~その13~ スイッチオン
ざわざわ…。風が吹き、木がざわめいた。
「あ、あの」
ほんのちょっと一臣さんに近づいた。一臣さんはまだ、目を閉じている。
「一臣さん?」
もうちょっと近づいた。お湯の水面が揺れ、一臣さんが目を開けて私を見た。
「なんだ?」
「えっと…」
怒ってますか?心の中で聞いてみた。
「どうする?もう弥生は出るか?」
「い、いいえ。今、入ったばかりだし」
「ん?」
一臣さんが私の顔を近づいて見た。それから、目を細めると、
「お前、泣いてるのか?」
と聞いてきた。
「な、泣いていません。でも…」
泣きそうになっています。
一臣さんのほうが私に近づき、私の背中に腕を回すと私をぐいっと引き寄せた。それから、私の耳にキスをして、
「あほだな。泣くことないだろ」
と言ってきた。
「……一臣さんが、一人で入ったほうがいいって、そんな意地悪言うから」
「俺が悪いのか?お前のほうが先に俺をつきはなしたんだろ?」
「私がですか?」
え~~。私がいつ?
「大人しく露天風呂に入ろうって言ったのはお前だろ。先に俺の気分を下げて、がっかりさせたのは弥生のほうだからな」
「……がっかり?それで、怒ったんですか?」
「ふん!いじけたんだ。かなり凹んだぞ」
凹んだ?うそ。一臣さんが?へそ曲げたんじゃなくって?
「俺がどれだけ楽しみにしていたか、お前だって知っていただろ?」
「……」
そんなに楽しみにしていたの?って、えっと…。露天風呂でいちゃつくことをだよね?
「弥生は、時々嫌がるよな」
一臣さんが低い声で聞いてきた。ちょっと顔がしょげているようにも見える。
「え?何をですか?」
「俺に愛されるのをだ」
ドキ。
「嫌がってません」
「嫌がるだろ?体洗ってやるって言っても、自分でするって言うし」
「恥ずかしいだけです」
「何で恥ずかしがるんだよ。恥ずかしがる必要ないだろ」
「でも…」
どう言っていいかわからず、黙り込むと一臣さんは私の頬にキスをした。
「まったく…」
「呆れてるんですか?」
「いいや。いつまでたってもお前って、純情なやつだよなあって思っただけだ」
「それ、呆れているんですよね?」
「……お前みたいな女と付き合ったことないし」
「え?」
「もっと、すれてる女や、男慣れしている女ばかりだったからな。新鮮っていえば新鮮だが、ちょっと扱い方に困る」
困ってたの?私は思わずじっと一臣さんを見てしまった。
「こ、困っているんですか?いつも」
「ああ、困っているぞ。泣かせたくはないのに、結局泣かせちまうことが多いだろ?」
「…こ、困っていたんですね」
なんか、ショックかも。私が一臣さんを困らせていたなんて。
はむ…。
私が俯いていると、一臣さんが突然私の耳たぶを噛んだ。
「ひゃ?」
「………俺は、四六時中お前といちゃついていたいんだけどな」
「……」
「弥生は違うのか?」
「い、いいえ。一臣さんにそっけなくされたり、冷たくされると途端に不安になるし、本当はいつもかまってほしいって思っています」
ああ。正直に言っちゃった。
「それだったら、なんだっていつも、嫌がるんだよ」
「…ごめんなさい。本当に恥ずかしいんです。ドキドキしちゃうし」
「だったらそう言え。ただ、嫌がるだけだと、俺だって自信をなくすこともあるし、凹むこともあるんだ」
「…そ、そうなんですか?自信なくすようなことがあるんですか?」
「あのなあ。俺をなんだと思ってるんだ。俺だって人間だからな」
「そ、そうですけど」
かなりびっくりだ。いつも自信満々なのに。
「やばいな。俺はさっきから、随分とかっこ悪いところを見せているな。酔ったせいかな」
「え?」
「酔うと弱くなる。前もそうだったろ?」
「一臣さんがですか?弱くなった時なんてありましたっけ?」
「なんだ。覚えていないのか。お前が屋敷から実家に戻って、3人で飲みに行っただろ」
「3人?」
「浩介と行っただろ?」
「あ、はい」
「その時、俺はお前に弱音を吐いた。それに、お前に甘えてただろ?」
私に?そうだったっけ?
