~その1~ 緒方家の中庭で
翌日、また朝から一臣さんは走りに行った。それに今日は久々に、ジムにも行ってくると言い出し、午前中私は暇になってしまった。
ということで、私はダイニングに行き、亜美ちゃんたちに、
「暇になっちゃいました。何か手伝うことはありませんか?」
と聞きに行った。
「は?手伝う?」
みんながびっくりした目で私を見た。
「はい。お掃除とか、洗濯とか、お料理とか」
「大丈夫です。弥生様はのんびりと休日を過ごしてください」
「でも、午前中することなくって」
「パンケーキを作りましょうか。よかったら中庭のテーブルで、朝ご飯を食べるのはどうですか?気持ちいいですよ」
そう提案したのは喜多見さんだった。
「素敵!じゃあ、そうします。でも一人だと楽しくないし、一臣さんは出かけちゃうし、ぜひ、亜美ちゃん、トモちゃんも一緒に」
「い、いえ。めっそうもない」
二人は首を横に振った。
「立川さんと小平さんは、お給仕に行ってください」
喜多見さんがにっこりとしながらそう言った。
「はい」
二人は嬉しそうに頷いた。
一臣さんがジムに行くのを見送ってから、私は亜美ちゃん、トモちゃんと中庭に行った。国分寺さんがパンケーキをトレイに乗せてやってきて、喜多見さんがティーポットやカップを持ってきた。
亜美ちゃんとトモちゃんは真っ白なテーブルクロスを楽しそうに広げながらテーブルにかけ、
「どうぞ、弥生様」
と私を椅子に座らせてくれた。
亜美ちゃんとトモちゃんは、私のカップに紅茶を注いでくれたり、パンケーキにシロップをかけてくれたりした。
「いただきます」
一人で食べるのに気が引けたが、でもぱくっと食べてみた。
「美味しい」
「ですよね?!コック長のパンケーキ、私たちも大好きです」
「亜美ちゃんたちも食べる時があるんですか?」
「はい。時々コック長が作ってくれるんです」
「いいなあ。もしかして、あの休憩所で食べているんですか?あ、まかないも今度食べたいなあ」
ぼそっとそう言うと、
「奥様や一臣様がいないときでしたら、こっそりと来ても大丈夫かもしれないですね」
と亜美ちゃんが声を潜めてそう言った。
中庭のテーブルは、ちょうど木の陰になり、暑いことはなかった。木漏れ日がきらきらと差し込み、そよ風も吹き、鳥のさえずりも聞こえてきて、とても気持ちが良かった。
「ここ、いいですね~~」
パンケーキを食べ終わって、紅茶を飲みながらそう言うと、亜美ちゃんもトモちゃんも頷いた。
「奥様は時々ここで、ティータイムを楽しんでいたようですよ」
「へえ。そうなんですか?」
「まだ、わたくしたちがここで働く前のことですけど。奥様も忙しくて、そんな時間もたまにでないと取れなかったようですけどね」
そうなんだ。こんな気持ちのいい場所なのに、たまにだけだなんて寂しいな。
「一臣さんともここで、お昼を食べたいな。今度誘ってみようかな」
「あ、じゃあ、今日のお昼にどうですか?コック長に言って、中庭で食べられるようなものを作ってもらいましょう」
「中庭で食べられるっていうと、お弁当?」
「いえ。コック長がきっと工夫して作ってくれると思います」
「はい。わあ、楽しみ~~」
朝食が済み、しばらくのんびりとしていると、庭師の人たちが中庭にやってきた。
「弥生様、おはようございます」
「根津さん!おはようございます」
「あ、朝食をここで召し上がっていたんですか?じゃあ、ここの作業は午後にしたほうがいいかな」
「いいです。もう朝ご飯終わったので。それより、作業をするところを見ていてもいいですか?」
「はい。いいですよ」
亜美ちゃんとトモちゃんは、さっさとテーブルの上を片付け、お屋敷に戻って行った。私は、根津さんの近くに行き、作業をしているところを見学させてもらった。
「すご~~い、さすがですね。職人技!」
「興味あるんですか?弥生様は」
「はい。実家にいた時にも、よく植木の手入れをしているところを見ていたんです。たまに、手伝わせてもらいました」
「手伝い?」
「チョキチョキって、枝を切るのとか」
「やってみますか?」
「いいんですかっ?!」
私は軍手を借りて、小枝を切るのを根津さんに教えてもらいながらしてみた。
「弥生様は、いい筋してますね~~」
根津さんに褒められ、有頂天になった。
「庭師になれますか?私」
「はははは。弟子入りでもする気ですか?弥生様」
「したいです。憧れているんですよね~~。職人に」
