~その16~ 恋愛感情
チェックアウトの時間を微妙に過ぎていた。私は慌てて荷物をまとめ、部屋を出ようとしたが、一臣さんは余裕しゃくしゃく。
そして私の荷物も持ってくれると、一臣さんは颯爽と廊下を歩き出した。ああ、後姿もかっこいい。あんなに跳ねていた髪も、今はまとまっている。
本館に着くと、すでにチェックアウトを済ませ、出発しようとしていた綱島さんと菊名さんに出くわしてしまった。
「あ、おはようございます」
綱島さんは丁寧に私と一臣さんに挨拶をしてきた。でも、菊名さんは、私を見ると顔をそむけ、
「一臣様、おはようございます。すぐに出発するんですか?」
と一臣さんにだけ挨拶をした。
「いいや。俺らは午後から行く。チェックアウトを済ませたら、弥生と昼飯を食う」
一臣さんはとってもクールにそう答えた。
「おはようございます」
ロビーから等々力さんと樋口さんがやってきた。どうやら早々とチェックアウトを済ませ、ロビーのソファでくつろいでいたか、ラウンジでお茶でもしていたようだ。
「ああ。樋口も等々力もゆっくりできたか?」
「……それが」
等々力さんが樋口さんを見て、苦笑いをした。
「どうした?」
「いえ。今日車を運転するので、わたくしは12時には部屋に帰りました。樋口さんは?」
「わたくしも、等々力さんが部屋に戻った後、すぐに戻りましたよ。他の人たちは随分と羽目を外したようですけどね」
樋口さんはそう言うと、目をラウンジのほうに向けた。
「他のっていうと、従業員の奴らか?」
「ええ。遅くまでカラオケを楽しんでいました。盛り上がりましたよ。国分寺さんの歌も上手でしたし、コック長は奥様とデュエットを歌ったんですよ」
等々力さんがニコニコしながらそう言った。
「え~~。聞きたかった」
私が羨ましがると、
「そうですね。立川さんが弥生様も呼んで来ようと言い出したんですけど、日野さんが一臣様に怒られるからと、止めまして…」
と、等々力さんはそう答え、一臣さんの顔を見て話を途中で止めた。
一臣さんの顔を私も見てみた。すると、眉間に思い切りしわが寄っていた。
「呼びに来たら、クビだったな、立川の奴」
うそ。冗談を言っているんだよね?でも、思い切り真剣な顔をしている。本気で言ってた?
「では、わたくしたちは約束の時間に間に合わなくなると大変ですので、これで」
綱島さんが、また丁寧にそう言うと、お辞儀をしてホテルを出て行こうとした。菊名さんはというと、まだ名残惜しそうに一臣さんを見ている。
「菊名もさっさと行けよ」
一臣さんはまたクールにそう言った。それから、カバンを等々力さんに渡し、
「チェックアウトしてくる」
と私に言い残し、フロントに行ってしまった。
「上条さん」
私が樋口さんの隣でぼけっと立っていると、いつの間にかすぐ隣に菊名さんが来ていた。
「はい?」
びっくりした。何で私に声をかけてきたの?
「…私、真実が知りたいの」
「は?」
なんの?
「火の無いところに煙は立たないって言うでしょ?仮面フィアンセのあの噂、どうしてあんな噂が流れているの?本当は一臣様とあなた、そんなに仲がいいわけじゃないんじゃないの?仲いいふりをさせられているんじゃないの?」
し、しつこい。しつこすぎる。
「あのっ。エントランスで綱島さんが待っていますよ。早くに行ったらどうですか」
つい、頭に来て私はつっけんどんにそう言ってしまった。
「仲いいように見えないのよね。どこかぎこちないように見えて。食事は一緒にしていたようだけど、あとは別々だったんじゃないの?お風呂にだって、一緒に入っているって言っていたけど、あれも、演技じゃないの?だって、わざわざそんなこと言う?わざとらしいって思ったのよね」
え~~~~~~~~~~~~!恥ずかしげもなく一臣さんは、あんなことまで言ったのに?
