~その8~ 出張
わくわく。ドキドキ。わくわく。ウキウキ。
いや、ダメだって。仕事なんだから、気持ち引き締めないと。でも…。
「わくわくですね~~。温泉旅行」
「とっても楽しみ!景色もいいらしいし」
「温泉、肌にいいんですって。きっとつるつるになりますね」
ダイニングにいる亜美ちゃん、トモちゃん。ううん、それだけじゃない。日野さんも他のメイドさんも、喜多見さんや国分寺さんまで、今日はなにやら浮き足立っている。
それに時々、キッチンから、
「片付け30分で終わらせて、温泉、行くぞ~~」
とか、
「料理長!なんかお弁当でも作っていきますか?」
なんて声が聞こえてきて、コックさん達まで浮かれているのがよくわかる。
みんなが、そんなだから、私まで浮き足立つ。
「弥生様は二日間、一臣様と二人きりなんですね」
トモちゃんが顔を染めた。
「いいえ。仕事で行くんです。視察に行った後に寄るだけで、だから、二人きりの旅行ってわけじゃ」
「お二人は離れに泊まられるんですよね。パンフレットに載っていましたけど、離れってすごいところみたいですよ」
私の言葉も聞かず、亜美ちゃんがそう話しかけてきた。
「え?す、すごいって?」
どうすごいの?おんぼろだったり?
「ウッドデッキに露天風呂があって、そこから渓谷が見えるんです。渓谷を見ながら露天風呂に入れて、お部屋も二部屋あって、とにかく贅沢なお部屋らしいですよ」
「そうなの?」
「はい。それも、私たちは広間で、みんなで食事をするんですけど、離れはお部屋で夕飯を召し上がるようです」
「そうなんだ」
大広間でみんなと食事、楽しそうだなあ。
あ、いけない、いけない。こんなこと言い出したらまた一臣さんに怒られちゃう。
「弥生様、お時間はよろしいんですか?」
国分寺さんがそう言ってきた。私は時計を見て、
「うわ。今日は早くに出るって言われてた」
と慌ててダイニングを飛び出した。
朝も、昨日わくわくでなかなか寝付けなくて、さっさと私を抱きしめ、グースカ寝てしまった一臣さんに、鼻をつままれ起こされた。
部屋に戻り、歯を磨き、口紅を塗るかどうか一瞬悩んだ。
「ん~~~。時間ないし。でも、キスしてほしいし」
口紅を手にして私は、一臣さんの部屋に行った。
一臣さんは、すでにスーツまできちんと着ていて、出かける準備万端だった。
「あの…」
「行くぞ」
え?もう行くの?
「は、はい」
慌てて部屋に戻ろうとすると、
「弥生!ちょっと待て」
と引き留められ、一臣さんは私の背中に腕を回し、キスをしてきた。
きゅわん。キスしてもらえちゃった!
「口紅は車で塗ってやる。ほら、出るぞ」
「はい」
鞄に口紅を仕舞い込み、ボストンバッグを持って部屋を出た。
「持ってやる」
部屋の前には一臣さんが待っていて、私のボストンバッグを持ってくれた。私のバッグと一臣さんのバッグ、軽々と持って一臣さんは階段を颯爽と降りた。
はあ。今日のスーツ姿も髪型も、とにかく全部が決まってる。
ユリカさんに時計を返した後、おニューの時計をはめている。それもまた、男らしくてかっこいい時計だ。よくわかんないけど、ロレックスではないらしい。前のよりちょっとごつい。でも、似合っている。
車に乗り込み、亜美ちゃんたちの、昨日よりさらにテンションがアップしている声に見送られ、車は発進した。等々力さんも、わくわくしている様子だし、樋口さんだけがいつもと同じテンションで、スケジュールを一臣さんに伝えだしたが、心なしか一臣さんも、わくわくしている感じに見える。
「そうか。宿には6時前には着けるんだな?」
「はい。道路が混んでいなければ、5時半には到着できると思います」
「よし」
よしって…。やっぱり、一臣さんも、わくわくしているよね?
