~その2~ プロポーズ!?
5時半を過ぎ、6時近くになり、仕事が終わった人から帰り支度を始めた頃、
「上条さん、仕事終わったなら15階に戻っていいわよ」
と細川女史に言われた。
「あの、まだちょっと」
私は自分に与えられた仕事を終え、矢部さんのデータ入力のチェックをしているところだった。
「お先に」
大塚さんはとっとと片づけをして、部屋を出て行き、大塚派の人も後を追うように出て行った。残ったのは、男性陣と江古田さんと、新人二人。
「上条さん、手伝いましょうか?」
「大丈夫です。私もすぐに終わるから」
本当は、簡単に終わるチェックだ。特に矢部さんのだから、直す箇所もない。だけど、一臣さんから戻って来いと言われていないので、どうも15階に行きにくかった。
さっきだって、何も言ってくれなかったし。
あ、私、もしかして拗ねているのかなあ。
6時を回った。江古田さんも男性陣も帰って行き、矢部さんも仕事が終わったようだった。でも、鴨居さんはまだ入力が終わっていないようだ。
「細川女史、弥生はまだそこにいるか」
あ!ようやく一臣さんからインターホンでお呼びが来た。
私は今やっていたチェックを早々と済ませ、終わらせた。でも、
「これから、副社長の部屋で打ち合わせがあるから、弥生に先に帰れと言っておいてくれ」
と、一臣さんは一言そう言って、インターホンを切ってしまった。
「上条さん」
細川女史が私を見た。
「聞こえていました」
「今の仕事終わったら、もう上がっていいわよ」
「はい、今、終わりました」
私は寂しく席を立ち、
「お先に失礼します」
と言って、部屋を出た。すると後ろから、
「お先に失礼します。待ってください、上条さん」
と矢部さんも慌てて出てきた。
「お疲れ様です。私も仕事終わったから、あの…、良かったら少しお話でも」
「え?はい。じゃあ、荷物持って降りてきますから、ちょっとエレベーターホールの椅子で待っていてください」
「はい」
矢部さんからお誘いを受けるなんて、ほんのちょっと嬉しいかも。
それから、15階に行った。一臣さんのオフィスは暗く、静まり返っていた。でも、部屋は一臣さんのコロンの残り香がしていた。
「寂しいなあ」
お屋敷に一臣さんも帰ってくるんだから、すぐに会えるのに、今日はやけに寂しく感じる。
昨日まで、べったりだったからかなあ。
ううん。今日の朝だって…。
朝、車の中で一臣さんと私は、またべったりとくっついていた。それに、エレベーターでもベタベタしていたし、ちょっとさっき、一臣さんに無視されたからって、寂しくなったりしないでもいいのに。
ため息をつきながら、一臣さんのオフィスを出て、14階に行った。そこで矢部さんと会い、またエレベーターに乗り込み、私たちは1階に降りた。
「矢部さん、お話っていうのは仕事のことですか?」
「はい。でも、他にも色々と上条さんとお話がしたいと思っていたんです。良かったらどこかでお茶、できませんか?」
「いいですよ。今日は一臣さんも遅くなるようだし」
そう話しながら、私たちはビルを出て、前のビルの一階のカフェに入った。
矢部さんは、仕事の時と雰囲気が違っていた。仕事の時より、リラックスしているのか、顔つきまで違って見えた。
「私、上条さんみたいな秘書になりたいんです」
しばらく、仕事の話をしていたら、突然矢部さんがそんなことを言い出した。
「え?私ですか?」
「はい。仕事もなんでもてきぱきこなすし、一臣様に信頼されているし、私たちの面倒見もいいし、アドバイスも的確だし。すごいなあって、ずっと思って見ていました」
うそ。ちょっと今、鳥肌が立っているんだけど。どうしよう。
「わ、私がですか?」
もう一度確認してみた。
「はい。上条さんが私の目標です」
うわあ。驚きだあ。だって、矢部さんのほうが年上だし、それに、仕事だってできるのに。
「矢部さんこそ、いつもデータ入力完璧だし、仕事早いし、すごいなって私は思っていました」
「本当ですか?そう言ってもらえて、すっごく嬉しい」
今の、いつもクールな矢部さんと同一人物とは思えないほどの喜びよう…。顔を赤らめ、とっても嬉しそうに笑っている。
「私、パソコンも独学なんですけど、頑張りました。資格も昨年取ったんです」
そうなんだ。すごい努力家さんなんだ。
「特に取り柄がなくて、パソコンくらいは人並みにできるようになりたくて」
「人並み以上ですよ。自信を持って大丈夫です」
私がそう言うと、また矢部さんは嬉しそうに笑った。そして、