「お前の肩にもたれかかって、癒されてた」
あ、そうだった。思い出した。
「あの時は嬉しかったです」
「嬉しかったのか?」
「はい。だって、お役に立てるっていうか、一臣さんに頼ってもらうのは嬉しいですし」
「じゃあ、なんでいちゃつくのは嫌がるんだ。これだって、俺は癒されたがっているんだ。お前を抱くと一気に気持ちが落ち着くし、癒されるし、お前、あったかいし」
「…」
そうか。それでなのか。じゃあ、私が拒んだら、傷ついていたのかな、一臣さん。
「あの…。私は一臣さんを癒せるんでしょうか」
「え?」
「私のぬくもりって、一臣さんを癒しますか?」
「今頃そんなことを聞くなよ。お前が隣にいると眠れるのはお前に癒されているからだ。そんなの、前からお前だってわかっていただろ?」
「わ、私と愛し合っていると、一臣さんは落ち着くんですか?」
「ああ。満たされるからな。すっごく」
「……い、いちゃついている時も?」
「ああ。もちろんだ。お前は違うのか?」
「……ドキドキします」
「それ、喜んでいるんだろ?違うのか?」
「きっとそうです」
ふわ。一臣さんが私の頬を優しく撫でた。それから、私にキスをしてきた。それも優しいキス。
ほわわん。それだけで溶けそう。
「弥生、俺からキスされると、いつもうっとりとするよな」
「え?う、は、はい」
「腰抜かすしな」
「はい…」
面目ない。
「気持ちいいんだろ?キスされるの、嫌じゃないよな?」
「嫌じゃないです」
「じゃあ、触られるのは?頬撫でたり、髪を撫でると、やっぱりうっとりとするよな?耳にキスしても感じるんだろ?」
「う…」
「正直に言えよ」
「はい。その通りです」
「本当は、太もも撫でられたって、胸にキスしたって、気持ちいいんだろ?」
「……」
うわ~~~~~。その辺のことを聞かれると、ものすごく恥ずかしくなる。
「素直になれよ」
「でも、恥ずかしいんです」
「まだ、弥生は初心者か?そろそろ中級に進んでもいいんじゃないのか?」
「ですけどっ」
「なんだよ」
なんだよって言われても、返す言葉がないよ~~。
「じゃ、じゃあ、素直になれるよう努力します」
「努力が必要なのか」
「あと勇気も…」
「なんの勇気だ」
「素直になるための」
「は?素直になるだけだ。簡単だろ?気持ちよかったら気持ちいいと素直に言え。お前、肩揉んでもらったら、気持ちいいですと素直に抵抗なく言うだろ?それと同じだ」
「違います。まったく違っています」
「おんなじだ!素直になるのに勇気なんか必要ない。なんで抵抗するんだ。俺に嫌われるとでも思っているのか?」
「ちょっと、私がすけべだとかエッチだとか思われたら、ドン引きするかなあって思ったりも…」
「しないから安心しろ」
「ほ、本当に?」
ドキドキしながらもう一回聞いてみた。
「俺のことをうっとりと見ていたって、ドン引きしないし、嫌わないし、怖がらないぞ」
「……」
怖がるって…。
「大学時代は確かに、寒気を覚えたこともあったけど、今はそんなことないから安心しろ」
寒気を覚えた?さっくり来た。
「弥生」
一臣さんが私の顎に手を当てた。そして、くいっと私の顔を一臣さんのほうに向け、キスをした。それも、大人のキス。
わ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。
腰、抜けた。
ふわふわする。体が溶けていくようだ。
そうなんだ。結局、ちょっと抵抗してみたって、このキスで私は一気に落とされる。抵抗できなくなる。
ううん。本当はきっと、最初から抵抗なんかする気がないのに、してみせようと演技をしているのかもしれない。
私がすけべだの、エッチだの思われないように。嫌われないように。そうなのかもしれない。
そんなことを考えていたけど、キスをずっと一臣さんがしているから、だんだんと意識が朦朧として、何も考えられなくなった。
ただただ、ふわふわして気持ちいい。
チュウ…。一臣さんは私の下唇を優しく吸い、唇を離した。そして頬にもキスをして、それから耳にもキスをして、耳たぶを噛み、私の首筋に唇を添わせた。
つーっと舌で首筋をなぞり、指で私の背骨をなぞる。