「あ、そうだった。口紅塗ってやるぞ」
一臣さんにそう言われ、口紅を渡した。一臣さんはいつものごとく、私の顎を持って、丁寧に、でもすばやく私の口紅を塗った。
「うん。上出来だな」
自分の腕すら褒めるようになったか…。
そんな私と一臣さんを、樋口さんと等々力さんはちらっとバックミラー越しに見て、
「ほ~~~」
となぜか、感心したような声を上げた。
「なんだよ?」
「いえ。なんでもございません」
樋口さんはそう言って黙ったが、等々力さんは、
「いたれり、つくせりなんですねえ」
と、そんなことを言い出した。
「う、うるさいぞ。等々力」
一臣さんは耳を赤くしてそう言うと、ふいっと窓の外を見てぶつぶつ言いだした。
何を言っているのかなあ。耳をそばだてて聞いてみると、
「ったく。なんなんだ。いたれり、つくせりって。俺はかいがいしい世話女房か…」
と、そんなことをぶつぶつ言っていた。
でも、そうかも。なんか、お屋敷にいる時の一臣さんって、私の体洗ってくれたり、髪を洗ってくれたり、お腹が痛いとさすってくれたり、朝起きれないと起こしてくれたり、いつでも世話を焼いてくれている気がする。
「ああ、そうか。ペットだからな、弥生は。ちゃんと世話しないとならないわけだ。うん」
突然、一臣さんの声の音量が上がった。今のはどうやら、みんなに聞こえるように言ったみたいだ。
……。ペットの世話?
「だから、弥生は手がかかるんだな。ペットだからな」
それ、わざと言ってるよね。手がかかるしょうがないペットだから、俺が世話してやらないとならないんだって感じで。
微妙。なんでいっつも、ペットになっちゃうのかなあ、私は。
「そりゃ、可愛らしくて、可愛らしくて、ついお世話がしたくなるペットなんでしょうねえ」
等々力さんがそんなことを言い出した。すると、
「だから、等々力は黙って運転しろ!」
と、一臣さんはとうとう怒りだした。でも、耳、真っ赤だ。
照れてる。
時々一臣さんは照れる。耳を赤くして。そのあとはたいてい、
「コホン」
と咳払いをする。
でも、こんなふうに照れるくせに、やっぱり車内では手を繋ぐし、べったり私に引っ付き、私の頭に頬ずりもする。
なんて言いつつ、私からもべったり、くっついちゃっているんだけど。
もし、この車がリムジンで、運転席からまったく見られないとしたら、もっともっといちゃついているのかなあ。キスしちゃったり、それも、大人のキスまでしちゃったり。
きゃあ。やっぱり、そんなの恥ずかしい。いくら見えないとしても、やっぱり恥ずかしいよ。
なんて、わけのわからない妄想をして、私は真っ赤になった。
「そういえば、今日は綱島も視察に行くって言ってたな。確か、日吉と行くはずが、急遽菊名と行くことになったと昨日メールが来た」
「そうなんですか?」
「ああ。日吉が体調を崩したって言っていたな」
いきなり真面目な話になって、私の顔の火照りもおさまった。
「日吉さん、大丈夫でしょうか」
「大丈夫だろ。それより、あいつらの行く場所も、栃木じゃなかったか?樋口」
「そうですね」
「向こうで会ったりしないよな」
「それはないと思いますよ。わたくしどもが行くのは塩原のほうですが、綱島さんが行かれるのは確か、宇都宮だったと思いますので」
「そうか。あいつらは、日帰りだったよな」
「はい。そう聞いておりますが…」
「じゃあ、会うことはないな。会ったらやっかいだからな。特に菊名」
もしかして、毛嫌いしているのかな。
「どうも、ああいう女は苦手だ。やたらと気が強く、自信過剰なタイプ」
「そうですか?でも、そういう女性とのお付き合いが多かったのではないですか?」
「何が言いたいんだ。樋口は」
「いいえ。今までの方はつまり、一臣様のタイプではなかった…ということですね」
「……ふん。そういうことだろうな」
「そうですか。気が強い方ではなく、本当に心が強い方がお好きなんですね。あとは、武道をなさる女性とか」
「だから、何が言いたいんだ、樋口は」
「いえ。ちょっと小耳にはさんだものですから。一臣様の初恋のお話を」
「え?!」
一臣さんが一瞬真顔になってから、眉間にしわを寄せた。
「どこで聞いた?」
「どこででしょう…」
あ、樋口さん、すっとぼけた。
「わたくしも聞きましたよ。幼少の頃、柔道で投げ飛ばされた女の子に、一臣様が恋をしてしまったお話…。可愛らしい話ですね。そんな頃もあったんですねえ。それで、結婚するとまで言い出したとか…」
「どこで、そんな話を等々力は聞いたんだ?」
「確か…、喜多見さんが前におっしゃっていました。一臣お坊ちゃまの初恋の相手は、可愛らしい武道家なんだとか。喜多見さんにも可愛い友達ができた。僕は将来、あの子と結婚する。この屋敷に出迎えるからよろしく頼んだぞと、そうおっしゃったとか」