「はははは。面白いお嬢様ですね、弥生様は」
そのあとも、いろいろと根津さんに教えてもらい、楽しいひと時を過ごした。
そこにまた亜美ちゃんがやってきて、
「弥生様、冷たいお茶を持ってきました」
と水筒を持ってきてくれた。
「ありがとう、ちょうど喉が渇いていたの」
亜美ちゃんがお屋敷に戻ってから、私と根津さんはベンチに座って、お茶を飲んだ。根津さんも水筒を持参していた。
「は~~。一仕事した後のお茶って美味しいですね」
「うまいですよ。あと、一仕事終えた時の弁当もうまいです」
「根津さんのお弁当は愛妻弁当ですか?」
「いや、娘が作ってくれてます。妻は3年前に亡くなりまして」
「あ、ごめんなさい。私、変なこと聞きました」
「いやいや、いいんです。突然の病で亡くなってしまって、当時はショックでしたけどね。そのあとは娘がいろいろと面倒を見てくれてますよ」
「そうなんですか」
「今年、23になります。親の面倒ばかり見て、いまだに彼氏もいない。結婚できるかどうかも危ういですよ」
「お父様思いの娘さんなんですね」
「はは。そうですね。妻が死んでから娘は変わりましたよ。お父さんの面倒は私が見るって言い出して、まだまだこっちだって若いし、自分の面倒くらい見れるっていうのに」
そう言いながらも、根津さんは嬉しそうだ。目じりを下げ、優しい瞳でそう語った。
素敵な親子関係なんだなあ。
「そんな素敵なお嬢様なら、きっと素敵な人と巡り会えますよ」
「だといいんですけどね」
根津さんはそう言うと、空を見上げた。
「今日もいい天気ですね。梅雨にはまだ入らないんでしょうかねえ」
「そうですね。ちょっと汗ばむくらいの陽気ですけど、気持ちいいですよね」
そして二人でしばらく空を見て、のんびりとした。
根津さんは一見怖そうに見える。でも、話してみるととても優しい。隣にいても優しさを感じる。きっと、娘さんといる時はもっと優しくなるのかもしれないなあ。
ふと父を思い出した。父も一緒にいるととても安心できる。大きくて優しい人だ。
一臣さんもいつか父親になったら、そんな父親になるのかな。娘ができたら溺愛する?でも、今の一臣さんからは想像できないなあ。
根津さんの休憩タイムが終わり、私はお屋敷に戻るために中庭を抜けた。と、その時、車の音が聞こえ、
「一臣さんが帰ってきた?」
と一目散に正面玄関に走って行った。
やっぱり!等々力さんの運転する車だ!
正面玄関に車が到着するのと同時くらいに、私も到着した。そして、等々力さんが後部座席のドアを開け、一臣さんが降りてきた。
「一臣さん、おかえりなさい!」
「ああ、ただいま、弥生」
わあ。一臣さんだ~~。嬉しい!
勢い余って抱き着いた。国分寺さん、喜多見さんもそこにいるというのに。
「なんだよ。ちょっと会えなかったからって寂しかったのか?」
一臣さんも私を抱きしめた。
キュキュン!
「本当にお前、ランみたいだよなあ。ランも俺が帰ってくると尻尾ふって飛びついてきたっけ。ね?喜多見さん、覚えてるだろ?」
「ええ。そうでしたね」
うわ。恥ずかしい。やっと私は我に返り、一臣さんを抱きしめている手を離した。
一臣さんは私の腰に腕を回し、お屋敷の中に入った。
「一臣さん、お昼は中庭で食べましょうね」
「ピクニックか?」
「いえ。中庭のテーブルで食べましょう!」
「いいぞ」
にっこりと一臣さんが微笑んだ。嬉しい!
「いっぱい運動してきたんですか?」
「ああ。筋トレと、プールでも泳いできた」
「そういえば、いつものコロンの匂いじゃなくって、石鹸の匂いがします」
「プールのあと、風呂も入ってきたからな」
「いつものコロンつけていないんですか?」
「持っていくのを忘れた」
仄かに匂うのは、服からなのかな、もしかして。
「一臣さんから石鹸の匂いって、新鮮」
「ん?なんだよ、それ」
二人で一臣さんの部屋に入ってから、そんなことを言うと一臣さんが聞いてきた。
「だって、一臣さんっていったら、あのコロンの匂いなんです」
「は?」
「あのコロンの匂いを嗅いでいるだけでも、一臣さんに抱かれているような気になるくらいなんです」
「へえ。じゃあ、他の奴があの香水をつけていたら、大変だな」
「そうですよね?でも、他の人には似合わないです、きっと。あのコロンは一臣さんじゃないと」
「そりゃそうだろ」
「え?」
何、その自信。今、ソファに座ったままふんぞり返った?