「上条さんにそう言ってもらえると、自信が本当に出てきます。ありがとうございます」
とお礼を言われた。
「と、とんでもない。私が目標だなんてそんな低い目標を持たず、もっともっと上を目指しても大丈夫ですよ」
私は慌ててそう右手を左右に振りながら言うと、
「いいえ。私も上条さんや、細川女史に認められ、早くに頼られるくらいの秘書になることが、何よりも今の目標なんです」
と真面目な顔つきで矢部さんは答えた。
真面目なんだな。もしかすると、こういう人が一臣さんの秘書にも向いていたりして。
「一臣さんの秘書にもなりたいですか?」
私はそう矢部さんに聞いた。
「そうですね。一臣様は近い将来副社長になるんですよね。そんな方の秘書になれたら、嬉しいですね。でも、一臣様の秘書になるには、信頼されることが一番の条件なんですよね」
「はい」
「難しいです。どうやって信頼を得たらいいのかわかりません」
「今のまま、仕事を真面目にこなすことが一番かもしれません。だけど、矢部さんだったら大丈夫だと思います」
「ありがとうございます。やっぱり、上条さんはすごいですね」
「え?」
「人に力を与えることができるんですね」
「力?」
「はい。さっきから、上条さんの言葉には、優しさやパワーがあります。人を元気にさせたり、勇気づけるパワー」
「私の言葉がですか?」
「はい。私、すごく自信を持てました。ありがとうございます」
そう言って矢部さんは、またにこりと微笑んだ。その顔は輝いていた。
私はその輝いた笑顔を見て、とても嬉しくなった。それからも、私たちはいろいろと話に花を咲かせ、カフェを出たのは1時間後だった。
「すみませんでした。話混んじゃって」
「大丈夫です。矢部さん、気を付けて帰ってくださいね」
「はい。お疲れ様です」
カフェの前で私たちは別れた。
さて。どうしようかな。もしかして、一臣さん、用事終わっていないかな。そんなことを思いながら、緒方商事のビルを見上げた。最上階、どのあたりが一臣さんの部屋だろう。それすらわからないし、明かりがついているかどうかも確認できない。
「電話入れても、今、打ち合わせ中だったら悪いしなあ」
そう呟き、見上げていた顔を正面に戻すと、ビルのエントランスを出たところに一臣さんの姿が見えた。
もしや、私がここにいるのを知って、迎えに来てくれたの?
横断歩道の前から、一臣さんに手を振ろうとした。でも、一臣さんはエントランスのほうにまた向きを変えてしまった。
そして、今、エントランスから出てきた人と話し出した。
一臣さんの影になっていて見えない。信号が青に変わり、私は横断歩道を歩き出した。ちょっと斜めに渡り、一臣さんの向こうにいる人を確認しながら。
そして、横断歩道の真ん中で立ち止まった。一臣さんと話をしているのは鴨居さんだった。それも、すごく嬉しそうに頬を染めて話している。
一臣さんの横顔も見えた。一臣さんは腰に手を当て、時々笑いながら、鴨居さんと話をしている。
え?
今、鴨居さんのほっぺ、一臣さんが引っ張った?それも両手で、鴨居さんの口を広げるみたいに。鴨居さんは真っ赤になり、一臣さんは思い切り笑っている。
なんで?
「危ないよ。信号赤になってるよ、弥生ちゃん」
後ろから誰かに腕を掴まれた。そして、その人に引っ張られ、私はもといた向かい側の歩道に連れて行かれた。私が移動すると、車が一斉に走り出し、もう車の影で一臣さんの姿は見えなくなった。
「弥生ちゃん、大丈夫?」
誰かが私に、聞いてきた。そうだ。誰が私の腕掴んだんだろう。くるっと後ろを振り返ると、そこにいたのは久世君だった。
「久世君?」
「どうした?横断歩道の真ん中でぼうっとして。何かあった?」
「……」
久世君からは、一臣さんの姿見えていなかったのかな。
私は黙り込んだ。そして横断歩道の先をちらっと見てみた。すると、
「ああ。一臣氏か。また、女と一緒にいるんだ」
と久世君がそう小声で呟いた。
一臣さんは、横断歩道の前で鴨居さんと肩を並べて立っていた。こっちは見ていない。ずっと鴨居さんと話をしている。鴨居さんはすっごく嬉しそうにはしゃいでいるのがわかる。
「弥生ちゃん、飯食った?俺、これから飯食おうと思っているんだけど、一緒にどう?」
「え?」
でも、一臣さんが…。
横断歩道を渡って、きっと私を迎えに来るから。そんな思いで、横断歩道の先を見た。車が行き交う先に一臣さんはいる。でも、一臣さんは信号が赤から青に変わる寸前、くるっと体の向きを変え、鴨居さんとまたエントランスに向かって行ってしまった。
なんで?