「へえ。それは初耳です。喜多見さんに教えてもらっていませんよ。ただ、柔道で女の子に投げ飛ばされてから、一臣様が熱心に武道を習いだした…というのは、知っていましたが」
樋口さんは、興味を抱いたのか、いつもよりも声が若干高い。
「喜多見さん、口が軽い。っていうか、俺は親父にだけじゃなくて、喜多見さんにまでそんなことを言っていたのか」
一臣さん、また耳が真っ赤だ。
「お強い女性がやはり、好みなんではないですか?」
樋口さん、一臣さんをからかっているようにも見える。
「ふ、ふん!俺は投げ飛ばされたから、惚れたわけじゃない。可愛かったんだ。笑顔とか、目がクリンとしているところとか、髪を結わいているところとか」
「へ~~。じゃあ、可愛い方が好みだったんですね」
樋口さん、その相手が私だって知っててからかっているのかなあ。
「ああ。お前の言いたいことが見えてきたぞ。結局あれだろ?俺に弥生がタイプだって言わせたいだけだろ?」
「いえ。そういうわけでは…」
「ああ、そうだよっ。俺は8歳の頃から惚れてるよ。あの頃と弥生はまったく変わっていないし、人懐っこくて、犬コロみたいだった。今もだけどな」
「え?!」
樋口さんと等々力さんが同時に驚きの声をあげた。
「なんだよ、何を驚いているんだ」
「その、初恋のお相手っていうのは、弥生様だったんですか?」
「知ってたんだろ?知っててわざと、からかっていたんだろ?樋口も等々力も」
「知りませんでしたよ。それこそ、初耳です。え~~~!では、初恋の相手と一臣様は結ばれるわけですか」
樋口さんの声が、いつもより高い。
「知っているだろ?お前、親父がどこの道場に行っていたか、知っていたんだろ?」
「いえ。知りませんでした。あの頃はまだ、わたくしは一臣様に仕えて間もない頃で…。一臣様のお世話をしていたのは喜多見さんですし、わたくしは屋敷で勉強や武術を教えるくらいでしたし」
「そうだったのか」
「……は~~~~~~。そうだったんですか。なるほど」
樋口さん、さっきからずっと何やら感心している。それに、等々力さんはちらっとバックミラーで私たちを見て、
「ほほえましいですね。初恋の相手と結ばれるとは」
なんて言いながら、にやついている。
「ふん!」
あ、一臣さん、へそ曲げた?ううん。耳赤いし、照れているだけかも。
その後、2回ほどサービスエリアで休憩をしながら、目的地に着いた。最初に訪れた工場は、ただただ広く、敷地内には、稼働していない機械が何台か放置されていた。
「お待ちしていました」
工場長は、バーコード頭の太った50代くらいのおじさん。かなり疲れた様子で私たちを出迎えた。一臣さんを先頭に、樋口さん、私の順で工場内に入っていった。
「あの機械は放置したままか?もったいないな」
「買い取ってくれるところがないもので」
「じゃあ、調べさせて機械金属部で買い取れるものなら買い取ろう。まだ、動くんだよな」
「もちろんです。売るために時々動かしたり、手入れをしたりしていますからね」
「…そうか」
一臣さんは眉をしかめて、工場内を工場長と一緒に歩き出した。
私は今日もまた、事務所に居残りだ。事務員は一人。多分、工場長の奥さんだろう。
大きな工場なのに、事務員がたった一人。それに、動いている機械も何台かだけだし、従業員の数も数える程度。
さびれた感のある工場。一臣さんは一通り見て回り、事務所にやってきた。そこに、どうやら息子らしい20代後半の男性が現れた。
「あなたが、一臣氏?緒方商事の次期副社長?」
「…そうだ」
「今さら、視察しに来て何の用です?この工場をつぶすために来たんですか?だったら、とっとと売るなりなんなりしてください。こんなさびれた工場、俺は継ぎたくもないんでね」
ひょえ~~。なんか、強烈だ、この人。もしや、どら息子って感じなのかしら。工場長が赤い顔をして、突然怒り出したし。
修羅場なの?これって。
工場長とその息子は、喧嘩まで始めた。私はあたふたとしていたが、一臣さんと樋口さんは冷静に二人を遠目から見ているだけだ。
「やめなさい、二人とも。みっともない」
そう言って、工場長の奥さんが止めに入り、ようやく喧嘩はおさまった。
「どこも似たようなもんだな」
ぼそっと一臣さんがそう漏らした。
「何がですか?!」
「いや。俺も緒方商事ははっきり言って継ぎたくなかったし、いつも親父には反発していた。だから、どこの家も同じようなもんなんだなって思っただけだ」
一臣さんは苛立ちながら聞いてきた息子さんに、そう冷静に答えた。
「…へえ。でも、結局言うことを聞くしかなかったわけですか?」