「あれは、俺に合わせて配合されている香水だ」
「え?ってことは、オーダーの香水ってことですか?」
「ああ。会社に入った時、入社祝いにって青山がプレゼントしてくれた。もう、一人前の大人の男なんだから、香水くらいつけたらってな」
青山さんからの?ちょっと聞きたくなかったかも。
「青山はいろいろと詳しいんだ。その人に合わせて配合してくれる店を知っているからと連れて行かれた」
「……そうなんですか」
青山さんとは何もないって言っていたけど、そういえば、一臣さんが入社してからは、一臣さんにべったりしているって前に久世君が言ってた気がするなあ。
「だから、この世に一つしかない。他の奴がこの香水をつけるはずもない」
あ、そうか。
「だから安心しろ?この匂いがしたら、間違いなくそれは俺だ」
何を安心するのかな。
「弥生」
一臣さんがソファに座ったまま、私を手招きした。あ、もしや膝の上に乗せられちゃうのかな。とわくわくしながら、そばにいった。
するとやっぱり、一臣さんは私のことを膝に乗せ、後ろから抱きしめてきた。
きゃわ~。嬉しい!
「体力有り余ってしかたないんだ」
「え?」
「最近、よく眠れているし、食欲もあるしな。お前としていないから、持て余しているんだよ。なんとかジムに行って発散してきたけどな」
「……」
なんと答えていいのやら。
「今日もまだか?」
う…。また、聞いてきた。もう~。頭の中、エッチなことしかないんじゃないの?
「まだです」
「そうか…」
あ、思い切り残念がったよね、今。
「お前、髪からひなたの匂いがするな」
「ひなた?」
「お日様の匂いだ。外にいたのか?」
するどい。
「根津さんの仕事、見学してました。それから、一緒にベンチ座ってお茶飲んだりして」
「根津の?」
「はい。根津さんの娘さんのお話とか、していました」
「へえ。そんな話、俺は聞いたこともない」
「そうなんですか?」
「お前は誰とでも仲良くなるよなあ~」
一臣さんはそう言うと、私をギュって抱きしめ、
「ランと天気のいい日、中庭の芝生で遊んだりしたんだ。その時もランはお日様の匂いがしていたよなあ」
とぼそっと呟いた。
なんだっていつも、私とランを重ね合わせるんだか。でも、それだけ一臣さんにとってランの思い出は大きいものなのかなあ。
「お昼の用意ができました」
亜美ちゃんが呼びに来た。最近は一臣さんの部屋にだけ呼びに来る。私がいつも一臣さんの部屋にいることを知っているようだ。
「はい」
私は部屋からそう答え、一臣さんと一緒に部屋を出た。
「中庭に用意していますので、中庭にどうぞ!」
亜美ちゃんは嬉しそうにそう言って、階段を駆けながら降りて行った。
中庭に一臣さんと手を繋いで行った。お屋敷にいながらまるで、デートでもしているみたいで、私はわくわくした。
テーブルにはなぜか、朝とは違う可愛らしい赤と白のチェック柄のテーブルクロスがしてあり、その上には籠に入ったバゲット、カップにはスープ、グラスにはオレンジジュース、そしてグリーンサラダ、キッシュ、ミートローフなどは大きなお皿に盛りつけてあった。
「わあ、ピクニックみたいで素敵!」
私が大喜びすると、隣で一臣さんがくすっと笑った。
「うまそうだな」
「はい」
私たちはさっそく椅子に座り、亜美ちゃんとトモちゃんが、お皿にお料理を取り分けてくれた。テーブルの横には大きなワゴンが置いてあった。そこに、氷水が入った大きめのピッチャーも置いてあり、その隣にはコーヒーが入っているだろうポットも置いてある。それにグラスやコーヒーカップも。
「亜美ちゃん、トモちゃん、あとは私がするからいいですよ」
「え?でも」
「いいぞ、屋敷に戻って。多分、弥生は俺と二人きりになりたいんだろ」
一臣さんがそう言うと、亜美ちゃんとトモちゃんは、
「では、わたくしたちはこれで」
と静かにその場から去って行った。
ああ、一臣さんには、なんでわかっちゃうのかなあ。実は二人きりになりたいなあって思って、ああ言っちゃったんだよね。
「これで、心おきなくいちゃつるけるな?弥生」
え?!