私を迎えに来たんじゃないの?
どうして?
呆然とその後ろ姿を見ていると、また久世君が私に声をかけた。
「ほら。一臣氏も女と行っちゃったし。それにしても、一臣氏のタイプの女性じゃなかったけど、懲りずに女遊びしているんだな」
「違います。あの人は秘書なんです」
「一臣氏の?」
「ち、違います」
私は必死にそう久世君に言った。
「弥生ちゃん、この前もボロボロに泣いていたよね。樋口っていう秘書が連れて行っちゃったけど、ずっと気になっていたんだよ。でも、連絡もできないし、このビルの前で弥生ちゃんに会えるかもって思っていたんだけど、ずっと見かけることもなかったし」
「久世君は、アメリカに行ったと思っていました」
「ああ。行くよ。来週末にね。その前に弥生ちゃんに会いたかったから、良かったよ、会えて。夕飯一緒に食わない?もう、会うこともないかもしれないんだしさ。きっとこれが最後だろうから」
「……はい」
最後っていう言葉に、断ることができなかった。
私はまた、もといたビルの中に入った。そして地下に行って、沖縄料理の店に久世君と入った。そこには、邦ちゃんがいて、私と久世君を見て、ちょっと驚いた顔をした。
「あれ?弥生ちゃん、もう前の彼と別れちゃったの?」
邦ちゃんはオーダーを聞きに来て、そっと私に耳打ちで聞いてきた。
「ち、違うよ。この人は友達」
私は慌ててそう、大きな声で否定した。
「弥生ちゃんの知り合い?」
「はい。大学時代、同じところでバイトしていた友達です」
「へえ、そうなんだ」
にこりと久世君は邦ちゃんに微笑みかけた。
「この前の彼も美男子だったけど、この彼もイケメン君だ」
邦ちゃんはそんなことを言いながら、カウンターの奥にオーダーをしに戻って行った。
「この前の彼ってのは、一臣氏?」
「はい」
「一臣氏とこの店に来たの?」
「はい。お昼を食べに」
「へえ。あの一臣氏が庶民的な店に入るなんてなあ」
久世君は目を丸くさせ、それから水をゴクッと飲んだ。
「それにしても、弥生ちゃんに会えて本当に良かったよ。あ、そうだ。ビールでも飲まない?」
「飲みません。私、お酒弱いから」
「酔ったら送って行くよ?」
「い、いいえ。本当にお酒ダメだから飲みません」
私がそう言って断ると、久世君は残念っていう顔をした。
「…ねえ、弥生ちゃん。これが最後だから、しつこいって思うかもしれないけど、聞いてくれない?」
「はい?」
「一臣氏との結婚、やめたほうがいい」
まただ。久世君は私のことを本当に心配してくれているのかな。
「彼のいい噂は聞いたことがない。今も、弥生ちゃんはさ、仮面フィアンセだなんて言われているんだよ。知ってた?」
「久世君、どこでそんな話を聞いたの?」
「俺、緒方商事に友達いるしさ。ずっと配送のバイトしていたから、飲み友達とかできちゃったんだよね」
「女の人?」
「どっちもいる」
「……それ、噂でしかないから」
「そうかな。婚約者とやけに仲いいところをアピールしているけど、あれは明らかに演技だってみんな言ってるよ。もし、一臣氏が弥生ちゃんをかまっているとしたら、もの珍しいからだろうってさ」
「え?」
「今まで付き合った女とまったく違うタイプだから、もの珍しいんじゃないかって。じゃなきゃ、今だけいい顔をして、結婚したら、外に女作って家にも寄り付かなくなるんじゃないかって、もっぱらの噂だよ」
「も、もの珍しいってなんですか?」
「言葉の通りだよ。今は、もの珍しいからかまっているけど、そのうち飽きて、前付き合っていた女のもとに戻るんじゃないかってさ」
「だ、誰がそんなこと?」
「まあ、いろいろとね。一臣氏と付き合っていた女からの情報も入っているよ」
「そんなのウソです」
「本当に?そう言いきれる?さっきの秘書は?随分と親しげだったけど、あの子ももの珍しくて、かまっているんじゃないの?今までのタイプとまったく違っていたよね」
鴨居さんのこと?