「あんたもだろ?嫌だったら、家を出るなりなんなりしたらいい。だけど、ここにいるってことは、捨てられないんじゃないのか?家族も、この工場も」
「………」
「俺もだ。反発しながらも、結局受け入れた。だが、受け入れた以上、やるだけのことはやらないとな」
一臣さんはそう言うと、息子さんの前を素通りして工場長のもとに行き、
「もっと詳しく、今の状況を説明してくれ」
と、話しかけた。
「はい」
工場長と一臣さんは、椅子に腰かけ、長々と話を始めた。私は工場長の奥さんから帳簿を見せてもらったり、息子さんの話を聞いたりした。
息子さんには、どうやら長年付き合っている女性がいるらしい。でも、つぶれかかっている工場に嫁がせるわけにもいかないと、悩んでいるようだった。
「あの…。確かに、今後大変な状況になるかもしれないし、未来もはっきりしないのに結婚するだなんて、不安になるとは思いますけど。でも、考え方を変えてみてはいかがですか?守るものができると、人って強くなれますよ」
「へえ。君には守るものがあるっていうのか?」
「はい。私は一臣さんのことも守りたいし、屋敷で働く従業員のみんなも、できたら、緒方商事で働く人たちのことまで守れたらって思っています。ただ、そこまで今の私には力がないから、せめて、一臣さんのことだけでも、守りたいんです」
「君は単なる秘書だろ?あの、一臣氏の…」
「…はあ」
「違うぞ。弥生は俺のフィアンセだ。次期副社長夫人、のちのちは社長夫人だ」
今の私と息子さんの会話を聞いていたらしく、一臣さんが突然こっちを向いて、そう言ってきた。
「え?フィアンセ?」
息子さんも工場長の奥さんもびっくりしている。
「えっと」
見えないってことかな?この驚きようは。
「そうなんですか。フィアンセを連れて視察に来たりしているんですか?」
「弥生には俺の仕事の補佐を頼んでいるからな」
一臣さんはそう言うと、工場長から何やら資料を受け取り、
「また改めて検討して、連絡する」
と、工場長に言った。工場長はその言葉を聞き、丁寧にお辞儀をした。
「守るものって、あなたにはあるんですか?」
一臣さんに息子さんが椅子から立ち上がり、唐突に聞いた。
「守るもの?」
「このお嬢様は、守るものがあるから強くなれると言った。あなたにもあるんですか?あなたを強くさせるようなものが」
「……」
一臣さんはしばらく黙り込み、私を見た。それから、視線を息子さんに向けると、
「ある。確かに守るものがあって、俺は強くなっているのかもしれない。ただ、今まではそのプレッシャーがでかくて、自分が潰れそうになっていた。だけど、今は支えがあるからな。なぜか、前よりも強くなっていると自分でも思っている」
と、はっきりと言い放った。
「…支えというと、彼女ですか?」
息子さんはそう言って私を見た。
「そうだ。弥生だ」
一臣さんはまっすぐに息子さんを見据え、そう答えた。
「……そうですか。なるほどね。守るものと支えがあって、強くなったということですか」
「そうだ」
一臣さんは一言そう返事をして、すぐにまた工場長のほうを向いた。
「仕事中、邪魔して悪かったな。じゃあ、これで失礼するぞ」
工場長、奥さん、そしてなぜか息子さんも工場の入り口まで私たちを見送りに来た。
「お気をつけて」
工場長と奥さんはぺっこりとお辞儀をした。息子さんはお辞儀をせず、
「君は、一臣氏と結婚することは幸せなのか?」
と突然聞いてきた。
「え?はい。もちろんです」
即答すると、息子さんはほんのちょっと口元を緩ませた。
「一臣氏は、ずいぶんと素晴らしいフィアンセがいるんですね。驚きました」
「ああ。こいつは俺の自慢のフィアンセだ」
う、うわ!いけしゃあしゃあと、のろけた!こっちが恥ずかしくて顔から火が出そう。
車に乗りこみ、工場を後にした。私は車内で赤くなりながら、
「あ、あんなこと言わないでください。恥ずかしいです」
と一臣さんに訴えた。
「なんでだ?いいだろ?これも作戦だ」
「は?」
「俺と弥生はとても仲がいいと、どこに行ってもそう思わせる」
「…作戦だったんですか?」
「当たり前だ。そうじゃなかったら、あんなこと俺が言うわけがないだろう。あんな場所でのろけて何の意味がある?」
「………」
そうだったのか。今、私、ちょっとショックを受けているかもしれない。
「さあ、次に行くぞ。確か次はもっと危ない状態の工場だよな」
「はい。今までよりも小さめの規模の工場で、従業員の数も少ないようですね」
「そうか。また暗い顔で出迎えられるのか…」
一臣さんはため息をした。
そんな会話をしながら、車は次の工場に向かった。
次はいったい、どんな工場なんだろう。