「コホン」
樋口さんが咳ばらいをした。菊名さんは樋口さんをちらっと見たけど、また私のほうを見た。
「もうすぐ、婚約発表でしょ?確かに仲が悪いなんて噂流れても困るし、上条グループとの取引も、壊れる可能性あるものね」
まだ言うか!もう、私だって、いい加減、堪忍袋の緒が切れる…。
と、徐々に怒りが込み上げているところに、
「あ~~~!弥生様」
という、トモちゃんの元気な声が聞こえてきた。
「おはようございます!」
「トモちゃん。おはよう!」
「チェックアウトしてから、みんなでラウンジでお茶しているんです。日野さんと亜美ちゃんは、二日酔いでラウンジのソファでダウンしてますよ。私はあまりお酒が強くないから、あまり飲まないようにしていたおかげで、元気なんですけど」
飛び跳ねながらトモちゃんはそう言って、私の真ん前に来た。
「露天風呂、気持ちよかったです。弥生様はお部屋についているんですよね?確か、ウッドデッキがあって」
「うん。とっても気持ちよかったです。渓谷を見ながら入れるんです」
「朝も入ったんですか?」
「入りました」
「夜は?もしかして大浴場に来るかな~とか、本館の露天風呂に来るかもねって、亜美ちゃんと話していたんですけど、本館には来ましたか?」
「いいえ。ずっと離れの部屋にいたから」
「……。やっぱり。一臣様が離してくれなかったんですね。一臣様、テンションあがっていましたもんね」
「え?テンション?」
「はい。昨日の朝も、私たちも浮かれまくっていましたけど、一臣様も浮かれていましたもんね」
「小平!誰が浮かれまくっていたって?」
「すみません!一臣様、おはようございます」
トモちゃんは顔を青くして、ぺっこりとお辞儀をした。
「菊名、まだいたのか」
一臣さんが菊名さんを見て眉をひそめた。
「一臣様、菊名さんは弥生様と一臣様の仲を疑っているようですよ」
樋口さんが、クールにそう一臣さんに報告した。
「なんだと?」
一臣さんはさらに眉をゆがめた。
そのあと、はあっと呆れたようにため息をついた。
「疑っているって?」
トモちゃんが私に小声で聞いてきた。
「菊名は、俺と弥生が仲が悪いんじゃないかって疑っているんだ」
そう答えたのは一臣さんだ。するとトモちゃんは、顔色をさっと曇らせ、
「まさか、弥生様、会社で一臣様に冷たくされているんじゃ…」
と私に心配そうに聞いてきた。
「いいや!屋敷にいる時と同じように、べったりしているぞ」
また私ではなく、一臣さんがそう答えた。
「べったり?」
トモちゃんが一臣さんのほうを見て聞き返すと、
「ああ。いつでも弥生の腰に腕を回して、どこでもいちゃついているんだけどな」
と、恥ずかしいことを堂々と言ってしまった。
うわ~~~。そう言って、私の腰に腕を回してきたし。もう、恥ずかしくて顔が火照ってきちゃったよ~。
「え?それなのに、どうして仲が悪いって疑われているんですか?」
「仲がいいふりをしていると思われている」
「はあ?」
トモちゃんが、目を丸くして驚いて、それから菊名さんを見た。
「会社で仮面フィアンセだと、そんな噂も流れている」
「仮面?」
トモちゃんはきょとんとした。
「なんでまた?本当にお二人は仲がいいのに…」
「そうだろ?小平、菊名にも言ってやれ。俺と弥生は本当に仲がいいんだってな」
「もういいです。そういうことを言われれば言われるほど、もっと怪しいって思うだけですから」
菊名さんはそう言うと、カバンを持ってエントランスを出て行った。
「は~~~あ。しつこいし、うざいよな。もうほおっておくか」
「弥生様は、大丈夫ですか?なにか、嫌がらせを受けたり、嫌なこと言われたりしていませんか?」
トモちゃんが心配そうに私に聞いてきた。
「私は大丈夫です」
そう笑顔で答えたが、まだトモちゃんは、暗い顔をしている。
「小平、大丈夫だ。弥生には俺がついているから」
一臣さんはそう言って、トモちゃんを安心させた。
「では、わたくしはラウンジに戻ります」
トモちゃんはにっこりと笑って、ラウンジのほうに駆けて行った。
「小平は本当に、弥生のことを心底思ってくれているんだなあ」
ぼそっと一臣さんはそう呟くと、私の顔を見た。
「はい。とっても嬉しいです」
そう答えると、一臣さんはにこりと微笑んだ。
昼食は、ホテルのレストラン。バイキング形式になっていた。
私はわくわくしながら、お皿にたくさんのお料理を乗せ、席に戻った。
「そんなに食うのか…」
一臣さんは私のお皿を見て、目を丸くした。
「え?取りすぎましたか?私」
「……取りすぎだろ。てんこ盛りになっているぞ」
恥ずかしい。つい、嬉しくてあれもこれもと乗せてきてしまった。
「まあ、いい。残ったら俺が食う」
一臣さんのお皿は、上品に盛り付けがしてあった。そして、
「一臣様、コーヒーもお持ちしました」
と、国分寺さんが私たちのテーブルに、コーヒーカップを持ってやってきた。
「あ。まさかと思うけど、自分で取ってこないで、国分寺さんに取らせたんですか?」
「ああ」
「国分寺さん、今日はお休みの日です。自分の分だけ取って、のんびりとしてください。さあ、席に戻って。あとは私がしますから」
私はそう言って、国分寺さんを席に戻らせた。
いったい、いつの間に国分寺さんに給仕をさせていたんだろう。もう~~。目を離すとこれだから。
「一臣おぼっちゃま、焼き立てのパンをお持ちしました」
ガック~~~。今度は喜多見さん?
