さんは、総おじさんがデスクの椅子から立ち上がり、私に向かってニコニコと話しかけてきたのにそれを遮り、私の腰を抱いたままソファに座った。だから、私も一臣さんの隣に座る羽目になった。
「あ、あの…」
「なんだ。お茶の用意をさせようと思ったのに」
総おじ様は残念そうな顔をしながら、私の前にある一人掛けのソファに腰かけた。
私はくるっと部屋を見回した。一臣さんのオフィスとはまた違う。もっと、デスクもソファも、本棚や置いてあるものすべてが、重厚な感じだ。色合いは濃いブラウンで統一され、一臣さんの部屋よりさらに一回り大きい。ソファも革張りで、調度品も置いてあり、壁には額が、棚にはなぜかトロフィーが並んでいる。
そして、その棚にはお酒の瓶もずらりと並び、綺麗なワイングラスや、いろいろな形をしたグラスが並んでいる。
でも、一臣さんみたいに隣に部屋はないようだ。扉は私たちが入ってきた扉一か所だけ。
「で?早く本題に入れよ、親父。俺も暇じゃないんだよ」
「上条高仁氏から、今日、娘と一緒に一臣氏と社長に会いに行くと連絡が朝早くに入ったんだよ」
「やっぱりそう来たか。でも、娘から真相を聞いているんじゃないのか?」
「う~~ん。よくわからないんだが、弥生ちゃんとの婚約をないものにして、うちの娘と婚約させると、まだ言っていたから、娘さんから真相は聞いていないと思うね。もし、聞いたとしても信じていないんじゃないのかな」
「私との婚約をないものに?!」
私はびっくりして、総おじ様に思わず聞いてしまった。
「弥生ちゃん、心配はいらないよ。そうならないよう、こっちも策を練ろうと思って、一臣を呼んだんだ。確か、上条グループの赤坂君が、真相を知っているようなことを昨日言っていたよね?」
「そうだよ。あいつが、瑠美って女の貞操奪ったんだ。だから、あいつが本当なら、瑠美と結婚しないとならないんだよ」
「今日、赤坂君を呼べるかい?」
「ああ。如月に連絡してみる。いや。今すぐに聞いてみるよ」
一臣さんは携帯を内ポケットから取り出し、すぐに如月お兄様に電話をした。
ドキドキドキドキ。どうしよう。心臓が早く鳴りだした。
不安だ。ううん。大丈夫だ。
でもやっぱり、不安だ。
もし、婚約破棄することになったらどうしよう。
ううん。大丈夫。
そんな気持ちがいったりきたりして、途端に私は落ち着かなくなってしまった。