「弥生ちゃん。男はそんなに簡単に性格変わらないって。女好きだったら、結婚したっておんなじだよ。きっと、浮気ばかりして、愛人いっぱい作るに決まってる。弥生ちゃんが泣くのは目に見えてる。そんな男と結婚してもいいの?今なら、やめられるよ」
「……やめる?」
「ああ。婚約発表まだだろ?他にも候補者いたんだろ?弥生ちゃんは辞退して、他の女にくれてやったらいいじゃないか。弥生ちゃんが犠牲になることないんだよ?」
「犠牲なんかじゃないです」
「犠牲だろ?あんな女好きのとんでもない男と結婚させられるんだよ?」
「ひどい。久世君は何も一臣さんのことわかってないくせに、ひどいです」
「わかってるよ。君よりも前からあの会社に出入りしているんだ」
「でも、噂しか聞いていないじゃないですか。一臣さんのことだって、なんにもわかっていないですよね?」
「わかるって。あの男がどんな男か。ワンマンで、自分勝手で、横暴で。彼を怒らせただけで、クビになるんだよ?そんなやつだ。なんだって弥生ちゃんがあんな男の肩を持つのかが、俺にはわからない」
「一臣さんは、ワンマンでもないし、横暴でもありません」
「弥生ちゃん、目を覚ませ。今なら間に合う。な?俺とアメリカに行こう」
「い、嫌です」
うる…。涙が出てきた。なんだって、今さら、こんなこと久世君に言われなくちゃならないの。
でも、思い切り強気で私は断言できない。きっと、さっきの鴨居さんと一臣さんの光景を見たからだ。
さっきから、ずっと私は、久世君の、もの珍しいからかまっただけだという言葉が頭から離れない。
私、確かにもの珍しいかもしれない。
今まで一臣さんの周りにはいなかったタイプだ。
一臣さん、いつも飽きないって言ってた。でも、いつか飽きるかもしれないんだ。
へんてこりんで、みょうちくりんで、そんな私が珍しくって、それでかまっているだけ。それ、否定できない。
可愛いっていうのだって、本当にペットみたいに思っているからだけかもしれない。
ズキン。胸が痛んだ。
「弥生ちゃん。あの樋口って秘書が、弥生ちゃんにあげたはずの服を返しに来た。美容院で買ったシャンプーや化粧品のお金も支払いに来た」
「え?」
「弥生ちゃんには黙っているように言われたけど、そうやって、俺や久世の人間と関わったことをなかったものにしてきた。きっと一臣氏の差し金だろ?」
「…」
「俺を緒方商事の担当から外させたのも、一臣氏が裏で手を回したんだろ?あいつ、いろいろと卑怯な真似をするよな」
「ひ、卑怯って?」
「弥生ちゃんに近づこうとしている人間、追っ払ってる。確か、豊洲っていう男も、飛ばされたんだろ?」
なんでそんなことまで、知ってるの?
「アメリカに行く前に会えてよかった。俺、今日は弥生ちゃんをあいつの屋敷に帰すつもりはないからね」
久世君?
久世君の目は真剣だ。
「俺はどうにかして、弥生ちゃんとコンタクト取ろうとしていたんだ。でも、ことごとく失敗した。誰かに阻止される。でも、やっと会えた。こうやって会えたのも、運命だよ」
「運命?」
「ああ。パスポートは作れた?」
「作っていないです」
「え?じゃあ、アメリカに行けないじゃないか」
「行きません。私は一臣さんのお屋敷に帰ります」
「弥生ちゃん!」
久世君は私の手を握ってきた。そして、真剣な目で私を見て、黙り込んだ。
私も久世君を見た。周りの人も、何やら私たちに注目をしているようだった。
「俺、あいつなんかに渡すつもりはないから。弥生ちゃん、俺と結婚してアメリカに行こう」
え?
結婚?
いきなりのことで、私には何が起きたのかわからなかった。