「弥生、俺が頼んでいるわけじゃない。勝手に国分寺も喜多見さんも世話を焼いてくれるんだ。いいだろ?したいんだったら、させておけば」
「でも」
「弥生様も焼き立てのパン、いかがですか?あと、紅茶かコーヒーお持ちしますよ?」
喜多見さんが聞いてきた。
「いいです。自分でしますから、喜多見さんはどうぞコック長とゆっくりしてください」
「そうですか?」
喜多見さんは、名残惜しそうに私と一臣さんを見て、自分の席に戻って行った。
「なんだよ。国分寺も喜多見さんも、喜んでいたのに」
「これじゃ、お屋敷にいる時と変わらなくなっちゃいます」
「ふん。お前、わかってないな。もしここに、お前と俺の子供がいたらどうする?」
「え?」
「家族4人で温泉旅行だ。いつもは屋敷でお前は子供の世話をしているんだ。旅行中だから、のんびりとするよな?」
「はい」
わあい。そういう妄想は楽しい。私と一臣さんと、子供と4人で。あれ?ってことは、子供は二人ってことかな?男の子と女の子かしら。それとも、やんちゃな男の子が二人でもいいな。
「お前、せっかくのんびりと旅行に来たんだからって、子供の世話はしないのか?料理を皿にとってやったり、飲み物を持ってきてやったり、そういうことをしないで、自分だけ自由にのんびりと食べるのか」
「まさか。ちゃんと、子供のことも面倒見ます。だって、そういうもの楽しいし、それで、子供の口とかナプキンで拭いてあげるんです。あ~あ、こんなにこぼしちゃって。ほら、ほっぺにご飯粒ついているわよ、な~んて言いながら」
一臣さんに似ている男の子の世話をするの。いいかも~~~!
「だろ?世話するんだろ?それと同じだ」
「……は?」
妄想モードに入っていたのに、パチンと目が覚めた。
「何が同じなんですか?」
「国分寺と喜多見さんだよ。いくら温泉旅行に来ているとはいえ、息子同然の俺の世話はしたいんだよ」
「え?もう大人なのに?」
「……、大人だとしてもだ。あいつらにとっては俺は何歳になっても、世話が焼ける子供に見えるんだろ?」
いいえ。実際、世話が焼けているんだと思います。というのは、心の中だけに留めておいた。
結局、私のお皿に乗ったお料理は、半分一臣さんに食べてもらった。朝はコーヒーだけだったから、一臣さんはお腹が空いていたようだ。
「昨日、運動したしな。あ、今朝もか」
一臣さんはぼそっとそう言って、コーヒーを満足そうに飲んだ。
「運動?」
「ああ」
…それって、えっと、まさか。あのこと?
二日酔いでダウンしていた人たちが、次々にレストランにやってきた。亜美ちゃんも日野さんもその中に混ざっていた。
「あ、一臣様、弥生様、おはようございます」
青い顔をして日野さんが挨拶をしてきた。その隣で、亜美ちゃんも静かに挨拶をした。
それから、頭を下げ、二人して同時に、
「痛い」
と頭を押さえていた。
「お前ら、そんなに飲んだのか?」
「すみません」
「まあ、今日はオフなんだから、俺が怒ることでもないんだけどな。でも、他の奴に迷惑はかけるなよな?」
「はい」
消え入りそうな声で、日野さんと亜美ちゃんが返事をした。
「あの、オレンジジュース飲むといいですよ。あと、フルーツやカレーもあったから、それを食べると、きっとすぐに二日酔いも治ります」
私がそう言うと、日野さんと亜美ちゃんは、力なく笑い、お料理を取りに行った。
「お前はすぐに治るけど、あいつらはどうだかわからないぞ」
そんな二人の背中を見ながら、一臣さんがそう言った。
「え?」
「お前の回復力、半端ないからなあ」
そうなの?
「まあ、お前は二度と酒飲むなよな」
「はい」
「酒飲むと、可愛くなるし、色っぽくなるんだけど、寝るからなあ…」
え?私が?色っぽく?!