はあ…。背中も首筋もくすぐったさを通り抜け、一気に気持ちがよくなって、うっとりとしたため息が漏れてしまった。
チュ…。一臣さんは私の肩にキスをして、今度は背中を優しく掌で撫でた。その手は私の腰にまで伸び、私の腰を一臣さんは抱き寄せた。
「弥生?」
「はひ?」
「腰抜かしているか?」
「た、多分、へなへなってしていると思います」
「じゃあ、こうやって支えてないと、風呂の中に沈む可能性もあるのか?」
「あるかも…」
「そんなに気持ち良かったのか?」
「はい」
「なんだ。素直になったな?」
一臣さんが耳元でそう囁いた。
素直になるとか、ならないとか、恥ずかしいとか、恥ずかしくないとか、そんなのとっくに通り越した。今は、そんなこと考えていられない。思考回路は停止し、ただただ、うっとりとしているだけだ。
胸の奥がきゅきゅきゅんって疼く。そのたびになにか甘いものが、胸いっぱいに広がる。
一臣さんの手はなんでこうも、優しいんだろうって何度も思った。
私に触れる手、指、舌、全部が優しいって。その優しさに毎回とろけてしまう。
こんなふうに結局いつもとろけるんだから、抵抗なんてしないでもいいってわかっている。
とろんってとろけると、恥ずかしいとかそういうのもどっかに吹っ飛んじゃうから、だったら、最初から恥ずかしがらないでもいいのにって、そう思うけど、やっぱり、恥ずかしいものは恥ずかしい。
でも今は、恥ずかしさもどっかに吹っ飛んでる。これって、きっと、正気になったらかなり恥ずかしくって、やばい状態だ。
だけど、熱を帯びた一臣さんの目を見ていると、理性も羞恥心も消えてしまう。
私の体も熱を帯びて、肌寒いと感じた冷たい風が、心地いいと思えるほど、体が熱い。
「ああ、そうか…」
一臣さんが私の胸元にキスをしてから、顔を上げて私を見るとそう呟いた。
「え?」
「お前、スイッチ入ると大丈夫なんだな」
「スイッチ?」
「ああ、なんでもない。俺の独り言だ。気にするな」
スイッチ?なんの?まさか、私がすけべになるスイッチ?
理性が吹っ飛んじゃうスイッチってこと?だよね、きっと。
そこまでは脳みそが動いていた。でも、その先はまた思考回路が停止した。
スイッチを入れたら大丈夫なら、いつでも一臣さんが入れて。
って一瞬頭に浮かび、自分の考えにびっくりした。でも、また一臣さんにキスをされ、一瞬冷静になった頭が、また溶けた。
「か、一臣さん」
熱を帯びた一臣さんの目を見つめながら、私はうっとりとした。そして、何やら突拍子もないことを口に出してしまった。
一臣さんは一瞬、目を丸くした。でも、そのあと耳元で、
「ああ、わかった」
と囁いた。
はれ?私、なんか今、とんでもないことを言った気が。でも、それすら覚えていないくらい、脳みそが溶けちゃってる。
あ。そうだ。こういう気持ち、こういう気分。甘美っていうんだ。
と、突然、頭にその漢字が浮かんだ。甘い、美しい。ああ、これだ。うっとり…。
そんな言葉が浮かんで消えた。そんなこと考えている余裕もないことを、私は口走っていたのに。
あとで思いだし、顔から火が出るほど恥ずかしくなり、一臣さんに必死に、あれはなかったことにと申し出たが、「なかったことになんてさせないからな」と、にんまりした顔で言われてしまい、すんごく後悔するはめになってしまった。
そう。私は、勝手に頭に浮かび、せっかく冷静に自分の考えに気づき、何を考えているんだって思ったのにもかかわらず、そのあと、一臣さんに口走ってしまっていたのだ。
「じゃあ、一臣さんが、いつもそのスイッチをいれてください」
その先にも実は、とんでもないことを言っていた。そう、甘美の二文字。
「甘美な世界に、いつも連れて行ってください」
一臣さんはその言葉にも、一瞬目を丸くした。だけど、にっこりと笑い、
「ああ、連れて行ってやる。今すぐに」
と、また私にあつ~~いキスをしてきたのだ。
うっとり。ほわわん。
「声、出してもいいぞ?弥生。誰も聞いていないんだからな」
一臣さんのそんなスケベ発言にも、うっとりとしていた私。
ああ。穴があったら入りたいくらい、恥ずかしい!