まさか、一臣さんはそれが目的で、あの二人を追いやったとか?
「ほら、冷めないうちに食うぞ」
一臣さんにそう言われ、
「はい、いただきます」
と手を合わせ、私と一臣さんはお昼を食べだした。
どれも美味しかったし、木漏れ日は相変わらず優しかったし、時々聞こえる風の音も鳥のさえずりも、どれもが優しかった。
ああ、どこか違う世界に迷い込んだみたい。素敵な空間だなあ。それに、目の前にいるのがまるで王子様のように思えてきた。
じゃあ、ここはお城?私はお姫様?なんちゃって。
「うまいな」
「はい。あ、一臣さん、コーヒー飲みますか?カップに注ぎますけど」
「ああ、入れてくれ」
コーヒーカップにコーヒーを注いだ。そして、一臣さんは美味しそうにコーヒーを飲んだ。
「ふう…」
それから、満足げに息を吐くと、
「気持ちいいな」
と一臣さんは空を見上げながらそう呟いた。
「気持ちいいですよね」
「ああ、ほっとする。この屋敷にいてこんなにほっとできるなんて、今までなかったからな」
「そうなんですか?」
「庭でのんびりするのも、子供の頃以来だ」
「子供が生まれたら、しょっしゅうここでご飯食べたり、芝生で遊んだりしたいですね」
「ああ」
「それから、私、今日気が付いたんです。あっちのほうの木って、登りやすそうだなって」
「は?」
一臣さんが、空から視線を私に移し、片眉をあげた。
「だから、木登りしやすそうだなって」
「お前、まさか、木登りまでするのか」
「今はしませんよ、いくらなんでも。でも、子供の頃しませんでしたか?」
「するわけないだろ、猿じゃないんだから」
え?そうなんだ。
「お前、したのか?」
「はい。うちの庭にも登りやすい木があって、よく葉月としていました。あと、近くに森みたいな公園があったんです。今はもうマンションが建っちゃってますけど。そこでもよく、木登りして遊んだんですよね」
「………」
あ。一臣さんの片眉が上がったままだ。もしや、呆れてる?
「狸じゃなくて、猿だったんだな、お前は」
「う…」
また、そんないじわる言ってきた。
「でも、そのくらいやんちゃに育つのもいいかもな」
「はい。毎日楽しかったです。葉月とは喧嘩もよくしたけど、暗くなるまで遊びました。冒険に行って遅くなって、母や祖母に怒られることもしょっちゅう。でも、祖父はそれだけ、好奇心旺盛で元気なことはいいことだって、怒ることはなかったんです」
「寛大なおじいさんだな」
「はい、父もです。たまに一緒に川にザリガニ取りに行ったりしてくれたし、夏は森に朝早くに行って、クワガタやカブトムシ取ったりして」
「へえ、森まで行くのか」
「え?はい」
「そうなのか。森にわざわざ取りに行くのか。へえ」
まさか、一臣さんは高いお金出して買っていたのかな。
「俺は、裏庭でよく取ったけどな。クヌギの木があって、うちの裏庭は、ほとんど自然のまま残っているからか、いまだにカブトムシもクワガタもいるぞ」
「え?!」
「たまに屋敷にも飛んでくる。今年もくるかもな。でもお前、虫苦手なんだろ?窓開けるのはやめておけ。部屋の中まで飛んできたことがあるからな」
「カブトムシがですか?」
「ああ」
「私、カブトムシとクワガタは平気なんです。わあ!楽しみ~~」
さすが、緒方家のお屋敷。やたらどでかいし、敷地広いけど、クワガタやカブトムシまでいるなんて!
「夏はセミもうるさいぞ」
「せ、セミはあまり好きじゃないです」
緒方家は、自然が残っているんだな~。
「そういえば、たまに聞いたこともない鳥のさえずりが聞こえますよね」
「そうだな。春はうぐいすの声も聞こえるぞ」
「わあ、そうなんだ。緒方家のお屋敷ってすごい!子育てするのには最適ですね」
「そうかもな」
一臣さんはそう言うと、私を優しく見た。
「お前となら、本当に楽しそうだよな」
そう言って一臣さんは、私に顔を近づけ、チュッとキスをしてきた。
「あいつら、屋敷に追い返して正解だったな」
なんて、笑みを浮かべながら。