「でも、お前、酒飲まないでも、色っぽくなるようになったしな」
一臣さんは私に顔を近づけ、そう囁いた。
「え?え?」
「レベルアップもしたしな?」
うわあ。そういうことを、言わないで!聞いてて、顔がぼわっと熱くなった。
「あほ。そんなに顔赤くしていたら、周りから変に思われるぞ」
「じゃあ、変なこと言うのはやめてください」
私がそう言い返すと、一臣さんは片眉を上げた。
「ふん…。今の俺らはどう見たって、ほやほやの新婚カップルみたいに見えるよなあ?なあ?そう思わないか?」
「え?」
「こんなアツアツのカップルなのに、なんだって菊名は、演技をしていると思うんだろうなあ。やっぱり、あいつは俺らが仲がいいのを、認めたくないんだろうな」
「認めたくない?」
「俺に対して恋愛感情でもあるんだろ。お前、あいつと一緒に仕事していくの、やりづらくないか?」
「…それは、私情を挟むのはよくないと思うから、ちゃんと仕事は仕事で」
「お前が私情挟まなくても、向こうは思い切り挟んでいるだろ。明らかにお前に嫉妬しているのが見てわかる。俺もあれでは、やりにくいし、綱島もやりにくいんじゃないのか」
「……」
「一回、菊名には注意しておかないとな」
「注意ですか?」
「ああ。私情を挟むなって。それでも、あれこれ言ってくるようなら、プロジェクトを抜けてもらう」
「え?」
「当たり前だ。仕事と恋愛を割り切って考えられないような奴は、一緒に仕事をしていけない。だいたい、俺に恋愛感情抱いているって時点でアウトだ」
うそ。一臣さんってそういうこと気にするんだ。ちょっと冷酷な気も…。
「だから、葛西も大阪に移動させようとした」
「総おじさまの意思ではなかったんですか?」
「いや。親父にも相談はしたけどな」
そうだったんだ。葛西さんには社長が決めたことだって言っていたけど…。
「じゃあ、私も私情挟んじゃだめですよね」
「挟んでいるのか?」
「…一臣さんに対して恋愛感情が…」
「あほか」
「え?」
なんで、あほ?
「お前は俺のフィアンセだ。恋愛感情があって当たり前だろ?」
「…はあ」
「俺だってお前には、恋愛感情があるんだ。未来の嫁に対して恋愛感情抱いていたからって、なんにも問題はないだろ?逆にまったく恋愛感情がないほうが問題が大有りだ」
「そうですか?!」
「なんだよ。何で今、目が嬉しそうに潤んだんだよ。お前に恋愛感情があるのはわかりきっていたことだろ?」
「いえ。えっと。未来の嫁に対して、恋愛感情がないほうが問題大有りだって言われて嬉しくって」
「なんでだ?」
「だって、ずっと私との結婚が嫌で、未来の嫁に対して嫌悪感しかなかったんですよね?でも、緒方財閥のために、恋愛感情がなくたって結婚しようと思っていたんですよね?それでも、しょうがないって思っていたんですよね?」
「ああ、そういえばそうだな。親父もそうだったし、俺も、恋愛感情なんかなくたって、結婚もするし、子供も作ると思っていたっけな」
一臣さんはそう言うと、頬杖をついて黙り込んだ。そして私をじっと見ている。
「えっと?」
「そうだ。仕方なく結婚をして、仕方なくお前のことを抱いて、子供も仕方なく作ろうと思っていた」
「そ、それ、悲しいですね」
「そうだな。悲しいな」
一臣さんは私から視線を外し、一口水を飲んだ。そしてまた私を見ると、
「でも、今は違う」
と話をまた始めた。
「お前のことを愛しているから結婚して、愛しているからお前を抱いて、そして子供ができる…。愛しているお前との子だから、きっと俺は子供のことも思う存分、愛すると思う」
ドキン。
「………」
一臣さんは黙り込んで私を見ている。優しい目で。
「子供ができたら、温泉旅行、家族だけで来ような?」
「…こ、国分寺さんや喜多見さんも一緒でもいいです」
「ん?なんでだ?」
「だって、きっと私たちの子なら、孫みたいなものですよね?」
「ああ、そうだな」
「じゃあ、きっと孫の世話は楽しいですよね?」
「なんだよ、あいつらに子供の面倒押し付ける気か?」
「違います。ただ、一緒だったら、より楽しそうだなって」
「はは。おふくろや親父まで、来たがったらどうするんだ?」
「そうしたら、大勢で来ます」
「……そうだな。それも楽しそうだな」
一臣さんはそう言うと、くすっと微笑んで、また私を優しい目で見つめた。
ほわわん。幸せだ。まさに、ほやほや新婚カップルだ。
目の前の麗しい一臣さんを見つめながら、私は幸せを満喫していた。